第一章 椿と雅
仁斎には強がってみせたが、藍は椿と会うのが怖かった。その怖さの理由は藍自身にもよくわかっていなかったが、本能的なものなのかも知れない。藍はそれと気づかずに、何かを感じているのだ。
「さっき椿から連絡があった。東京駅に着いたそうだ。あと一時間ほどでここに来られると言っていた」
仁斎から告げられると、藍の緊張はさらに増した。
「そ、そう」
台所で夕食の片付けをしていた藍は、危うく皿を落としてしまうところだった。
「椿さん、ここまで来られるの?」
藍は手をタオルで拭いながら仁斎に尋ねた。仁斎は鍋の中身を覗きながら、
「大丈夫だろう。あいつはお前と違って、オッチョコチョイではないからな」
「まァ!」
藍はそう言われてムカッとしたが、確かに椿は本当に几帳面な人間であるし、自分はどちらかというと慌て者の部類だと思っているので、反論はしなかった。
「何をそんなに緊張しているのだ? 椿は別に戦いに来るわけではないぞ」
仁斎の言葉に藍はピクンとした。
「そんなつもりはないんだけど……。お祖父ちゃんが、油断するななんて言うから……」
「そのことか。丞斎の意向でここに来る椿に油断するなという意味だ。椿自身に警戒する必要はないだろう」
仁斎が諭すように言うと、藍はまた溜息を吐いた。
「ふう」
その当の椿は、東京駅から山手線に乗り換えて、新宿駅に到着していた。
「確か、新宿駅から出ている私鉄の沿線だったわね」
椿は駅の上方に掲げられている時刻表を眺めながら呟いた。周囲を歩いている男共は、彼女が一人なのに気づいた。そして声をかけようとしたが、椿の身体から発せられている目に見えない荘厳な気に当てられて、急に意気消沈し、去って行った者が何人かいた。椿が意識的に男を遠ざけているのではないのだが、彼女の修行の成果がこんなところにも現れているのだ。
「何年ぶりかしらね」
椿はそう呟き、JRの改札を出た。
一方雅は夜の吉野山の麓にいた。彼は月の光に浮かび上がる吉野山を見渡した。
「ここには後醍醐帝が眠っている。それを利用しようというのか、この術者は……」
雅は背後に視線を感じ、ハッとして振り返った。
「何者だ、貴様? 我が結界内で何を調べている?」
そこにいたのは、彼と同年代くらいの、髪を腰まで伸ばした、衣冠束帯姿の男だった。目つきは異常に鋭く、まるで雅を射殺すつもりかのようであった。
「お前こそ何者だ?」
雅は不敵な笑いを口元に浮かべて、相手を挑発した。その男は、雅の挑発には乗らず、
「我が名は小野奇仁。
「小野、奇仁だと?」
雅は眉を潜めた。
( そんな名前、小野の一族には存在しない。偶然小野姓なのか? それとも、俺の知らない小野の術者がいるのか? しかもこいつは陰陽師だと言った……)
「貴様、神道の使い手か? ならば尚更排除せねばならんな」
「何?」
雅がそう言った時、奇仁が呪文を唱え始めた。
「
「九字!?」
雅は思わず奇仁から距離をとった。奇仁の周囲に、五芒星( 正式には晴明桔梗 )と呼ばれる星形の結界が浮かび上がった。
「まずいな」
この結界はあらゆる魔を退けるものだ。雅の黄泉路古神道のいかなる術も通用しない。
「どうした? 何もできんのか?」
奇仁の顔が狡猾な笑みを浮かべた。雅は、
「お前と戦うつもりはない。だが一つ教えてくれ」
「何だ?」
奇仁は構えを解かずに尋ね返した。雅は意を決して、
「お前は、小山舞という女を知っているか?」
「小山舞? 知らんな。それがどうした?」
奇仁の言葉に嘘はないようだった。雅は苦笑いをして、
「そうか。わかった。騒がせたな」
スーッと根の堅州国に消えた。奇仁はそれを見て仰天した。
「何だ、今の術は?」
彼は周囲を見回した。
