第九章  もう一人の女王

 藍は剣志郎に源斎と栄斎の戦いの話をしていた。

「じゃあその時、源斎は死んだのか?」

 剣志郎は天井を見ていた目を藍に向けて尋ねた。藍は丸椅子に腰を下ろして、

「死ななかったわ。いえ、正確に言うと、源斎の肉体は死んだわ。でも、魂は源斎の身体を離れて、栄斎様の身体を乗っ取ったのよ」

「何だって? じゃあ俺達が見たあの老人は……」

 剣志郎はすっかり動転していた。自分の想像を遥かに超えたことが起こったのに気づいて。

「そう。あれは栄斎様の身体なの。しかも栄斎様の魂は封じ込められ、その力だけを源斎は利用しているのよ」

 藍はひどく悲しそうに言った。剣志郎は再び天井を見つめて、

「そんなことが……。そんなことが、人間にできることなのかよ。俺には信じられない……」

「もちろん、人間にできることじゃないわ。源斎にそんなことをさせたのは、人間を超えてしまった化け物なのよ」

「化け物? 人間を超えてしまった? 一体どういうことなんだ?」

 剣志郎はまた藍に目をやった。藍は沈痛そうな顔で目を伏せ、

「姫巫女流の歴史の中で最大の汚点。まだ、宗派として確立する前のことなのだけど、その時に姫巫女流を修得した者がいたの。それが、その化け物よ」

「最大の汚点? 姫巫女流を修得した? じゃ、その化け物は、姫巫女流の?」

 藍は剣志郎の問いかけに目を上げて頷いた。そして、

「その化け物こそ、黄泉路古神道の開祖にして、日本の歴史上最大の呪術者」

「呪術者? 誰なんだ、そいつは?」

 剣志郎は緊張のあまり、シーツをギュツと握りしめた。藍は大きく溜息を吐いてから、

「そいつの名は……建内宿禰たけしうちのすくね。四百年近く生きたと言われている、日本で最初に大臣おおおみになった男よ」

 吐き捨てるように言った。

「建内宿禰? あの、記紀に出て来る?」

 剣志郎も建内宿禰の名前くらいは知っていたが、事蹟までは知らなかった。

「そうよ。建内宿禰こそが、仲哀天皇暗殺の黒幕。そして奴は今でも生きているのよ」

 藍の衝撃的とも言える発言に、剣志郎はすっかり驚いていた。藍は剣志郎の驚いた様子を見て、

「生きていると言っても、この世にいるわけじゃないわ。奴もまた、根の堅州国にいるの」

「じゃあ源斎は黄泉路古神道を使って、建内宿禰に会いに行ったのか?」

「そうじゃないわ。建内宿禰は根の堅州国にいるとは言っても、どこにいるのかは源斎にもわからなかったはずよ。恐らく、建内宿禰の方が、源斎に近づいたんでしょうね」

 藍は立ち上がった。剣志郎はピクンとして、

「行くのか?」

 不安そうに尋ねた。藍は微笑んで、

「ええ」

「気をつけろよ」

「ありがとう」

 藍は病室を出た。

( 剣志郎……。もう会えないかも知れないね……)

 心なしか、彼女の瞳は潤んでいた。

「そんな状態で、奴と戦うつもりか、藍?」

 藍が廊下を歩いていると、いきなりどこからともなく声がした。藍はビクッとして周囲を見た。

「その声は……」

 彼女は身構えて言った。すると突然、目の前に雅が現れた。

「み、雅!」

 藍は仰天して一歩退いた。雅はフッと笑って、

「感傷的になっていては、奴には勝てないぞ」

「何しに来たの?」

 藍は鋭い眼で雅を睨みつけた。雅は真顔になり、

「源斎はもう一体の鬼を手に入れるつもりだ」

「えっ?」

 藍は身構えるのをやめて、キョトンとした。雅は藍に近づき、

「姫巫女流の滅失こそ、源斎の悲願だ。奴の姫巫女流に対する怨みは、並みのものではないからな」

 藍は不審そうな目つきで雅を見て、

「何故そんなことを私に話すの?」

 雅はニヤリとして、

「何故かな」

 独り言のように言った。藍はキッとした。

「何よ、私をからかっているの!?」

「病院の廊下で大声を出すな、藍」

 雅に言われ、藍は赤面した。雅は再び真顔になり、

「奴は俺の両親を黄泉路古神道に引きずり込んで殺した張本人だ」

「えっ?」

 藍は驚愕した。

( 雅の両親は宗家に仇なすために黄泉路古神道を修得したとお祖父ちゃんに聞いていた。違うの、それは?)

