小話集(ちょっとした話)

小話1 研究室にて

 研究室の扉をノックすると、返事はすぐに返ってきた。


「失礼します」


 扉を開けると、ひんやりと冷やされた空気が体の熱を取り払ってくれた。

 中にいた女性――長い髪を一つに束ねた椎名さんが、顔をあげる。


「お。土田か、どうした?」

「レポート提出です。外の箱が落ちちゃってたので」


 俺は手に持った箱を見せる。

 箱は扉にガムテープでくっつけられていたと見えるが、俺が来た時には廊下に落っこちてしまっていたのだ。

 中は既にレポートで埋まっていて、少し重い。どうも他の学生たちが一斉に入れたらしく、重みに耐えきれなくなったらしい。中身が散らばっていなかったのは幸いだ。


「……あー、やっぱガムテープの突貫じゃダメだったか。土田、悪いけど中身だけこっちに寄越してくれないか? 箱はその辺に置いといてくれていいから」

「あ、はい」


 言われたとおりに中身のレポート群を取り出す。上下や裏表がばらばらだったそれを整頓しておき、椎名さんの机へと向かう。

 椎名さんは椅子から立ち上がり、隅に置かれた小さな冷蔵庫を開けていた。


「うむ。んで、土田にはお礼に缶コーヒーをやろう。外は暑かっただろ、充分冷えてるから有り難く受け取れ」

「え、あ、ありがとうございます。でも、いいんですか?」

「いいんだよ。ここのところ、うるさい部外者も来ないから余ってな」

「うるさい部外者……」


 たぶん、佐伯さんのことだろうとあたりをつける。


「そういえば最近静かですね……」

「いや、研究室が常時賑やかでもそれはそれで困るんだけどな?」


 椎名さんは真顔で言った。

 それも学生ならまだしも、彼は普通に部外者だ。


 なぜそんな人が椎名さんの研究室に常時やってくるかというと……まあ、色々ある。

 というか、彼も普通に仕事をしているはずなのに平日にわざわざやってくるのはどうかと思う。自転車店は土日祝日のほうが忙しそうではあるけれど。


「忙しいんですかね?」

「いや、フランスに行ってる」

「フランス!?」


 しれっと言われるとさすがに驚く。


「それって、海外旅行中ってことですか? それとも……」

「ああ、えーっと……フランスでやってる自転車レースを見に行ったんだよ。わかるか、この七月に何日間かかけてやる大会の」

「あ、それなら知ってます。結構大きなイベントですよね、納得しました。あれってこの時期だったんですね」

「そうそう。夏休みになると店も忙しくなるだろうから、その前にってな。私はレースのことは全然わからんが、嬉々としてLIMEに写真も送ってくるし、ちゃんと楽しんでいるようで何よりだよ」


 たしかに。

 その光景がたやすく想像できる。


「あれで怪人(ヴィラン)にならなきゃなあ……」


 椎名さんが遠い目をして言った。

 そうは言うものの、既に諦めの境地にあるらしい。

 ……あるらしいが、言わねばやってられないこともある。


 それはとても良くわかる。


「……ま、怪人が一人、自分の趣味に没頭してるんだ。今年の夏くらいはこのあたりも平和になるだろ」

「あはは、そうですね」


 笑って返したそのときだ。

 外から突然爆発音のようなものが響いた……のは、気のせいだったと思いたい。


 ぎょっとした椎名さんが急いで窓を開ける。すると、砂埃の向こう側から、あたりに響き渡らんばかりの女性の高笑いが響いた。手下とおぼしき黒尽くめの人々が散らばり、学生や教授たちの助けを求める声が響き、阿鼻叫喚といった様相を呈し始めた。

 椎名さんが無言のままスッと窓を閉めると、むせかけた高笑いが窓によって遮蔽された。


「いやすまん全然平和じゃなかったわ」


 椎名さんが死にかけたような目で言った。


「……いえ……」


 人にはままならないこともある。


 きっとそういうことなのだろう。

 閉められた窓の向こうから歓声が微かに響いたので、ちらっと見てみる。

 どこかで見たような、赤い服の友人――というか友人にうり二つじゃないかと思うくらいの学生服のヒーローの姿が見えたので、俺はそっと気付かなかったふりをした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

尾長町戦記 冬野ゆな @unknown_winter

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