第10話 小麦のお値段
「母ちゃん! ただいま!」
馬車が村に着くと、そこには村人たちの一団がすでに集まっていました。その中の一人の女性に向かって、ベベが駆けていきます。
「コラ、ベベ! なにお客様に迷惑をかけてんだい! また勝手に遊びに出たりして!」
太い声で、オークの女性がベベをしかりつけ、頭に思い切りゲンコツをくらわします。
「いてーッ! ごめんよ、母ちゃん……」
ベベは半泣きになりながら、頭をさすっています。
オークの村人たちが笑う中で、一人だけ風体のまったく異なるダークエルフの老人が前に進み出ました。
「クリオール様、エルンスト様。ようこそお越しくださいました。この村の村長、トーベでございます」
「はじめまして。魔王府特任調査官のクリオール・クリオールでございます。この度は調査を受け容れていただき、まことにありがとうございます」
クリオにもだいぶ慣れが見えます。トーベ村長は、穏やかに微笑んで、言います。
「この村はもうすぐ収穫の時期を迎えます。麦穂の状態を見れば、刈り入れまであと10日というところでしょうか。そうなれば、私を含め、村の者はみな麦刈りにかかり切りになります。そうしたわけで、調査にお応えできるのはわずかな期間となりますが、村人一同、精一杯のおもてなしをさせていただきましょう」
村長の言葉に、オークの村人たちは口々に賛同の声を上げました。
「おう、俺んとこは酒場だ! いいビールがある! 必ず飲みに来てくれよ!」
「うちで採れたトマト、後で差し入れるからね!」
「うちのパンも食っていってくれよ!」
村人たちの歓迎ぶりに、僕たちがやや戸惑っていると、村長は笑いながら僕たちを促がしました。
「さあ、長旅でお疲れでしょう。ポーラの宿屋がお部屋をご用意しております。お食事のあとで、我が家にお越しください。ご所望の資料を用意してお待ちしております」
その言葉に、ベベの母親が進み出ます。
「むさくるしいとこだけど、料理だけは自慢だからね。腹いっぱい食っていってくれよ! ベベを送ってもらったお礼もしなくちゃあね」
そうして僕たちは、半ば引きずられるようにして、村の宿屋へと向かったのでした。
ポーラさんの宿屋は、小さいながらも隅々まで手入れが行き届いており、思った以上に居心地のよいところでした。
「見てください、エル……この完璧なバス・アメニティ。これこそ私の望んでいた宿屋です!」
クリオはしきりに感動を訴えていましたが、彼女が興奮のあまり僕の部屋までもってきた品々の名前を、僕はまだ知りません。
ともかく、部屋で一息ついてからラウンジに行くと、コトコトと野菜たちが煮込まれる音と香りが僕たちを迎えてくれました。
「待ってな、腕によりをかけて、最高の料理をつくったげるからね。村中の作物が届いてるんだ」
厨房からポーラさんが声を上げます。
「ありがとうございます。しかし、なぜ村の人々はこんなにも私たちを歓迎してくれるのでしょう? いささかやりすぎな気も……」
クリオがそう聞くと、ポーラさんは大きなカボチャをもって厨房から出てきました。
「そりゃもちろん、あんたらが魔王様のとこの人だからさ。帰るときゃ村の名産品をごっそりもって帰ってもらうよ。そんで魔王様に味わってもらえば、『魔王様ご賞味の味!』って売り出せるだろ?」
ポーラさんはそう言って笑いながら厨房に戻っていきました。
「なるほど、商魂たくましいですね。六次産業化というか……」
クリオはしきりにうなずいています。
「さあ、そろそろできるよ。食卓についておくれ」
ポーラさんに促され、僕たちは小さな食堂に移りました。間もなく、料理が運ばれてきます。
どれも夏野菜を彩り鮮やかにあしらった美しいものでしたが、中でも焼きたてのベジパイからはえもいわれぬ香りが漂っており、僕たちは食欲を抑えきれず、すぐに手を伸ばしました。
「……おいしい! 魔王城の料理よりもはるかに……」