雅は根の堅州国を進みながら、
( 何者なんだ、あいつは? 気配がしなかった。あれほど近くに来ていたのに、全く気づかなかった。何故だ? )
呪力が、奇仁に劣っているとは思えなかった。不意を突かれていなければ、黄泉醜女( 死の国の化け物 )か、黄泉剣( 漆黒の魔剣で黄泉路古神道の使い手の武器 )で一瞬で片がついたと雅は考えていた。その時の雅にはわからなかったのだが、奇仁の気配がしなかったのには、大きな理由があったのだ。
( むっ? )
雅は現世に戻りながら、強烈な光の気を感じ、そちらに向かった。
「ここは……」
そこは以前藍と会った公園の近くだった。小野神社もそう遠くない。
「さっきの気配は藍ではない。まさか?」
雅はその気配がする方に目を向けた。
「あいつか。どうしてこんなところにいる?」
雅は近づいて来る自動車のヘッドライトに気づき、電柱の陰に隠れ、走り去る車の中を見た。
「あの男……。隣に乗っているのは……」
その車は剣志郎のもので、助手席には椿が乗っていた。
「やはりお前か、椿」
雅は険しい顔になった。
一方剣志郎は、隣に乗せた椿があまりいい香りを漂わせているので、どうかしてしまいそうだった。
「本当に運が良かったです、私。たまたま通りかかった方が、藍ちゃんの学校の同僚の方だなんて」
椿は神々しいと言ってもいいくらいの微笑みを浮かべて、剣志郎を見た。剣志郎は運転している事もあったが、まともに椿の顔を見る事が出来ず、前を向いたままで、
「藍、いや、小野先生とは、ご親戚ですか?」
椿は微笑んだままで、
「ええ。似てますか、私?」
「あ、そ、そうですね。小野先生より、貴女の方が、その何て言うか、えーと……」
剣志郎が言葉を思いつかないでいると、椿は悪戯っぽく笑って、
「老けてますか?」
「と、とんでもないですよ。こう言っちゃ悪いですが、貴女の方が小野先生より上品ですよ」
剣志郎は言った。すると椿はクスッと笑って、
「言いつけちゃいますよ、藍ちゃんに」
「ああ、それは困ります、やめて下さい」
剣志郎はオタオタして懇願した。椿はまた微笑んで、
「大丈夫ですよ。藍ちゃんの事を大切に思っている人が困るような事はしませんから」
「えっ?」
剣志郎はギクッとした。椿には藍と同僚だと話しただけなのに、彼女はそれ以上のことに気づいているようだ。彼は内心ビクビクしながら、
「どうしてそう思われたんですか?」
椿は真顔になって正面を向き、
「私は巫女です。人の心はある程度読めますよ」
「えっ? じゃ、藍、いや、小野先生も人の心が読めるんですか?」
剣志郎は顔が爆発するのでは、というくらい赤くなっていた。椿はまたクスッと笑って、
「冗談ですよ。貴方を見ていれば、ちょっと勘のいい人なら、それくらいわかります」
「はァ」
つまりバレバレだという事のようだ。剣志郎は穴があったら入りたい心境だった。すると突然椿が、
「あっ、ここでいいです。ありがとうございました」
剣志郎はびっくりして車を停止させた。まだ小野神社まで100メートル以上あるところだ。
「もうすぐですよ、小野先生の家は。そこまでお送りしますよ」
「それはわかっています。ちょっと用事があるので、ここで降ろして下さい」
椿は剣志郎を見て言った。剣志郎は、
「わかりました」
シートベルトを外し、ドアを開いて車のトランクに向かい、中から椿のスーツケースを取り出した。椿も助手席のドアを開いて車から降りた。
「ありがとうございました。またゆっくりお話聞かせて下さい。これ、私の名刺です」
椿はショルダーバッグから名刺入れを取り出して名刺を一枚剣志郎に渡した。そこには携帯の番号も載っていた。剣志郎はあらぬ妄想を膨らませて、また赤くなった。
「失礼します」
椿はスーツケースを引きながら、剣志郎にお辞儀をして歩き去った。
「不思議な人だな」
剣志郎は椿の後ろ姿と名刺を交互に見ながら呟いた。
椿は剣志郎の視界から外れると、公園を迂回して元来た道に戻った。そして、
「いるんでしょ? 出て来なさいよ。私にはわかっているのよ」
周りを見て言った。すると雅が公園の陰から姿を現した。
「やっぱり。久しぶりね、雅」
椿は懐かしそうに微笑んで、雅を見た。雅は椿を睨むような目で、
「何故こんなところにいる? 丞斎のジイさんの差し金か?」
椿は雅があまり猛々しい雰囲気で尋ねて来たので、思わず笑い出してしまった。
「何がおかしい?」
雅は不愉快そうに言った。椿は笑うのをやめて、
「ごめんなさい。貴方があまり勢い良く畳みかけるように尋ねたので、おかしくなったのよ。別に他意はないわ」
そして真顔になって、
「私はお祖父様に言われて宗家を訪ねる途中だけど、決してお祖父様のために宗家に行くわけではなくてよ」
「そうか?」
雅は半分信用できないという顔で呟いた。椿は苦笑いして、
「そんなに藍ちゃんの事が心配なの?」
「何?」
雅はキッとして椿を見た。椿はクスッと笑って、
「貴方って昔から感情を隠すのが下手よね。特に藍ちゃんの事に関しては」
「何を訳のわからんことを言っているんだ。藍は関係ない」
雅はますます険しい顔になった。椿はそんな雅を冷静な顔で見て、
「じゃあどうしてこんなところにいるの? まさか私が宗家の近くにいるのに気づいて、ここまで来たっていうの?」
雅は椿を睨んだままで、
「その通りだ。根の堅州国から戻る瞬間、お前の波動を感じて、ここに来た」
「それは光栄ね。私の事を覚えていてくれたのだから」
椿は皮肉っぽく言った。雅は、
「どういう意味だ?」
「貴方は私の気持ちに気づいていながら、宗家との養子縁組を受け、藍ちゃんと許婚となることにも同意した。酷い人よね」
椿の言葉に雅はギョッとした。
「お前の気持ちだと? そんな話、初耳だぞ」
「随分ね。私は何度も貴方に私の気持ちを打ち明けていたのに。全然気づいていなかったっていうこと?」
椿の言葉には棘があった。雅もさすがに気まずくなったのか、
「今更そんな嫌味を言われても、お前は姫巫女流、俺は黄泉路古神道。もうどうする事も出来ない間柄だ。俺はお前がどんな感情を持っていようが、それに対する答えを持ち合わせていない」
椿はフッと笑って、
「それは言い訳ね、雅。そんなことは後で起こった事よ。あの当時は、貴方は小野宗家の後継者候補として宗家に迎えられた出世頭だったのよ」
「……」
雅は何も答えなかった。椿はしばらく雅を見つめていたが、
「ああ、いけない。もう行かないと、藍ちゃんが心配して探しに来るかも知れないわね」
スーツケースを引きながら、
「またね、雅。じっくり話しましょう、後で」
「おい」
雅が声をかけたのを無視して、椿はそのまま歩き去った。雅も追いかけて何か言うつもりはなかったので、
「取り敢えず、お前の言葉を信用してやるよ、椿。しばらく監視させてもらう」
スーッと根の堅州国に消えた。
椿の予言した通り、藍は心配になって彼女を探しに出ていた。藍が神社の鳥居をくぐって表通りに来た時、ポケットの携帯が鳴り出した。
「このメロディーは……」
藍は鬱陶しそうな顔で携帯に出た。
「何よ、こんな時間に。何の用?」
相手は剣志郎だった。彼はどうして藍がそんなに不機嫌な声で尋ねたのかわからなかったが、時計を見ると九時を過ぎていたので、まずかったか、とも思った。しかし気になる事があったので連絡したのだから、何も悪い事はないと考え、
「実はさ、お前の親戚の人を近くまで乗せて行ったんだけど、もう着いたかな?」
