第四章 小野奇仁
藍はバイクで家に向かいながら、大吾の意図を考えていた。
( 私にあの本を渡したのはどうして? 何が目的? あの人も術者なの? 明日の夜、連絡をして本当に大丈夫なのかしら? )
「北畠さんのことも気になるけど、椿さんとお祖父ちゃんの話も気になるな……」
藍は前方を見据え、バイクのハンドルを切った。
剣志郎は藍が最後に言い残した言葉に何も深い意味はないのに、まるで呪文のようにそれに支配され、フラフラしながら駐車場へと歩いていた。
「あれ?」
彼は自分の車の向こうに、見たことのある女性がこちらに背を向けて立っているのに気づいた。それは椿だった。
「あの……」
剣志郎は恐る恐る声をかけた。椿はビクッとして振り返り、
「ああ、ごめんなさい」
微笑んだ。剣志郎は何故か赤面し、
「藍、あ、いや、小野先生は先に帰りましたよ」
「藍ちゃんに会いに来たわけではないんです。貴方をお待ちしていました」
「えっ?」
剣志郎は仰天した。本当にびっくりした。聞き間違いではないかと思ったほどだ。椿は剣志郎に近づき、
「連れて行っていただきたいところがあるんですけど」
「えっ? どこですか?」
剣志郎は後ずさりしてしまった。椿はさらに剣志郎に近づいて顔を寄せ、
「それは連れて行って下さるかお返事をいただいてからです」
「……」
剣志郎は最初に椿と会った時と印象が違うので、あの悪夢を思い出した。小山舞という黄泉路古神道の使い手に、藍のフリをされて騙された一件だ。椿は訝しそうな顔の剣志郎を見て、
「私が怖いんですか?」
小首を傾げて尋ねた。剣志郎は鼻血が出そうなくらいその色香にノックアウト気味だったが、
「そ、そういうわけではないのですが……」
シドロモドロになりながら答えた。椿はクスッと笑って、
「藍ちゃんに知れると、後が怖いからですか?」
「あ、藍は関係ありませんよ」
あまり動揺しているので、自分が「藍」と言ってしまったことに気づかないほど剣志郎はわけがわからなくなっていた。
「では、連れて行って下さいますよね?」
椿は上目遣いで尋ねた。バチンと何かが弾けたような感じがした。剣志郎はすでに判断力を失っていた。
「はい」
彼は椿のスーツケースをトランクに入れ、助手席のドアを開いて椿を乗せた。そして、
「どちらに行けばいいのでしょうか?」
運転席に座りながら尋ねた。椿は前を向いたままで、
「吉野山まで」
フッと笑った。剣志郎は車をスタートさせ、駐車場を出た。
「あれ、竜神先生、誰を乗せてたのかしら?」
由加と祐子、そして波子が、走って行く剣志郎の車を部室棟への渡り廊下から見ていた。
「小野先生に似ていたけど、髪の長さが違ってたわね」
波子が呟くと、祐子が嬉しそうに、
「ついに第三の女登場なのよ。小野先生も武光先生も負け犬になるんだわ」
「バカね、あんたは」
由加が軽蔑の眼差しで言った。
「……」
職員室の窓から、武光麻弥も剣志郎と椿が車で走り去るのを見ていた。
「竜神先生……」
麻弥は、助手席の椿が一瞬藍に見えたのだが、すぐに別人だと気づいた。
「誰なの?」
麻弥は悲しそうに呟いた。
一方藍は家に到着し、椿がもう帰ってしまったことを知った。
「どうして私が帰るまで引き止めてくれなかったのよ、お祖父ちゃん」
藍は社務所に入りながら言った。仁斎は椅子に腰を下ろして、
「椿はお前に会いに来たわけではないぞ。用がすめば帰るのは当たり前だろう」
冷たく言った。藍は不満そうな顔で仁斎を見ていたが、
「あっ、そうだ」
カバンの中から神皇正統記を取り出して、
「これ、見て」
「何だこれは?」
仁斎はそれを手に取り、目を細めた。
「神皇正統記だと? これがどうかしたのか……」
仁斎はそう言いかけて、何かを感じたのか、表紙を捲った。そして、
「これは……。これはどういうことだ?」
藍を見た。藍は椅子に腰掛けながら、
「剣志郎の大学時代の同級生の人が持って来たのよ。その人の名前は北畠大吾。彼は北畠親房の子孫だと言っていたわ」
「北畠大吾? 北畠親房の子孫だと?」
仁斎は眉間に皺を寄せ、もう一度神皇正統記を見た。
「藍、お前、この書物から何か感じたか?」
仁斎は表紙の裏に描いてある「黄泉津大神」の文字を睨んだままで尋ねた。藍は頷いて、
「ええ。だから、その北畠という人の誘いに応じて、明日会ってみようと思っているの」
「会ってどうするつもりだ?」
仁斎は藍を見た。藍は仁斎を見て、
