第七章  小野一門の闇

 その頃、人気のなくなった暗がりの吉野山中で、小野奇仁はまだ呪符を張り続けていた。彼は何人かの人の気配を感じ、手を止めた。

「何者だ? 我が結界内に立ち入るのは? 術者か?」

 奇仁は鬼の形相で振り向いた。そこには衣冠束帯の男が五人立っていた。

「我らは姫巫女流古神道奈良小野神社の者だ。お前の行動を阻止するために来た」

 その中の一人が言った。すると奇仁は高笑いをして、

「私の行動を阻止するためだと? 笑止。お前ら俗世間によって汚れ切った名ばかりの神職の者が、この私を止める事ができるものか。命惜しくば、早々に立ち去れい!」

 奈良小野家の五人はさすがにカチンと来たようだ。先程の者が、

「我らに向かってそのような言動、許す事は出来ん。神道最強の姫巫女流の技、思い知れ!」

 他の四人に目配せし奇仁を取り囲んだ。そして、光り輝く剣をその右手に出した。

「その邪な心、浄化してやる!」

 五人は一斉に剣を構え、奇仁に突進した。奇仁はニヤリとして、

「そのような子供騙しの呪術で、私を浄化だと? 浄化とは、こういうことを言うのだ!」

 呪符を何十枚も懐から取り出して、五人に向かって投げつけた。

「何ィッ?」

 呪符は五人の動きを封じ、五芒星を浮かび上がらせた。

「うわああああッ!」

 五芒星は次第に小さくなり、五人はまるで巨人の手に掴まれたかのように潰されて死んでしまった。辺りに血が飛び散り、赤黒く染まった。

「聖域を汚しおって。姫巫女流、許さんぞ」

 奇仁は鋭い眼で夜空を見上げた。


 ようやく車まで戻った剣志郎は、藍を後部座席に寝かせ、運転席に着いた。窓ガラスがないため、走行に多少支障があったが、大吾の言葉を思い出し、剣志郎はそのまま車をスタートさせた。

「何をしようとしているんだ、あの人は?」

 彼はまだ半信半疑だった。椿の真意を量りかねていたのである。

「あっ……」

 その時藍が意識を回復した。剣志郎はそれに気づいて、

「大丈夫か、藍?」

 強風が吹き込む右のウィンドウを気にしながら尋ねた。藍は起き上がって、吹き込んで来る風に髪を揺らせながら、

「剣志郎こそ、大丈夫なの?」

「ああ。あの人はどうしたんだ?」

 剣志郎の問いに、藍は俯いて、

「吉野山に向かったんだと思う。飛翔術を使って。車じゃ追いつけないわ」

「大吾が羽田から大阪に向かった。多分あいつの方が早く着けるよ。あいつ、陰陽師なんだよ」

 剣志郎の答えに藍はますます不安そうな声で、

「それは知ってる。北畠さんがどれほどの呪術者なのかわからないけど、椿さんの強さは尋常じゃないわ。しかもあの人は陰陽道も使えるの。北畠さんが危ないかも知れない」

「そうなのか?」

 剣志郎は途端に不安になった。藍は意を決して、

「剣志郎、車を停めて。私、椿さんを追う」

「お前、そんな身体で飛べるのかよ。無理だよ」

 剣志郎は反対したが、藍は、

「急がないと、大変なことが起こるかも知れないのよ」

「それは大吾から聞いたよ。とにかく、できるだけ急ぐから、もう少し身体を休めろよ」

 藍は剣志郎の助言に首を横に振り、

「今回の事は、私の甘さから起こったこと。もっと私が早く気づいていれば、椿さんを止められた。今は一刻を争うのよ。停めて!」

「……」

 剣志郎は仕方なく車を路肩に寄せ、ハザードを点滅させながら、停止した。藍は左側のドアを開いて車を降りた。そして、

「お礼を言ってなかったわね。助けてくれてありがとう、剣志郎。私、重かったでしょ?」

「ちょっとだけな」

 剣志郎は笑顔で答えた。藍は微笑んで、ドアを閉じた。

「少し痩せた方がいいかな?」

「あ、そんなつもりで言ったわけじゃ……」

 剣志郎が言い訳する間もなく、藍は光に包まれて飛び立っていた。剣志郎はそれを見上げて、

「藍。無理するなよ。俺は何の力にもなれないけどさ」

 藍は飛翔しながら、身体中に走る激痛に耐えていた。

「椿さん……」

 彼女は今でも椿を何とか思いとどまらせる事が出来ないかと思案していた。


 椿は吉野山上空まで来ていた。彼女は辺り一面の森を眺めて、

「随分進んだみたいね。もうすぐ完成ね」

と呟くと、降下した。

「椿様」

 椿が降りて来たのに気づいて、奇仁が跪いた。椿は奇仁を見て、

「奈良の小野家が仕掛けて来たようね」

「はい。小者が五人やって参りましたが、始末しました」

 奇仁は頭を下げたままで答えた。椿はフッと笑って、

「もうすぐ大物がやって来るわ。貴方では太刀打ちできないかも知れないから、熊野に向かって。この辺りはほぼ完成したわ」

「はい」

 奇仁は頭を深々と下げると、駆け出した。椿はそれを見送ってから、

「紀伊半島は日本の聖域の中心。神気の中心。霊力のほぼ全てが、ここに集中している」

 彼女は呪符を取り出して見た。それは大吾が藍に渡した「神皇正統記」に書かれていたものと同じだった。

「封じられている南朝ゆかりの霊達を解放し、それを贄にして後醍醐帝を降臨させ、続いて後醍醐帝の真実の姿である摩醯首羅王を降臨させれば、日本は変わる。京都小野家にも宗家にも復讐が果たせる。それが父の願い……」

 椿は四年前のことを思い出していた。


 椿は神事を終えて、自分の部屋に戻り、床に着いた。彼女は疲れからすぐに眠りに落ちた。

「椿……」

 椿は夢の中で吉野山にいた。彼女はある大きな木の根元に佇んでいた。

「椿……」

 また声がした。椿は辺りを見回した。だが人影はなかった。また声がした。

「私は小野康斎。私はお前の実の父親。お前に伝えたいことがある」

「私の父? 何を言っているの? 私の父は真斎。康斎は私の叔父。デタラメを言わないで!」

 椿は声の主に向かって叫んだ。すると声の主はスーッと椿の目の前に現れた。それは白装束を着た長髪の男だった。顔は蒼ざめていて、生気がない。

「私は真斎と丞斎によって記憶を封じられ、全くの別人として生活していた。そして昨日、病が元で命を落とした」

「……」

 椿は黙って男を睨んだ。男は続けた。

「死んでようやく私は父と兄の呪縛から解き放たれ、何もかも思い出したのだ」

 男は丞斎と真斎が何をしたのかを語った。しかし椿はその話を信じようとしなかった。

「宇治にある神社に行ってみよ。そこに私がいたあかしがある。そして宮司に尋ねてみよ。私の話が真実であることがわかる」

「宇治の神社ってどこ? それだけではわからないわ」

「行けばわかる。迷うことはない」

 男は消えてしまった。そして椿はそのまま眠りに落ちてしまった。


( あの時は嘘だと思った。でも、実際に宇治に行き、神社を探し当て、宮司を問いつめると、あの夢の中の男の言っていたことが全て真実だと知った。あの人こそ実の父だとわかった。私は二十数年の間、出生を偽られ、丞斎と真斎に騙されていたのだ。あの日から父と私の復讐が始まった )

 椿は京都の方位の空を睨んで、

「京都小野家、並びに小野宗家の殲滅は私の使命。そして父康斎が目指していた新しい国を私の手で完成させる」

 吉野山の鳴動がさらに高まった。椿はフッと笑った。

「この呪術が動き出したら、どれほどの術者が集まろうとも、決して止めることは出来ない。必ず成功する」

 椿は呪符を空に飛ばした。呪符はまるで生き物のように飛び、さらに多くの木々に張りついた。

「源斎も舞も、怨念に頼ったから敗れた。憎しみや妬みなど力にはならない。私はあの二人とは違う。そして何より、私には亡き父がついていてくれる」

 椿は周囲の木を見渡した。

「源斎と舞が騒動を起こしてくれたおかげで、私はじっくりと事を進められた。その上、舞が協力を求めて来たのは、まさしく渡りに舟。さらに舞が日本中の気を乱してくれたのも、好都合だった。私の計画が舞の行動で目立たなくなったしね」