 雅は廊下の窓の外に目をやり、

「俺の両親は、源斎が五十年前、仁斎のジイさんとお前の父親である斎に倒されたという話を疑っていた。奴は死んでいないのではないかと考えていた。そして、黄泉路古神道についていろいろ調べ始めた」

「……」

 藍は息を呑んだ。

( お祖父ちゃんはそれを勘違いして……) 

「しかし両親共、源斎に逆に利用され、その挙げ句に奴に殺され、力を奪われた」

「ええっ!?」

 雅は藍を見た。

「奴が栄斎の身体を乗っ取ったのは知っているな?」

「え、ええ……」

 藍はコクンと頷いた。雅は再び窓の外に目をやり、

「奴はそれだけでは飽き足らず、次々に姫巫女流の分家の者達を襲い、その力を吸収して殺した。もはや源斎は人間ではない。化け物だ」

「そ、それじゃあ、姫巫女流の奥義を尽くしても、勝ち目はないの?」

 藍は探るような目で雅を見て尋ねた。雅は空を仰ぎ見て、

「それはわからない……。しかし、可能性が一つだけある」

「可能性?」

 藍はすっかり警戒心を解いて雅に近づいた。雅は藍に目を向け、

「栄斎には、三人の息子の他に娘がいた。小野楓。彼女は三人の兄より力があったが、女故に継承者となれなかった」

「ええ。それは知ってる。ただ一人、源斎が勝てずに逃げた相手ね」

 藍は雅を見上げて答えた。雅は軽く頷き、

「可能性とはそれだ。楓は一族の中で初めて、姫巫女合わせ身を修得した」

「つまり、姫巫女合わせ身には、源斎に勝てる力があるということ?」

 藍が言うと、雅は、

「そうだ。しかし、その当時と今とでは、源斎の力は全然違う。お前が小石原川で源斎と戦った時、奴は力の半分も出していなかったはずだ」

「じゃあやっぱりだめなの?」

 藍は雅にすがるようににじり寄った。雅は藍の肩にそっと手を置き、

「しかし、姫巫女流にはさらにその上の秘奥義がある」

「えっ?」

 藍はキョトンとした。そして同時に雅の手が自分の肩の上にあるのに気づき、赤面した。

「な、何、それ?」

 彼女はドキドキしながら尋ねた。雅は藍から手を放して、

「答えは伊勢神宮にある。もう一人の女王が眠っている、な」

「もう一人の女王?」

 最初は訳が分からなかった藍も、ハッとして雅を見た。雅はフッと笑って頷き、

「倭の女王は一人ではないということだ」

「うん……」

 藍は大きく頷いた。すると雅は藍に背を向け、

「そこまでわかっていれば、勝てるはずだ。奴はもう一体の鬼を手に入れに行くだろう。できればその前に決着をつけろ」

「ええ……」

 藍は目を潤ませて答えた。雅はチラッと藍を見て、

「もし奴がもう一体の鬼の力を手に入れてしまった後だと、二人の女王の力を借りても、勝てる見込みは薄くなる」

「わかったわ」

 雅はスーッと消えながら、

「奴の行く先はわかるな?」

「ええ、わかる」

「そうか。俺も力を貸せればいいのだが、お前にすら勝てない俺では、何もしてやれん」

「雅……ちゃん……」

 雅はフッと笑って、

「じゃあな」

 消えてしまった。藍はそっと涙を拭い、歩き出した。

( 今は一刻も早く伊勢神宮に行こう )