「何が目的なのか、探るつもり。そんな簡単にわかるとは思えないけど」
「そうか」
仁斎は再び神皇正統記を見た。
「これは正規の神皇正統記と全く違うようだな。黄泉の国の話が続いている」
「ええ。この本、本当に神皇正統記と呼べるものなのか、ちょっと疑問なのよ。誰かが書いて、そういうふうに仕向けたんじゃないかしら」
「これを書いた奴の正体ならわかったぞ」
仁斎の意外な言葉に、藍はギョッとした。
「だ、誰よ?」
「お前、この本から出ている妖気に覚えはないか?」
「えっ?」
藍はそう言われて改めて神皇正統記を手に取った。そして、
「あっ、これは……」
藍は、島根県の出雲大社で戦った古代の魔神「建内宿禰(たけしうちのすくね)」を思い出した。
「そんな……。あいつは、甦ってはいないはず……」
仁斎は藍から神皇正統記を受け取り、
「そうではない。これは建内宿禰が源斎を利用したように誰かを依り代として書かせたものだ。もしかすると、北畠親房自身が操られて書いたのかも知れん」
「じゃあ、この類いの本が、まだ他にもあるかも知れないということ?」
藍は身震いしたくなった。仁斎は頷いて、
「恐らくな」
仁斎はしばらく内容に目を通していたが、
「血染めの草薙の剣は、もし本当に存在するなら、恐らく姫巫女流の天津剣(あまつつるぎ)の対極にある剣だ。そんなものをもし悪用されたら、大変なことになる」
藍は神皇正統記に目を落として、
「この後ろの方に書かれている陰陽道の呪符のような絵、一体何かしら?」
仁斎もそれを覗き込んで、
「わしにもわからんな。陰陽道は流派によって随分と形が違う。全く知られていないものも存在し得る。あるいは陰陽道ではないかも知れん」
「そうなの?」
藍はビクンとして仁斎を見た。仁斎は立ち上がって、
「知り合いの陰陽師に尋ねてみる。この本、しばらく借りるぞ」
「ええ」
仁斎は神皇正統記を手にすると、社務所を出て行った。藍もしばらく考え込んでいたが、
「とにかく、全ては明日北畠さんに会ってからだ」
立ち上がり、社務所を出た。彼女は家に向かおうとして歩き出した。その時、
「藍さん」
後ろで声がした。藍はハッとして振り返った。鳥居の向こうに、大吾が立っていた。
「北畠さん! どうしたんですか?」
藍は大吾の正体を掴みかねていたので、警戒しながら近づいた。すると大吾は真面目な顔で、
「竜神がどこに行ったかご存じですか?」
藍はギョッとした。
「剣志郎がどうかしたんですか?」
大吾は小声で、
「携帯に連絡をしたのですが、圏外なんです。もう何回もかけているんですが、全く繋がらないんです。心当たりはないですか?」
「えっ?」
藍は嫌な予感がした。
( また、巻き込んでしまったのかしら? )
「あいつ、女難の相が出ていたので、ちょっと心配なんですよ」
北畠は携帯を取り出してもう一度剣志郎の携帯に連絡をし始めた。藍は、
「女難の相って、どういうことですか?」
北畠はまた携帯が繋がらないので諦めて、
「あいつの周囲の女性が、あいつの運気をひどく下げているんですよ。それがはっきりわかったので、心配なんです」
「周囲の女性? 誰なんですか、その人は?」
藍はドキドキしながら尋ねた。自分のことかな、と思ったのだ。しかし北畠は苦笑いして、
「ああ、貴女のことじゃありませんよ。一人は職場の女性、もう一人は最近話をした別の女性です」
「ええっ?」
藍は大吾の言っている女性が椿のことだとわかり、ギクッとした。そして、
「どうしてそんなことがわかるんですか? 貴方は一体何者なんです?」
一歩引いて尋ねた。大吾はニヤッとして、
「警戒されているようですね、俺は。まァ、仕方ないですよね。あんなおかしな本を渡して、挙げ句に女難の相だとか、意味不明のことを言っているのですからね」
「……」
藍はまだ警戒心を解いていなかった。大吾は肩を竦めて、
「俺の家は、陰陽師の家系なんです」
「陰陽師?」
藍は意外な答えに仰天した。大吾はまた苦笑いをして、
「安倍晴明とかのような、凄い家系ではありませんから、大したことはないのですが、それでもあの神皇正統記には正直ギョッとしたので、竜神に頼んで貴女にお会いしたんです。竜神は覚えていないようなんですが、あいつこの前の飲み会で、貴女のことを随分と褒めちぎっていたんですよ。日本で最強の巫女だって。だから貴女のことを知っているんです。俺は貴女の敵ではありませんよ。むしろ、貴女に助けてほしいんです」
