摩醯首羅王
プロローグ 京都小野家の後継者
豊国一神教との戦いからしばらく後のことである。
杉野森学園高等部の教師、小野藍は、憂鬱な日々を送っていた。二学期が始まり、三年生は本格的に受験態勢( 杉野森学園は大学まであるが、エスカレーター方式ではない上、大学は他学を受けるものが多い )に入っている。二年生は進路の決定をしなければならないため、三者面談やら何やらで、暢気に構えていられなくなっている。
藍自身は担任するクラスはないし、進路指導を拝命しているわけでもないので、学園関係で憂鬱なのではない。もちろん、彼女なりに生徒のことを心配し、親身になって相談に乗ったりはしているが、それで憂鬱になるほど彼女はヤワな精神の持ち主ではない。もっと個人的なことなのだ。
「ふうっ……」
藍はバイクを停めてヘルメットを取ると、ショートカットの髪を手櫛で整え、思わず溜息を吐いた。
「おはようございます。どうしたんですか、小野先生?」
「えっ?」
不意に後ろから声をかけられて、藍はハッと我に返って声の主を見た。そこには、高等部の新任英語教師、武光麻弥が立っていた。藍とは違い、長い髪にウエーブがかかっており、全身から「私可愛いでしょ光線」が出ていそうなタイプだ。
「ああ、おはようございます、武光先生」
藍は作り笑いをして応じた。麻弥は心配そうな顔で、
「お疲れなんですか、先生?」
藍はバイクから降りて麻弥を改めて見ると、
「そんなことないですよ。ちょっと考え事をしていただけですから」
と答え、
「会議に遅れちゃいますよ、武光先生」
話題をそらして、サッと駆け出した。
「ああ、小野先生!」
麻弥は藍に、あることを告げるつもりで声をかけたのだが、藍に軽くいなされてしまったと感じた。もちろん藍はそんなつもりはなかったのだが。
「ふう」
藍は社会科教員室でまた溜息を吐いてしまった。
「どうしたんだ、元気ないな?」
竜神剣志郎が声をかけて来た。彼は藍とは杉野森学園高等部の同級生で、大学は前後したが同じ大学、という腐れ縁である。剣志郎は藍に気があるのだが、藍は剣志郎に対する自分の気持ちを測りかねていた。それが今回の憂鬱とある程度関連があるのだ。
「そんなことないわよ」
藍は素っ気なく言った。剣志郎はそれでも、
「何か悩み事なら、話しちまった方が気が楽になるぞ」
「悩み事なんかないわよ」
藍は咄嗟にそう嘘をついてしまった。
「そうは見えないな。俺で良かったら、話してみろよ」
「あんたになんか言えないわよ」
藍はついそう言ってしまい、ハッとなった。
「えっ?」
剣志郎はキョトンとしてしまった。藍はバツが悪くなって、
「あ、授業に遅れちゃう」
教員室を出て行った。
「何だよ、あの言い草は……」
剣志郎は寂しそうにそう呟いた。
( あいつ、今でもあの雅とかいう男のことが好きなのか……)
剣志郎はその雅という男と一度だけ顔を合わせたことがある。長い黒髪で、右眼が隠れている。髪は後ろも長く、結わえてあった。着ているものは白装束で、修行中の僧にも見えた。藍とは以前許婚同士だったという。剣志郎はそれを藍から知らされた時、頭の中の明かりを消されたような気がした。
( あいつはそんな話、一度もしてくれなかった。その話を聞いていれば、ここまであいつのことで苦しんだりしなかったよ……)
剣志郎は、藍が雅のことを自分に隠していたのだと勘違いしている。実はそうではないのだが、藍も剣志郎の勘違いに気づいていないから、訂正のしようもない。
憂鬱な気分も生徒の前に出ると何とか忘れられた。藍は授業に集中し憂鬱の種を頭から追い払った。
しかしそれでも、授業が終わり放課後になると、またその種が芽吹き始め、彼女の脳の大半を占めるようになっていた。
「ふう」
今日は溜息の大量生産状態である。
「先生、どうしたんですか? 元気ないですね」
廊下で声をかけられた。藍がハッとして振り返ると、そこには三人の女子生徒がいた。古田由加、水野祐子、江上波子の歴史研究部員だ。3人は2年生なので、まだ藍の授業こそ受けたことはないが、歴史研究部の顧問である藍とは、話す機会は多い。
「そんなことないわよ。どうしてそう思うの?」
藍が尋ね返すと、由加が、
「だって、いつもなら教室から教室まで十歩くらいで歩いちゃうのに、二十歩くらいで歩いてたから」
クスクス笑いながら言った。藍はビクッとして、
「私ってそんなに大股で歩いてるの?」
「そうじゃないですよ。そのくらいズンズン歩いているってことですよ。何か今日の小野先生、活力がないような気がして」
波子が説明した。由加と祐子はそれに頷いている。
「ありがとう、心配してくれて。でも別に元気ないわけじゃないわよ」
「そうですかァ?」
由加が言う。すると祐子がニヤッとして、
