誇りまみれの竜賭博 第10話 真実に至る贄、贖罪への賭
Ⅰ
いつ、いかなるときでも、ジェラーレが目を閉じると聞こえてくる音がある。砕くような、引きちぎられるような、不快な音が延々と、途切れることなく。決して耳から離れることのない音は、ジェラーレにとって逃れることのできない日常的な苦痛だった。その音が、自分以外のカスバロの住人達が竜に喰われる音だと気づいたのは、ジェラーレが十三歳から始めた殺人の五人目、川に突き落とした犠牲者が鰐に喰われているのをずっと眺めていたときだった。
そのときからだ。ただ生きるためだけに人を殺してきた自分に、明確な意志が宿ったのは。
「……」
ジェラーレはゆっくりと目を開ける。足元に転がる無残な死体は、記憶の中のそれではない。ハルフノールの地方領主の一人、領民から掠め取った財産を抱えてデュミエンドに亡命する間際の女であった。胸にはいくばくかの不快感が残っている。原因は、今切り殺した女の命乞いがたとえようもなく見苦しかったからではなく、あのツィーガ・オルセインなるエスパダール神官戦士であることはわかっていた。自分の行動に矛盾がある、と指摘されたのは初めてであったからだ。
この憎悪と弊害に満ちた社会を変える。そのためには暗殺でも、裏切りでもやってみせる。どんな汚い行為であっても、それが自身の理想、野望への最短距離であると信じて。自分の主義と行動は主旨一貫しており、また、主旨一貫していると考えたからこそ、どのような行為もやってのけた、というのがジェラーレ自身の偽らざる本心であったからだ。
それなのに、あの男は自分の行動が矛盾していると説く。切り開くのではなく、守ることでしか、理想となる世界は得られない、と。殺すためでなく、救うことが俺の望みなのではなかったか、と。そんなことは、考えもしなかった。生きるためには殺すしかなく、殺すことが生きることであったジェラーレに、選択肢などありえなかったからだ。
もし、もしだ。
彼の言うことが正しいとするならば。ならば、自分のやってきたことは、なんだったのだろうか。ツィーガの発言を否定しようとして、否定しきれない自分がいることが何とも言えず腹だたしい。今まで選択どころか、意識すらしたことがない可能性をいきなり提示されたとして、どうやってその正しさを測れというのか。トムスが言っていた。奴は、俺と同じく家族を竜に殺されて、それでもあのような生き方を選択したと。なぜ俺には、奴の考えが浮かばなかったのだろう。
なぜ、俺は、こんな道を選んでしまったのだろう。いつからだ、いつから自分はこんな道を歩んできたのか。
「あいつだ……」
ジェラーレの脳裏に一人の顔が浮かぶ。
「トムス・フォンダ。あいつこそが……あいつさえいなければ……」
ジェラーレは歯ぎしりしつつ耐える。憎んでも憎みきれぬ敵を、頭の中で何度も切り刻むことで、必死に平静を保ち続けながら。
この期に及んで、気づいたことがある。そういえば、俺には家族がいたはずなのに、顔も覚えていない。俺は家族のために復讐を誓ったのではなかったか?温かい思い出があったはずなのに。何故?ジェラーレが抱いた疑問は、彼の中で確実に大きくなっていく。抑えることのできない焦燥の中で、自身に対する疑いを消し切ることはできなかった。
Ⅱ
脱出する船に紛れ、離れ小島へとひっそりと追放される前国王、スタン・ニルグは抵抗するわけでもなく、ただただ陰鬱なままであった。無念といえば無念であろうが、殺された十数人とその親族からすれば、無念などという言葉では到底足りないであろう。誰も彼も、スタン本人でさえも一言も言うべきことはなかった。前国王となった男の顔には生気がなかったが、同時に憑き物が落ちたような平静さも浮かんでいる。スクエアはほとんどスタンの裁判にはかかわることがなく、結果報告を聞き、最後の姿を遠目で確認したのみである。どうにも散漫になる気持ちを察したのか、フォンデクが釘を刺してきた。
「陛下、お疲れでしょうが、今は国の存亡の危機にさらされております。どうか気をお引き締めくださいますことを」
「ごめんなさい」
フォンデクは避難民の選定や、船の手配など、精力的に動いている。混乱が崩壊へと流れていかないのは、この年老いた僧侶と、ジグハルトのお蔭であった。ジグハルトも、一時の自失から立ち直り、持ち前の外交力を生かして、避難者の受け入れ先を見つけては、食料や財産確保の手を打つ。この間、スクエアは狼狽するだけであった。
「それにしても、何隻もの船が失われたのは、大きな痛手ですな」
「ええ……」
この前の火事騒ぎで、修理せねばならぬ船が多数出たため、避難計画にかなりの修正が入ってしまい、島に残らざるを得ない人間が出るのは避けられない見通しである。大神殿で受け入れるしかないにしても、果たしてグリオーディアの攻撃に耐えることができるのか。彼らを残して、自分達は避難することができるのか。結論はでなかった。
「私は、何をすればよいの?」
「陛下は、女神ハルにお祈りください」
役立たずと遠まわしに言われたのか、とスクエアは苦笑したが、大僧正は真面目一辺倒の顔だった。
「これはとても重要なことです。陛下はハルの意識を目覚めさせうる唯一のお方。この美しき島を守るためには、結局のところハルの力におすがりするしかないのですから」
「確かにそうですね……分かりました。私はもっと深く、ハルの意志を感じられるように努力いたします。避難については万事お任せいたします」
「畏まりました」
いま、この瞬間において、自分に何ができること。自分しかできないことと言えばひとつしかない。一人私室に戻り、ハルへの祈りを始めようとしたスクエアであったが、昨晩ここで起きた出来事が自然と思い出され、赤面する。気恥ずかしさで頭から湯気が出る思いだが、それ以上にあの衝撃。もしかしたら、あれはハルの力だったのではないか?だとすると、ジェラーレに身に何か起きているのではないか……
……夜。静謐でいて、枯淡な空間を、スクエアは僅かな悲しみを持って噛み締める。この島に来てから、確かに自分の中、そしてハルフノールの空間そのものに温かい力を感じてはいる。自室にて、独りになると猶更に。だが、それはまるで秋の陽光のような、柔らかくも淡いぬくもりしか与えてはくれなかった。往時であれば、もっと活力に満ちたものだったのであろうか。
スクエアは、女神ハルの存在を感じ取ろうとそれでも必死で心を研ぎ澄ませようとした。幼いころから続けてきた祈り。花が開く瞬間を思い浮かべ、ひたすらに集中する。
「ハルよ、応えてください。今この国は未曽有の危機を迎えようとしています。どうか力を貸してください」
歴代の王族がどのようにハルを呼び覚ましてきたのか。あのシールズという無慈悲な、強大な男が根こそぎ刈りつくした王家において、きわめて重要な口伝は既に失われてしまった。誰もが自身の利益のために、本当に大切なものを失ってしまう。誰しもが、自分の行っている行動が正しいと信じて。
「ハルよ、どうか、応えて下さい……私の大切な国が壊されようとしています」
祈ることしかできない自分が忌々しい。何か、自分にできないのだろうか。
「ハルよ、応えて!」
自分で出した大声に、自分自身が驚き、スクエアはあたりが暗くなっていることに今更気づいた。
「はあ……何やってるんだろ」
どっと疲れが押し寄せる。水でも飲もうと立ち上がると、窓掛が揺れているのに気づき、はっとする。どうやって、こんな高層階に?
