第二章  歴史研究部員の企み

 放課後、藍は社会科教員室で一人で授業用の資料をコピーしていた。彼女が二枚目の資料のコピーを始めようとした時、ドアが開いた。

「あら?」

 藍は声に反応して振り返った。そこにはまだ大学生のような雰囲気が抜け切らないスリーピースに、セミロングの巻き毛、パッチリした二重瞼の、可愛らしい女性が立っていた。

「あのォ、小野先生、竜神先生はどちらに?」

 藍はニッコリして、

「剣志郎、いえ、竜神先生は、剣道場ですよ。練習試合が近いとか言ってましたから」

 尋ねた女性も微笑み返して、

「そうですか。ありがとうございます」

 ドアを閉めながら、

「小野先生って、竜神先生のこと、何でもご存じなんですね」

 捨て台詞のような言葉を残してドアを閉じた。藍はドアが閉じ切るとベーッと舌を出した。

「何よ、全く。誤解して」


 社会科教員室のドアを閉じて剣道場に向かったのは、武光たけみつ麻弥まみという、今年度赴任したばかりのまだ女子大生みたいな英語の教師である。

 彼女は大学時代から剣志郎のファンで、彼の出る試合は全て見に行き、バレンタインデーには毎年手作りチョコを送っていたほどだった。そのため、他にたくさんの商社やメーカーの内定が出ていたにもかかわらず、杉野森学園高等部に就職したのであった。

「小野藍め、高校からの同級生なのをいいことに、私の剣志郎様をたぶらかして。絶対負けないわよ」

 表ではおしとやかに振る舞い、裏では激しい気性を露にするという、結構二重人格の女性だ。

その性格が後で利用されることになるのだが。


 由加達は、歴史研究部の部室で邪馬台国研究班を集めて話し合っていた。

「ねェ、何とか先生に気づかれずに、九州に行く方法ないかな?」

 由加が一同を見渡して尋ねた。男子生徒の一人で、太り気味の子が、

「お前さ、さっきから九州、九州って騒いでるけど、いつから邪馬台国は九州にあったって決まったんだよ?」

 口を挟んだ。由加はムッとして、

「何よ、田辺君。邪馬台国が大和にあったっていうなら、貴方一人で奈良に行けばいいじゃないの?」

 田辺もムッとして、

「何だよ、その言い草は?」

「まァまァ」

 間に入った男子生徒は、奥野正という、小柄で細身の男である。すると田辺は奥野を睨んで、

「お前の考えが一番調子がいいんだよ、奥野。九州にあった邪馬台国が大和に移っただなんて」

「だってそれが一番全てをすっきりと説明できるじゃないか」

 奥野は喧嘩を仲裁したのに自分に噛みついて来た田辺にカチンと来たらしく、興奮した口調で言い返した。

「邪馬台国が九州にあって、その後東に移動して大和朝廷の元を築いたと考えると、天孫降臨が九州の高千穂峰にされたことや、神武天皇が東征したことがみんな説明がつくんだ」

 奥野は立ち上がってまるで演説でもしているかのように語った。すると田辺はフンと鼻で笑って、

「それはお前が自分の都合のいいように話を解釈しているからだよ。天孫降臨や神武東征なんて、後世の人間が頭の中で作り上げたもので、事実でも何でもないさ」

 奥野はムッとして反論しようとした。その時由加が、

「とにかく! 今は邪馬台国がどこにあったかじゃなくて、どうすれば先生に知られずに、一泊旅行に行けるのか、それを考えてよ」

 話を遮った。祐子が、

「何かいい方法、思いつかない?」

 そう尋ねたのは、由加のことが好きで、興味もない歴史研究部に入り、卑弥呼が誰なのかも知らないのに、邪馬台国研究班に所属している、理数系が得意な、佐藤孝という、青白い秀才タイプの男である。度の強い眼鏡をかけ、ボサボサの髪の、野暮ったい男だ。

「か、簡単だよ。女子は女子同士で誰かの家に集まり、泊まり込みで研究発表の準備をするふりをする。男子も同じようにする。そして親には、先生が一緒に九州まで研究のために旅行に行くと言って出かけるのさ」

