第22話 魔物の国の闇

 あの日、あれからクリオとレミ姉がどんな話をしたのか、僕は知りません。

 ともかく、それから数か月、僕たちは何事もなく過ごしました。


 いえ、もちろん本当に何事もなかったわけではありません。クリオが危惧していたように、年明け以降、一時的に農作物の価格が下落し始め、これに対応すべく魔王府も中央銀行も相場とにらみ合いをする日々が丸ひと月ほど続きましたし、北部戦線の帰還兵が本格的に都市部に押し寄せてきたときには、治安も不安定化し、人種間の排他的なデモまで起こりました。

 それでも、これらは予想された最悪の事態より、はるかに穏健なものだったのです。


 僕たちは、こうした事態にひとつずつ、大慌てしながらも、なんとか当初の方針通りに、対処してきました。

 そうした危機が収まってからしばらくして、オークやドワーフを中心とした、起業熱の高まりがやってきたのです。


「エルさん、見てください、今日の新聞」


 そう言ってベベが差し出した紙面には、肩を組んで笑うドワーフとヴァンパイアの写真が載っていました。どうやら今注目を集めている新興企業の経営者インタビューのようです。


「ドワーフが社長で、ヴァンパイアが副社長なんです。こんなの、ちょっと前まで考えられなかった光景ですよ」


 ベベが言うのももっともです。ダークエルフやヴァンパイアといった、いわゆるかつての“貴種”が、オークやドワーフの無産階級と文字通り肩を並べて働くなど、つい最近まではありえないことでした。魔物の国建国以来、旧式の封建主義的制度は撤廃されたとはいえ、人々の生活や認識の中には、まだまだ人種と身分の壁は分厚く存在していたはずなのです。

 その壁を今、実際に打ち崩しつつあるのが、政治家や活動家でなく、ビジネスマンたちだとは。


 ビジネスの観点から言えば、確かに今、起業には絶好の時。

 なにしろ労働力が余っていますし、銀行は相次ぐ金融緩和で借り手を探している状態です。とはいえ、単なる“好景気”というだけなら、これまでにもそういうことはあったはずなのです。

 そう考えると、この流れを作り出す最後の決め手になったのはやはり、クリオがレミ姉に依頼して始めさせた小口融資なのだという気がしてきます。


 銀行からの融資というと、これまでは資本のある人々だけが対象でした。無産市民たちは企業活動の蚊帳の外という状況です。それが今では、農家の娘たちが集まって雑貨屋を開くにも、きちんとした経営計画があれば銀行がまとまったお金を出します。その経営計画も、銀行の担当者が指導してくれるというのですから、起業を考える無産市民たちにとっては願ったりかなったりです。

 これまで、貴族やお金持ちが手を差し伸べない限り、財を成すことなど決してできなかったはずのオークやドワーフが、今や自分たちで会社を立ち上げ、法人を名乗り、場合によっては市場に破壊的なイノベーションを持ち込んでくるようになったのです。


 これが、一部の資本家を刺激しました。

 最も早く、巧みに反応したのが、先ほどの新聞に載ったヴァンパイアのような、投機精神に富んだ人々でした。

 彼らは、自分たちの地位がかつての被支配種族に取って代わられることに怒ったり恐れたりするより早く、「このゲームは早い者勝ちだ」と考えたようです。


 インタビューによれば、かのヴァンパイアは、記者の質問にこう答えています。


「異種族との共同経営に不安? そんなの感じてる暇なんてありませんでしたよ。彼(ドワーフの社長)が私に驚くべきアイデアを提示したとき、私が思ったのは、このとんでもない技術者を手放したら、もう二度とこんな幸運は巡り込んで来ないぞってことでした。それがいちばん重要だったんです」


 ともあれ、これが追い風となって、国全体の名目賃金は上向き、魔物の国の物価は上昇を始めました。


「見てください、エル! ついにインフレ率が1.5%を突破しました! この調子なら、年内に物価上昇率2%を達成できるかもしれません」


 今月の統計を持って、クリオが嬉しそうに言いました。

 そこに、エテルナ様から連絡が入ります。


「クリオ、こっちに来れるか? 見せたいものがある」


 僕とクリオは、魔王執務室へと向かいました。




「クリオ、エル、見てくれ。ガゼッタから届いた『蒸気タービン』のサンプルだ」


 エテルナ様の前に、小さな、しかしあのオルシュテインで見たものとそっくりな、蒸気機関が置かれています。


「自動車の蒸気機関と、オルシュテインの未完成品を照らし合わせて、魔法学院の学者たちが設計図をつくった。これはそのミニチュアだ。蒸気タービンの原理は解明できた。あとは、試作を重ねていけば、我が国でも蒸気船がつくれる」


 クリオが驚いて蒸気タービンを撫でまわします。


「すごい。まさかこんな短期間で……!」


 エテルナ様が、クリオの肩を抱いて言います。


「クリオのおかげでもある。中央銀行による金融緩和で国債が新発できる今だからこそ、政府は大型の投資ができるんだ。現時点で兵器開発に投下可能な我が国の予算総額は、景気が後退しつつある帝国のそれをおそらくは上回っているぞ」