「誰?」
「俺だ」
夜の闇に紛れて、部屋の外から声が聞こえた瞬間、スクエアの心は崩れ落ちるような衝撃を受け立ちすくんだ。目の間には窓枠から入り込んだジェラーレの姿がある、変わらない無表情がたまらなく懐かしい。
「ジェラーレ」
「スクエア。よくやったな」
胸に沁みいるとは、こういうことをいうのであろう。自分は、半ばはこの言葉が聞きたくて、今までの道のりを歩んできたのだ、とはっきり悟る。
「……あなたのお陰よ。でも、そんなこと言っている状況ではなくなってしまったわ」
出てきた言葉は、甘くも何もない。そのあたりがちょうどよいのだろうと、スクエアは心の中で自嘲した。
「グリオーディアか」
「あの、トムスって人。本当に凄いのね。まさか、本当に竜が呼べるのかな」
「呼べるわけがない」
「……」
自分自身がトムスに食ってかかったのを棚に上げて、ジェラーレは吐き捨てるように言い放つ。スクエアもジェラーレの気持ちが分かるだけに、声のかけようがなかった。
「どうすればいいかな?私、王女だし」
「竜が来るのであれば、それでいいだろ。全部焼き尽くされればいっそせいせいする。今の世界を壊しきった後に、新たな国にすればいいさ。お前は王女なんだろ?」
「……人がたくさん死ぬわ。これまでも、これからも」
「何かを始めるためには、犠牲がつきものだ」
ジェラーレの平然とした様子、超然とした態度に、スクエアは震えた。
「でも、犠牲になるのは、弱い人達だけだよ?この社会で犠牲にされるのは」
スクエアの言葉は、奇しくもツィーガの発言に重なる。ジェラーレの胸の奥が疼いたが、表情には出さなかった。
「そんなことはさせない。滅びるべき奴らにはきちんと報いを受けてもらうさ」
「まだ……あなたの戦いは終わらないの?」
「ああ、まだ終わっちゃいない。この混乱に乗じて、不正を働いてきた下種貴族どもを根絶やしにする」
「もしかして……船に火矢を放ったのも、あなた?」
「……ああ。一般人に紛れて逃げのびようとした奴を始末するためにな」
スクエアの背筋が凍る。ジェラーレの態度は変わらない、というべきなのだろう。出会った時と同じ、怒り、憤りが常に渦巻き、周囲を焼き焦がそうとする。彼の体内に宿った暗い炎は今も勢いが衰えないままだ。一方、スクエアの怒りは、華の儀において消えてしまっていた。ジェラーレはどこまで行こうとするのか。自分が届かない、遥か先まで歩んでいく中で、またおいてけぼりになるのだろうか。止めて、と声をかけることは出来なかった。彼の想いはどこまでも深く、熱泥のように淀み、煮えたぎっている。ジェラーレにとって、止まることは、死ぬことと同じなのかもしれないのだから。スクエアの心情を知ってか知らずか、ジェラーレは窓の外を見やりながらつぶやく。逞しい肉体からは抑えきれない精気が溢れているかのようだ。
「お前は、王座にいればいい。お前の国を掃除するのは、俺の仕事だ」
「私にも、戦わせて」
自分は女王の器などではない、ましてや正義の味方ですらなかった。単に、ジェラーレという男の熱にうかされただけの存在であった。ここ数日の自分は、抜け殻のようだったことを、今こうしてジェラーレと向かい合ったことで、スクエアは痛いほど思い知らされていた。この男がいなくなったとき、自分は何を求めれば、どこへ歩めばいいのだろうか。
「貴方だけを戦わせるわけにはいかない」
置いていかないで、とは言えなかった。ジェラーレがスクエアの顔を覗き込む。無表情は変わらない。失望された気がした。ジェラーレはそのまま背を向ける。
「じゃあな。また来る」
「待って」
ジェラーレの背中に取り縋る。何故かは分からないが、ここで離れると、もう会えない気がしていた。
「どうした?」
「……」
無言の時がしばらく続く。大きい背中は、全てを拒むかのように硬い。張りつめた肉体は想像以上に熱く、スクエアは自分のとった行動にうろたえてしまった。
「ごめんなさ…」
ジェラーレは向き直り、スクエアの肩を掴む。そのまま、スクエアの唇を奪った。
「いや……」
顔を離そうとするが、ジェラーレの強い力に抗することができず、求めるがままにされる。やがてスクエアは抱きすくめられた中で、全身の力を抜いていた。ジェラーレの瞳の輝きが、夜の闇の中で、一際強くなった気がした瞬間、ぞくり、とスクエアの身体を強い力が流れた。
「!」
瞬間、二人に間に弾けた衝撃は、ジェラーレが飛び退り、スクエアが尻もちをつくほどのものだった。自分では気付いていなかったが、スクエアの身体は淡く光を放っている。まるで、外敵から何かを保護するかのように。
「何?今何があったの?」
水を浴びせられたかのように、熱が引いていく。しばし見つめ合ったが、言葉がでてこない。何かを伝えるべき気持ちはあった。だが、形とならずに胸の奥にわだかまるばかり。
「また来る」
ジェラーレは自分の行いを悔いるかのように、また窓に向かう。スクエアも、今度はジェラーレを止めることができずに、かける声も見つからずに、ただ見送るだけだった。
……意識を現実に引き戻したスクエアを呼ぶ声がする。
「陛下、エスパダール国の使者がお目通りを願っています」
「わかりました」
謁見の間に姿を見せたのは、デリクスとジグハルトだった。デリクスが頭を下げつつ祝辞を述べる。
「この度の御即位、お祝い申し上げます。同時に、この国難に対し陛下の御心労は察するに余りあるかと」
「ありがとうございます。何をなすにも、まずは今この時を乗り越える必要があると思います。エスパダールの皆様の御尽力には、感謝の言葉もありません」
デリクスの声に皮肉な響きはなくとも、忸怩たる思いが受け取り手であるスクエアにはあったのだろう。若き女王の顔に浮かんだかすかな苛立ちを、デリクスは気付かないふりをした。当のスクエア本人はやや狼狽えつつ、言葉をつなげる。
「本当に、エスパダールの皆様の御支援は支えです。本当に」
続々と帰国する各国の使節団の中、デリクス達エスパダール使節団の支援は一際目立つものである。それが無駄なあがきかもしれないと思っても、感謝の気持ちに偽りはなかった。
「ありがたきお言葉。部下達に伝えましょう。陛下、御無礼を承知で、お伺いしたきことがございます。お許しいただけますでしょうか?」
「ええ。答えられることであればよいのですが」
「陛下をこの国にお連れしたのは、トムス・フォンダという男で間違いありませんか?」
「……」
単刀直入の問いである。ジグハルトは事前に聞かされていたのか、微動だにしない。
「失礼ながら、すこし調べさせていただきました。彼はまだ目的があって動いているようですが、トムスという男が何を考えているのか、お分かりになりますか?」
デリクスは新しい女王の顔を見つめるが、スクエアは自身の経験から、表情を消す術を会得していたため、有益な情報を得ることはできないでいた。
「あの男は、竜相場師として一代で財を成した男です。例えば今回も、あなたをハルフノール王家に送り込み、今回の混乱を利用し、また金儲けをしよう、ということなのかと思っておりましたが、どうやらそれだけではないようで」
一国の王に対する態度ではない。だが、咎める者は誰もいなかった。
「彼はただ、借りを返す、そう言っていました」
「借りですか……詳細については何か?」
「いえ。あまり自分の本心を話さない方でしたので」
「そうですか。彼は、竜が来る、ということを陛下に話していましたか」
「はい。でも私は話を信じてはいなかった。本当のことになるなどとは思ってもいなかった……」
「だとすると、彼は何の見返りもなしに、あなたに協力をしたということですか?」
「わかりません……勿論、即位の暁には、何らかのお礼をするつもりではおりましたが」
ジェラーレとトムスの関係について告げるべきか、スクエアは逡巡したものの、結局声にすることはなかった。その辺りのことはもうすでに調べ上げているだろうし、喋ることでジェラーレの利益になるとは到底思えなかったからだ。
「失礼いたしました」
デリクスは頭を下げ、退出していった。緊張感のない男であったが、それでもいなくなるとほっとする。スクエアはジグハルトからの報告を聞いたあと、再び自室へと戻った。