「ムッ?」

 闇の中で傷を癒していた源斎は、藍の動きに気づいた。

「小娘め、伊勢に向かったな。しかしもう遅い。あともう一体の鬼の力を手に入れれば、わしに敵はいなくなる」

 源斎はニヤリとして呟いた。


 夜更け過ぎ。

 誰もいない伊勢神宮の鳥居の前に、藍は立っていた。

 日本書紀によれば、倭姫命やまとひめのみことは、天照大神を鎮座するところを求めて、大和の国を始め、伊賀、近江、美濃の諸国を巡った。そして最後に伊勢の国に入った時、天照大神が倭姫命に、

『この神の風の吹く伊勢の国は、常世の国から波が幾重にも寄せて来る国だ。大和に近い美しい国だ。この国にいたい』

と言った。そして、天照大神の教えに従い、その祠を伊勢の国に建てた。これが天照大神が初めて天から下ったところである。そこに建てられた斎宮を「磯の宮」と言った。

 実際にこの宮が本格的な神の宮殿、神宮と呼ばれるようになったのは、天武持統の時代になってからである。すなわち、日本書紀の編纂が始まった頃、同時に伊勢神宮の歴史も始まったのだ。

「もう一人の女王……」

 藍は鳥居をくぐり、本殿に向かった。


 翌朝になった。

 由加達はホテルから剣志郎の入院している病院に来ていた。

「武光先生、申し訳ありません。私はあと一週間ほど入院することになりそうなので、生徒達のこと、よろしくお願いします」

 剣志郎が半身を起こしながら言うと、麻弥はニッコリして、

「わかりました、竜神先生」

 すると由加が、

「ねえ、先生、あの塩の山は何?」

 部屋の隅を指差した。剣志郎もそちらを見て、

「ああ、あれは夕べ小野先生が作った結界だよ」

「夕べ? まさか小野先生、一晩中ここにいたんですか?」

 波子が口を挟んだ。麻弥は思わずビクッとした。剣志郎は赤面して、

「バカなこと言うなよ。小野先生はすぐに帰ったよ」

「藍先生、どこに行ったんですか?」

 由加が尋ねた。剣志郎は肩を竦めて、

「さァ。どこに行ったのかは知らないよ。でもまたあのジイさんと戦うつもりらしい」

「そ、そうですか……」

 由加と波子は、間近で源斎の凄まじさを見ているため、身震いした。奥野も驚愕して剣志郎を見ていた。

「大丈夫なんでしょうか、小野先生?」

 麻弥が独り言のように言った。剣志郎は微笑んで、

「大丈夫でしょう。あいつは殺したって死ぬような女じゃありませんよ」

 すると麻弥は寂しそうに笑って、

「竜神先生と小野先生って、本当に理解し合っている仲なんですね」

 剣志郎はハッとして、

「あ、いや、その……。あいつとは高校の時からの腐れ縁ですから……」

 言い訳にもならないことを言った。するとすかさず祐子と由加が、

「やっぱりねェ……」

 意味ありげな物言いで頷いた。


 源斎はスーッと現世に現れた。彼の目の前には古びた鳥居があった。その左脇には「出雲大社」と彫られた大きな石塔が建っていた。彼はその鳥居の奥に目を向け、

「ここにもう一体の鬼が封印されている。その鬼の力を手に入れてから、二人の女王の力を吸収すれば、あのお方の目指されている無敵の魔神が生まれる……」

 そしてニヤリとし、まるで宙を滑走するかのように奥へと移動して行った。

「小娘、早く現れよ。今のわしでも貴様程度には勝てる」

 源斎は自信に満ちた目で言った。

 その出雲大社は、本来は「杵築大社きづきのおおやしろ」と呼ばれた、世界最大の大社造りの神社である。古代には本殿の高さが約百メートルあったと言われており、最近の調査で、実際に巨大な神殿があったことがわかって来ている。祭神は言うまでもなく、大国主神、すなわち、大国様である。境内には数多くの小さな社があり、たくさんの神が祀られている。十月のことを「神無月」と言うが、ここ出雲では「神在月」と呼ばれる。十月に、日本中の神様がここに集まるからである。

