第18話 こちら魔物の国、中央銀行総裁室でございます
蒸気機関を見た日から、僕たちは海路でべセスダの港に向かい、1週間の航海を経て、魔王城に帰還しました。
「おお……これが僕たちの国の中央銀行……」
帰還した僕たちを待っていたのは、落成した中央銀行の新館でした。
魔王城の一角にあった古い宝物庫を整理して大幅に改築したもので、伝統的な外観を備えながらも、館内は近代的な設備が整っています。
「そして、これが中央銀行総裁室……!」
何よりもありがたいことに、今度はしっかりと総裁室が用意されているのです。空きスペースに机を寄せ集めて作業をしていたこれまでより、格段に快適な環境となりました。
「ねえクリオ、どうですか、総裁の椅子の座り心地は」
僕がそう聞くと、クリオは苦笑いして答えます。
「ええ、心が引き締まります……私には、ちょっと豪華すぎるようですが」
オルシュテインでの一件から、クリオはどうもふさぎ込みがちなようです。蒸気機関の発見が、彼女にとってそれだけ大きな打撃であったということなのだと思うのですが……
「クリオ、魔王府から速報が出たぞ」
シメオンが、ベベと一緒に山ほどの書類を抱えて、総裁室に入ってきます。
「ありがとう、シメオン。ごめんなさいね、あなたにこんな仕事をさせてしまって……」
なぜシメオンがここにいるかというと、彼はオルシュテインのあの日以来、ゴリテア陸相の特命により、クリオの護衛官に任命されたからなのです。
港での会談ののちシメオンが、道中馬車を狙撃された件を伝えると、ゴリテア候はすぐさま、彼にクリオの護衛を命じたのでした。
「シメオンよ、それは案外、人間の仕業ではないかもしれんぞ」
ゴリテア候はそう言って、クリオに身辺の警戒を怠らないよう、警告しました。
「わが国には、正直に言って、あなたの存在を快く思わない者が少なからずいる。それは、あなたが人間だからではない。むしろその際立った能力ゆえに、政治的に危険だと見ているのだ。これはたとえ人間の国に行ってもついて回る問題だ。あなたはわしを警戒しているかもしれんが、これだけは信じてほしい。わしは、わが国のために涙を流してくれたあなたを、決して裏切りはせん。わしにできることがあれば、いつでも頼ってくれ」
ゴリテア候は情に厚い人物だと聞いてはいましたが、候がこれほどクリオを気に入るとは思いませんでした。
政治的に言えば、これは大きな成果です。これまでクリオの後ろ盾は魔王様お一人だったわけですが、陸相として大きな政治力をもつゴリテア候の支援を得られるとすれば、これまで以上に思い切った手を打てるようになるでしょう。
「……そうですか、陸軍では5万人の削減が決まったのですね」
魔王府からの速報を見て、クリオがつぶやきます。
シメオンが、クリオの言葉に応えて言いました。
「そうだな、北部の脅威が解消された以上、北部戦線に大兵力を駐屯させている必要はなくなった。もともとが肥大化し過ぎていたんだ、再編は避けられない」
僕は、クリオに問いかけます。
「クリオ、陸軍の再編が問題なのですか? 軍が縮小するなら、財政への圧迫が減って、むしろ望ましいのでは?」
クリオはそれに答えて、こう言いました。
「長期的に見ればその通りなのですが、5万人が軍を離れるということは、つまり短期的には5万人の失業者が生まれるということです。金融緩和と財政政策を先行して行っていたから、不況にはならないと思いますが……」
そこでクリオは、何かに気づいたように言葉を詰まらせました。
「クリオ?」
僕の言葉に、クリオは微笑んで言います。
「いいえ、なんでもありません。すぐに大不況が訪れるようなことはないでしょう。ひとまず、中央銀行としては物価の動きの様子を見ましょう」
しかし、翌日届いた魔王府からの速報は、さらにクリオを焦らせるものでした。
「北部戦線各基地に備蓄された糧食の供出……! これは、危険です。エル、すぐにエテルナ様に回線をつないでください」
僕は急いで、魔王執務室に魔力回線をつなぎます。
「……どうした、クリオ。もうすぐ会議なので、手短に頼む」
回線を通じて、エテルナ様の声が聞こえます。
「エテルナ様、今、備蓄作物放出の速報を見ました。これは危険な施策です、農産物の急激な価格下落を招く可能性があり、農業不況が生じるかもしれません。撤回できませんか?」
クリオの言葉に、エテルナ様は苦し気な声で答えます。
「それは……無理だ。そもそも北部戦線維持のための兵役拡大自体に反発がある中、兵糧の確保には痛税感が強かった。北部戦線大勝の報が出て以来、備蓄放出の要求が魔王府にいくつも届いている。閣僚の誰かを説得すれば収まるような問題ではない。理屈を説いても、理解を得るのは難しい」
確かに、そこにある不要不急の備蓄食料を市民に返却せよという要求に対して、不況が生じるからダメだというのは、直感的に理解しづらく、国民の反発を招くことは間違いないでしょう。
「……わかりました。しかし、対応策はどうしても必要です。中央銀行としては追加緩和を用意しますが、財政施策も必要となるでしょう。ご相談させてください」
「ああ、わかった。今夜10時……いや、打ち合わせが入っているな。11時半に執務室に来てくれ」
なんというブラックな職場でしょう。そう言えばここのところ僕もすっかり秘書官職に明け暮れており、魔術の勉強から完全に離れてしまっているのです。