「トムス・フォンダ」
思わず名前をつぶやく。ジェラーレの人生を破壊した男。だが彼がいなければ、自分はここにはおらず、ジェラーレにとって必要な人間になることはできなかっただろう。暗く影を引きずりながら、自分の道を行く男。決して好きにはなれないが、憎み切ることもできない。スクエアにはその事実もまた、いくばくかの寂寥を覚えさせるものであった。ジェラーレと自分の感情にはどうしても越えられない溝があるような気すらしてくる。
「はあ……」
ため息をついたとき、風が窓を叩く。ひょっとしてジェラーレが、と思い駆け寄ってみると、手紙が窓枠に挟まれており、気持ちを静めつつ封を開ける。手紙の出し主はしかし、ジェラーレではなく、トムスだった。
「……!」
内容を一通り読む。最後に記されていたのは、場所と、時間の指定である。ハルフノールに到着した際の、船での会話が思い出された。トムスの顔と、ジェラーレの顔が重なる。
行かねばならない、スクエアの気持ちは既に決意へと変化していた。
Ⅲ
船の中では、また別の苦闘が続いている。ツィーガは寝食を惜しんでトムスの残した資料を読み漁っていた。今手にしている本の表題には「人類の危機、竜族の行動とその習性」である。しばし読みふけっていたツィーガであったが、顔を上げ、大きく伸びをした。
「ニアコーグについて書かれた資料が少なすぎるな」
『うむ。そもそもが若い竜ではあるしな』
「現状、一番詳しいのはこれか」
次に、「辺境の被害記録、竜が持つ新たなる危険性の指摘について」を手に取る。ニアコーグの名前が出てくる唯一の資料であり、この資料にたどり着いた時点でツィーガは賭けに勝ったのであった。あの時は浮かれていたが、今は読み込みが足りなかったことを反省するばかりだ。本には、災害や鬼族の襲撃等に交じり、不可解な村の全滅が含まれていること。それが竜の仕業ではないかとの推測を元に、竜が人間社会に浸透しているかもしれないと説く。ニアコーグについては、数人の目撃証言と、それと思われる被害の総数などが記載されている。そもそもニアコーグとは、『こそどろ』という意味の古語である。竜にしてはいささか卑俗な名前だが、別の竜到来に合わせて人を襲うという行動からすれば、あながち間違ってはいなかった。
『この本を見たものは、すべての悲劇の奥に、竜が潜んでいることを忘れないでほしい。気づかぬうちに、世界は蝕まれているということに』
最後に残された警句は、不気味な印象すら読者に与えるものである。作者はこの本を執筆後、失踪したとの注釈がトムスによって付け加えられていた。
「この本を元に、トムスさんは世界中を調べ歩いたんだな」
ツィーガはさらに、タイトルのない冊子を見る。中には癖のある汚い字で、世界中の村で起きた事件がびっしりと記載されている。事件の犯人が分かったものについては、二重の訂正線が引かれ、対象外扱いとなっているようだ。犯人とされる強盗団の名前にも同じように線が引かれているものもあり、おそらくはトムス自身が片付けたのだろう。一つ一つ追い続ける執念は恐ろしさを感じるほどであった。
『さて、ここまで丹念にというか、執拗に対象をつぶしていって、残ったのはこの五件か』
トムス自身が〇をつけている被害は次の通りである。
エヒリス国 コンラッド 被害者 死亡 五十六人
生存者 一人
タントレッタ国 ナギサケ 被害者 死亡 六十八人
生存者 一人
フェンレティ国 エッド 被害者 死亡 七十六人
生存者 一人
シンコルニア国 ティリス 被害者 死亡 八十七人
生存者 一人
エスパダール国 カスバロ 被害者 死亡百十一人
生存者 一人
『気づいたことは?』
「被害者が少しづつ増えていること、かな……あとは、そういえば必ず生存者が一人いるんだな。それ以外は全員死亡。シンコルニアはのちにエスパダールに併呑された国だから今はない」
『うむ、シンコルニアの件は覚えている。ここも複数の竜が襲来し、甚大な被害を受けてエスパダールへ支援を求めたのだ。結局は滅びたがな。その陰にニアコーグがいたというのは、わかる気がするぞ』
「ここに書いてある生存者の一人が、あのジェラーレ卿なのか……」
ジェラーレの顔が思い出される。彼を駆り立てるものは何なのか。あそこまでして目的を追求する強さとは一体なんなのか。何かにとりつかれたような強さは、トムスに似たものがあった。何かを失ったかわりに、人は変わらざるを得ないとは、誰かの言葉だったが、彼らの生涯からしたら、いかにも陳腐に、しかして重く響くものであった。
「うーん。わからんな。竜ってのは、山の向こうから飛んできて、散々に暴れまわって帰っていくって思ってたけど、ここまで人間の世界に入りこんでいるのか」
『しかし一つ問題がある。どうやってあの膨大な志力を潜めているのか。竜は純粋な志力の結晶。どうやっても所在が知覚されてしまうと思うのだが。だからこそ接近も、経路も予想できる訳だしな』
「そうだよな。これじゃ竜じゃなくて、志力を求めてうろつく鬼族の行動だよな」
「失礼します。お茶をお持ちしました」
場が煮詰まった絶妙の間で、執事が入ってきた。
「ありがとうございます。丁度喉が渇いていたところです」
受け取り一口飲むと、さわやかな芳香が鼻から抜けていく。
「いいお茶ですね」
「目的のものは見つかりましたかな」
珍しく話しかけてきた執事に、ツィーガは首を横に振る。
「執事さんは、トムスさんがここに来た目的をご存知なんですか?借りを返すという話ですが」
「申し訳ありません。その質問にはお答えできません」
ツィーガは赤面したであろう顔を誤魔化すため、茶を呷る。
「当たり前ですよね。すいませんでした」
「……借りを返すということであれば、私も旦那様には借りがございます。職を失い、行き場のない私を拾ってくださいましたのは旦那様でございます」
ごゆっくり、といって、執事は退室する。
「トムスさんにもいいところあるんだな」
『計算ずくかもしれんが、な。ツィーガ、生き残った人間のその後は分かるのか?』
「うーん。そういえば見当たらないな……」
あちこちを探してはみたものの、それと思しき資料は見つけられなかった。
「ないな。一人くらいあってもよさそうだけど……だめだな、わからないことが多すぎる。そもそも、トムスさんは、竜と戦うつもりなのかな」
『あのイヴァという女といい、ヤンという追竜者といい、奴が集めている人間は皆達人と呼んでよい連中だ……が、本当に竜と戦うとなると人数が足りなすぎる。ニアコーグは小型の竜かもしれんが、それでも今の数倍はいるな』
「そうだよな……だめだ、わからん」
ツィーガは机に突っ伏した。ラーガも声をあげようとしない。静寂の中聞こえる潮騒の音が、つかの間現在の混乱を忘れさせた。突如、ツィーガが跳ね起きる。
『⁉どうした?』
「まてよ。もし借りを返す相手が、竜ではないとすると……そうだ、もしかしたら!」
『なんだ、何か分かったのか!?』
「宿舎に戻る!確かめることがあるんだ!」
宿舎に戻ったツィーガは、デリクスの執務室に飛び込む。頼りになる上司は、技術士官であるドグズ・ウランバと何やら話をしていた。ツィーガの顔を見やったドグズは、目だけで会釈をして退出していく。後ろ姿を見送り終えるやいなや、ぼんやりとしていたデリクスに向けて頼み込む。
「本国に通信を!確認したいことがあります!」
「ほう、何をだい?」
「シンコルニアがエスパダールに併合されたときの、国籍の移動および移住の状況です!」
「……もう少し詳しく話してみて」
面食らったデリクスではあったが、ツィーガの説明を聞くうちに顔つきが変わった。
「わかった。今すぐに調べさせる」
「トムスさんがどこにいるかわかりますか?」
「いや、今夜は竜が出る可能性が高い、という話がトムスさんからあって、皆作業をやめて家に待機しているけど……そうか、つまりはそういうことか」
デリクスは法具による通信を開きつつ、ため息をついた。通信にでたラマム・バグラシーはデリクスの真面目な顔を見やり、おかしなものを見たかのように瞬きした。
「ツィーガの読み通りの結果だ。ティリス最後の生存者の移住先は、カスバロだった」
