第47話 レジーム・チェンジ
いつ始めるのか?
レミ姉のその問いに、クリオが値動きの推移を示しながら答えます。
「先ほど仕手筋の大型資金が投下されました。彼らもこれで資金の大半を出し切ったと見られますので、あとはタイミングを計るだけの状況です。72モルドライン突破をスタートとしようかと。70モルド前後で恐らく一度反発買いが入るでしょう。機先を制したいと思います」
クリオは言いながら、魔物の国から連れてきた魔術師たちに何事かを合図します。
魔術師たちは合図を受けて、通信陣に手を加え始めました。
「72モルド? 想定よりもかなり稼げましたわね。75モルドを割れるかどうか怪しいと踏んでいたのですけれど、クリオの演技が迫真のものだったというわけかしら」
「いえ、そんな……レミリア様のシナリオがすばらしかったからです」
読めない会話を交わす二人に、焦れたように仮面の男が噛みつきます。
「何を企んでいるか知らんが、もはや手遅れだ。ここまで下がってしまっては、多少の反発があったところで、投資家たちはもはやダリクを獲物としてしか認識しないだろう」
仮面の男の声を受けて、レミ姉は、まるで彼がそこにいることに初めて気づいたかのような態度で答えました。
「あら、これは失礼いたしました。わたくし、ギルモア銀行頭取改め、魔物の国親善大使のレミリア・ギルモアと申します。以後お見知り置きを」
恭しい挨拶に続けて、レミ姉は仮面の男に向かって語ります。
「ここまでの筋書きは、私のアイデアですわ。けれど、クリオが描いた構想の本番はこれから。種明かしをするときには、きっとあなたの敗北が確定していますわ」
そうするうちに、魔術師たちの作業が終わり、別の場所と通信が繋がりました。
「……やあ、クリオ。そろそろ開始かな?」
映像に浮かび上がったのは、エテルナ様でした。
クリオがにっこりと微笑んで答えます。
「ええ、スタートラインは1ダリク72モルドです。そのあとは想定の通りに」
「わかった。魔王府と中央銀行のスタッフで連携して進める」
通信はそれだけで途切れました。
間もなく、ダリクのレートが72モルドを割り込みます。
「……ダ、ダリクに大量の買い注文!」
「ニジェール公国、ザファル王国、キリハ共和国……注文の出どころは魔物の国経済圏の小国ばかりですが……額がすごい! いずれも各国の国家予算の2割程度に相当する規模です!」
新政府の官僚たちが、戸惑いの声を上げます。
「馬鹿な! こんな金額……」
仮面の男が、買い注文の額を見て狼狽の声を上げます。
大量の買いによって、レートは上昇に転じました。
「73モルド、74モルド、75モルド! 一気に回復しています!」
レートのグラフが急上昇しています。
仮面の男も、新政府の官僚たちも、何が起こったかわからず、呆然とする中、再び魔物の国から通信が入ります。
「クリオ、小国は概ね買いを入れ終えた。中堅国の買いに入るラインはどこだ?」
エテルナ様の問いに、クリオは即座に答えます。
「78モルドスタートでお願いします。停滞や反落を待たず、78モルドラインを超えたらすぐさま買いを入れてください」
「わかった。また連絡する」
クリオの言葉通り、78モルドを超えて、レートはさらに加速します。
先ほど投入された大型買いよりも、さらに膨大な額の買いが入っています。
レートは80モルド台では足踏みすらせず、一気に1ダリク90モルドまで値を上げていきます。
「なんだこれは……いったい何が起こっている?」
仮面の男は、目の前で起こっていることが理解できない様子で、さかんに手元を動かしています。
すでに彼の最初の売値である80モルドを大幅に上回ってしまっている以上、ダリクを買い戻すべき状況ですが、彼は現実を拒否するように、ひたすら売りを指示しています。
「ハァハァ……ありえない……こんな金額……どこの国の予算にも存在しない……」
仮面越し、映像越しにも、はっきりと彼の息が荒くなっているのがわかります。
「お、おい、異世界の女! これはどういうことだ!? どんな魔法を使ったらこんなことが起こる!?」
仮面の男はなりふり構わず、クリオにそう問います。
クリオは、レートの動きを確かめ、仮面の男をじっと見つめてから、一言だけ言葉を発しました。
「“外貨準備”です」
「なに……? なんだって……?」
意味がわからないといった調子で問い返す男に、クリオははっきりと答えます。