「私に? どういうことですか?」
藍は「日本で最強の巫女」という剣志郎の発言が引っかかったが、今はそんなことを追求している場合ではないので、聞き流した。大吾は真顔になり、
「助けて欲しいのは、俺の兄貴なんです。兄貴がウチの継承者なんですが、どうも精神的に弱いところがありましてね」
藍は、
「立ち話ですむ内容ではないですね。社務所で伺います」
「わかりました」
二人は社務所に向かって歩き出した。
「女難の相は、あいつ生まれつきらしくて、どうも自分と合わない女性に好かれると言うか、そばに寄って来られるタチのようです」
大吾の言葉に、藍は思わず噴き出してしまった。
「そうかも知れませんね」
彼女は、武光麻弥が剣志郎に思いを寄せていることは知っている。そして、剣志郎がそのことを迷惑に思っていることも薄々感づいている。しかし、自分が口を出すことではないと思っているから、絶対に剣志郎にはその話はしない。
「それは生きている女性のみならず、死んでしまった女性もそのようなんです」
「えっ?」
藍は思わず立ち止まって大吾を見た。大吾も藍を見て、
「あいつ、霊に対してもその傾向があるようです。だから、心配なんですよ。兄貴のことも心配なんですが、あいつのことも心配です」
藍は社務所の戸を開いて、大吾を中に通し、お茶を用意した。
「まずはお兄さんのことから話して下さい」
「わかりました」
大吾は出されたお茶を一口すすってから、
「最近、様子が変だったので、本人には内緒で兄貴を尾行していたんです。ところが、何日か前から、行方不明になってしまって」
「行方不明?」
藍が鸚鵡返しに尋ねた。大吾は茶碗をテープルに戻して、
「兄貴は、日本中の気が乱れていることを感じていたんです。それを随分と気にしていて、夜中に突然出かけたりしていたので、心配になって後を尾けていたんですが、ある時気づかれて、撒かれてしまったんです。それ以来、兄貴の消息はわかりません」
「そうですか。でも、私が力になれるかどうか……」
藍が申し訳なさそうにそう言うと、大吾は、
「いえ、大丈夫です。貴女に会ってそう確信しました」
「どういうことですか?」
藍はキョトンとして言った。大吾は、
「兄貴を誘っていたのは、恐らく竜神を連れ去った女性と同一人物です。貴女から感じたその女性の波動が、兄貴から感じたものと同じなんです」
「何ですって?」
藍は俄に信じ難いことを言われ、困惑していた。椿が何かを企んでいる? 考えられなかった。
「信じられないのは無理もありません。その女性は、恐らく貴女の親戚の方ですよね?」
大吾の言葉に、藍はまたギクッとした。
「実は、今日学校で会った時、竜神に護符を着けておいたんです。その護符が、さっき破られてしまいました。護符からの最後の情報が、『小野椿』だったんですよ」
「……」
藍は唖然としていた。大吾の言葉が本当なら、椿は何をなそうとしているのか? どうして剣志郎を連れ去ったのか? 謎は尽きなかった。
「実は貴女に会おうと思ったきっかけは、竜神の話ではないんです。水戸市内にある小野神社は、昔から行き来があるところで、そこの宮司の長男の裕貴が俺と同級なんです」
「そうなんですか」
藍はようやく大吾を信用し始めた。大吾はそんな藍の変化に気がついたのか、また苦笑いして、
「そいつから、宗家の藍ちゃんは本当に凄いぞ、と聞いていました。ですから、兄貴がおかしな行動をとり始めた時、もう貴女にすがるしかない、と考えました」
藍はその話に照れ笑いをして、
「水戸の裕貴君は、話が大袈裟なんですよ」
大吾は真顔になって、
「そして、もう一つ。貴女に話さなければならないことがあるんです」
「何ですか?」
藍は思わず唾を呑み込んだ。大吾はジッと藍を見て、
「兄貴は自分のことを『小野奇仁』と名乗っていました」
「小野奇仁?」
藍は眉をひそめた。
「どうしてそんな名前を名乗ったのですか?」
「わかりません。見当もつきませんよ」
大吾は首を横に振って答えた。藍は腕組みをして、
「もし、椿さんがこの件に関わりがあるのだとしたら、その『小野奇仁』という名前には、何か意味があるのかも知れません」
藍は今回の事件が、あまりにも根が深いことを知り、戦慄した。
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