第五章  吉野山

 剣志郎の運転する車は、東名自動車道を走っていた。

「あの、どうして吉野山に行くんですか? 俺、明日仕事があるんですけど」

 少しだけ我に返った剣志郎が尋ねると、椿は前を向いたままで微笑み、

「悪い陰陽師がいるのです。吉野山で悪事を成そうとしています。それを阻止するために向かっているのです」

「はァ」

 剣志郎は、また朦朧とし始めていた。運転には全く支障がないのだが、椿と話そうとすると、頭の中に靄がかかったようになり、正常な思考、判断ができなくなってしまうのだ。

( 俺、今すごくやばい状況じゃないか? )

 彼は、前回の時以上に危機的状態の自分に気づき、身震いしそうだった。


 藍は大吾を伴って仁斎の居室に行き、話をした。

「椿がか。それは厄介だな」

 仁斎は腕組みをして考え込んだ。藍が、

「厄介って、どういうこと?」

「姫巫女流を使える椿が戦いの相手かも知れんというのは、源斎や舞の時の比ではない。あいつの力は、多分お前を上回っている。椿が修行を始めたのは、わずか三歳の時。藍とは比較にならんほどの修行の量なのだ」

 仁斎のその言葉に、藍はドキッとした。

「お前より幼くして両親を亡くし、しかも兄弟もいない椿は、生まれながらにして後継者候補だった。丞斎が目をかけて、自分の全てを注ぎ込んで育てた椿は、敵となると、恐らく源斎より手強いはずだ」

 仁斎はいつになく弱気な発言をしていた。藍には、それがどうしてなのかよくわかった。彼女自身が椿に負けていると思っているからだ。仁斎もそれに気づいている。その時点で、勝敗は決したようなものなのだ。

「もしや、その椿さんは、陰陽道を使えませんか?」

 大吾が口を挟んだ。仁斎が、

「どういう意味かな?」

「俺の護符を破ったんですよ、その人。陰陽道に通じていなければ、そんなことはできません」

 大吾の返答に、藍はギョッとした。仁斎は眉間に皺を寄せたまま、

「もしそうだとすると、ますます厄介だ。椿ほどの術者が陰陽道を使えるとなると、あいつが結界を使ったら、藍では太刀打ちが出来ん」

「……」

 藍は小山舞の結界を思い出していた。舞の結界は陰陽道に類するものだったらしいのだが、その結界内では全ての呪術が封じられてしまった。椿がそれと同等、あるいはそれ以上の結界を使えるとなると、戦法を誤れば、全く歯が立たないということにもなりかねない。藍の不安は募るばかりだった。


 その頃剣志郎は、東名道のサービスエリアに椿の指示で立ち寄っていた。辺りはすっかり暗くなっており、夕食をとろうと車を降りた人達でごった返していた。

「貴方はこのままここにいなさい」

 椿はそう言い残すと、車を降りて駐車場の端の方に歩いて行った。

「何だろう?」

 剣志郎は、椿がトイレに行くのかと思ったのだが、彼女は全く逆の方向に歩いて行った。

「後を尾けているの? 出て来なさいよ、雅」

 椿は建物の裏手に行き、呼びかけた。すると前方の空間から雅が現れた。

「やはり何か企んでいたのか、椿。どういうつもりだ?」

 雅が鋭い目で睨むと、椿はフッと笑って、

「企んでいるだなんて、他人聞きが悪いわ。私は只、吉野山にいる陰陽師の悪事を阻止するために彼に協力してもらっているだけよ」

 涼しい顔で言ってのけた。雅は椿に近づき、

「とぼけるな。俺が気づいていないと思っているのか? 吉野山にいた小野奇仁という男は、お前の操り人形だ。だから現れた時、気配がしなかったんだ。お前が遠隔操作で動かしていたのだからな」