「何か、すぐバレない?」

 波子が言う。田辺も、

「単純だよ、それ。親だってそんな手に引っ掛からないって」

「そうねェ……」

 由加も同意した。佐藤は由加に否定されたのが相当ショックだったようで、ションボリしてしまった。

「何の相談してるの?」

 藍が突然ドアを開いて入って来た。一同はギョッとして藍を見た。藍は、

「ははァ、また何か悪だくみしてたな? 九州に密かに行こうとしてるんでしょ?」

 ニヤニヤして尋ねた。由加はしかし、とぼけた顔をして、

「いいえ。そんなこと、企んでいませんよ」

「ほんとォ?」

 藍は疑いの目を一同に向けた。そして近くにあった椅子に座り、

「まァ、何にしても、九州に行くことばかりが邪馬台国の秘密を探る方法じゃないわよ」

「だって、歴史は現場で実感して初めて自分のものになるって言ったの、先生ですよ」

 由加は膨れっ面をして反論した。藍は由加を見て、

「それは最終的な段階のことよ。貴女達は邪馬台国の何を知っているの?」

「え?」

 由加はギクッとした。祐子と波子は思わず顔を見合わせた。藍は容赦しなかった。

「ねェ、古田さん、邪馬台国の人々の服装は、どんなだった?」

「え、あの、その……」

 由加は冷や汗をかいていた。藍は次に田辺を見て、

「田辺君、邪馬台国畿内説を唱えている学者は、何を根拠にその説を支持しているの?」

「それは、ええと……」

 田辺も動揺してしまい、何も答えられない。藍はさらに祐子に、

「水野さん、新井白石は、邪馬台国についてどういう考えを持っていた?」

「えっ、新井白石、ですか?」

「そうよ」

 祐子は首を傾げたまま、何も答えられない。藍は立ち上がって、

「まだ高校生になってから、日本史を勉強していない二年生の貴女達には、その程度の知識がなくても仕方ないけどね。でも、そんなことも知らずに九州に行って、どうするつもりだったの?」

 一同を見回した。由加達は何も言えず、下を向いてしまった。藍は呆れ顔になり、

「行く前にもっと邪馬台国について調べてからの方がいいんじゃない? 一泊旅行がいいか悪いかは別にしてね」

と言うと、部室を出て行った。由加達は顔を見合わせて、深い溜息を吐いた。


 杉野森学園高等部の校風は「文武両道」である。

 だから、剣道と柔道は必修科目だ。どちらかを二年間、選択しなければならない。

 竜神剣志郎は、三代続く剣道一家に生まれ育ち、その腕は全国大会にも出場したレベルだ。 彼が杉野森学園高等部に就職できたのは、学園が日本史の先生がほしかったことと、剣道部の顧問がほしかったことがあった。もちろん、藍が推薦してくれたことも大きい。だから剣志郎は藍に頭が上がらない。ただ、藍はそのことを一度たりとも剣志郎に言ったことはないが。