 続けて、エテルナ様はクリオの手を取り、言いました。


「あと2年……いや、1年あれば、帝国の船がやってきても、十分に戦えるだけの国力が蓄えられるだろう。そうしたら、帝国との間に対等な停戦協定を結ぶ。クリオがいれば、きっとできる。戦争などに頼らなくても、人々が幸せに暮らせる国をつくるんだ」


 クリオは、万感の想いを込めるようにして、エテルナ様の手を握り返します。


「エテルナ様、私はあなたにお会いして、いまひとたびの命を得た思いです。元の世界にいたとき、私は自分の無力さに打ちひしがれ、生きる希望を失っていました。それが今は、あなたの開くこの世界の未来を見たいと強く願っています。剣にも盾にもならぬこの身ですが、あなたの理想のために力を尽くします」


 僕は、この二人に仕えられたことを喜びながら、ほんの少しだけ、羨望に近い感情を抱きました。しかしそれは幸福な、あまりに幸福な羨望だったのです。





 翌日、いつものように出勤して総裁室に入ると、クリオは深刻な表情でひと束の書類と向き合っていました。


「……エル、レミリア様に会いに行きます。すぐに支度をしてください」


 感情を押し殺したようなその声に、僕はただならぬものを感じ、その日の予定をすべてキャンセルすると、すぐに馬車を手配しました。


 べセスダへ向かう馬車の中、クリオは一言も喋りません。僕も、何があったのか、聞くことができませんでした。

 これがあの日クリオとレミ姉が二人きりで話した内容にかかわることなのだろうということだけしか、僕にはわからなかったのです。


 そうして僕たちがギルモア銀行に着いたころには、もう日は高く上り、時刻は正午を少し過ぎていました。

 ギルモア銀行の頭取室は、豪奢ではあるものの、どこかがらんとした空虚さを感じさせます。


「クリオ、あなたが直接いらっしゃるのだから、もう大方、どんな話か予想はついていますわ。エル、あなたもいっしょに聞いてください」


 レミ姉は、ひどく疲れたような顔で大きな椅子にもたれかかりながら、そう言いました。

 クリオが、書類の束を渡しながら言います。


「レミリア様、率直に申し上げます。レミリア様から調査をご依頼いただいた口座における入出金の相手先が、特定できました。ホビットの国にあるペーパーカンパニーの口座で、元をたどると、帝国宰相リューベック氏の血族が経営する会社に行き着きます」


 クリオの言葉を受けて、レミ姉が言いました。


「つまり、父は、ギルモア伯は、帝国の高官との間で何らかの裏取引を行っていた、ということですわね。それも、ここ十数年にわたって、何度となく」


 それは、あまりにも衝撃的な言葉で、僕は背筋に氷が走ったような恐怖を感じ、沈黙する以外ありませんでした。

 クリオが悲痛な表情で答えます。


「あの口座の所有者がたしかにギルモア伯であれば、そういうことになります。レミリア様、お約束しました通り、私はこのことをエテルナ様に報告いたしません。しかし……」


 レミ姉は、そのクリオの言葉を、首を振ってさえぎりました。


「ありがとう。とはいえ、わたくしもこの国で最大の金融機関を預かる身。父が敵国と内通していたとなれば、それを知って放置はできません。エテルナ様に事実を申し上げ、法に則った裁きをいただくほかありません」


 僕は、思わず声を上げました。


「待ってください! どんな取引があったのかわかりませんが、もし国家反逆罪に問われれば、本人のみならず三親等までの血縁者すべてが無期徒刑となってしまいます! 本当にそれでいいのですか!?」


 僕の言葉を受けて、クリオが意を決したように言いました。


「レミリア様、どうかもうひと月お待ちください。この件は、ただギルモア伯が帝国と内通していたというだけのことではないような気がするのです。背後関係を明らかにできれば、ギルモア伯が帝国と内通するに至った経緯もまたわかるはずです。もしかすると、何かやむを得ない事情があるのかもしれません」


 レミ姉は、力なく俯き、言いました。


「クリオ、あなたにお任せいたします。もし、もしできることなら、父を……救ってあげてください。ひとつ、わたくしはあなたに謝っておかなくてはなりません。かつて、あなたはわたくしにこう聞きました。『北部戦線で我が国が勝つことを知っていたのか』と。ええ、知っておりました。父が、事前に私に告げたのです。北部戦線が消え去る可能性に備えておけと。ごめんなさい、クリオ。わたくし、あなたの信頼を、ずっとずっと裏切っておりました。許して……」


 この人の、こんなにも弱々しい声を、僕はこれまで聞いたことがありませんでした。




 胸を絞めつけられるような気持ちで魔王城に帰りついた僕たちを、シメオンの衝撃的な報告が待っていました。


「見つけたぞ。この城の地下に、巨大な地下施設がある。おそらくは、帝国高官と政治家どもの密会の場だ」


 その報告は、恐ろしいものではありましたが、同時に、今の僕たちには一縷の希望でもあったのです。

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