誇りまみれの竜賭博 第9話 開かれた災厄 閉ざされし矛盾
Ⅰ
ハルフノールで催されし華の儀よりさかのぼること二日前。人類の住まう大陸の北端に連なるヒルピレン山脈のうち、最高峰であるヘルミヤーマの麓に備えられたニヴァ観測所。人類版図の最北端にして、最も竜の生息地に近い位置に秘かに築かれた拠点は、日々休むことなく竜の動向を探り続ける。竜の生態はいまだ未解明も部分が多いが、人類の版図への襲来として最も多い行動は、ヒルピレン山脈以北にある、人類未踏の生息地から単騎飛来、村や国を破壊し再び飛び去っていく、というものである。中でもヘルミヤーマ周辺の空域は、竜が最も飛来する箇所として知られ、人々は畏怖を込めて立ち入りを禁じていたが、竜への対抗手段を備え始めた人類の熱意は、自ら定めた禁忌を破るまでに至っていた。
ニヴァ観測所では、竜の発生、進路の確認及び経路となる各国への伝達を任うが、人里離れた山奥で、至近を飛来する竜だけでなく、その他の鬼や猛獣からも自らの身を守らねばならぬため、五大国中から能力、意志ともに選りすぐりの人間達が集められていた。数ある竜の観測拠点中、最も危険なこの地を任されたエスパダール高司祭、エルリッヒ・マインツはその日、志力測定機が、突如異常な反応を示したことを機敏に察知した。
「何だ、これは⁉ギロ、分かるか」
「えーと……故障ですかね。数値が振り切れているな。今までにこんなことはありませんでしたが……」
眼鏡を直しながら、ギロと呼ばれた男は答えた。連日の疲労もあるのか、反応が鈍い。早めの交代が必要だな、とエルリッヒは当番票を頭の中で組み換え始める。
「竜の季節でもありませんしね。この数値だと、平均的な竜、数百体分の志力になるな……」
「数百体か、竜だけで聖歌隊が作れるな。エスパダールの祭日に合わせたのかな」
「お、流石リア。よく曜日感覚なんかもってられるな」
「当たり前だ。超過勤務の計算だけがここの楽しみだからな」
周囲が笑い声をあげるなか、エルリッヒは指示を出す。
「外の状況を探れるか?」
「了解、付近に反応なし。【遠視】の法術を発動します」
存在を秘匿するため、防御、法術を幾重にも張り巡らし、地形の死角に作られた観測所である。遠視を行うためには、隠匿の法術を一部解除し、外に向けて志力を解放せねばならず、周囲の敵対生物から発見される確率は跳ね上がる。さすがに一同の空気が変わった。万が一竜にでも発見されれば、一瞬で破壊されるという緊張感の中、観測所随一の法術使いであるピサロが一言詠唱する。天井に備えた増幅装置で、全員がピサロの遠視を共有した。
「発動時間、読み上げ開始」
「暗い、ですね」
しかし、普通であればいっぱいに空が映し出されるはずの天井は、通常時と同じく暗い。
「夜明け前だったか?」
「一〇経過、周囲の反応なし」
読み上げが緊張感を否応なしに高めていく。
「いえ、もう既に太陽が昇っているはずですが……」
「法術を失敗したんじゃないのか?」
「確かに発動していますよ」
ピサロのむっとした声に、苦笑が漏れた。状況を把握できないまま貴重な数瞬が過ぎ去る中、突如大きな声を上げたのはギロである。
「何じゃぁこりゃ⁉」
「どうした?」
「志力の塊が動いてる、故障なんかじゃありません!敵影、極めて大!こりゃあ、山が一つ動いているようなもんだ!」
「二〇経過。制限時間まであと一〇」
「という、事は……この暗さの正体は、竜の影に入ったということなのか……!」
皆が視線を再び上げると、次第にざわめきが重い沈黙へと静まっていく。視界一面広がる漆黒に目を凝らせば、僅かな煌めきが見える。まぎれもなく、漆黒の竜の鱗に陽光が反射している光であった。
「馬鹿な……体躯の全長が確認できない、こんな生物が、存在し得るのか!?」
「この巨体……膨大な志力……まさか、竜五帝が一、……!」
「直ちに、全国家に伝達!正真正銘、冗談抜きに、人類存亡の危機だ!」
エルリッヒの一喝で、恐慌寸前の観測所は踏みとどまり、果たすべき仕事に取り掛かろうとしたその時だった。
「ヒィッ!」
ピサロが悲鳴を上げ、声に反応して皆が上を見た。黄金に煌めく球体が全面に映しだされている。それはまるで、夜に輝く太陽のようだった。
「気付かれた……!」
「馬鹿な!上空までどれだけ距離があると思って……」
エルリッヒの不屈の意志は、周囲の、そして自身の絶望と恐怖に潰されながらも、最後まで職務を放棄しなかった。ほぼ無意識に、使い慣れた通信法具に全ての志力を注ぎ込む。山を半ば削り込むほどの圧倒的な竜の「息吹」の直撃を受け、ニヴァ観測所が崩壊するよりもほんの一瞬早く、彼の最後の任務は果たされ、五大国全てに伝達された。
竜王、来襲せり、と
Ⅱ
ようやくに春が来た。そういわんばかりに見えるガーデニオンの住民たちに、スクエアは内心の動揺を隠して微笑む。周囲の熱狂的な歓迎は、自分という個人でなく、周囲に渦巻いていた現状への不満の噴出であると分かっていたので、自分を見失わずにいることは難しくなかった。今までの呆れかえるほどの苦難の人生が、スクエアに、幸運や偶然に酔いしれることのない、冷めたもう一人の自分を作り上げていたこともある。