クリオが驚嘆の声を上げます。
「そりゃそうさ。魔物の国の胃袋を支えるアルサムの中でも、コクマ村の農産品は最高のものなんだからね。まあ、ここまで来るには、そりゃあ苦労もあったもんさ」
そういえば、コクマ村は16年前、大飢饉に襲われたのでした。
「大飢饉の際は、コクマ村も存亡の危機だったと聞きます。ポーラさんも、その頃から村に?」
僕がそう聞くと、ポーラさんは少し悲しそうな顔をして、首を振りました。
「ああ、そのあたりの話は、村長に聞いておくれ。悲しいことがあったんだ。私だけじゃない、この村のみんなにとってね。さあ、おいしい料理に辛気臭い話は合わないよ、たんとお食べ」
僕たちは促がされるままに料理に舌鼓を打ち、それから村長の家へと向かいました。
僕たちが宿屋を出たときには、もう日が暮れて、空には星が出ていました。
「……どうしました? クリオ」
僕は、夜空を見上げるクリオに声をかけます。その顔が、どことなく寂しそうに思えたのです。
「星を見ていました……きれいな星空。でも、この空を見ていると、ここが私の世界とはまったく違う世界だということを、思い知らされます。この星空には、私の知っている星がない……」
「……帰りたいですか?」
そう聞くと、クリオは少し笑って言いました。
「帰りたくないと言ったら、嘘になりますね。でも、ここには私のすべきことが、きっとあるのだと思います。さあ、急ぎましょう。村長さんが待っています」
僕は、言おうとした言葉を飲み込んで、クリオのあとについていきました。
村長の家は、村の中心にひっそりとたたずんでいました。かつての封建領主の住む場所としては、質素すぎるように思われます。
「トーベ様、こんばんは。クリオールです」
クリオがドアにある魔法石に話しかけると、石が淡く光り、村長の声が聞こえます。
「ああ、クリオールさん。お待ちしておりました。どうぞ、お入りください」
僕たちが戸を開けると、トーベ村長が自ら出迎えてくれました。彼は僕たちに柔らかそうなスリッパを用意し、執務室に案内してくれます。
「あの……村長は使用人など置かれていないのでしょうか?」
僕が聞くと、トーベ村長は笑って答えました。
「こう見えて、まだ身の回りのことは自分でできますからな。それに、村にはまだまだ足らないものばかりで、使用人を雇うお金があれば、もうひとつ水車をつくりたいところですし、新しい肥料も試してみたい。とてもとても、楽はできません」
執務室の扉を開くと、柔らかな小麦の香りが、ふわりと漂ってきました。机の上には、いくつもの麦束が置かれています。
「先ほどまで麦の状態を見ておりましたので、散らかっていて申し訳ございません。今年は病も少なく、質のよい麦が取れそうです。さて、こちらがご指定いただいていた内容をまとめた資料です。自慢ではありませんが、ここまでの情報を整理して保持している村は多くありませんぞ」
そう言って村長がクリオに渡したのは、ここ10年間における小麦の生産量と価格の推移がまとめられた資料でした。こうしたデータを提供できる村を希望したところ、ボンディ伯がこのコクマ村を紹介してくださったというわけです。
「すごい、どの時期にどの地域で凶作があったかまでまとめてありますね……助かります!」
「どういたしまして。ぜひお役立てください」
クリオは目を輝かせて資料を読み込んでいます。僕は、少し迷ってから、トーベ村長に聞きました。
「あの、失礼だとは思うのですが、村長にはご家族はおられないのですか?」
どう見ても、この家には村長のほかに、人が住んでいる気配がありません。僕の問いに、村長は穏やかに笑って答えました。
「ええ、家族はおりません。一人息子が、戦争で死にました」
その答えに、僕は謝るのも忘れて、言葉を詰まらせてしまいました。クリオが、続けて問います。
「そういえば、ポーラさんは16年前に悲しいことがあったと言っていました。大きな飢饉があったそうですね。そのときのことを、詳しく聞かせていただけませんか?」
村長は、穏やかな微笑を崩さずに言います。
「少し、長い話になりますが、かまいませんかな?」
「ええ、ぜひお願いします」
クリオの言葉に村長はうなずき、ゆっくりと話し始めました。
「16年前、アルサム地方は深刻な凶作に見舞われました。そのさらに2年前から凶作が続いていたのですが、その年は、本当に一粒も小麦がとれないほどの、大凶作だったのです」
そう言って、村長は往時を思い出すように、天を仰ぎました。
「そう、あれはアルサム地方だけのことではなかった。世界中が同時に大凶作を迎えた年でした。すでに我が国と帝国とは戦争状態にありましたが、戦史に残る大激突が起こったのは、この凶作が原因だったのです」
この話は、僕も聞いたことがあります。北辺の土地ユンカーマンで始まった激突は、一気に国境線に沿って広がり、北部戦線として、今も膠着状態にあるのです。
「事実上の休戦状態にあった両軍でしたが、このとき、当時帝国のものだったユンカーマン基地には、糧秣が送られていなかったと聞きます。基地の将兵は、戦闘をしていないにもかかわらず、餓死の危険にさらされていたのです。兵士の逃亡が相次ぐ中、敵国に隣接する土地を放棄するわけにもいかず、帝国の将軍は愚かな決断を下します。我が国の拠点に攻め入って、貯蔵されている食料を奪う作戦を独断で決行したのです」
村長は言いながら、古い地図を机に広げました。
「これは無謀な作戦でした。糧秣の確保に苦しんでいるのはわが国の軍も同じでしたから、どこの食糧庫も、厳重に厳重を重ねた防備を敷いていたのです。奇襲を撃退されたユンカーマン基地の将兵は、その多くが逃散。ほとんど無人となった基地が反撃を受け、我が国の前線部隊に占拠されました。しかしこれが事態を大きくしてしまいました。国境線を侵されたと見た帝国軍は、全軍を挙げて、戦線を押し上げる作戦に出たのです」
村長が、北部戦線のいくつかの地点を指さします。
「ユンカーマン基地から東西に延びる北部戦線。我が国もこの戦線を維持すべく、大規模な募兵が行われました。折しも飢饉に喘ぐコクマの村では、私の息子をはじめ、多くの若者が募兵に応じ、前線に向かい、帰らぬ人となったのです」
村長は、そこで言葉を切り、目頭を押さえて、少しの間押し黙りました。
「……失礼しました。あのころのことを思い出すと、今でも気持ちが抑えられません。あれは、一種の口減らしでした。息子たちが募兵に応じたことで得られた金貨で、私たちは食いつなぐための食料と、翌年に撒くための種籾を買いました。そうして生き残ったのが、村のみんななのです。あの時から、私は領主であることをやめました。今や、村人たちは一つの家族です。私たちはもう二度と、子どもたちを飢えさせないと、戦死した若者たちに誓ったのです」
それから老人は、痛みに耐えるような表情で、言葉を繋ぎました。
「ただ一つ、どうしてもわからないことがあります。商人たちの話では、あの飢饉の時、ベセスダの港には、大量の麦が保管されていたというのです。小麦の値段が吊り上がるのを待って、巨万の富を得た者たちがいたのだと」
僕たちは、その言葉に息を飲みました。
「魔王様を批判申し上げているわけではありません。しかし、あなたがたは国の経済を担う方々。これだけは覚えておいてください。飢饉は、食べ物がどこにもないときに起こるのではなく、あるべき場所に届かないときに起こるのです。天の業ではない。人の罪です」
老人がそう言い終えたとき、玄関のドアを激しく叩く音が響きました。
「村長、大変だ! ワーウルフの野盗がなだれ込んできて、ポーラとベベが人質にされちまった!」
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