第五章  小野 雅

 新大阪を出た時、藍は剣志郎達と遅めの朝食を食べていた。

「すみません、武光先生。私、慌ててたもので、何も用意して来なくて……」

 藍は麻弥が作って来たサンドイッチをつまみながら、申し訳なさそうに言った。麻弥は作り笑いをして、

「いいえ。竜神先生にいっぱい食べてもらおうと思って、たっくさん作って来ましたから、大丈夫ですわ。ドーンドン、召し上がって下さい、小野先生」

 皮肉たっぷりに言った。藍は苦笑いをしていたが、何も言い返せなかった。向かいの由加が、

「武光先生って、美人でお料理が上手で、英語もペラペラで……。おまけに家がお金持ちで。きっといい奥さんになりますよね、竜神先生?」

 剣志郎はドキッとして麻弥を見たが、麻弥はニッコリして、

「あら、そんなことないわよ、古田さん」

 そして剣志郎を見た。藍はムスッとしてサンドイッチを呑み込んだ。その時、

「ああ、もうどうしてそういうことするのよ!?」

 祐子が叫んだ。どうやら祐子の朝食のおかずを田辺が盗ったらしいのだ。田辺は海老フライをムシャムシャ食べながら、

「いつまでも食わないでいるから、嫌いなのかと思ったのさ」

 祐子はカチンと来て、

「一番好きなものを最後に食べるのよ、私は!」

「そんなことしてると、急に大地震が来て死んじまった時、後悔するぞ」

「大きなお世話よ!」

 田辺と祐子は本当は仲がいいのかも知れない、と藍は思いながら、二人のやり取りを見ていた。

「そう言えば田辺君はどうして京都で降りなかったのよ? 邪馬台国は近畿にあったんでしょ?」

 波子が言った。田辺はムッとして波子を睨み、

「今回は奥野の説の欠点を指摘してやるために、九州まで行くことにしたんだよ」

 すると今度は奥野が、

「何言ってるんだよ。本当は水野が九州に行くから、一緒に行きたいんだろ?」

「ち、違うよ!」

 田辺は真っ赤になって否定した。祐子も顔を赤らめて、

「奥野君、何てこと言うのよ!?」

 麻弥はそれを微笑んで見ていたが、やがて、

「そうそう。小野先生は、何故九州に行かれるのですか?」

 藍を見た。藍は麻弥のサンドイッチに目をやりながら、

「実はその、邪馬台国最大の秘密がある場所へ行こうと思いまして……」

 つい口を滑らせてしまった。言ってからハッとなって、藍は手で口を塞いだ。

「邪馬台国最大の秘密って何ですか?」

 奥野が目を輝かせて尋ねた。藍は作り笑いをして、

「いえあの……。うーんと、そうそう、古事記や日本書紀に出て来る、高天原を流れる天の安河と思われる川に行くのよ」

「天の安河?」

 これには由加や祐子達も興味をそそられたらしく、藍をジッと見た。田辺も耳を傾けている。藍は困り顔をして、

「福岡県の甘木市を流れる筑後川の支流の一つに、小石原川という川があるのよ。その川の名は別名夜須川とも言って、天の安河と同じ音なの」

「なァんだ。そんな音の一致くらいで、最大の秘密がある場所なんて言わないで下さいよ」

 田辺は呆れ顔で言った。由加もいささか拍子抜けしたように、

「そんなの、秘密でも何でもないですよ」

「あら、そう? そうか、ハハハ……」

 藍は妙に陽気に笑った。剣志郎と麻弥は思わず顔を見合わせてしまった。

( 良かった。何とか誤摩化せたわね )

 藍は内心ホッとしていた。

「それより」

 麻弥がニッコリして言った。藍はビクンとして麻弥を見た。麻弥はチラッと藍を見てから剣志郎に目を向けて、

「邪馬台国の秘密を求めて行くのなら、九州で二手に別れた方がいいと思いますの」

 妙に色っぽい口調で言った。剣志郎はドキッとして麻弥を見た。

「そ、そうですか」

「二手に別れる?」

 由加が口を挟んだ。麻弥は由加を見て、

「ええ。第一グループは小倉で下車して、日豊本線で宇佐に向かう。そして第二グループは博多まで乗車して、鹿児島本線に乗り換え、基山まで行き、そこから甘木鉄道に乗り換えて、甘木に向かう」

「なるほど。九州説でも代表的な、甘木説と宇佐説を探る訳ですね?」

 奥野が興味深そうに言った。麻弥は大きく頷き、

「そうよ。宇佐には、比売大神ひめおおかみと呼ばれる、卑弥呼ではないかと思われる神を祀っている宇佐神宮があるし、甘木付近には、大和と同じ名称の地がたくさんあるわ。どちらもかなり邪馬台国としての資格を持っている場所よ」

「先生って、歴史にも詳しいんですね」

 祐子が感心して言うと、麻弥は再びニッコリして、

「まァね」

 チラッと剣志郎を見た。

( 変だわ。江戸時代の前が鎌倉時代だなんて言っていた武光先生が、ここまで古代史に詳しいなんて……)