 椿はまさに計画通りに進んでいたのだ。雅や仁斎が危惧したように、椿は藍にとってこの上ない強敵となっていた。


 大阪に到着した大吾は、レンタカーを借りて奈良を目指していた。

「兄貴……」

 大吾は椿に操られている兄が心配だった。

「無事でいてくれ」

 大吾はアクセルを踏み込んで、高速道路を疾走した。


 小野奇仁を名乗る大吾の兄は、熊野にいた。彼は熊野古道の木々に呪符を張り続けていた。

「ここの神気が解放されれば、必ずや呪法は成功する」

 彼はそう呟き、闇の中、古道を進んだ。その時だった。

「くっ!」

 奇仁の頭の中に大吾が浮かんだ。

「だ、誰だ?」

 大吾が奇仁の波動を捉え、語りかけて来たのだ。

「兄さん、賢吾兄さん!」

 大吾の声が頭の中を駆け巡る。奇仁、いや、賢吾は、大吾の声を振り払うように首を激しく動かし、

「私は小野奇仁だ。賢吾など知らぬ!」

 賢吾は右手で九字を切った。

「臨兵闘者皆陣列前行!」

 五芒星が彼の周囲を巡った。

「我が呪法を邪魔する者は、何者とて容赦はせぬ」

 賢吾がそう言い放つと、五芒星は空の彼方に消えた。


 大吾は、賢吾が呪詛を放った事に気づき、車を路肩に停め、

「臨兵闘者皆陣列前行!」

 結界を張った。大吾の結界と賢吾の呪詛が激しくぶつかり合った。

「兄貴、目を覚ましてくれ! 兄貴の願いはこんなことじゃないだろう!」

 大吾の叫びは賢吾に届かなかった。賢吾はさらに次の呪詛を放っていた。

「クゥッ!」

 大吾は二つの呪詛に必死に耐えた。しかし賢吾の呪詛の方が強力だった。

「畜生……」

 大吾の結界に亀裂が走る。ジリジリと賢吾の二つの呪詛が大吾の結界に圧力をかけ、次第に亀裂が大きくなっていった。

「これまでか……」

 大吾が諦めかけた時だった。

「黄泉比良坂返し!」

 雅の声がした。途端に呪詛は闇に呑み込まれて消えてしまった。大吾は呆然としてそこに現れた装束の血の跡が痛々しい雅を見た。

「あ、貴方は……」

 雅は大吾を見て、

「お前の兄には借りがあってな。俺の呪術の実験に使わせてもらったまでだ」

「実験?」

 大吾は鸚鵡返しに尋ねた。雅はフッと笑って、

「今の呪術が呪詛そのものを取り込み、根の堅州国に吸収させられるのか、試してみた。うまくいったよ」

「そ、そうですか」

 大吾は何の事かよくわからなかったが、雅が助けてくれた事に変わりはないと思い、

「ありがとうございました」

 すると雅は、

「その言葉はまだ早い。実際にお前の兄を止めて、さらに椿を始末するまでとっておけ」

「えっ、あの女の人を殺すんですか?」

 大吾は雅の解決方法に納得できなかった。雅は大吾に背を向けて、

「あの女は殺さなければ止められない。そのくらい、強大な力の持ち主なんだ」

 スーッと根の堅州国に消えた。大吾はしばらく唖然としていたが、

「あ、急がないと」

 我に返って車をスタートさせた。


 藍は夜空を猛スピードで飛翔していた。彼女の視界に奈良の山々が入って来た。

「椿さん……」

 藍は吉野山に向かって下降して行った。

「これは?」

 辺り一帯の神気が、ある一点に集まり始めているのを藍は感じていた。

「何、これ? 吉野だけじゃない。大阪、熊野、伊勢からも神気が集まって来ているわ。何をしようとしているの、椿さん?」

 藍は進行している事の大きさに恐怖を覚えた。

「後醍醐帝の御陵に神気が集まっている。これは一体……」

 藍は一直線に後醍醐天皇陵がある如意輪寺を目指した。その時、光と共に椿が現れた。

「これから大呪法を行うの。これ以上先には進ませない」

 椿はすでに両手に神剣を持ち、戦闘態勢を整えていた。藍は飛翔を止め、椿を見た。

「何をしようとしているんですか、椿さん?」

「貴女に答える必要はない。これは私と父の悲願なのだから」

「えっ?」

 意味が分からない藍は、眉をひそめた。椿はそんな藍の様子を嘲笑し、

「温々と宗家で育った貴女には理解できないでしょうね。どちらにしても、邪魔するというのなら、今度こそ死んでもらう事になるわ」

「椿さん!」

 藍は椿を説得する事は不可能だと悟り、両手に神剣を出した。