 その境内は観光客でごった返していた。デジカメで記念撮影をする者、ビデオカメラで撮影する者、拝殿で願い事をしている者。様々だった。そこへ源斎がフッと現れた。観光客達は源斎の異様な風体に一瞬びっくりして動きを止めたが、やがて神社の関係者とでも思ったのか、気にもかけずに思い思いのことを始めた。

「愚かなり、日の本の民よ。うぬらにもはや未来はない。復活する魔神の贄になるのだ」

 源斎は呟き、拝殿の前まで進むと、柏手を四回打った。その音の大きさに、周囲の人はギョッとして源斎を見た。

「ふるえふるえ ゆらゆらと ふるえ 黄泉国に神留ります黄泉津大神(よもつおおかみ)に申したまわく」

 源斎がそう唱えると、地鳴りがし始め、大社の拝殿が揺れ始めた。

「何だ? どうした?」

「地震か?」

 周りの観光客達は散り散りになって逃げた。源斎はさらに柏手を二回打ち、

「黄泉津大神出ませいっ!」

 大声で叫んだ。その途端、天が猛烈な勢いで黒雲に覆われ、雷鳴が轟き、稲妻が走った。

「きゃーっ!」

「いやァッ!」

 観光客達はますます慌てふためき、逃げ惑った。源斎は高笑いをして、

「フハハハハ! これでわしは無類無敵の力を手に入れることができる! そしてあの小娘が来れば……」

 その瞬間、稲妻が拝殿に落ち、そこにある長さ十三メートル胴回り九メートルの巨大な注連縄が真ん中から二つに裂け、スズーンと地面に落ちた。

「来た!」

 源斎はカッと目を見開いた。地鳴りはますます激しくなり、雷鳴は轟音となり、稲妻は大社の様々な場所に落ち、本殿に火を放って行った。その直後、拝殿の前の石畳が砕け散り、地割れが走った。そしてその地割れの底から、どす黒い妖気が、まるで水蒸気のように噴き出した。

「フフフ。邪馬台国との抗争に敗れ、九州を脱出した狗奴国の末裔が流れ着き、呪術を伝承して栄えた出雲王国。しかしそれも、邪馬台国を近畿に移動させた二代目の女王が礎を築いた大和朝廷により滅ぼされた……」

 源斎はニヤリとした。

「そうだ。言わば、この地に封じられし怨霊達は、邪馬台族に対して二重の怨みを抱く者達よ。だからこそ、その怨念は、あの方の復活に役立つというもの……」

 源斎は全身でどす黒い妖気を吸収していた。

「そうじゃ! もう少しじゃ! あと一息で、魔神が甦り、この世は黄泉の国となり、我が世となる」

 源斎は言うと、大声で笑った。するとその時、

「させるかァッ!」

 声がし、源斎に光の玉がぶち当たった。

「うごあっ!」

 源斎は不意を突かれ、この光の玉をまともに喰らい、吹き飛ばされて拝殿の柱に叩きつけられた。柱はミシッと音を立ててヒビが入った。

「お、おのれ……」

 源斎は口から滴る血を右手で拭うと、光の玉が飛んで来た方を睨んだ。そこには、以前にも増して強く光り輝く藍が、十拳の剣を構えて立っていた。

「小娘め……」

 源斎は藍を睨んだまま、ゆっくりと立ち上がった。藍は剣をスッと下段に構え、

「源斎、今度こそ決着をつける! 私は二人の女王の力を借りている!」

 藍の後ろに、倭国初代女王卑弥呼と、その後継者の二代目女王の台与(とよ)の姿が見えた。源斎はしかし、

「その程度の力で、このわしに勝てると思っているのかァッ!」

 凄まじい気を放った。すると激しい妖気が辺り一帯に噴出し、付近の死霊を呼び寄せた。

「我が力は怨念。怨念を吸収すれば、わしは無限に強くなって行く。貴様など、足下にも及ばぬわ」

 源斎は目を血走らせて言い放った。藍はキッと源斎を睨み、

「姫巫女二人合わせ身に敵はない!」

 源斎に向かって走り出した。そして、

「神剣、草薙の剣!」

 左手に別の剣を出し、二刀流の構えをとった。源斎はギョッとし、あることを思い出した。

( あ、あれはまさしく楓! )

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