 藍は不審そうに麻弥を見た。するとそれに波子が気づき、

「小野先生、そんなに嫉妬心むき出しで武光先生を睨まなくてもいいでしょ?」

 すると藍は赤くなって、

「な、何言ってるのよ!」

 由加達は大笑いをした。剣志郎と麻弥もクスクス笑っていたので、藍はムッとした。

( 何よ、全く! 人の気も知らないで! )

「どういうふうに別れますか?」

 田辺が尋ねた。麻弥は一瞬考えるような仕草をしてから、

「私が宇佐に行くわ。田辺君と水野さん、それから佐藤君は私と一緒に。竜神先生は古田さんと江上さん、奥野君と一緒に甘木に行って下さい」

「わかりました」

 剣志郎が答えると、由加が、

「藍先生はどうするの?」

 麻弥は、

「そうですね。どうなさいます?」

 藍を見た。剣志郎も藍を見た。藍は考え込んだ。

( 順序としては、甘木に行きたいけど、武光先生のことも気になるし……)

「ねえ、先生!」

 由加が藍の膝を突ついた。藍はハッとして顔を上げ、

「わかりました。私、宇佐に行きます。比売大神は、私の家の神社と縁のある祭神ですから」

 藍は一瞬ではあったが、麻弥の顔が殺気立ったのに気づいた。

( 何、今の? )


 藍達の乗る新幹線は九州に入っていた。広島を過ぎた辺りから雲が多くなっていたのであるが、トンネルに入る頃には、すっかり雨模様になっていた。しかし今は藍達はトンネルの中。九州に降る雨は、小倉駅のそばまで行かないと見られない。

「トンネルを出たら、すぐに小倉に到着するわ。小倉で降りる人達は、そろそろ準備をしてね」

 麻弥は身支度を整えながら言った。

「はい」

 田辺達は棚からバッグを下ろして、座席の上に置いた。藍も立ち上がった。その時新幹線がトンネルの外に出た。窓の向こうに、雨に煙る北九州の街が見えた。


「では竜神先生、古田さん達のこと、お願いしますね」

「はい」

 小倉駅で降りた藍達は、剣志郎達と別れると、宇佐に向かうべく、日豊本線にちりん17号に乗り換えるため、新幹線ホームを離れた。

「宇佐までどのくらいかかるんですか?」

 祐子が尋ねた。麻弥は時刻表を調べながら、

「一時間弱ってところね。のぞみに比べるとずっと遅いから、随分乗っているように感じるわよ」

「そうですか」

 祐子は退屈そうに言った。田辺が、

「佐藤、残念だったな、古田と別々になってさ」

 佐藤は赤くなりながら、

「そ、そんなことないよ」

 藍は二人のやり取りを見ながら、

「武光先生、宇佐に着いたら、まずはどうします? やっぱり、宇佐神宮ですか?」

 麻弥に尋ねた。麻弥はニッコリして、

「そうですわね。まずはそこでしょうね」

 その時藍は、また悪寒を感じた。

( まただ。間違いない。原因は、武光先生だ )