 椿はそんな雅の指摘を受けても怯んだ様子はなかった。彼女はむしろ、雅をせせら笑うかのように見て、

「考え過ぎよ、雅。貴方、小山舞と戦って疲れているのよ。物事を悪い方へ想像してしまうのは、そのせいね」

 すると雅は椿を睨み、

「小山舞か。その舞も、お前が利用していたのではないのか?」

「何の事?」

 椿には答えるつもりがない。雅はさらに、

「舞は秀吉の怨霊を呼び出すために、大阪の小野家を全滅させた。だが、何故か京都の小野家には何もしなかった」

 椿の表情がほんの一瞬変わった。

「それは、お前が舞と取り引きして、舞に陰陽道を教えたからではないのか? だから、京都の小野家は無事だった。違うか?」

 椿はしばらく黙ったままで雅を見ていたが、

「名探偵ね、雅。探偵事務所を開いた方がいいかもよ」

 笑いながら言った。雅は椿を睨み据えて、

「その通りということか?」

 椿はそれには答えずに雅に背を向けた。

「この場で決着をつけてやる。逃がしはしないぞ、椿!」

 雅の右手に漆黒の剣、黄泉剣が現れた。すると椿は振り返って、

「身の程知らずね、雅。貴方がこの私に勝てると思っているの?」

「何?」

 椿の右手に、輝く剣が現れた。

「闇の力では、決して光の力には勝てないのよ。源斎が敗れたのも、舞がしくじったのも、それがわかっていなかったからよ」

 椿の身体が輝き始めた。雅はギクッとした。

「何だ、この波動は?」


 暗がりの中、小野奇仁は呪符を吉野山中の木々に張っていた。

「もうすぐ完成する。摩醯首羅王まけいしゅらおうたる後醍醐帝が、もうすぐご復活になる」

 奇仁は薄気味悪い笑みを浮かべた。山が唸っているかのように木々が揺れ始めた。

「ここから熊野に至る広大な霊域を全て我が結界の中に収めれば、この世を全て浄化する事ができる。日本は変わるのだ」

 奇仁は呟き、呪符を張り続けた。


 藍達は話し合いを終えていた。

「剣志郎が心配だわ、お祖父ちゃん。後を追わないと」

 藍が進言すると、仁斎は、

「心配するな。雅が追っておる」

「えっ?」

 キョトンとする藍を見ながら、仁斎は、

「あいつは椿がここに来てからずっと神社の周辺にいた。椿を見張っていたようだ」

「雅が? どうして教えてくれなかったのよ、お祖父ちゃん!」

 藍が非難めいた口調で言うと、

「愚か者! 黄泉路古神道の使い手がこんな身近にいたのに、全く気づかないお前が未熟なのだ。恥を知れ」

 仁斎は怒鳴った。藍はビクッとしたと同時に、ショックを受けてしまった。

( ホントだ。私、全然わからなかった。未熟だ……)

 そんな藍の様子を見て、仁斎は、

「雅は舞の一件の後、日本各地を歩き回っていたようだ。全国の分家から、雅らしき男を見たという情報が入って来ている。あいつは多分吉野山の異変にも気づいているはず。椿がそれと関わりがあると判断したからこそ、見張っておったのだろう」

「吉野山の異変は本当なの? 椿さんが嘘をついているのかも知れないわ」

 藍が言うと、仁斎は、

「奈良には確認した。吉野山の気が乱れているのは、紛れもない事実。その情報は椿がわしに話すと言っていたらしいが、奈良がその話を椿にしたのが、一ヶ月前なのだそうだ」

「……」

 椿の有罪は確定的だった。藍は悲しかった。小さい頃から、恐れもあったが、女性として憧れていた椿が、良からぬ事を成そうとしているらしい事を知って。

「何故椿はすぐにわしにその話をしなかったのか、真意は量りかねるが、邪(よこしま)な気持ちがあったと考えるのが妥当だろうな」

 仁斎の推測に藍は承服しかねたが、かと言って反論する根拠もなかった。

「竜神の消息は、学園で途絶えています。何か手がかりがないか、行ってみましょう」

 大吾が提案した。藍は頷き、仁斎を見た。仁斎は、

「もし椿が悪事を成そうとしているのであれば、容赦するな。姫巫女流の理(ことわり)は、悪人を倒すことではないが、敵になるのなら、戦わねばならぬ」

「はい」

 藍は悲しそうに答えた。その瞳は涙で潤んでいた。

( お前の強さの限界は、その悲しいまでの優しさだ。いつかそれがお前にとって災いとならねば良いが……)

 仁斎は心の中でそう思った。


 雅は予想以上の椿の波動に警戒して下がっていたが、ジリジリと間合いを詰められていた。

「どうしたの、雅? ここで決着をつけるんじゃなかったの?」

 光り輝く椿は、藍とはまた違う神々しさがあったが、雅は椿の輝きに違和感を持った。

( 椿は藍より遥かに力がある。二人が戦えば、間違いなく藍が敗れる。しかも、藍が仮に勝ったとしても、あいつに椿は殺せない。だが、椿は何の躊躇ためらいもなく藍を殺すだろう。二人を会わせるわけにはいかない。ここで椿を殺す!)

 雅は意を決し、黄泉剣に全神経を集中させた。

( 来る!)

 椿は雅の攻撃を予測した。

「椿、お前が何を企んでいるのか知らんが、その野望もここまでだ!」

 雅は黄泉剣を上段に構え、椿に向かった。椿は、

「愚かな。闇の力が、光の力を凌駕する事はないのよ、雅」

 せせら笑うような顔で雅と対峙した。

「そんなことは関係ない!」

 雅は剣を椿に振り下ろした。

「船戸の神よ、黄泉の汚れに染まりし者を押し止めよ」

 椿の呪文によって、彼女の周囲半径1メートルほどのところに光の結界が現れ、雅の振り下ろした黄泉剣は弾き飛ばされてしまった。

「くっ……」

 雅は剣と共に後退してしまった。

「藍とは比べ物にならないほどの強力な結界だな」

 雅の言葉にニヤリとした椿は、

「当たり前よ。昨日今日修行を始めた名ばかりの宗家の後継者と比べられたら心外だわ」

「……」

 雅は勝機を失った事に気づいた。

( 無理だ。椿に勝つ手立てなど……)

 椿はそんな雅の葛藤を見透かすかのように、

「もう降参したら、雅? 一度は愛した事のある貴方を手にかけるのは忍びないわ」

 雅はその言葉に椿をキッと睨み、

「そうだな」

 スーッと根の堅州国に消えた。椿はフッと笑って、

「何をするつもりかしら、雅?」

 次の瞬間、椿の結界の中に雅が現れた。彼は椿の背後を取っていた。

「!」

 椿はギョッとした顔で雅を見た。雅は無表情のままで椿を見ていた。

「私を殺すの、雅?」

 椿が尋ねた。雅は、

「お前が藍を殺すつもりなら、お前を殺す」

「そう。なら、仕方ないわね」

 椿は前を向いた。そして、

「私を殺せるの、雅? 小さい頃、私をお嫁さんにしてくれるって言った貴方が、私を殺せるの?」

 しかし雅は、

「殺せる」

 黄泉剣で椿の背中を刺した。

「うっ!」

 椿が呻き声を上げた。剣は半分ほど椿の身体に刺さっていた。雅は片がついたと思った。ところが、椿は大声で笑い出した。

「残念だったわね、雅」

「何?」

 雅は椿の身体から血が出ていないのに気づいた。次の瞬間、椿の剣が雅の右脇腹に突き立てられた。

「グッ!」

 雅の顔が苦悶で歪んだ。椿の剣は雅の身体を貫き、背中から剣先を出した。

「ど、どういうことだ……?」

 雅は信じられない思いで自分の脇腹から流れ出す血を見ていた。椿は剣を引き抜いて、

「貴方の黄泉剣は私を刺すことなんてできないのよ。言ったでしょ、闇の力では、決して光の力には勝てないって」

 雅は黄泉剣を霞む目で見た。黄泉剣は椿に刺さったのではなく、溶けてしまっていたのだ。

「私は常に自分の身を船戸の神で覆っているのよ。黄泉の汚れにまみれた剣が、私に届くはずがないわ」

 椿は結界を解き、崩れるように倒れる雅を見下ろした。雅はうずくまるように地面に突っ伏していた。

「愛しい貴方の苦しむ姿を見たくないわ。今すぐ、楽にしてあげる」

 椿はそう言うと、剣を振り上げた。

「くっ……」

 雅は間一髪で根の堅州国に消えた。椿はクククと低く笑い、

「何とか命拾いしたようね、雅。でももう貴方には何も出来ない。後は吉野山で呪術の完成をさせ、浄化を始めるだけよ」

 剣を消すと、剣志郎の車の方に歩き出した。


「ううっ……」

 雅は朦朧としながらも、根の堅州国を歩いていた。黄泉路古神道を修めた者は、根の堅州国で治癒力を高め、回復を速める事が出来る。しかし、雅の傷は、その程度で追いつくほど浅くはなかった。

( 椿。何があった? 十五年前と違い過ぎる。お前はそんな非道な女ではなかった。虫すら殺せなかったお前が、どうして……)