「ああ、ひょっとして、武光先生のせいですか?」
口を滑らせたのを、慌てて由加と波子が塞いだ。藍はキョトンとして、
「武光先生のせいって、どういうこと?」
すると三人は後ずさりした。
「知らないのなら、いいんです。私達の勘違いでした! 失礼します!」
波子が早口で捲し立て、まさしく逃げるように走り去った。
「どういう意味よ、それ?」
藍は腕組みして首を傾げた。そしてクルッと踵を返すと、教員室に向かった。
京都。
先日の事件の爪痕がまだ残っている。豊国一神教の騒動で焼かれた寺院の復興作業が行われていた。
「椿。宗家への使者としてお前を送るわけだが、必ず例の件、決着をつけて来いよ。舞のような狼藉者が出るのは、宗家の失態。そのとばっちりを我らが被るのは、何とも理不尽なのだからな」
寺院の復興作業を見つめる白髪の老人が呟いた。その老人は白装束姿で、椿と呼ばれた女性は、ピンクのツーピースを着ていた。
「はい、お祖父様」
椿はどことなく藍に似ていたが、藍が少々男勝り気味の顔をしているのに対して、椿は艶やかな装い、そしてしなやかな立ち居振る舞いをしていた。髪は長いようだが、アップにしてまとめてある。化粧も薄化粧で、大抵の男が振り返るほどの美人である。
「明治以降うやむやにされていた、真の宗家の問題は、もうそろそろはっきりさせなければならんのだ」
老人は言った。椿は丞斎の言葉に黙って頷いた。彼女は気が重そうだ。椿はそんな目的で東京に行くつもりはない、と丞斎に告げたのだが、丞斎は聞き入れてくれなかった。
「仁斎にお前の実力を見せ、どちらが宗家の継承者として相応しいか、思い知らせてやるのだ」
丞斎は、先日の豊国一神教の事件の責任は宗家の仁斎にあると小野一門の会議で主張したが、それは少数派で、議論の対象にもならなかったことを逆恨みしていた。だから今度は、藍と椿を対決させ、勝った方が宗家を継ぐことにする、と主張するつもりだ。椿は、知らない仲ではない藍と、そんなことはできないと言った。しかしやはり丞斎は譲らなかった。そして、京都小野家の後継者として、宗家を表敬訪問する、という表向きの口実を作り、椿を東京に行かせるつもりなのだ。
「そもそも宗家は京都にあったもの。それを、長兄だという理由だけで、亮斎が後継者とされ、東京に宗家を移すと勝手に決定し、先々代享斎を分家に格下げした一門衆のやり方には、絶対に納得がいかん。何としても、享斎の汚名を雪がないとならぬ」
丞斎は、「宗家憎し」で凝り固まっていた。
「お祖父様、そのお話はもう聞きたくありません。私は、私のやり方で、仁斎様と話し合うつもりです」
椿がたまりかねて言うと、丞斎はムッとして、
「何を甘いことを。そんなことで、宗家の問題は解決せん」
そして椿に背を向けると、
「ともかく、仁斎とのやり取りは、わしに逐一報告しろ」
歩き始めた。
「はい」
椿はゆっくりと頭を下げ、丞斎を見送った。彼女はその足で京都駅に向かった。
剣志郎は困っていた。彼は武光麻弥から、とうとう告白されてしまった。
「竜神先生は、小野先生とは恋人同士ではないのですよね?」
麻弥がそう切り出した時、剣志郎はビクンとした。彼は、麻弥がこの前の事件以後何も言って来ないので、もう諦めてくれたと思っていたのだ。
「ええ。恋人なんて、とんでもないですよ」
「じゃあ、私が立候補するの、何も差し支えないですよね」
麻弥のその言葉に、剣志郎は全身から汗が吹き出すのがよくわかった。彼はそれでもとぼけて、
「そ、それはどういう意味ですか?」
麻弥は頬を赤くして、
「付き合っていただけませんか、私と」
小声で言った。剣志郎は心臓が止まるかと思うほど、仰天した。麻弥は俯いて、
「私じゃ、ダメですか?」
「いや、そういうわけじゃないんですが……」
剣志郎はオロオロしていた。麻弥は悲しそうに微笑んで、
「お返事は今でなくて結構です。待ってます」
その場を立ち去ってしまった。二人共気づかなかったのだが、その一部始終を由加達3人が見ていたのだ。それを危うく藍に喋りかけたのが、祐子であった。
「参ったなァ……」
剣志郎は麻弥のことは後輩、同僚以外の感情は一切ない。他の男性教師の中には麻弥にアプローチする者もいたが、藍以外を好きになったことがない剣志郎には、麻弥は何の魅力も感じない女性であった。
「どうして俺なんだろう?」
冗談ではなく、そう思う剣志郎であった。彼はそんなことより、藍がどうしていつもと違うのか、その方が心配であった。だが、その真相を知れば、彼は酷く落ち込むことになるだろう。
「ふう」
藍は自宅に帰り着き、バイクを降り、ヘルメットを取るとまた自覚症状のない溜息を吐いてしまった。
「どうした、藍? 何か嫌なことでもあったか?」