 藍は麻弥の後ろ姿をジッと見つめながら、ホームの階段を降りた。


 一方、剣志郎達の乗る新幹線も博多駅を目前にしていた。

「今頃、武光先生と小野先生、火花バチバチでしょうね」

 由加が嬉しそうに言うと、剣志郎はとぼけて、

「何でだ?」

「決まってるでしょ。竜神先生のことでですよ」

 波子が口を挟んだ。剣志郎は呆れ顔で、

「そんなわけないだろう」

「じゃあ聞きますけど、先生は武光先生と小野先生、どっちがタイプですか?」

 そう言ったのは由加。剣志郎はムッとして、

「お前なァ……」

「私は竜神先生の好みを聞いているんですよ」

 由加はしつこく尋ねた。剣志郎は窓の外に目をやって、

「小野先生は高校時代の同級生。武光先生は大学の時の後輩。それだけだ。だからどちらが好みとかは発言できないよ」

「なーるほど。小野先生のことを先に言ったから、やっぱり小野先生のことが好きなんだ」

 波子が冷やかした。剣志郎は図星を突かれてムキになって波子を睨むと、

「そうじゃないよ!」

 しかしそうなると余計面白がるのが由加と波子なのだ。

「わーっ、先生赤くなった!」

「なってないよ!」

 まるで子供である。それに気づいたのか、剣志郎は再び窓の外に目をやって黙り込んでしまった。


 藍達はにちりん17号に乗り込んだが、あいにく席がかなり混んでいて、藍と麻弥、祐子と田辺と佐藤に別れて座った。

「小野先生」

 麻弥は藍の隣に腰を下ろすなり小声で言った。藍はビクッとして麻弥を見た。

「何ですか?」

 麻弥はニヤッとして、

「久しぶりだな、藍。元気そうで何よりだ」

 急に男の声で囁いた。藍はハッとして、

「誰?」

 麻弥を睨んだ。麻弥は前を向いたまま、

「忘れたのか? 無理もない。あれから十年経つのだからな」

「えっ?」

 藍の脳裡に十年前のある記憶が甦った。


 十年前。

 藍はまだ中学三年生だった。彼女が家に帰ると、真っ青な顔の仁斎が玄関で出迎えた。

「どうしたの、おじいちゃん?」

 その頃の藍はまだ三つ編みの似合うあどけない顔をした少女であった。しかし仁斎のただならぬ様子に、その顔は一変した。仁斎はポソリと言った。

「お前の両親が乗った旅客機が、空中で爆発した……」

「えっ?」

 藍は一瞬仁斎が何を言っているのかわからなかった。感情より先に反射が起こった。涙が頬を一筋、二筋と伝わって行くのを感じた。

「全員絶望だそうだ……」

 仁斎は唇を震わせて言った。藍はそのまま玄関先に座り込んでしまった。悲しいという感情が湧いて来るのに、しばらくかかった。本当に悲しい時はそんなものだ。泣きわめいたり、取り乱したりするのは、ヘタな役者や演出家のする、作り事なのだ。真の悲しみに襲われた時、人は表現力を失うのである。

「奴の仕業だ」

 仁斎がそう呟いたのを藍は聞き取り、仁斎を見上げた。

「雅め、小野家を追放されたことを逆恨みし、あのようなことを……」

「そんな……」

 藍には仁斎の短絡的な考え方が信じられなかった。何故なら、雅とは、藍が生まれた時から決められていた、許婚だったからである。

「やはり、親と同じか。奴の両親は、第一分家の人間でありながら、邪な呪法を研究し、自分のものにしようとしていた。そのため、わしは奴の両親を追放し、奴を斎の養子とし、お前と夫婦とするつもりだったというのに!」

 仁斎は歯ぎしりした。

 小野家は、藍のいる宗家の他に日本各地に分家があり、雅のいた分家は島根県出雲市にあった。その第一分家の当主である雅の父親が、ある日突然、邪な呪法、すなわち黄泉路古神道を修めようと研究し始めたのであった。

「今にして思えば、追放するだけでなく、記憶も封じるべきだった。雅は恐らく、黄泉路古神道のことを両親から聞かされているはず。となれば……」

 雅を引き取り、宗家の跡継ぎにと考えた自分の愚かさを悔やむ仁斎であったが、藍には旅客機の事故が雅の仕業とはどうしても思えなかった。


「雅、なの?」

 藍は半信半疑で尋ねた。麻弥はフッと笑って再び藍を見て、

「そうだ」

と答えた。藍は深く溜息を吐き、

「何のマネ? 武光先生をどうするつもりなの?」

 しかし麻弥は何も答えず、前を向いた。スーッと麻弥が元に戻るのが藍にはわかった。

( 雅……)

 藍は悲しそうに俯いた。麻弥はハッと我に返り、藍を見た。

「どうかなさいました、小野先生?」

「あっ、いえ、別に……」

 藍は作り笑いをして、麻弥を見た。

「そうですか?」

 麻弥は不審そうに藍を見た。


 剣志郎達は博多駅で鹿児島本線十一時三十六分発の普通電車に乗り換えるために、構内を移動中であった。

「何か少し肌寒いな」

 剣志郎は梅雨空を恨めしそうに見上げて言った。由加が、

「小野先生と武光先生がいないからでしょ、竜神先生?」

と冷やかすと、剣志郎はカチンと来て由加を睨み、

「お前なァ……」

 由加はケラケラ笑った後、

「でも私がいますよ、先生ィ」

 色気を出したつもりか、ウィンクした。剣志郎は呆れたが、奥野はドキッとして由加を見つめた。波子が、

「それに私もね」

 剣志郎の左腕に自分の右腕をからませた。剣志郎はすっかり弱っていたが、奥野はそれを羨ましそうに見ていた。


 正午になった。

 藍達は宇佐駅でにちりん17号を降り、駅の外に出た。雨はやんでいたが、空には鉛色の雲が立ち込めていて、太陽は全く顔を出す気配がなかった。

「ここから宇佐神宮まで四km弱というところですね。タクシーで行きましょうか」

 駅の前を走る国道十号線を眺めながら、麻弥が言った。藍は帽子を被り直して、

「そうですね」

 田辺と祐子は相変わらず何か口喧嘩をしていた。佐藤がそんな二人を仲裁している。

( 昔の私達みたいだな )

 藍は祐子を自分に、田辺を剣志郎に重ねて、懐かしそうに二人を見ていた。

( いつからこんなに曲がった考え方をするようになっちゃったのかな )

 藍は悲しくなって帽子のつばを下げた。


 剣志郎達は基山駅に到着し、甘木鉄道に乗り換える途中であった。

「先生、ちょうどいい時間だから、お昼にしましょうよ」

 波子が提案した。剣志郎は足を止めて腕時計に目をやった。正午を少し過ぎたところだった。

「そうだな。そうするか」

「わーい! 先生の奢りね!」

 すかさず由加が言った。剣志郎は、

「お、おい!」

 慌てて、スタスタとレストランに向かう由加と波子を追いかけた。奥野はそれを見て苦笑しながら、後から歩いて行った。

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