 雅は意識を失いかけた。その直前、彼は藍を思った。そのせいだろうか、雅は現世に戻った。彼が倒れたのは、以前藍と出会った公園だった。

「藍……」

 雅はそう呟いて意識を失ってしまった。


 一方藍は、大吾の運転する車で杉野森学園高等部に向かっていた。大吾の車が公園の前を通りかかった時、藍ははっきりと雅の姿を思い浮かべた。

「止めて下さい!」

 いきなり藍が大声で言ったので、大吾は仰天して急ブレーキを踏んだ。

「どうしたんですか?」

「すみません、ちょっと待っていて下さい」

 藍は言い残すと、公園の中に入って行った。大吾は藍の不可思議な行動が気になり、懐中電灯を取り出して、

「待って下さい、藍さん」

 彼女を追いかけた。

「どっち?」

 藍は公園の中で周囲に意識を飛ばした。

「こっち?」

 藍は右手の道を走った。それを大吾が追いかける。

「あれは……」

 藍は公園の外灯のぼんやりとした光の中に白い塊を見た。近づくに従って、それが白い着物を着た人間だとわかって来た。

「雅!」

 藍はすぐにそう思った。懐かしい感じがした。以前雅と出会った時の、あのザワザワとした嫌な感じは全くなかった。昔の優しい雅の気配がした。

「藍さん!」

 大吾が追いついた。彼は倒れている雅を照らして、

「誰ですか、この人?」

「さっき話に出た雅です。私の許婚でした」

「許婚?」

 大吾がさらに近づいて雅を照らすと、彼が腹部から血を流しているのが見えた。藍はびっくりして、

「こ、これは……」

「血ですね。服にこれほどしみ出しているという事は、かなりの出血のようだ。すぐに救急車を呼びましょう」

 大吾が言うと、

「その必要はない。大丈夫だ」

 雅が言った。藍は涙声で、

「雅!」

 雅は眩しそうな目で藍を見て、

「椿を殺すつもりが、この様だ。情けない」

「椿さんが雅を?」

 藍はますます声を上ずらせた。雅は空を見上げて、

「あいつは変わってしまった。何があったのかわからんが、昔の椿とは別人だった」

「……」

 藍は雅の言葉に声を失った。雅は、

「あいつはお前の同僚の車で、吉野山に向かっている。何をしようとしているのかは不明だが、恐らくあの辺り一帯の強大な神気を利用するつもりだ」

「神気?」

 藍は傷を心配しながら、雅に尋ねた。大吾も雅に近づき、耳を傾けている。

「過去、幾度も吉野山は時代の分岐点となった。それはあそこに強大な神気が集まっているからだ。あそこを悪用されると、源斎や舞の時の比ではないほどの事態になりかねん」

「そんな……」

 藍は大吾と顔を見合わせた。雅は苦しそうに息をしながら大吾に目をやり、

「お前の波動と似た波動の男が吉野山にいた。誰かわかるか?」

「それは恐らく、自分の兄です。何故か小野奇仁と名乗っています」

 大吾の返答に、雅はフッと笑って藍に目をやり、

「そうか。そういうことか。小野奇仁のこと、丞斎のジイさんに尋ねてみろ。何かわかるはずだ」

「京都の丞斎様に?」

「舞が陰陽道を使えたのは、多分椿が教えたからだ。だから大阪の小野家は全員舞に殺されたが、京都は何もされなかった」

「ええっ?」

 藍は雅の話が信じられなかった。雅は続けた。

「今度の一件、あまりに奥が深い。源斎の件はともかく、舞の一件は、背後に椿がいたのかも知れない」

「椿さんが? どういうこと?」

 藍の問いかけに雅は、

「そこから先は丞斎のジイさんが詳しく知っているはずだ。自分の蒔いた種の始末は、あのジイさんにさせろ」

 起き上がった。藍はびっくりして、

「動いてはダメよ、雅!」

 押し止めようとしたが、雅は藍を退けて立ち上がった。

「すぐに吉野山に向かえ、藍。手遅れにならないうちに」

 雅はそう言い残すと、根の堅州国に消えた。

「雅!」

 止める事などできないとわかっていても、藍は雅の腕を掴もうとした。しかしそれより早く、雅は消えてしまった。

「どうします、藍さん? 今から追いかけても、追いつきませんよ」

 大吾が言うと、藍は大吾を見て、

「私はとにかく椿さんを追います。北畠さんは、後から来て下さい。吉野で落ち合いましょう」

「はァ」

 藍は柏手を打ち、

高天原たかまがはら神留かんづまりますあま鳥船神とりふねのかみに申したまわく!」

 光に包まれて上空高く飛んだ。大吾は唖然としてそれを眺めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る