社務所から出て来た祖父仁斎が声をかけた。
藍の家は神社である。彼女は、姫巫女流古神道という宗派の継承者となってはいたが、まだ神社の宮司は仁斎が続けている。もちろん、宮司は男でないとなれないので、藍は婿を取る必要がある。今のところ、仁斎のメガネに適う男はいないため、当分藍は結婚することは出来ないかも知れない。
「どうして?」
藍はヘルメットを小脇に抱えて、仁斎を見た。仁斎は、
「溜息を吐いていたからだ」
「えっ?」
藍は無意識のうちに溜息を吐いている自分を知らされ、ギョッとした。すると仁斎が、
「もしかして、椿のことか?」
「つ、椿さん?」
藍はその名を聞くと、とても緊張する。小さい頃、三つしか年が違わないにも関わらず、ずっと大人びていた椿を見て、藍は衝撃を受けたのを思い出した。雅が宗家の養子として迎えられた時、祖父丞斎と共に祝いの席に現れた椿は、藍がポーッとしてしまうほど、綺麗だった。雅とは幼い頃よく遊んだという。それも藍を動揺させた。椿に対して自分が勝るところがない、と彼女は思い込んでしまった。
「そ、そんなことないわよ。関係ないわ」
藍が言うと、仁斎は、
「そう言い張るわりには、顔が引きつっているぞ」
「お祖父ちゃん!」
藍はムッとして怒鳴った。仁斎はニッとしたが、すぐに真顔になり、
「椿の祖父丞斎は、宗家を怨んでいる。椿は丞斎に言い含められて、ここに来るのかも知れん。油断するなよ」
「そんな。椿さんは、そんな人じゃないわ」
藍は反論した。しかし仁斎は、
「椿がそのつもりがなくても、丞斎がそのつもりなら、椿の意向など関係ない。だから油断してはならんのだ」
「今になって、そんなことを持ち出すなんて。どうしてなの?」
藍は丞斎の考えがわからなかった。仁斎は、
「舞の一件が尾を引いているのだ。ああいうことが起こるのは、宗家がだらしないからだ、と言い放ったのだ、丞斎は」
「まァ」
丞斎の怨みは、どうやら藍の考えているようなレベルではなさそうだった。
「それに、椿が京都の小野家の後継者と決まったのは、随分以前のことだ。今更宗家を表敬訪問などと、妙な話だからな」
仁斎は、京都の丞斎にかなり不信感を抱いていた。
「お前、椿が昔雅と仲が良かったことを覚えているのか?」
仁斎が唐突に尋ねた。藍はビクッとして仁斎を見た。
「そ、それがどうしたの?」
彼女は自分の口が引きつっているのをはっきり感じながら、尋ね返した。仁斎は藍に背を向けて、
「そのことなら何も心配する必要はない。どうあがいても、椿が雅と恋仲になることなどあり得んからな」
「お祖父ちゃん!」
藍は顔を真っ赤にして怒鳴った。仁斎はそのまま家の方に歩いて行ってしまった。
「もう……」
図星を突かれた藍は、火照る顔を手であおぎながら、家に向かった。
椿は一人、新幹線で東京に向かっていた。
「宗家、か」
椿は窓の外に目を向け、そう呟いた。
藍は自分の部屋に戻り、古いアルバムを取り出して捲っていた。
「椿さん、かァ」
十五年前の集合写真。そこには女神のように美しい椿と、何となく憂鬱そうな藍、どちらにも関心がなさそうな無表情の雅が写っていた。まだ藍の両親も健在で、仁斎も若い。日本中の小野家一門が集まった、盛大な祝賀会であった。そのくらい、雅の宗家との養子縁組は、一門にとって期待されていたことだった。
「この何ヶ月か後、私が友達と井戸に近づいたばっかりに……」
藍は悲しそうに雅の顔に指を当てた。そして思わず涙ぐんでしまった。
「私が原因なのに、雅に謝っていない。謝りたい……」
椿と雅の昔の話以上に、藍を憂鬱にさせるのは、その事件だった。
「今はどこにいるの、雅?」
藍はアルバムを閉じ、すっかり暗くなった空を窓から眺めた。
その雅は日本のどこかにある山奥にいた。彼は豊国一神教の壊滅後、日本の霊山と呼ばれている山々を巡っていた。
「妙だ。以前訪れた時と、妖気の流れが違う。どういうことだ?」
彼は小山舞が仕出かした大量の悪意と妖気の集積で、日本各地で異変が起こり始めていることに気づき、霊山を渡り歩いていたのだ。
「これもあのバアさんが残した厄介事か……」
雅は舌打ちして、山道を歩いた。
「しかし、そればかりではない。何だ? また誰かが、事を起こそうとしているのか……」
彼はスーッと空間に溶けるように消えた。これが黄泉路古神道の術、根の堅州国への侵入である。
「ここか?」
彼が再び現世に戻ったのは、奈良県にある吉野山であった。
「まさか。そんなものをどうにかしようなどという大それた事を考える奴がいるのか?」
雅はある方角を見やり、眉間に皺を寄せた。
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