「早速究極奥義? でもそれはさっき破られたのよ、藍ちゃん? バカの一つ覚えのように同じ事をしていては、勝てないわ」

 椿の言葉は辛辣だった。しかし藍は冷静な顔で、

「姫巫女流はそれほど浅い流派ではありませんよ、椿さん」

「何ですって?」

 椿は自分の知らない奥義を繰り出すつもりの藍の言葉に一瞬ギョッとしたが、

「何をしようと私には勝てないわ。知っているのでしょう? 小山舞に陰陽道を教えたのは、私なのよ」

「……」

 雅からその話を聞いた時は、信じたくなかったのだが、こうして本人から真実を語られたのではもうどうしようもない。藍は舞が使った結界術が、実は椿の授けたものだと思うと、これからの戦いでどこまで自分の力が椿に対抗できるのか疑問だった。それでも、何とか椿を止めたい藍は、彼女との戦いをせざるを得なかった。

「姫巫女流奥義、姫巫女二人合わせ身!」

 藍は柏手を四回打ち、すぐさま究極奥義に入った。すると椿はニヤリとして、

「無駄よ」

と言うと、

「姫巫女流究極奥義、姫巫女二人合わせ身!」

「!」

 藍は椿がそう唱えるのを聞いて仰天した。

( まさか……)

 そのまさかであった。天から降臨した卑弥呼と台与は、藍ではなく椿に同化してしまったのだ。

「姫巫女二人合わせ身は完全に破ったわ!」

 椿はより強く輝き始めた。藍は唖然として彼女を見ていた。

「この究極奥義は、より呪力の高い者が成功するものなのよ、藍ちゃん。さっきの戦いでこうしても良かったのだけれど、そんなに簡単に貴女を殺すのも惜しい気がしたし、とことんわからせてもあげたかったしね。もはや貴女には何も戦う術がないのだということを」

 椿は二つの神剣を合わせ、天津剣を出した。

「もうおしまいよ。何をしても無駄。元々貴女は私の敵ではなかったということ」

 椿は高笑いをして藍に向かって飛翔した。天津剣が振り上げられた。藍は二つの剣を構え、椿の剣撃を受け止めようとした。

「そんなもので、この天津剣を止められると思っているの!」

 椿の天津剣が、藍の二つの剣を砕いた。

「キャアアアアアアッ!」

 藍はその勢いで跳ね飛ばされ、落下して行った。椿はニヤリとして、

「まだよ。そんなすぐに楽にさせてたまるものですか!」

 落下して行く藍を追撃した。その時だった。椿の身体から卑弥呼と台与が離れ、藍に同化したのだ。

「何ですって?」

 今度は椿が仰天した。

「そんなバカな……。姫巫女二人合わせ身が、勝手に解けてしまうなんて……」

 椿は態勢を立て直した。そして落下を止めて上昇して来る藍を見た。

「貴女はきっとその手を使って来ると思っていました。半分は賭けでしたけど。椿さん、姫巫女流のことわりは力ではないのです。邪な心に勝つ事が、姫巫女流の真の理。貴女は宗家への復讐という邪な心で私を殺そうとした。だから合わせ身が解けたんです」

 藍の言葉に苛立ちを募らせた椿の顔は、昔藍が憧れた人の顔ではなかった。むしろあの小山舞に似て来ていた。

「わかった。だったら私は自分の力だけで貴女を倒す。そして姫巫女流古神道をこの世から抹殺してあげる。その後で、私と父の目指す新しい国を作るわ」

 椿の目には、もはや憎悪しか宿っていなかった。あれほど椿自身が蔑んでいた源斎や舞と同じ道を自らが歩み始めているのだ。その事に椿は気づいていない。

「では私は姫巫女流の全てを賭けて、貴女を阻止します」

 藍の言葉に椿は、

「私を殺すと言えばいいでしょ? そのつもりなんでしょ?」

 皮肉めいた口調で言った。しかし藍はそんな椿の挑発には乗らず、

「私は貴女を助けたいんです、椿さん。貴女の命を奪うなんて考えていません」

「どこまでも偽善者なのね、貴女は!」

 椿の顔が再び険しくなった。そしてさらに、

「そんなことを言われても、私は容赦しない。貴女が邪魔するなら、死んでもらうしかない!」

 輝きを増した。姫巫女二人合わせ身をしていないのに、藍より凄まじい勢いで、椿は光を放った。

「何?」

 藍はその椿の執念の光に身じろいだ。

「椿さん……」

 藍はそれでも椿を助けたかった。そして小野一門に巣食う闇を打ち払いたいとも思っていた。

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