「そうですか……」
デリクスの声を聴いても、ツィーガの顔は晴れなかった。ファナも会話に参加する。
「どこで気づいた?」
「ニアコーグの行動が、竜族ではなくて、鬼族だと思ったところからです。人の志力を求めてさまよい、人に寄生して力を吸い取る鬼族の。鬼族は寄生した人間の志力の中に紛れることで、自身の気配を消すことができる」
「確かに。今まさに、ガーデニオンに鬼族が出没できるのは、そういう性質があるからだね……と、するとニアコーグは生まれたての竜と言ってもいいのかも。志力を人から奪うことで、急速に力をつけることができることに、竜が気付いたということか」
デリクスはツィーガの捜査に感心していたが、そんな感慨に浸っている場合ではなかった。
「トムスさんの監視は?」
「報告がないけど、おそらくはもう……」
「行ってみます!」
「俺も行こう」
席を立ちつつ、デリクスは先を行くツィーガに聞こえないように、ぼそりとつぶやいた。
「借りを返す、か。返したくても返せない、踏み倒すこともできない借りは、つらいところだねえ」
Ⅳ
その日の夜。ジェラーレは、独り月光に身を晒していた。自身の怪我の様子を確認する。今までの人生で、誰かに治療を任せたことはない。すべて、自分の手で行ってきた。腕の傷はすでに塞がっている。自身の回復力には我ながら驚くこともあるが、そんなことは、今はどうでもよかった。
今日トムスを始末する、ジェラーレは決意している。結局、法で彼を裁くことはできないのだ。トムスという男に吐き気を催すほどの憎悪を抱きながらも、同時に畏怖していることも認めざるを得ない。奴は一国の有罪という判断すらすり抜けてしまった。トムスという男こそが、ジェラーレにとっての理不尽の象徴であり、理不尽を始末するには、正道では不可能なのだ。
ガーデニオンから少し離れた丘にある隠れ家からは、街の静まりかえった様子がうかがえる。トムス自身の「今夜は竜が出没する可能性がある」という発言を受け、ハルフノール全体が静まっていた。笑止というべきだが、グリオーディア襲来を予想したトムスの言葉は、いまや誰も無視できない状態にあった。ジェラーレにとってはある意味、好機である。
「何も、誰もあの男を止めることはできない。ならば、俺が殺してやる」
ジェラーレは愛用の弓を取り出す。幾多の人間を始末してきた九人張りの強弓である。ジェラーレ以外の誰も引くことのできない弓を手に、彼は秘密の隠れ家を後にする。夜の闇に溶け込みつつ、隣接する古井戸にその体を投げ出そうと手をかけた。ツィーガが入国した際、ラーガも指摘した、隠し通路の入り口である。ジェラーレは暗殺を繰り返す中、旧王族が逃げ込んだ隠し通路が、実はガーデニオンだけでなく、島全体に作られていることを発見していた。旧王家が死に絶えた中、ジェラーレだけが秘密を独占し、独りで利用できるように細工されていたのだった。
「!」
突如殺気を感じ取り、ジェラーレは飛びすさりつつ、矢を放つ。しかし矢は空中で四散し、同時に巨大な穂先がさらにジェラーレに追い縋ってきた。
「ちぃっ!」
とっさに腰から抜き放った剣で受け流しつつ、さらに距離を取ろうと足に力を込める。
「逃がさんよ」
しわがれた声と同時に、ジェラーレの腹部に衝撃が来た。大柄な体躯を浮かすほどの一撃に、歯を食いしばって耐える。鈍い痛みの中、大きく剣を横凪に一閃すると、小柄な人影は素早く退避した。
「見事な耐久力。流石、というべきかな」
衝撃に目の前が明滅するなか、ジェラーレは複数人の人影を視界にとらえる。その中に、殺しても飽き足らない、自分が追う立場であったはずの憎き仇敵の姿を認め、愕然とする。
「よう」
「⁉トムス、貴様、何故ここに……!」
ジェラーレの体が震える。飛びそうになる理性を、歯を食いしばって堪えた。
「探したぜ、お前の隠れ家。あらゆる場所に出没できたのは、隠し通路のせいだったんだな」
「あたし達の【雷槍】を受けても生きてるなんて、普通じゃ考えられないからね」
「あんな林にまで通路があるのだから、この国の貴族とやらの性格が知れるものだて」
志力に光る槍を構えなす女、イヴァと、軽やかに佇む老人、ヤンがそれぞれ感嘆とも、皮肉ともとれるつぶやきを放つ。
「ゼピュロシア神殿で私の友人を遠矢で狙っていたのも、火矢で港の船を燃やしていたのも、あなたなのですね」
いつの間にか姿を現した中年男性を一瞥しつつ、ジェラーレは深呼吸をして痛みを意識から切り離した。目の前の敵はいずれも難敵であることは一目で分かる。これだけの人間を集めるために、トムスという男はどこまで金を使ったのか。
「その弓で、さぞ、大勢殺したろうな」
「黙れトムス、お前が言えたことか!」
「違えねえ」
トムスの声にいつもの不敵さはない。いっそジェラーレには不愉快であった。容赦なく斬りつけようとして、腕が重いことに気づく。
「辛いか」
「煩い!」
ジェラーレはトムスに吠える。目の前の男を引き裂いてやりたいという気持ちで頭が一杯になる。剣を抜いてさっさと始末をつけるべきであるはずなのに、何故か動けない。
「貴様……これは……」
ジェラーレの周囲が淡い光を帯びる。周囲を見渡せば、ところどころに光る宝玉があり、結界を作る紋様を浮かび上がらせていた。イヴァの背後に控えていたマリシャが、静かな瞳に不安げな光を宿しつつ、印を結んでいた。
「馬鹿な」
いつの間に、と声を出すこともできなくなっていた。人の痕跡には人一倍注意をしていたはずなのに、ここまであからさまなものを見落とすはずがない。まるで地面が、木々が、そして痕跡が自らその身を翻し、ジェラーレから身を隠したかのような仕業である。
「貴様らは、一体……」
「こういうことさ」
トムスが半身になると、背後にはスクエアがいた。額には、王冠の宝玉が光を放っている。
「スクエア」
体の重さの原因はスクエアの、ハルの力か。害意のない、包み込まれるような不思議な感覚は、何かから自分を遠ざけようとするかのごとくである。しかし何故、スクエアが自分の邪魔をするのであろうか。脳天を突き上げるような怒りが、ジェラーレを貫く。指を動かすことすら困難な中、目でスクエアを射抜く。
「何しにきた……スクエア」
「ジェラーレ、あなたを、止めに来ました」
「止めにきただと?俺の邪魔をするつもりなのか?お前が?」
スクエアの顔が歪んでいる。こんな顔で見られるのは、初めてだった。苦痛と悲哀、言葉にできない何かが若き女王から活力を奪い去っている。そして何より、彼女を信頼しきっていた自分自身に、ジェラーレは愕然としていた。
「ジェラーレ」
スクエアは、何か告げようとしてためらう。様子を見ていたトムスが代わりに声をあげようとしたが、それも遮る。やがて、スクエアは額に汗さえ浮かべながら、自分の前を歩き続けた人間に告げた。
「あなたには、竜が憑依しているのよ」
ジェラーレは、自分ですら記憶がないほど唖然としていた。表情を制御できなかったことなど、物心ついて以来なかったことである。スクエアが吐き出すように、振り絞るように出す声は、ジェラーレの予想をそれほど超えるものだった。あまりの馬鹿馬鹿しさに、ジェラーレは今自分の置かれている状況すら忘れてしまう。
「竜、だと?馬鹿なことを」
笑おうとして果たせずにいるジェラーレに対し、トムスもまた笑わずに答えた。
「そうだ。お前の家族を殺した竜が、ニアコーグが。今はお前の体ン中に入っているのさ」
トムスの声は、言葉は、ジェラーレの心と体に、切り裂くような痛みを与える。
「そんなこと、あるわけがないだろう!」
「おかしいと思わなかったか?なぜお前は怪我を受けてもあっという間に回復した?神の力も借りずに異常な強さを持つことができた?」
「全て、俺自身の修練がゆえだ!」
ジェラーレは吠えた。今の強さを得るために、血の滲むなどという言葉では生ぬるい修練を積み、数えるのを止めるほどに人を殺してきた。その事実を、竜が憑依したからだと言われて、逆上しないものなどいないだろう。
「ではこう言おうか、何故お前は世界を、人間を憎み続ける?」