「エル、追加緩和の準備を進めます。副総裁のところに行って、すぐに数字を詰めてきてください。23時までにすべて用意します」
「了解しました」
このように、今日も魔物の国の中央銀行総裁室は活気に満ちています。
週が明けて、備蓄食料の解放が発表されました。
民間の新聞では、これを大々的に伝えつつ、経済面には追加緩和と、今年採れた農作物の政府による買い上げ予算が確保されたことが掲載されていました。
とはいえ、小売業には影響が否めず、大手各社の株価が軒並み値下がりしているようです。
総裁室の魔力回線が、ギルモア銀行からの通信を告げます。
「……はい、クリオです」
クリオが通話に応じると、レミ姉の声が聞こえてきました。
「クリオ、お久しぶりですね。レミリアですわ。追加緩和の報道、見ましたわ」
レミ姉の言葉に、クリオは不安げに応じます。
「適切な対応だったでしょうか?」
「もちろん。よい先読みですわ。折しも北部戦線解体の直後ですから、下手をすれば農業不況から、一気に恐慌を招く危険までありました。このタイミングで追加緩和と財政での手当てを行っておけば、深刻な不況に至ることはまず回避できるでしょう」
レミ姉の賛辞に、クリオはなぜか、苦しそうな表情をしています。
「……ねえ、レミリア様。おかしなことをお聞きしてもよろしいでしょうか? もし見当違いであれば、むしろうれしいのですが……」
「おかしなこと? ええ、なんでもお聞きになって」
クリオは、一瞬、ためらうような間を置いて、それからこう言いました。
「もしかして、レミリア様は北部戦線で我が国の軍が勝利することを知っていらしたのではないですか? その結果として起こる、この大規模な軍備再編も、穀物価格の下落も……もしかして、そのために私を中央銀行の総裁にしたのでは?」
このクリオの問いに、レミ姉は一瞬黙って、それから、はっきりとした声でこう答えました。
「クリオ、普通ならごまかすところですけれど、わたくし、あなたに嘘は言わないと、決めておりますの。ええ、わたくしはこれを予想しておりました。もちろん知っていたというわけではありません。ただ、予想される有力なケースの一つとして、想定しておりました。もちろん、あなたを中央銀行総裁に推薦したのも、あなたならこうした事態に適切に対応してくれるだろうという期待あってのものですわ」
クリオは、痛みに耐えるように目を閉じて、もう一度、レミ姉に問いかけます。
「レミリア様、この情勢の中、恐らくインフレ率は、目標の2%に届かないでしょう。さらなる追加緩和と、財政支出を行うべきでしょうか? それとも……」
クリオはそこで言葉を詰まらせました。
レミ姉の声が響きます。
「クリオ、それはわたくしがお答えすべき事柄ではありません。あなたの信念が問われる問題です。ただ、わたくし個人の見解を申し上げるなら……」
レミ姉は、そこで一度言葉を切ってから、断言するように言いました。
「新たな懸念が発生しない限り、追加緩和が必要不可欠だとは思いません」
クリオは肩を落とし、力なく答えます。
「……ありがとうございます。レミリア様」
「クリオ、自分を強く持ちなさい。わたくしは、あなたをただ自分に都合の良い人材だと思って推挙したわけではなくってよ。また、連絡します。それでは、またね」
通話が切れると、クリオは俯いたまま、黙ってしまいました。
「……クリオ?」
僕が声をかけると、クリオは俯いたまま、苦し気に言います。
「エル……私は、何をしていたのでしょう? ここから、どうすればいいのでしょうか?」
そのクリオの問いは、僕の理解を超えていて、僕は何も答えることができませんでした。
「さらに追加緩和を行い、エテルナ様に具申して、新たな財政政策を実施していただく? 本当にそれでいいのでしょうか。市場はやがて、緩和に次ぐ緩和を要求するようになるでしょう。景気が少しでも停滞すれば、金融緩和と財政支出が毎回行われるものという前提に立った、放埓な投資が行われるようになるとしたら、それはこの国の経済を歪ませてしまい、いつかは行き詰まる。私は、この国の人々を、誤った方向に導いてしまうのでは? 現在、デフレ傾向を脱し切れてはいないものの、金融緩和と財政政策の効果で、雇用はなんとか支えられている状況です。私にできることはここまでなのでは? レミリア様は、私以上にマクロ経済の動きを感覚的に理解されているのかもしれません。そのレミリア様が、この上の金融緩和は期待しておられない。インフレ目標未達の責任を取って、私が辞任し、デヴィッド氏が総裁職に就けば、私の役目は終わり。それでよいのではないでしょうか。ああ、しかし、きっと間もなく、人間の国が攻めてくる。私にも、私にもあれだけの力があれば……」
クリオは、まるで憑かれたように言葉を吐き出すと、そのまま机に突っ伏してしまいました。
「クリオ……クリオ!?」
不安になって、肩に手をかけると、ひどい高熱を発しています。
「ベベ! 急いで医者を呼んできてくれ!」
それからすぐに、クリオの入院が決まりました。
皮肉なことに、その日は彼女にとって、審問会で特務官に任命されて以来、初めての休日となったのでした。
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