古代の魔神
第一章 杉野森学園高等部
梅雨と書いて「つゆ」と読む。何故そう読むのかと日本語を勉強している外国の人に尋ねられても、答えようがない。昔からそう読むのだと言うしかない。
世田谷区の中心部を走る私鉄の駅に、「杉野森学園前駅」がある。
都心から少し離れた、まさに閑静な環境にある、幼稚園から大学までのマンモス学校に一番近い駅である。
ついでに言えば、この私鉄も同じグループの会社で、駅周辺にあるたくさんの住宅も同系の建設会社の建てたものだ。
要するに杉野森学園を取り巻く環境は、皆同じグループの手によるものなのだ。
この学園の高等部に勤めている日本史担当の女性教諭がこの話の主人公だ。
名前は、
今年三年目の、やる気満々の熱血先生である。ショートカットの髪の上、少し顔がボーイッシュなので、時々駅のトイレなどで痴漢と間違われることもあるし、どちらかというと、男子より女子に人気がある先生だ。自分でもそのことを自覚しているのか、元々そうなのか、スカートは絶対履かない主義である。
「先生、おはようございます!」
女子生徒達が同時に頭を下げて挨拶した。藍は愛車の四百CCのオートバイから降りてヘルメットを脱ぎ、ライダースーツの襟を正して、
「おはようございます」
笑顔で答えた。彼女がスカートを履かないのは、とんでもないバイク好きも一因のようだ。どこへ行くにもバイクで行くほど好きなのだ。藍はヘルメットを小脇に抱え、背中のバッグを背負い直すと、玄関に向かって歩き始めた。ライダースーツでよくわからないが、スタイルはよさそうである。
「先生!」
二階の教室の窓から、目のクリッとした、真っ白なヘアバンドがよく似合う、お下げ髪の女子生徒が声をかけた。藍はその子を見上げて、
「どうしたの、古田さん?」
古田と呼ばれた子は、
「文化祭で行う、研究発表のことなんですけど……」
「週末に、一泊二日で九州に行くっていう話ね?」
「はい、そうです」
「だめです」
藍はそう言い切ると、スタスタと玄関に入って行った。古田は少しムッとして教室を飛び出し、階段を駆け下りて職員室に向かう藍を追いかけた。
「待って下さい、先生。どうしてだめなんですか?」
古田は藍の前に立ちはだかって尋ねた。藍は呆れ気味に古田を見て、
「当たり前でしょ。高校生が、しかも男女一緒に一泊旅行だなんて。許可できるわけないでしょ?」
「先生、古いです、考えが。今時男女で一泊旅行なんて、中学生だってしてますよ」
「中学生がしていようと、小学生がしていようと、そんなことは関係ありません。だめです」
藍は職員室に入って行ってしまった。古田は、
「いーだっ!」
捨て台詞を吐き、教室へ戻って行った。その時、始業のチャイムが鳴り始めた。
「どうだった、由加?」
古田の隣の席に座っているオカッパ頭の女の子が尋ねた。水野祐子という、古田、いや、由加と同じ、歴史研究部に所属する、アイスクリームとハンバーガーが大好きな、ちょっと太めの女の子である。
「どうもこうもないわ。話にも何もならないのよ」
由加はふてくされた顔で席に着いた。祐子はニヤッとして、
「藍先生、神社の巫女さんだからなァ。そりゃねお堅いわよねェ」
「きっと男と付き合ったことなんてないし、未だに処女なのよ」
由加は強烈な悪口を言った。祐子はケラケラ笑って、
「そりゃそうよ。巫女さんは神様に仕えているのよ。だから処女じゃないと」
由加もケラケラ笑った。その時日直が、
「起立!」
号令をかけた。由加と祐子はハッとして立ち上がった。
一方藍は、ライダースーツからチャコールグレーのツーピースに着替え、次の授業の資料を作っていた。
「何やってんだ、藍?」
藍の作業を覗き込んだ長身の若い男の教師が言った。彼の名は竜神剣志郎(りゅうじんけんしろう)。藍とは高校以来( 二人共杉野森学園高等部卒で、大学は某国立大である )のくされ縁で、就職先まで一緒になってしまった、妙な仲である。彼は剣道部の顧問であり、藍と同じく日本史の教師である。
杉野森学園高等部は、一学年10クラスあるが、そのうち5クラスが日本史を選択していた。藍が赴任するまで、日本史はこれほど人気はなかったのだ。それで、二人の日本史の教師が必要となり、竜神が二年前杉野森学園高等部に就職したのである。つまり、竜神は藍の後輩になる。彼は一浪して大学に入ったからだ。だから藍とは歳は同じだが、先輩後輩の仲である。
「何でもいいでしょ」
藍はムッとして剣志郎を見上げた。そして、
「それから、馴れ馴れしく藍なんて呼ばないでよ。誤解されるじゃない、他の先生方に」
再び作業を始めた。剣志郎は肩を竦めて、
「この二ヶ月、そればっかりだな。何をどう誤解されるっていうんだ? 昨年度までは、何も言わなかったのにさ」
あっけらかんとして言った。すると藍はまた剣志郎を見て、
「バカね! 今年入った武光先生、知ってるでしょ?」
声を低くして言った。剣志郎は周りを見回してから、
「ああ。それが何か?」
藍はますます声を低くして、
「武光先生、貴方を追ってこの学園に就職したって聞いたわよ」
「まさか」
剣志郎は笑って言った。そして、
「わかったよ。これからは気をつけますよ、藍大先生」
ニヤリとして言い、去って行った。藍は、
「もう! バカ!」
剣志郎の後ろ姿に向かって言った。
お昼休みになった。
高等部には収容人員五百名という、巨大な食堂がある。由加と彼女のクラスメート二人は、その一角で食事をしながら、話をしていた。
「文化祭でする研究発表、どうするのよ? 私達、邪馬台国について発表するんでしょ?」
祐子が言った。由加はサンドイッチを一口齧って、
「うーん。邪馬台国があった場所を探るには、どうしても九州に行かなくちゃならないんだけどねえ」
「先生に内緒で行っちゃおうよ」
そう言ったのは江上波子という、ヒョロヒョロとした、長身のお下げ髪の子だ。大きな丸眼鏡が愛らしい子である。
「バッカね、そんなことして後でバレたら、停学になっちゃうわよ」
由加がたしなめると、波子はあっさりと、
「いいじゃない、停学になったって。学校を堂々と休めるよ」
「気楽な子だね、あんたは」
祐子も呆れ気味である。由加は溜息を吐いて、
「まァ、何にしてもあの堅物の処女先生を説得するのは難しいわね。脳味噌、明治時代なんじゃない?」
と言った時、祐子と波子がびっくりした顔で由加の後ろを見ていた。由加も背中に殺気のようなものを感じて、恐る恐る振り向いた。そこには、にこやかな顔をして藍が立っていた。
「ゲッ、先生……」
由加は冷や汗をドッとかいて立ち上がった。藍は由加の隣に座って、
「ごめんなさいね、頭が明治時代で。でもね、処女と堅物は、関係ないと思うんだけど?」
「……」
由加は返す言葉がなかった。藍はサンドイッチを一つつまんで、
「これいただくわね」
と頬張り、立ち上がって去って行った。
「あーっ、びっくりしたア」
由加は椅子にドッカと座って言った。祐子もホッとして、
「にこやかに言われると、余計恐ろしいよね」
「ほーんと」
波子は眼鏡をクイッと上げて同意した。
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