再び言い返そうとして、ジェラーレは愕然とする。自分を見捨てた世界への恨み、理不尽な社会への不満。確かに彼の奥底に深く刻まれている、はずであった。疑問になど、思ったことはない。だが、どうしてだろう。正面から、もっとも憎むべき男からの指摘に、何故か言い返せなかった。またもやツィーガの言葉が思い起こされた。社会に憤るべき正当な理由はある。だが世界を恨む根源について、ジェラーレは無意識であった。家族の顔を必死で思い出そうとして果たせず、愕然としたジェラーレにスクエアが呼びかける。
「あなたは、操られているのよ。世界をより混沌へと導くように。竜がその姿を現した時に、より多くの人を食らうための準備をさせられているの」
「違う!俺は、俺だ!成し遂げた全て、背負うべき罪、皆俺のものだ!罪から逃げる気などない!」
「そうだろうさ、そうでありゃ、俺も何も言うこたぁ無かったんだがね」
トムスは何かを思い出すような顔をして、ジェラーレを見つめている。
「俺ァ調べたんだよ。ニアコーグって奴が何故いきなり姿を現せるのか。何故、突然消えることができるのか。何故こうも、音もたてずに弱い人間のところに行くかってな」
トムスの声は限りなく苦かった。手は、ねじくれた首飾りを無意識にいじっている。
「記録を見たら、必ず生存者が一人いた。そしてそいつが移動した先の町が、次の餌食だったんだ。まるで、鬼が人にとりつくように……いや、鬼はすぐに人を乗っ取るが、ニアコーグは寄生した奴と同化し、じっと隠れて待っているのさ、獲物を狩るときを。タチが悪いったらねえぜ」
「黙れ!お前の憶測など、考えなど、聞く気はない!」
「お前、血に酔っているな?いつの間にか、殺すことが目的になっちまってる」
トムスの言葉は、ジェラーレ自身の疑問の確信をついていた。自分は、公平、公正な社会を求めたはずだ、そのための犠牲はやむを得ないとも。だが何故だろう、そうだ、いつからだろう?殺すことに、壊すことに、喜びを見出してしまったのは。俺は、殺したかった、奪いたかった。
シールズを殺したかった、あの暗殺者の少年を、壊したかったのだ。
「俺は……」
自身の思考に混乱し、愕然と立ちすくむジェラーレに、スクエアが決意の表情を浮かべて近づいた。
「ジェラーレ、私が、あなたを助けて見せる。」
スクエアが意を決して前に進み出る。視線が交錯した。思えば、あの夜。ハルの力が働き、ジェラーレを拒んだのだということを、二人は言葉にせず理解しあっていた。
「心配しないで、ジェラーレ。私は、あなたといるわ。たとえどんなことになっても」
ジェラーレは我に返る。自分自身の奥底にある狂気に空恐ろしさを見出していたことを自覚し、スクエアから目を外した。自分自身を恐れていることを、スクエアには悟られたくなかった。
「スクエア……お前は知っていたのか?俺のことを」
「トムスさんから話を受けたのは、つい最近のこと。この島でならハルの力を行使できる。そうすれば、あなたを止められるかもしれないって」
「そうか、だからこその華の儀か、そのための王冠か。すべてこの俺を正気に戻すため、ということなのか」
スクエアの額に輝く王冠を、続いてトムスを睨みつける。自分達が利用しているつもりで、その実全ては目の前の男の手の平の上で踊らされていたのだ。魂まで、尊厳まで踏みにじられたかのような絶望がジェラーレに覆いかぶさってくる。
「いっただろ、俺は借りを返すと。お前には借りがある。人生を潰され、背負う必要もない罪を背負ってな。だから、お前は俺が何とかしてやる」
「黙れ!俺は俺だ!たとえ竜が俺の中にいたとしても、誰も俺の邪魔はさせない!」
「ジェラーレ!」
「がああっ!」
ジェラーレの体内で何かが脈動する。自身ですら制御できないほどの怒りが、自分の腹を破って出ていくかのような感覚に、思わず吠えていた。
「させない……!」
スクエアが志力を解放する。反応するように王冠が輝きをまし、強まった力の奔流が動きだそうとしたジェラーレを再び包み込む。
「グ……グギィィィッ!!」
「どうすればいいの!?」
スクエアの声に応えたのは、マリシャだった。
「神に委ねなさい。あなたの大切な人なら、大切な人を想い続けて。あなたの想いを神が具現化するから」
諭すような静かな声に、スクエアは落ち着きを取り戻す。胸で手を組み、静かに膝をつく。
「ハル、ジェラーレを助けて……!」
スクエアの祈りを受け、さらに王冠が輝きだすと、ジェラーレの体に激痛が走りだす。数々の痛みに耐えてきた男が、堪えきれずに絶叫するほど激痛と同時に、体内の蠢動がさらに強まっていく。
「ギャアアア!」
イヴァ達は、苦しみ続ける男を囲み、武器を構えて待機する。自分達の役割は、スクエアが竜を封じることができなかったときに、ジェラーレごと竜を滅ぼすことであることを、誰もが理解していた。スクエアもまた。
『ヤ……メロ……』
突如、トムスとスクエアに、頭を鈍器で殴られたような衝撃とともに言葉が響き渡る。声の正体に気づき、トムスが頭を押さえながらうめいた。
「てめえが、ニアコーグか……!」
『ヤメロ!』
いまや、別の存在がジェラーレの中にいることは明確となった。凶悪な意志が直接頭の中で爆発する。王冠の守護があるスクエアはともかく、トムスは頭を掻きむしりつつ耐えしかない。スクエアもまた、目を閉じてもがくジェラーレを頭から振り払おうとする。
「スクエアァ!止めてくれ!頼む!」
しかしニアコーグではない、ジェラーレの声に、スクエアははっと目を開けてしまった。目の前には、今まで見たことがない、苦悶にゆがみ、助けを求めるジェラーレの顔がある。
「スクエア!」
「嬢ちゃん!そいつは、ニアコーグが喋らせてるんだ、だまされるな!」
トムスの声が初めて激した。
「でも……」
「頼む!スクエア!頼む!」
のたうち回るジェラーレの涙を初めて見たスクエアは、さらに動揺する。このままでは、竜だけでなく、ジェラーレ自身が死んでしまうのではないかという不安が、スクエアの意志を僅かにひるませた。
「助けてくれ!」
「ジェラーレ!」
スクエアの叫びに、宝冠の輝きが鈍った瞬間だった。ジェラーレの体が倍に膨らんだ。
「しゃあない!」
「ふむ」
イヴァとヤンは、同時にジェラーレに突っ込む。槍と手刀が、ともに必殺の意思とともにジェラーレに突き刺さった。スクエアが再び絶叫する。
「いやあ!」
しかし、皮肉にも彼らの一撃はスクエアの祈りの力に阻まれ、鋭さを欠く。膨れ上がる肉体に弾かれるように、二人の体が吹き飛ぶ。飛び散った血は、すでに黒く変質していた。
『ハハハ、バカナオンナダ!コレダカラニンゲンヲクウコトハハヤメラレン!』
再び響いた意志は、ジェラーレではなく、ニアコーグのものだった。悪意が塊となってぶつかってくるような圧迫感が、あっという間にスクエアを圧倒していく。
「ちっ!」
再び志力を輝かせ、突き出したイヴァの槍がジェラーレの胸に吸い込まれた。時機といい威力といい、これ以上ない絶妙な一突きだった。
「何!?」
だがしかし、会心の一撃は膨張するジェラーレの肉体によって弾かれる。体にはすでに鱗のような文様が浮かんでいた。
『オマエラナドニトメラレルモノカ!コノシマノニンゲン、スベテクイコロシテヤル!』
ジェラーレは哄笑する。人間の体のまま、口から放たれた息吹が、炎の渦となってスクエア達すべてを薙ぎ払う。わずかな差で先んじたマリシャの防壁が辛うじて食い止めたが、ジェラーレを追うこともできない。
『クハハハ、シネ、ミンナシネ!』
ジェラーレはそのまま圧倒的な跳躍を見せ、その場を去ろうとした。
「いけない!」
カイムが叫ぶ。ジェラーレの目の間に突如現れた暴風の壁が一旦は逃亡を阻止するも、再度の突進であっさりと障壁が食い破られた。
「そんな!」
『シネ!』
去り際に、再び放たれる竜の息吹に、周囲は再び閃光に包まれた。数瞬後、盛大に焼ける隠れ家と、使命を果たすことなく終わった人間たちの、暗い顔だけが残されていた。
「「ジェラーレ!!」」
スクエア、そしてトムスの絶叫は、届くことはないかのようだった。
Ⅴ
「ここは……?」