「よォし、それまで」

 剣道場に剣志郎のよく通る声が響いた。部員達は打ち込みの練習をやめ、休憩に入った。そこへ麻弥が現れた。

「竜神先生!」

「あっ、武光先生」

 部員達が冷やかすのを無視して、剣志郎は麻弥に近づいた。

「何ですか、武光先生?」

 麻弥は剣志郎の顔を眩しそうに見て、

「今夜空いてらっしゃいますか?」

「はい?」

 剣志郎は麻弥の消え入りそうな声が聞き取れず、尋ねた。麻弥は赤くなって俯き、

「今夜お食事一緒にいかがですか?」

「えっ? 夕飯ですか?」

 剣志郎はアッケラカンとして大声で言った。部員達がその声を聞きつけ、二人に近づいた。麻弥はそれに気づくと、

「ま、また後で」

 言うなり、走り去ってしまった。剣志郎は麻弥の後ろ姿を見ながら、

「何だよ、全く」

と呟いた。


 闇。

 一切の光が差し込まない闇の中に、白装束を身にまとった、長髪を後ろで束ね、前髪を右眼が隠れるほど長く伸ばした長身の男がいた。

「時は熟した。依り代も見つけた。今をおいて、他にない」

 男はそう呟き、ニヤリとした。


「そうだ! いい方法がある」

 由加が突然叫んだ。他の部員はびっくりして由加を見た。由加はニヤッとして、

「竜神先生をおだてて、一緒に行かせるのよ。そうすれば小野先生も文句言えないし、親達も納得するわよ」

「あの剣道バカを? できるのか?」

 田辺が言った。由加はウィンクして、

「そりゃもう、この私の魅力でね」

 田辺は呆れたが、佐藤は大きく頷いた。祐子が、

「ついでに旅費も少し出してもらおうよ。九州まで行くってなると、私お年玉全部とってあるけど、それでも足りないよ」

「バイトしろよ、全く」

 奥野が言った。祐子はムッとして奥野を見た。すると波子が、

「切符の手配は私に任せて。JRに私の伯父さんがいるから、安く手に入るよ。それにホテルも一緒に頼んじゃえば、もっとお得だよ」

「それいいね。浮いたお金で夜遊びしよう」

 祐子は急に機嫌を直して言った。今度は由加が呆れて、

「何考えてんのよ、あんたは」

 そして、

「とにかく、竜神先生を落として来るから、ここで待ってて」

 彼女は部室を飛び出して行った。


 剣志郎が社会科教員室に戻ると、藍が一人で資料のコピーを整理していた。

「あれ、藍一人? 他の先生は?」

 剣志郎は中に入りながら尋ねた。藍は資料のコピーを机の引き出しに片づけると、

「帰ったわよ。私ももう帰るところ。また雨が降り出しそうだから」

 立ち上がった。剣志郎は肩を竦めて、

「梅雨時くらい、バイクやめれば? 毎日天気の心配してなくちゃならないだろ」

「別に私が濡れるのは構わないんだけど、洗濯物が濡れるのは困るのよ」

 藍が言うと、剣志郎は意外そうな顔をして、

「へえ。お前もたまには自分で洗濯物を取り込んだりするんだ?」

「うるさいな。今日はお祖父ちゃんが出かけているのよ」

 藍はキッとして剣志郎を睨みつけた。剣志郎は笑って、

「なるほど。なら納得」

「フンだ!」

 藍は剣志郎から顔を背けてドアに近づくと、

「お先に失礼します!」

 ピシャンと閉めた。剣志郎は溜息を吐いた。

「俺も素直じゃないんだよなァ」

 彼は自分の机に近づき、腰を下ろした。


 藍は更衣室でライダースーツに着替え、玄関に向かった。その時彼女は由加が走って来るのを見かけた。

「先生、さようなら」

「さようなら」

 藍は由加があらぬ方向──社会科教員室に向かっているのに気づき、足を止めた。

「何の用かしら?」

 藍が由加を追おうとした時、

「小野先生!」

 麻弥が後ろから声をかけた。藍はビクッとして振り返った。麻弥はニッコリして、

「お帰りですか?」

「え、ええ、まァ……」

 藍は、どうもこのお嬢様苦手だなァと思いながら、ニッコリした。

「お疲れ様でした」

「お疲れ様でした」

 藍は立ち去る麻弥を見て、

「何か、出鼻くじかれちゃたなァ」

 そして玄関を出た。


「失礼しまーす」

 由加は実に豊かな笑みを顔いっぱいに浮かべて、社会科教員室に入った。

「小野先生はさっき帰ったぞ」

 剣志郎はチラッと机から目を上げて言った。すると由加は、

「いいえ、小野先生には用はないんです。私、竜神先生に用があって来ました」

 剣志郎は由加の方を向いて、

「何だ?」

 由加はササッと剣志郎に近づき、

「実はァ、私達歴史研究部ではァ、今度の土日の連休を利用して、九州まで邪馬台国研究旅行に行こうと計画しているんですゥ」

「九州? そりゃまた、豪勢なことで」

 剣志郎は呆れ気味に言った。由加は揉み手をしながら、

「つきましては、私達だけでは許可されないし、心細いので、先生に一緒に行って頂けると非常にありがたいんですけどォ……」

「何ィ?」

 剣志郎はびっくりして立ち上がった。由加はニッコリして、

「いかがでしょうか?」

 小首を傾げて尋ねた。精一杯色気を出しているつもりらしい。しかし、剣志郎から見れば、十七歳のガキにしか見えない。彼は、

「だーめだ。俺は給料日前で金がないんだ。一緒になんて行けないよ」

 すると由加は目を潤ませて、

「だめなんですかァ?」

 剣志郎もさすがに胸が痛む思いがしたが、先立つものがないのでは、どうすることもできないと考え、

「ああ、だめだ」

 言い切った。すると、

「お金なら私が出しますわ」

 麻弥が入って来た。剣志郎と由加はびっくりして、

「ええっ?」

 同時に麻弥を見た。麻弥はニッコリして、

「せっかく古田さん達が研究のために旅行に行こうとしているのですから、それを助けてあげるのが、教師の役目ではないでしょうか?」

「あ、ありがとうございます、武光先生」

 由加は戸惑いながらもお礼を言った。麻弥は由加に目を転じて、

「さァ、もう帰りなさい。後は私が竜神先生と話し合いますから」

「は、はい……」

 由加はまるで追い立てられるように教員室を出て行った。

「いいんですか、武光先生? 金返すの、給料日過ぎですよ?」

 剣志郎が言うと、麻弥は剣志郎を見てまたニッコリし、

「いいんですのよ、竜神先生。私、竜神先生と一緒に旅行できるなんて、夢のようですわ」

 剣志郎はすっかり呆気にとられ、何も言えなかった。

( この子、自分も行くつもりなのかよ……)

 麻弥はさらに、

「そうそう。そろそろ帰りましょうか?」

「はァ?」

 剣志郎はキョトンとした。すると麻弥は、

「夕食、ご一緒して下さるんでしょ?」

「えっ? ああ、そうでしたね。ハハハ……」

 剣志郎は頭を掻きながら応えた。


 由加は部室に戻り、事の経緯を他の部員に話した。祐子はヒューッと口笛を吹いて、

「あの色気女、竜神先生に気があるからそんなこと言い出したのよ、きっと」

「そうね。麻弥先生って、見た目は子供っぽいけど、結構遊んでるって感じだしね」

 波子は同意した。田辺は、

「何にしても、スポンサーになってくれるのならありがたいよ。確かあの先生の家、大金持ちだよな? 成城のお嬢様なんだろう?」

「そうよ」

 由加が言う。田辺はニヤリとして、

「ついでに俺達の旅費もみんな出してもらえないかな?」

「あんたもせこいこと考えるね、全く」

 由加は呆れた。すると祐子が、

「それ、いい考えよ。それで浮いたお金で遊んじゃおうよ」

「またそれ?」

 由加は頬杖をついて軽蔑の眼差しを祐子に向けた。

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