「えっ?」
藍は剣志郎からそんなことを聞かれるとは全く予想していなかったので、本当に大きな声で驚いてしまった。そして、
「それ、ホント?」
「嘘ついてどうするんだよ。ホントだよ。まだ着いていないのか?」
「どこで降りたの、その人?」
「公園のところだよ。もう着いていて不思議じゃない時間だ」
「何でそんなところで降ろしたのよ! 無神経なんだから」
藍がたしなめると、剣志郎は、
「その人がそこで降りたいって言ったんだよ。しょうがないだろ」
「そうなの」
藍はちょっと言い過ぎたと思ったが、日頃剣志郎にからかわれる事が多いので、敢えて謝ったりしなかった。
「あの公園、よく痴漢が出るって噂なのよ。もし被害に遭ってたら、あんたのせいよ」
「そ、そんなこと言われても……」
剣志郎は藍の言葉にビビってしまった。確かにあの美人なら、痴漢や暴漢は放っておかないはずだ。
「ま、それは取越苦労ね。その人は、剣道は多分あんたより強いし、合気道と柔道と弓道と空手の有段者だから、絶対に大丈夫よ」
「何だよ、脅かすなよ。心配ないじゃないか」
剣志郎は少しホッとして言い返した。すると藍は、
「どちらにしても、時間が経ち過ぎてるわ。何かあったのかも知れない。いくら強くても、女性ですからね。大勢の暴漢がいたとしたら、危ないわ」
「だったら、俺も今からそこに行くよ」
「結構よ。私だけで大丈夫」
藍のその言い方がカチンと来た剣志郎は、
「そうだな。お前にかかったら、柔道の金メダリストもあっという間に投げ飛ばされるだろうな。お強いからな」
言い捨てると、携帯を切ってしまった。藍も剣志郎のその態度にムッとして、
「何よ、あのバカ!」
携帯をポケットにしまうと、公園に向かって走り出した。
藍が公園への道を走っていると、暗がりの向こうから、コツコツと靴音が聞こえて来た。その音は、時折聞こえる犬の遠吠えやジーッという誘蛾灯の音に混じって、辺りに妙に反響していた。藍は走るのをやめて、目を凝らして前方を見た。
「藍ちゃん?」
暗がりの向こうから女性の声がした。藍はビクッとしたが、
「椿さん、ですか?」
問いかけた。すると声の主が街路灯の明かりの中にその姿を現した。藍はドキッとした。
( うわっ、椿さん、凄い。まるで神話の女神様みたいに綺麗だ……)
「久しぶりね、藍ちゃん。元気そうで良かったわ。仁斎様から、何か落ち込んでいるって聞いたから」
椿はニッコリしてそう言った。藍は苦笑いをして、
「落ち込んでなんかいないですよ」
ハッとして、
「そうだ。椿さん、私の職場の同僚に途中まで車で送ってもらったんですって?」
「ええ。ごめんなさいね、貴女の彼氏を使っちゃって」
椿が悪戯っぽく笑って言うと、藍は赤くなって、
「や、やだな、椿さん。あいつは彼氏なんかじゃないですよ。まさかあいつがそう言ったんじゃないですよね?」
「まさか。あんな奥手の人、最近見かけないわ。私が勝手にそう思っただけ」
藍は椿の愉快そうな顔を見て、
「あいつはただの同僚ですから。ホントに何もないんです」
「わかったわよ。貴女、まだ雅一筋なのね」
椿のその言葉に、藍はギクリとした。何となく、言い方に棘があるように感じたのだ。
「そ、それも違いますよ。雅はもう……」
藍はそこまで言って口籠った。椿は話題を変えた。
「仁斎様がお待ちよね。急ぎましょ、藍ちゃん」
「えっ、ああ、そうですね」
結局藍は、どうして椿が遅くなったのか聞きそびれてしまった。
「椿……。何も企んでいないのか?」
雅は二人の後ろ姿を遠くから見ていた。
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