唐突に、ジェラーレの意識が鮮明になる。目の前にはジグハルトの私邸があった。周囲はひっそりと静まり、息を殺しているかのような沈黙が、耳に痛い。ここに至るまでの記憶がすっかりと抜け落ちており、自分で自分をうまく認識できない。服は破れているが、身体は、イヴァやヤンがつけたはずの傷はすっかり綺麗になっていた。
「何が、起こったのだ?」
曖昧模糊とした視界の中で、ジェラーレはもがくように周囲を見回す。何故、自分がここにいるのか、自分が何をすべきなのか。何もかもが分からなかった。俺は…誰なのだ?ジェラーレが呟いた瞬間だった。
『壊せ』
どくん、と内部で言葉が弾けて、ジェラーレは全てを認識し、受け入れた。もう、何もためらうことはない。かつて自分であったものは既にない。今ここにいるのは、全てを壊すため、それだけなのだ。
「ジェラーレ・シンタイドだ。ジグハルト閣下への謁見を希望する」
入口の衛兵は、ジェラーレの風体に怪訝そうな目を向けたが、何せ非常時である。
「今は会議室にいらっしゃるそうです。あ、武器をお預かりします」
求められるままに、身に着けていた短刀を渡す。それ以外の武器はどこに行ったのか、思考といったものが、ほんのわずか顔をのぞかせようとしたが、すべてを圧倒する感情の奔流の中、むなしく消えていった。
「ご案内を」
「大丈夫だ」
「いえ、ジグハルト様のご命令です」
護衛のように兵士達がジェラーレを取り囲む。会議室に向かう途中、角を曲がった瞬間に、ジェラーレは兵士達を殴りつけて昏倒させた。誰もいないことを確認し、一室に滑り込む。中の壁には細工がしてあり、弓矢と剣が隠されていた。いつか、こんな日がくることは、想像していた。ロイ・ジグハルトもまた、ジェラーレにとってトムスと同じく超えるべき障害であった。彼を否定しえずに、自身の本当の勝利はない。ここに至って、ジェラーレの思考と衝動はニアコーグのそれと溶け合って混ざり合い、自分でも何処に向かっているのか分からない。己の行為を否定も肯定もしない。何故にここまで、相手が憎いのかなど、考える必要は無かった。だが、憎悪という感情に支配されながらも、動作には全く影響がない。躊躇い無く、滑らかに。物音を立てることなく会議室の前に立った。
「ジェラーレです。入ります」
すでに弓に矢をつがえている。開けると同時に矢を放つつもりであった。蹴破ると同時に、ジグハルトを探し求める。
「‼」
だが、視界が開けた瞬間、殺到する気配に身体が反応し、前転して飛び込んだ。突き立つ矢を避けつつ、会議室の真ん中に転がり込む。すでに完全武装の神官戦士たちが待ち構えていたのだ。
「ジェラーレ」
「閣下、これは何ですか?」
「すべて分かったよ。お前がこの一連の騒動の首謀者であったとはな」
「何のことですか?」
「竜騒動による人心の混乱を招き、国の船を破壊し、混乱を極めた罪。全て、ここにいるエスパダールの皆が伝えてくれたよ。お前に、竜が宿っているということもな」
「……」
剣を構えたツィーガの顔が暗い。ジェラーレがここに来たという意味を、彼なりに理解しているということだろう。
「正直、信じられる話ではなかったが……今その姿を見れば、事実であると言わざるを得ん」
周囲があっというまに剣の林となる。ツィーガが口を歪めながらもジェラーレに話しかけた。
「あなたは、カスバロの惨劇唯一の生存者だった、だがそれこそが、ニアコーグの手段だったのですね。人を喰らい、人に乗り移ることを覚えた竜。トムスさんが、借りを返すというのは、複数の意味があった。一つはニアコーグを抑えること、そしてもう一つはニアコーグの犠牲になった、あなたを助けることだったんだ」
ツィーガの指摘に、ジェラーレは薄く笑うだけである。もはやそんなことはどうでもいい。壊すだけだ、何もかも。自分の過去も、悲劇も、もう彼を縛ることはできないのだ。彼もまた心の底で望んでいたことだったのかもしれない。
「ジェラーレ、お前には期待をしていた。ともに新しいハルフノールを築いていくための同志として」
ジグハルトの顔には、珍しく沈痛な表情が浮かんでいる。ジェラーレは、思い切り笑ってやった。
「何が同志だ。お前のように家柄や地位、財産のある人間が何を言おうと、お前の存在自体が不公平そのものだ。俺はそんな世界を壊してやりたいだけなのさ」
ジェラーレは口から滑り出た言葉を改めて反芻する。そうか、俺はそんなことを思っていたのか、そんなに世界を憎んでいたのか。これが、俺の本音だったのか。
「そうか、そのような目で私を、世界を見ていたのか」
「お前は邪魔なんだよ。俺にとって、どこまでもな」
「ただ恨むためだけに、生きてきた、ということか」
ジグハルトの顔から表情が消えた。何かを切り捨て終わった男の顔である。ジェラーレが何より憎んだ顔だった。何故そうも簡単に、こいつは過去を、後悔を切り捨てられるのだ。
「さあな。もはやどうでもいい。すべて壊してやる。お前も、世界も。それだけだ」
「そして、誰もいなくなる、か」
ジグハルトが一歩進み出る。腰にあるハルフノールの剣の柄に手をかけた。
「お前は過去に負けたのだ、ジェラーレ。お前の過去は確かに凄惨であり、同情の余地はいくらでもある。だが、そこにすがって生きることで、他に害悪を成すのであれば、放ってはおけぬ」
「貴族など、過去の栄光に縋って生きる人間に言えたものか、何かといえば『高貴なる血』を売り物にするような連中が!」
「人は、血によって立つのではない、志によって立つのだ。そんなことも分からなかったのか」
ジグハルトの言葉は、ジェラーレを動揺させた。かつて、自分を支えた、自分への誓いの言葉、自分の意志で世界を変えるということは、それほどに魅力的だったはず、なのに。
「この社会の矛盾を正すという意志を瞳に宿していると信じたからこそ、お前を拾い上げた。だが、お前はただ、復讐をしたかっただけなのか。この世界に?それだけなのか?」
「黙れ!」
ジェラーレの顔が歪み、四肢が膨れ上がる。おお、という声を共に、周囲の人間が後ずさる中、ジグハルトは更に一歩を踏み出し、剣を抜き放つ。ハルフノールの剣は、ジグハルトの闘志に反応し、赤く輝きを放っていた。
「なるほど、やはり貴様は竜に捕り憑かれていたようだな。せめて、人としての姿を保ったまま死ぬがよい」
デリクスとツィーガも、かけるべき言葉もないまま、ジグハルトの無言の闘志に従う。
「ハルフノールの剣か。お前の栄光ある過去の証。ここまで来て、頼るのは古き血によりし力か」
地の底から響き渡るような太い声を、ジグハルトは正面から受け止め返す。
「ジェラーレ、敢えてもう一度言う。人は血に寄って立つのではない、志によって立つのだ。お前にも、それができたはずだぞ」
鋼の意志をもって、歩んできたはずだ。ジグハルトの無念は、目の前の苛烈な男への哀惜でもあった。ジェラーレにもそれは伝わったが、もはや語るべき言葉などなかった。現在の二人の間には大人の歩幅にて十五歩ほどの距離が開いている。鍛えぬいた技術によってジェラーレが矢を放つまでに抱える時間は一呼吸を必要としない。十五歩を詰める間に、三矢を放つことができるであろう。ジグハルトを討った後に残るのは、有象無象の兵士達。自身の腕でなんとでもなる。幾多の危機の乗り越えてきた経験が自信となり、ジェラーレの身体を自在の境地へと導いていた。
「いくぞ」
ジグハルトが剣を構える瞬間を狙って動く。挙動を目でなく、全体の気配で察する。ジェラーレの心は揺るがなかった。極限の緊張、果てしなく長い時間が過ぎたように思えた瞬間、均衡を保っていた天秤が、かすかな風に揺らされるかのような繊細な揺らぎを受け、ついにジグハルトが動く。そして、その動きを完全に待ち構えていたはずのジェラーレはしかし、目前に迫る赤い光に慄然とした。
「ば……!」
ハルフノールの剣。王国の至宝にして権威の象徴が、無造作に、ジェラーレに向けて投擲されたのだ。ジグハルトが決して手放すものでないと信じ切っていたジェラーレにとって、それは動揺を超えた衝撃を与えるものである。この時点でもう勝敗は決していた。間一髪で避けた剣は背後の壁に深く突き刺さる。ジェラーレの空白が解け、矢へと意識を向ける前に、ジグハルトが距離を詰め切っていた。
「ふん!」