「今、ダリクを買っているのは、魔物の国周辺で管理通貨制度を採用している国々です。金本位制を主軸として貿易を行っていたあなたがたには馴染みがないかもしれませんが、管理通貨制度のもとでは、貿易を行う国同士が互いの国の通貨を“外貨準備”として保有し、その通貨でもって決裁を行うのです」
「そ、その程度の金……」
「この“外貨準備”は、直接的には貿易における決済のための資金ですが、実際の運用に当たっては、“為替介入”のための資金となるのです。そのため、各国が積み上げる外貨準備高は、単年度の国家予算すら超える金額となることも珍しくありません」
仮面の男は肩を震わせながら、レートの変動をじっと見つめています。
クリオは、彼だけでなく、この場にいる人々に対して説明するように、“種明かし”をしてくれました。
「私は、各国が保持しているこの“外貨準備”の約半分を、モルドからダリクへ切り替えるよう、交渉を行っただけです。仕手筋にあえて大型の売りを仕掛けさせ、各国に安く外貨を購入させるというアイデアは、レミリア様のものですが、これを成功させるためには情報の秘匿が必要でした。皆さんには事前に説明できず、申し訳ありません」
この言葉で初めて、仮面の男だけでなく僕や官僚たち、クリオの構想を聞かされていなかった人々が、目の前で起こっている現象を理解し始めました。僕とシメオンの捜査は、クリオの動きから目をそらすためのいわば陽動だったのでしょう。
クリオは言葉を続けます。
「外貨準備を中央銀行が保有し、これを使って為替介入を行うことは、管理通貨制度が中心となった世界ではごく普通……当たり前のことです。けれど、金本位制に基づく国際貿易体制にあったこの世界においては、まだ本格的に機能していない制度でした。そこで動く金額もまた、この国の人々にとっては認識の埒外」
仮面の男は、やり場のない怒りをぶつけるようにして、手元の魔術基盤を激しく叩いています。
クリオは憐れむように、彼に語り掛けました。
「仮面の人、あなたは魔物の国とエルフの大同盟という超大国のお金しか眼中に無かったようですね。しかし、その二国の国家予算でさえ、この世界を巡っているお金の全体から見れば、わずかな一部でしかありません」
その仮面の男をさらに追い討つように、魔物の国から通信が入りました。
エテルナ様の声が聞こえます。
「魔物の国とエルフの大同盟以外の国の買いはほぼ完了した。いよいよ本体が動くが、スタートラインはどうする?」
「当初の予定通り、1ダリク100モルドから買いましょう」
「わかった。クリオ、あなたの言ったとおり、もうすぐ世界のしくみが変わるぞ」
それから間もなく、ダリクのレートが100モルドを超えました。
もはや各国が買いを入れなくとも、投資家たちは手のひらを返し、こぞってダリク買いに走っているのでした。
レミ姉が、感嘆するように、ゆっくりと語ります。
「レジーム・チェンジ。魔物の国の経済圏と人間の国の経済圏、それぞれが閉じた商圏の中で交易する古い“
市場に、魔物の国とエルフの大同盟、それぞれの買いが入ります。
その額は、これまでの国々の購入する額とは、桁の違うものでした。
「い、1ダリク110モルド突破です!」
その声とともに、官僚たちは通貨防衛に成功したことを確信し、通信所に万歳の声と拍手が沸き起こります。
そしてついに、仮面の男が映像の向こうでがっくりと肩を落とし、膝を突きました。
レミ姉が万感の想いを込めて、こう言い放ちます。
「これが変動相場制の怖さ。あなたがたにとってはお金を失ったことも大打撃でしょうけれど、これで終わりではありませんわ。魔物の国の大臣に対して反乱をそそのかした真の首魁は、リューベックでないことが分かっています。老人を装ってらしたようですけれど、お金の流れからあなたが誰なのか、わたくしにははっきりわかっておりましてよ。お仲間に殺される前に、国際法廷に出頭されることをお勧めしますわ、皇帝陛下」
最後の一言で、仮面の男は我に返ったようにビクリと立ち上がり、怯えたように辺りを見回すと、通信すら切らず、どこかへ逃げ出して行きました。
レミ姉の頬を、一筋の涙が伝って流れていくのが見えます。
クリオがレミ姉を抱きしめ、その涙を拭います。
すべての戦いが、ようやく今、終わったのでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます