怪談好きさんに捧げる百のお題

冬野ゆな

あと百本... 「女の子」

 ……彼女がゆっくりと振り返ったそこには……


 妻と息子と共に、この古い家に移ったのは正解だった。

 築年数や貸家であることを差し引いても、それまでアパート暮らしをしていたわたしたちにとって、周囲の利便性はもとより一軒家の広さは魅力だった。家賃もそこそこの値段で借りる事ができたし、引っ越すのなら息子の昌也が小学校に上がる前にと思っていたのもある。


 家は決して新しい作りではなかったものの、わたしは満足していた。石垣の壁に続く門を抜けると、玄関まで続く細い石畳と、左側には小さな前庭がある。玄関を開けるとまっすぐに続く廊下の右手にはダイニングとキッチン、反対側にはもちろん前庭に面した和室へ続く襖があり、ここを客間にしようという意見はすんなりと通った。突き当たりから左に曲がるとトイレと浴室があり、そして二階へ続く階段があった。二階には左右に一つずつ部屋があり、一番奥にもう一つ部屋があった。昌也が自分の部屋を欲しがった為、二階をあがって右側の部屋をあてがった。残る二部屋は左側の大部屋を寝室にして、ちょうどキッチンの真上にあたる奥の部屋はわたしの書斎とすることを許された。


 わたしは自分の仕事の傍ら、高校時代から続けていた創作活動を止めずにいた。当時から賞に送っては落選する日々を送っていたが、幸運な事に社会に出てから書いた小説が佳作を取り本となったのだ。ベストセラーにはまだまだ遠いものの、以来わたしは兼業作家として生きることに決めた。小説一本でやっていくには厳しいというのはわたしも理解していたからたが、それでもいずれは小説だけでやっていきたいという密かな野望を隠し持ってはいた。


 趣味の本や映画の蒐集癖について、妻から小言を言われる事がなくなったのも喜ばしい事だった。妻は妻として申し分ないのだが、女性という生き物が男の趣味に向ける視線にはいささか非難めいたものがある。それがある程度許容されるようになったのは素直に嬉しかった。


 とはいえ、当然書斎の準備は一人で行わなければならなかった。部屋に窓は一つしかなく、その上入って左側の日の当らない方角についている。おまけに右側の壁は引き戸のついた収納スペースとなっていて、どことなく薄暗い印象を受けた。それでも明りをつけていれば気にならないし、新しく買い求めた書棚に本を詰めて行く作業を何日か続けると、部屋の中はずいぶんと様変わりした。


 窓の前に設置した机の上に自分のノートパソコンを設置すると、ずいぶんとさまになって見えた。少しばかり暗い方がらしいではないか、ここでなら良い小説が書けそうな気がするとすら思った。

 わたしは内心、次はそこそこ売れるものが書けるかもしれないとほくそ笑んだ。


 何日かするとこの生活にも慣れてきたが、わたしよりも家にいる時間の長い妻と昌也の方が順応は早かったようだ。何か変わった事はないかと尋ねても、特に不便もなくおおむね満足していた。古い家だからなのか、時折家鳴りがするという以外には。

 わたしの中にぴんとくるものがあった。元々落ち着いたらまた話を書こうという気にはなっていたし、引っ越してきたばかりという経験を題材にしないわけがない。がぜん創作意欲がムクムクと膨れ上がり、わたしはその日の夕食をとると、さっそく書斎に向かってノートパソコンを開いた。今ならなんでも書けそうな気がしたし、題材は既に思いついていた。


 試行錯誤の末に、大筋の話、夫と離婚して古い家に引っ越してきた女と子供が、その家に出る幽霊に頭を悩まされるというものに決めた。


 引っ越し直後となれば、そこで起きるのは当然のごとく家にまつわるものだろう。本来は安寧の地であるはずの「家」が怪異の舞台となるのは、よくあるシチュエーションだ。わたしは頭に浮かんだあらすじをどこからというでもなく一気に書きとめた。

 筆が乗ったせいか、イメージは次々と湧いて出た。夕飯時に妻から言われた家鳴りの事も盛り込み、その日からわたしは仕事から帰るたびに幽霊屋敷のあらすじを組み立てていった。


 まず主人公が引っ越してきた理由だが、主人公の離婚を原因にした。夫が他の女と出て行く事を選択したからだ。慰謝料を受け取った彼女は、息子と共に夫との思い出が残るマンションを去る。そして見つけた古い借家を格安で借りるのだ。

 妻と息子はすぐに慣れてきていたが、こうした事情を持った二人が新しい生活に慣れるまではしばらくかかるだろう。女性が普段わたしたちが仕事中に何をしているのか、その日常を描かねばならない。わたしは妻に普段夫のいない間に何をしているのかを尋ね、それも話に組み込もうとした。実際疑問を口にすると少し面食らったような顔をしていたが、主婦は忙しいのだと答え、夕食の買い物や準備、昌也の幼稚園の送り迎え、それから近所づきあいの大変さを大まかに説明された。

 思いのほか平凡である事に(とわたしは思っていた)気の無い返事をしてしまいながらも、根気よく最近の変わった事を訪ねてみると、妻は一つ思いついた事があったようだった。


「そういえば、ご近所でネズミが出るみたい。今度ネズミ用の罠っていうの、仕掛けを買おうと思うんだけど」


 わたしはそれをすぐさま取りいれた。

 主人公は、古い家の家鳴りを最初はあまり気にしていなかったのだ。家鳴りは特に夜、車の音やテレビが消えている静かな時間帯に聞こえやすくなる。

 しかし最初のうち家鳴りだと思っていたそれはだんだんと回数を増し、二週間もしないうちに何かが歩き回る音に聞こえるようになる。近所の奥さま連中からネズミが出て困るという話を聞いた彼女は、原因をネズミだと断定して罠を買い込むのだ。ところが日が経つにつれて、だんだんとそれは人が歩き回る音に変わっていくのだ。


 わたしはメモ帳にそこまでまとめると、ノートパソコンのワードパットを開いた。そして書きだしの一文を考えて一気に序章を書いていった。

 実に順調だった。使うのは筆ではなくノートパソコンだが、実際に創作作業に入ってしまうと時間がかかる。書きながらしつこい文章を読みなおして削っていくのもそうだし、何日かして最初の方を読み直すとおかしな部分がたくさん見つかるからだ。

 ところが、今回はそういった余計な作業がほとんどない。きっと引っ越しと自分の書斎ができたことが良い気分転換になったのだろう。

 廊下でギシギシと音がした時はぎょっとしたが、どうやら妻が昌也と一緒にネズミ取りを仕掛けているらしかった。


「これは触っちゃダメよ、ベタベタするから。いなければいいんだけど」


 扉を一枚隔てた向こう側から声が聞こえ、わたしはノートパソコンに向きなおった。


 ――数日もすると、わたしの小説は次第に熱を帯びてきた。


 やがて主人公は二階を歩きまわっているのがネズミではなく、誰かが歩き回っていると確信する。幽霊なのだから、ぎぃぎぃゆっくり歩く音か、それともトタトタいう感じだろうか。

 幽霊の少女――いつの間にかわたしの中では、暗い廊下の奥から此方を見上げる、赤色のワンピースを着た不気味な少女の姿が目に浮かぶようだった。

 恐ろしげなその姿は、わたしの中ではっきりとした形になっていった。小説の事を考えると、すぐに次の展開が浮かんでくる。そんな折だった。


「ねぇ、ちょっといい? 昌也の事なんだけど」


 何日かした頃、妻が不意に切り出した。

 妻が昌也の事で相談をしてくるのは、これに限った事ではない。はじめての子供だから二人で決めようという取り決めはあった。わたしはその類の事だと思ったが、どうやら今回は違うらしい。

 聞くと、最近幼稚園でも友達とあまり馴染んでいないとの事だ。それがあまりにも急だった事、他に思い浮かぶことといえば引っ越しの直後という事もあって連絡がきたらしい。いじめられているというより、他の園児を避けて一人で遊ぶようになっているというのだ。

 わたしの中ではこれ幸い、良い素材を見つけたとしか思わなかった。

 幽霊の少女を見る事のできる主人公の息子、彼の行動はだんだんとエスカレートしていくことだろう。子供時代だけに現れる奇妙なともだちというモチーフは、こういった話でもよく使われる手段なのだ。そして子供特有の行動と勘違いされやすい。

 しかし、こういった昔からあるような王道的な行動をどうやって物語に組み込めばうまくいくのだろう?


「ちょっと、聞いてるの? 昌也の事なんだけど、本当に大丈夫だと思う?」


 妻がそう切り出したので、わたしは現実に引き戻された。大丈夫さと安心させるように諭して答えた。子供時代に変なものを見るのはよくあることで、放っておいても成長したり小学校にでも上がればすぐに忘れてしまうんだと説明した。妻はいまいち納得がいっていないようだったが、それ以上何も云わなかった。

 それにわたしはいま筆がとても乗っていて、家庭のことで邪魔されたくはなかった。今のわたしにとっては、二人の行動一つ一つがとても良いモチーフでしかなかったのかもしれない。ぎぃと家鳴りがした。


 わたしはますます書斎にこもり、物語の構築に勤しんだ。


 昌也をモデルにして、少女と戯れる主人公の息子を想像する。二人は一体どんな遊びをしているのか。恐怖に襲われる大人と違い、子供は時にそういったものの区別がつかない。そして大人に見えないものと遊ぶ子供たちは、時に大人たちを恐怖させるのだ。

 部屋で一人で遊んでいることも主人公をやがて不安に陥れていくのだろう。大人しくしていることが必ずしも子供にとって良いこととは限らない。

 彼はいったいどんな兆候を示してくれるだろう。

 一人なのに手がかからなくなってきた事、誰かと話しているようなそぶり、一人ではできない遊び…たとえばお手玉だとかあやとりだとか急に古い遊びをやり続ける様子、そしてそこから現れてくる、家の中にもう一人いるかのような気配。それを大人が認識するには、たとえばクレヨンで描かれる幽霊の絵などは決定的なものとなるだろう。


 子供の未熟なクレヨン画は、幽霊の特徴、つまりは赤いワンピース、にっこり笑った口元、手にぬいぐるみを抱えて、裸足で歩く姿をおおざっぱに描き出す。見えないともだちは如実に現実を侵していくだろう。

 ぎぃ、と家鳴りがした。とてもうるさい。


「ねぇ、あなた……」


 別の日に、また妻が言いにくそうに切りだした。


「この間、昌也の事を話したでしょう? 園でも一人でいるって」


 わたしは多少うんざりしていた。

 わたしはこれから、少女の過去を考えなければならない。

 少女の過去が足りないのだ。当初、幽霊の少女を虐待の末に死んだ子供であると想定したが、どこかその内容に違和感を覚えていた。こういう時は、自分の心からの言葉に耳を傾けた方がいいのだ。早く書斎に行きたい。

 それなのに、妻の話は止まらない。

 わたしは深く頷いて、一通り話が終わるのを待った。


「ねぇ、ちゃんと考えてくれるの?」

「昌也の事は任せるよ」


 わたしはそう答えた。妻は憤然として何事か言った。非難めいた口ぶりにさすがにわたしも慌て、こう切り出した。

 今わたしは新しい小説を書いていて、とてもうまくいっている。それがひと段落すれば、昌也の事にも構ってやれると言った。子供にはよくある事で、妻は納得がいっていないようだったが、わたしはそのまま食卓を離れた。

 その日から妻は何も言わなくなった。罪悪感が無かったとはいいがたいが、それよりももっと大事な事があったのだ。


 幽霊少女の過去を構築し始めた。

 泉から際限なく湧き出る水のように、わたしの手は動き続けた。さながらペン先と繋がった指先から文字があふれ出すかのように、キーボードを打ち続けたのだ。

 どこからともなく物語は溢れた。

 幽霊少女は同じようにどこからともなく現れたのだ。


 夕食の時も、妻は何度も物言いたげにわたしを見ていた。わたしは気が付かないふりをしながら、そんな妻の様子をこっそりと観察した。

 昌也の事を心配しているのはわかっていたが、気落ちしているその様子はまさに主人公のモデルにしても遜色ない程度だった。いや、モデルどころじゃない。まさに主人公そのものだ。主人公は離婚していたという設定だが、離婚した夫に助けを求める事はあるだろうか? そんな事はないだろう。だとしたら誰に助けを求めるのか。

 それに引っ越したばかりなら、近所付き合いはあっても、そんな突っ込んだ話は誰にもできないに違いない。幼稚園でも息子の異常はよくある事と理解されてしまうとそれ以上何も言えないだろう。

 わたしに何も言えなくなった今、それを確かめるのにもいい。ひょっとしたら思いもよらないところに助けを求めるかもしれない。これはいい。それなら、後やる事は決まっていた。


 昌也にちょっとした助言をするのだ。一人で遊んでいるときに誰か友達はいないか、その空想の友達がいるなら、(もちろん昌也には空想などとは言わない)描いて見せてくれというだけでいい。もう少し説得しなければならないかもしれないし、もちろん突っぱねる場合もあるだろうが、成功したなら儲けものだ。


 そうなれば、本当に不可解な状況に直面した女性がどんな反応をするか、ちゃんと観察しておかなければならない。わたしの中ではすでに主人公と妻は同一の存在になってきていた。昌也は主人公の息子だ。家と引っ越しを話のネタにしているのだから、我が妻と息子をモデルにするのは当然の事だ。そもそも罪悪感など感じる必要はなかったのかもしれない。モデルになったと聞けば、妻も気を良くするに違いない。昌也をけしかけたのは黙っておけばいい。ばれても、あとでちゃんとわかってくれるだろう。


 幼稚園か、それとも家の中か、昌也がクレヨンで奇妙なともだちの絵を描く様子が、わたしにはくっきりと浮かんでいた。報告をする保育士の女性、そして奇妙なともだちの絵に戦慄する主人公……。


 妻はどんな反応をするだろう! 今の彼女の様子はとても参考になる!

 はじめからこうすればよかったのかもしれない。

 わたしは急いで書斎から出ると、昌也の部屋に向かった。なるべくなら早い方がいい、とんでもないリアリティになるぞ。


 昌也の部屋をノックする。

 返事が無く、扉を開けると電気が消えていた。廊下から部屋に入り込む光が、床に散らばった玩具を照らし出している。そういえば、この時間、昌也は風呂の時間だったか。

 それにしても少しは片付けないとわたしの計画がおじゃんだ。それだけじゃない、来年からは小学生だというのに先が思いやられる。

 わたしは壁のスイッチに手をかけて、電気をつけた。子供らしい色合いの部屋が明るく映し出された中で、わたしは床に散らばった玩具と一緒にスケッチブックから破ったと思われる紙を見つけた。緑の怪獣に、こっちはテレビのヒーローだろうか。あいつの絵も犬と猫の見分けくらいはつくようになってきた。これならいけるだろう。

 散らばった紙を一つにまとめながら手を伸ばしたその時、わたしは一瞬にして凍りついた。

 全身から血の気が引き、クレヨンで描かれた幼稚で稚拙だが素朴なその絵にどれほどの戦慄を覚えただろう。心の中に冷たい氷を落とされた気分だった。

 そんな事があるわけがない。

 昌也と思しき男の子の隣で、赤黒いワンピースを着た、髪の長い少女が笑っている絵は、まさにわたしが想像した通りのものだった。


 何故だ?

 何故こんなものがここにある?

 わたしは思わず昌也の部屋を見回した。明るい色合いの、けれども奇妙な圧迫感があったような気がした。もう一度絵を見ても、そこに描かれているものは変わらない。


 妻や昌也がわたしの小説を読んだのか? ――ありえない!

 女の子の幽霊はわたしの小説に過ぎないのだ。それも、いまだ文章としてこの世に生まれ落ちてすらいない存在なのだ。それとも友達だろうか? きっとそうに違いない。落ち着いて考えろ。


 それでもわたしは居てもたってもいられず、すぐに電気を消して昌也の部屋を後にした。廊下を見回したものの、戻る場所は書斎しかない。すぐさま逃げるように書斎に入って扉を閉めた。昌也の絵を持って。それも、くだんの、少女の絵だけを。

 はやる気持ちをおさえて、とにかく落ち着こうとした。心臓は今にも飛び出しそうなほどにドクドクいっている。全身が冷たくても汗はかくのだと、つまらない事を片隅で思った。

 背後で、誰かが廊下を歩く音がする。

 ぎょっとしたわたしの部屋のドアをノックする音が聞こえて、妻の声が響いた。


「お風呂空いたわよ。昌也も今上がってくるから、早く着替えちゃって」

「あ、ああ……! わかった……」


 わたしは遠ざかる足音を聞きながら、いささか冷静に努めた。

 代わりに今度は、小さな足音がまっすぐにわたしの書斎に近づいてきた、きっと昌也だ。そうだ、そんな偶然はあるはずがない。なんてことは無い、少しばかり気が立っていただけだ。

 足音はそのまま書斎に向かって近づいてくる。机の上に絵を置くと、後ろでドアが開く音がした。


 振り返ったそこには、赤黒いワンピースの女の子が不気味な顔で笑っていた。

 絵そっくりに。

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