ジグハルトが横の兵士からむしり取った二振り目の剣で深々とジェラーレを切り裂く。王国一と謳われた剣の腕の冴えは、ハルフノールの剣でなくとも存分に発揮された。あふれだす血潮に、ジェラーレの体から急速に力が失われていく。
「ジグハルト……!」
「ジェラーレ。お前こそが、血と過去に縛られていた」
表情はない。全ての結果を受け入れ、対処した男はしかし、目の前にいる、最早怪物となりかけた男に再び哀惜を込めて呟いた。ジェラーレの中に、無念とも、怒りともつかぬ激情が膨れ上がり、言葉として紡がれる。
「こんな……こんなことは……神め」
無意識に出た言葉は、いつもジェラーレの方が聞く側だったものである。何故ここでこんな言葉がでたのだろうか。今までの経験がなせる業であったか。それとも、同じ志を持ちながらも、こうまで生き方を間違えた自身に対する無念か。
「神を嘲りながら、最後は神に縋るか。その身の不幸がいずれ報われると思っていたか。そこが、お前の限界なのだな」
「ググ……」
「さらばだ。この剣にて、貴様の迷妄を断つ」
壁に突き立ったハルフノールの剣を抜き、茫然と立ち尽くすジェラーレを真向から切り下げた。体がほぼ二つにさけるほどの斬撃。盛大な音をたてて崩れ落ちるジェラーレ。顔を一つ横に振って、ジグハルトが剣を収めたその時だった。
「オノレ……オノレェ!」
切り裂かれたはずのジェラーレの口が呪詛となった言葉を放つ。ジグハルトの断罪は、ジェラーレに残っていた最後の意志の一欠片を切り裂いていた。
「何だと……!」
ジグハルトの表情が崩れる。切り裂かれたジェラーレの体内から、どす黒い霧状の物体が噴き出して、周囲を漆黒に包まんとする。夜の灯のように、再び抜いたハルフノールの剣が赤く輝く中、霧は集合し、針のような形を成したかと思うと、いきなり周囲の兵士達に向けて伸びていく。ツィーガはとっさに抜き放った刃で受け止めたが、その勢いと鋭さは完全には殺しきれずに、別の兵士の顔を切り裂いていく。ジグハルトは部屋の中央で次々に襲い来る針を切り裂きつつ、中心に向かっていく。
『おいでなすったな……!』
ラーガの声が震えている。拡散した黒い霧が、一転収束していく、ジェラーレの体を核にして、異質な形状へと変化していった。確かな形状を取る前に、ジグハルトは赤光するハルフノールの剣を振り下ろす。必殺の一撃はしかし、大きな咢にがっちりと食い止められた。そう、まさに竜の咢に。
『愚かなり、人間よ』
「お前は……!」
『いと弱きものたちよ、災厄の時が来たとしれ』
意志が熱風となって叩きつける。先刻スクエア達に向けた悪意を遥かに上回る熱量だった。
「おのれ!」
ジグハルトの意志に反応し、さらに輝くハルフノールの剣をようやくに放すと、いまや完全に竜と化したジェラーレは、窓を打ち破ると、再び背中から巨大な羽を生やして飛び立った。人間とも、獣ともつかない哄笑を上げ、彼方へと去っていく孤影に対し、なすすべなく立ち尽くすしかなかった。
絶望的な表情で、スクエアが王宮に帰ってきたのは、それからすぐのことである。ジグハルトの報告と、スクエアの告白が重なっていく。
「ごめんなさい。こんなことになるとは……」
「結局この国のことを考えることはできなかったのですね。一人の男のために、この国全体を危機にさらすとは!」
ジグハルトの声が大きくなる。ハルフノールの王冠と剣が合わさっていれば、あるいは倒し得たかもしれない、という思いが、冷静沈着な男の感情を刺激していた。
「もう少し早く、自分がニアコーグの正体に辿り着いていれば……」
ツィーガの後悔も深い。例えばデリクスであれば、トムスの真意、スクエアの願い、さらにはハルフノール国全ての希望を叶える策を講じられたかもしれない。デリクスは全てのことを口に手をあてながら聞いていた。集中するときの癖のようである。
「まあ、過ぎた話はしょうがありませんよ。この場を退いたのを見ると、どうやら竜として目覚めるのにはもう少し時間がかかるのだと思います。まったくの推測ですがね」
「今から、探しますか」
「探してどうするの?戦って勝てる相手じゃないよ。目覚め切る前であの強さだ。それにもっと重大な問題がある。グリオーディアだよ」
絶望を深める単語を発する。誰もが考えたくないことに言及するのはさすが上に立つべき男である。たとえニアコーグを処すことができたとしても、グリオーディアがこの国を破壊し尽くすのであれば、すべては水泡に帰すのみである。
「もうおしまいだ……」
どこかから漏れた言葉を、ジグハルトですら咎めようとはしなかった。
「今夜は休みましょう、今のままでは何も考えがまとまらない」
デリクスの言葉に、全ての人間が従った。
「……これで、おしまいかい」
トムスと別れ、茫然としながら宿に戻ってきたイヴァは、椅子に腰かけたあと、ようやくに声をだした。手にはまだ、突き刺したジェラーレの肉体の感触が生々しく残っている。渾身の一突きも、竜の肉体を貫くには至らなかった事実が、イヴァの胸に重く圧し掛かる。
「よかったじゃない、少なくとも竜とは戦えたんだし、満足でしょ?イヴァ」
マリシャのやたらとほっとした声に、イヴァはつまらなそうに鼻を鳴らす。
「あれが、竜だって?ただの出来損ないじゃないか」
「でも、これで終わり。仕事は失敗だったけど、生き残ったことに感謝しなきゃ」
「なんだい、やけに嬉しそうだね。マリシャ」
「そんなことはない、わ」
「そうかい」
イヴァはそれきり黙った。槍を肩に立てかけながら身じろぎもしない。マリシャは彫像のように動かなくなった友人を、心配そうに見やるだけだった。
Ⅵ
とりあえずの後始末を終え、疲れ切った表情でツィーガが宿所に帰ると、一人の男がテーブルで待っていた。トムス・フォンダである。
「よお、どうやら真相に辿り着いたみたいだな。ちっとばかし遅かったけどよ」
ツィーガは無言で同じ卓に座る。蒸留酒の瓶と、杯が置かれている。
「勝手にやらせてもらってるぜ」
「どうぞ」
ツィーガが見つめる中、悠然と酒を杯に注ぎ、慌てることなくゆっくりと飲み干す。ぶれない態度に、ツィーガはトムスの失意の深さを知った。
「皆さんは?」
「給料払って別れた。もう仕事はおしまいだからな」
「そうですか……」
「やれやれ、とんでもないことになっちまったな」
気楽そうな声を出そうとして、失敗したトムスは、再び酒を呷る。ツィーガはやがてゆっくりと話し始めた。
「ようやくわかりました、あなたが借りを返すという意味が。気になったんです。あなたは決して失敗がないわけではない、とラーガから聞きました。なのに、ニアコーグにだけは復讐をしようとしている。なぜなのか」
トムスはもう一杯、自分のために酒を注ぐ。手元はまだしっかりしていた。
「普段なら人助けなどは考えない。だけど、ニアコーグが来ると確信した今回に限っては、人を逃がそうとした。ジェラーレ卿も、ニアコーグに憑依されていると知って、なお助けようとした」
「いっただろ、借りを返すんだよ。気に食わねえのさ、俺を利用して、のうのうとしてるニアコーグって奴が、よ」
「それだけじゃ、ないですよね」
「あのジェラーレって奴のことかい?」
「それも勿論あるでしょう……でも本当の理由は、ほかの、別のところにありますよね」
「何?」
「気になっていたんです。カスバロで起きた事件のとき、避難を誘導した人がいるって。あなたは、誰も自分のことなんか信じてくれない、といっていたのに……」
ツィーガはトムスが無言でいじっていた首飾りを指さす。
「あなたがしている首飾り、何かの欠片だと思ってましたが、それ、エスパダールの聖印ですね」
「……」
「いたんですよね、一人だけ、心からあなたを信じ、あなたの知識を活かそうとした人が」
『とぼける必要はない』
「旦那?」
『俺の知り合いだよ。あんたのせいで死んだエスパダールのお人好しは』
「はは、そうかい。じゃあ、仕方ねえ」
トムスは力なく笑うと、目元を手で覆いながら椅子の背もたれにもたれつつ、上を向いた。しばらくは、声を上げる気力もない様子だったが、ぽつりぽつりと話しはじめるまで、長くはかからなかった。
