地獄へ道づれ(一)

 闇を恐れるのは、人間の本能だ――。

 イヴァン・マルコヴィチは、子どものころから闇に言い知れぬ恐怖を抱いてきた。

 闇のなかにはブカバクという怪物がいて、つねに人間たちを引きずり込もうと狙いすましている。だから絶対に夜ひとりで出歩いてはいけない。幼いころ祖母からくり返しそう聞かされていたことが、あたまのすみに焼きついている。

 二十歳を過ぎて兵役についた今、さすがにブカバクなどという荒唐無稽なものは信じていないが、それでも心のなかへ刷り込まれた闇に対する漠然とした恐怖だけは消えることがなかった。

 だからイヴァンは、夜の歩哨に立つときにはお守りを肌身離さず持つようにしている。故郷へ残してきた妻の写真だ。もう半年以上も会っていないが、来月には待望の第一子を出産してくれるはずであった。

「フッ、夜の歩哨が怖いだなんて……生まれてくる赤ちゃんに笑われちまうな」

 楼門まえに設置された遮断ゲートに寄りかかって、たばこに火をつける。

 さっきまで水面に浮かんでいた月も今は分厚い雲にさえぎられ、ペーシュダード城をかこむ長大な堀からは、沸き立つような蛙鳴が闇にえんえんと充ちていた。

 ゆっくりとけむりを吐いてから、ふと腕時計に目をやる。歩哨を交代する時間が、とっくに過ぎていた。

 不意に、戦闘用ヘルメットに取り付けてあるヘッドセットから声がした。

「ようヴァーニャ。どうだ、異常はないか?」

 部隊長からだ。イヴァンはたばこを捨て、直立不動の姿勢をとった。

「正門ゲート、異常ありません」

「そうか。よし」

「それより部隊長どの、引き継ぎの者がまだやって来ないのですが」

「ああ、それなんだが、さっき本人から体調が悪いと申告があってな。おまえ、ちょっと任務を代わってやってくれないか」

「え、そんな……」

 イヴァンは拳をにぎりしめた。部隊長がたたみ掛けるように言う。

「ほかの者に命じたいのはやまやまだが、今夜は反乱軍の鎮圧に駆り出されて人手が足りんのだ。文句があるなら、反乱軍のやつらに言ってくれ。それに考えてもみろ。ただ突っ立ってるだけで給料がもらえるんだぞ。ありがたい話じゃないか。しかも民間の警備会社なんかより、ずっと待遇が良いときていやがる。どこに文句をつける筋合いがあるんだ。あん? そうだろう」

 言ったあと、かすかに含み笑いが聞こえた。交代の兵士が体調不良というのは、もしかすると嘘かもしれない。部隊長は、日ごろからこういう嫌がらせをよくやる。

「どうだヴァーニャ、答えろ。あくまでいやだというのなら、おれにも考えがあるぞ」

「……いえ」

 イヴァンはうなだれながら、震える声で言った。

「了解しました。引きつづき歩哨に立たせていただきます」

「そうだ、それでいい。べつにおれは永久に立ってろと命じてるわけじゃないんだ。まあ、せいぜい頑張ってくれ」

 そこで通信は切れた。イヴァンは脱力したように再び遮断ゲートへもたれ掛かった。足が棒のようだ。

 ラゴス連邦は、八つの部族で構成されている。

 連邦においての憲法にあたるツァーリ法と、その根拠とされるカトリコス教典には、連邦内のすべての部族は神ハリストスの名のもとに平等であると定められている。しかし実際には、すべての部族が公平に国務を担っているわけではない。例えばグローズヌィ家や、ユスポフ家などの有力部族は国政に強い発言力を持っているが、反面トゥーレ族やキンメリア族などの辺境部族は連邦から軽んじられてきた。

 イヴァンは、キンメリア族の若者だった。

 キンメリア族は、連邦へ加わってからの歴史がもっとも浅く、それ以前は自治区に居住する少数民族という扱いを受けてきた。それゆえ、とくに軍隊ではひどい差別を受けることも少なくなかった。

 一年と三ヶ月。イヴァンは星のない空を見あげ、そこに故郷の山野や街並みを思い浮かべてみた。あと一年と三ヶ月我慢すれば、懐かしい故郷へ帰り、愛しい妻とわが子をこの手で抱くことができる……辛抱するんだ。

 ふと闇の彼方に光の明滅を見た。その光は細かく上下左右に揺れながら、しだいにその数と光量を増していった。車のヘッドライトだ。寝静まった市街地を抜け、王城へとつづく道を長い車列がぐんぐん近づいてきている。イヴァンは首を捻った。

「今時分、だれだろう?」

 これまで数えきれないほど歩哨に立たされてきたが、深夜に本営のゲートをくぐろうとする車を見るのは初めてだった。

 先頭の車両が遮断ゲートのまえで止まる。ハーフトラックの兵員輸送車だ。

「反乱軍の捕虜を護送してきた。これが命令書だ」

 運転席から、たばこをくわえた兵士が書類を差し出してくる。イヴァンは、マグライトの明かりでそれを確認した。たしかに軍の命令書だった。ちゃんと司令官のサインもある。

「護送ということですが……本営に、これだけの捕虜を収容できるスペースがあるのですか?」

 見れば十台以上もおなじ型の輸送車が後ろに連なっている。すべての車両に捕虜を満載しているとすれば、すごい数だ。

「さあ、俺たちはそこまで知らんよ。あとから指揮官を乗せたジープも来るから、直接訊いてみちゃどうだい?」

 運転席の兵士がおどけた調子で言う。見たことのない男だった。イヴァンはキンメリア出身ということもあり、これまで前線の基地をたらい回しにされてきた。ゆえにペーシュダードで駐屯している兵士の顔は、ほとんど見知っている。

 一応、部隊長に報告しておいたほうが良いだろうか……。無線のスイッチへ伸ばしかけた指が途中で止まった。自分の報告を聞いて、あの意地の悪い部隊長がなんと言うだろうか。きっとまたなにか嫌がらせをしてくるに違いない。どうせあとひと月もすれば、またべつの部署へ転属になるに決まっている。それまで部隊長とは、なるべく距離を置きたかった。できれば口もききたくない。

「あ~あ、戦闘で泥まみれや。早ようこいつら送りとどけて、宿舎で熱いシャワーでも浴びたいわあ」

 助手席から女の声がした。驚いてイヴァンがのぞくと、若い女兵士がにっこりと笑いかけてきた。

「任務ご苦労さん」

「あ、これはどうも失礼しましたっ」

 あわてて敬礼をする。防疫本部で何度か見かけたことのある軍医だった。階級はたしか少佐である。イヴァンはすぐにゲートをあげ、堀を渡るための跳ね橋を下ろした。

「どうぞ、お通りください」

「お、さんきゅー」

 運転席の兵士が指先でちょこんと敬礼して車を発進させた。つづいて後続の車両がどんどん目のまえを横切り、楼門をくぐってゆく。排気ガスのにおいに混じって、なぜかつんと腐敗臭がした。イヴァンは妙な胸騒ぎに襲われ、軍服の背中にびっしりといやな汗をかいていた。

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