「……あの男は、変り者だった。俺に会うなり、あなたを尊敬している!とかいうんだぜ」
そう、お前にみたいな、まっすぐな瞳をしていたんだ。トムスは、ツィーガに心の中でだけ言った。
「まだ、円蓋が完全に機能していなかった頃の話だ。竜は気まぐれに出現し、今までのすべてを、これからの何もかもを破壊しつくしていた最後の時代だった。どうやらあいつは、俺の予想で町の破壊を事前に知り、人を助けたことがあるようだ。俺を命の恩人だと言ってたよ」
誰よりも、人の幸せを考え、自らを犠牲にして一片の後悔なく、笑顔で人の理不尽を許せるような、そんな男だった。こいつなら、信じてもらえる。誰もが信じる。そんな男が、俺に頼んだんだよ。トムスは、半ば以上、自分に向けて語りだす。過去の記憶はいまも鮮やかであった。
『あなたが、竜がこの地域に来ると賭けたと聞きました。本当ですか?』
『それを知って、どうする』
『あなたは当代一の竜賭博師と聞きます。あなたのことを信じます。だから、助けてほしいんです。この世界には、逃げることができない人がいる。そんな人を守るために、力を貸してほしいんです』
忘れられぬ声がトムスの中で響く。トムスという男の人生の中に残る、ほんのわずかな陽光射す思い出だった。
「俺は、血迷ったのさ。信頼されることなんて言葉、生まれてから聞いたことはなかったからな。俺の周りには、誰もが自分のため、金儲けのことだけしか考えないような連中しかいなかった。だがそいつは俺の言葉を信じ、誰かのために使おうとした。どんな時でもだ。人を説得し、見事に竜の被害から逃れることができた奴から、感謝されたりしたもんさ」
こんな俺でも、まっとうな道を歩けるかもしれない、生まれ変われるのかもしれない、束の間だったが、思うことすらできたんだ。トムスの言葉にならない自嘲は、ラーガだけが聞き取れる内容だった。
「だけど、ニアコーグが現れた」
「そう。俺が別の竜の発生と進路を的中させ、安全な場所と確信し、避難させた場所が襲われた。あいつは、おそらく必死で皆を守ったんだろうよ、だが竜に人間が敵うはずはねえさ。誰一人いなくなったところに、あったんだよ。この欠けた聖印が」
酒杯を砕かんばかりに握りしめる。トムスの表情は消え、しかし瞳だけは血塗られた光景を目の当たりにしているかのように狂熱的な光を帯びる。
「皆言ったものさ。今までいい顔をして、人を騙し、最後に全て奪っていくのかと。どうやら、村の財産を狙って一芝居打ったとでも思ったようだ。俺は詐欺師だ、人殺しだと、な。お前らのはした金なんか、もともと興味なんかねえっての」
『聖印は法具でもある。滅多なことでは壊れはしないし、志力が込められているから、盗賊であれば盗んでいく。それが欠けて残っていたことから、お前は竜を疑ったわけだ』
「ああ。だからこそ、俺はニアコーグを調べ始めた。そしてこいつが、鬼族みたいにこすっからいやり方で人を食っては姿を隠しているのを知ったのさ」
「だからこそ、ジェラーレというカスバロの惨劇の唯一の生き残りが現れたとき、あなたは彼にニアコーグが憑依しているのを確信したわけですね」
「ああ。あの野郎、性懲りもなくまた俺を利用しようとしやがった。だからこそ、借りを返すつもりだったんだが……もう終わりだ。女神ハルの力を使ってすらかなわなかった。あとは逃げるだけさ」
喉を鳴らして酒を飲む。だが、目は少しも酔っていなかった。自分で注ぎ、飲む。淡々と無意識な動作が続き、やがて酒が切れたとき、ツィーガが顔を上げた。
「それで、いいんですか?」
ツィーガの問いに、目を見開く。
「いいかって?いいわけあるか。だが万策尽きた。やはり竜には、敵わないんだよ」
酔っているのだろう。トムスを知る人間からすれば、仰天するような台詞である。ツィーガはしばらく俯いたままでいたが、やがて顔を上げた。
「……戦いましょう」
「何だと?」
トムスは大声で笑った。
「お前らにできんのは、餓鬼どもや、女、病人を連れてさっさと逃げることだけだろ」
「それが、出来ない人達がいます。もう逃げるための船がない。貴方の話が本当なら、ニアコーグの贄になるだけの人達です。貴方にとっても本意ではないはずだ」
ツィーガの言葉は本心であった。このままでは、二匹の竜にハルフノールという国は切り刻まれ、歴史から姿を消すことになろう。そして、その陰に一体何人の犠牲者が生まれることになるのか。
「ニアコーグを倒しましょう。敵討ちでも、人々を守るためでも、理由なんてどうでもいい」
「無理に決まっている。そもそも神でも勝てない奴とどうやって戦うんだよ」
「神が負けても、人間がいます。人間は、まだ竜には負けてはいない」
「人間、だと?何か、考えがあるのか」
「今の私には、ありません」
深刻な怒りの表情を向けられて、ツィーガは内心たじろぐ。
「けっ、口だけか」
「でも、私には友がいて、仲間がいて、上司や先輩がいます。みんなすべての力と知恵を合わせれば、何か打開策が生まれるはずです。俺は、俺達は、一人じゃない。一人じゃないから人間なんです。人間みんなで竜に立ち向かうんですよ」
ツィーガは目を逸らさない。その瞳の強さに、トムスは眩しさを覚えた。
「あなたが、頼りなんです。あなたしか竜の動きを把握できない。あなたがいなければ作戦の立てようがないんです。」
「俺を信じると、どうなったか分かってんだろ?」
「分かっています。だからこれは、賭けです。自分のありったけを賭けた大博打ですよ。俺は博打なんかしたことはないから、教えてほしいんです」
「……」
「俺は、俺の意志で、みんなを守りたい。誰を恨んだりしません。竜に対して、人間はここまでできるんだって、見せつけてやりたいんですよ。」
ツィーガの笑顔が、十五年前の神官の顔と重なる。そうだった、あいつもこんな顔をしていた……。
「勝てなくても、戦わなくてはいけないときがあるとしたら、今なんです。あなたのためじゃない。俺は俺のために戦う。だから、一緒に戦いましょう」
あいつもまた、俺に賭けて、外した。それだけのことだったんだ。今なら分かる。あいつは決して後悔はしていないだろう。決して、俺を恨んではいないのだろう。
だからこそ、俺は、ニアコーグが許せないんだ。
「そうかい……」
トムスは笑った。久々に心から笑った気がする。自分のすべてを賭けた博打など、久しくやっていなかった。こんなに晴れ晴れと、己を賭けることができる日が来ようとは。
「博打……そうだな、確かに博打なら、俺の出番ってわけだ」
「その博打、一口噛ませてもらいましょうか」
「デリクス司祭長!」
いつの間にかデリクスがそこに立っていた。手には酒瓶と杯をもって。
「どんな風の吹き回しだい?『凪のデリクス』さんよ」
「やめてくださいよ、そんな恥ずかしい呼び方は。いやなに、面白そうな話をしているんで、こりゃ自腹を切ってでも参加しなくちゃと思いましてね」
ツィーガの隣に座り、手酌で酒を注ぐと、一息にあおった。ツィーガが目を見張るほどの粗野な仕草である。曲がりなりにも司祭長のする振る舞いではない。
「あんたもさっさと逃げなきゃならないんじゃないのかい?」
「避難の手引きは私の上司にまかせます。それぐらいできる男です。私は、私にしかできないことをやりましょう」
「それが博打ってわけかい?とんでもない司祭がいたもんだ」
「こう見えて、お祭り好きなんですよ。こんな大博打、乗れるのは一生に一回あるかないかでしょうし……」
突如、デリクスの表情が変わる。いつものとぼけた雰囲気が消え、凄みに満ちた眼差しが二人を射る。
「どうせだから、盛大な博打にしようじゃないか」
口調ががらりと変わり、デリクスの細い瞳がかつてないほど煌めいた。いままで眠っていた何かが目覚めたような脈動を感じさせる。
「何を考えてる?」
「何、こんな面白い話、我々だけで独占するのは勿体ないから、もっと広げようってね。例えば、そう、五大国あたりを丸ごと、ね」
デリクスのまなざしは、トムスすら貫くほどの鋭さである。男が秘めていた意志の力は、歴戦の賭博師さえ震えさせるものだった。
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