王とは、人の意志を受け止めるための器であるに過ぎない、とは誰の言葉であったろう。教えてくれたのは、ジェラーレであったか。喜びに満ちているように見える彼らが竜の襲来を知ったとき、今度は狼狽と動揺が自分の元に押し寄せると理解していれば、この場で浮かれる要素など何一つ見当たらなかった。
晴れ渡る青空の下、フォンデクがスクエアに対し、ハルフノールの王たる証である『王冠』を捧げる。頭に収まったそれは、陽光の元でも分かるほどに煌めきをまし、聴衆の歓声を誘う。スクエアは大きな息を一つつくと、立ち上がって皆に向き直った。
「王妃ばんざい!」
「ハルフノールに栄光あれ!」
「ジグハルト様、ばんざい!」
大喝采は雨のようにスクエア、フォンデク、そして横に控えていたジグハルトにも降り注ぐ。シールズの一件はまるでなかったかのような晴れやかな空気は、かえってスクエアの心配を募らせるものであった。
式典を終え、着替えを済ませたスクエアの元へ、ジグハルト、数人の文官、そしてジェラーレが向かう。ジェラーレに対する視線は一様に冷たいものであったが、当人は平然としていた。ジグハルトの速い歩調にあわせつつ、文官たちは整理した情報を読み上げる。移動の僅かな時間もまた、彼らにとって抱えた情報を報告、集約、整理する極めて貴重な機会であった。
「竜の出現は確かな事実なのだな。ニヴァ観測所からの連絡が途絶えた、ということは何者かに破壊されたということか」
「おそらくは。その後も次々と観測所が破壊されております。ルリナ、ジンベィオ、ハナラー観測所と続き、最新の連絡によると、キッドソンも破壊されたと聞きます」
「大陸中心ではなく、海へと抜ける方角、つまりはハルフノールに向かっている、ということだな」
「……左様です」
「分かった。下がっていい。ジェラーレは残れ」
文官たちが去った後、ジグハルトは、僅かに顔をひきつらせた男に話しかける。鉄面皮たるジェラーレに不快な表情が見えるのは、極めて珍しいことであるが、そんなことを気にしている場合ではない。
「まさか、トムスという男は本当に竜を呼べるのか?」
「……」
「すまない、意地の悪い質問だったな。人間にそんな力があるわけがない。だが来るのであれば、対処が必要だ」
「御意」
ジグハルトは窓の外に向き直り、ジェラーレは内心で安堵した。怒りと困惑を浮かべた顔を他人に見せるのは、屈辱以外の何物でもなかったからだ。目の前の男は、そんな内心にすら気付いているのかもしれないが。
「陛下にお会いする。ついてきてくれ」
「どうなさるおつもりですか、ジグハルト様?」
「俺のやることは変わらない。この国のためになることをする。今竜に来られたら、この国はおしまいだ。であれば他国の力を借りるしかない」
「本当に改宗をなさるつもりなのですか?」
「国が守れるならば、な。お前とてそうするだろう?」
「私は、そもそも神を信じておりませぬゆえ」
この世界において不敬極まる発言であったが、ジグハルトは声を上げて笑った。
「そうだった。神に頼る時点で負け、頼りになるのは、己自身の力のみ、というのがジェラーレ・シンタイドという男であったな」
「はい」
ジェラーレは平然と返事を返す。その強烈な自負心、神などという存在に頼ることは弱くなるだけと断じる人生を送ってきた男だ。自負に恥じないだけの力を手に入れるために、どれだけの修羅場をくぐったのだろうか。各国を渡り歩き、それなりに苦労も味わってきたジグハルトであったが、そんなものでは想像すらしえない辛苦を、ジェラーレはその身に刻んできたのであろう。
「……ふん」
一方、美しいという形容しか思い当たらないようなジグハルトの背中に、ジェラーレは微妙な視線を投げかける。竜の襲来という事態に直面しても、ジェラーレにとって、世界は醒めた観測対象でしかない。自分の生死にかかわる「何か」に対しての並外れた鋭敏である彼の皮膚感覚に、竜到来の報告はさほどの刺激を与えるものではなかった。この国がなくなるのであれば、別の場所へ逃げればよいだけだ。どんな状況であっても自分だけは生き残るという自信、誰にも負けぬという誇り。荒み切った人生の中は、ジェラーレの心身に鋼の強度を与えていた。
そんな男の感覚に、ハルフノール国内において唯一引っかかるのが目前の男、ロイ・ジグハルトである。老若男女問わず、情感をくすぐるような人的魅力に加え、広い世界を知る者だけが持つ視野、洞察力、更に剣士としても、自分がこの国で唯一倒しきれないと思うほどの冴えを持つ、まさに異才と言うべき男であった。
だが、そんな些末な部分ではなく、もっともジェラーレが畏怖するところは、ジグハルトが自分と同じく、神という存在をあくまで『手段』としてしか捉えていない、という点に尽きた。彼は正しく生き、そして正しく世界から報われた存在である。恵まれて、祝福されて世に生まれ、世界を手にすることに何の疑いもない。そんな、まさに神に愛された境遇でありながら、何故改宗などと、神を捨て去ることができるというのか。あれだけ悪逆の限りを尽くしたシールズでさえ、神に対する根源的な恐れはあった。でなければあれほどまでに、王族狩りに執着はしなかったであろう。ジグハルトはそんな心の障壁を軽々と乗り越えて、更に先を見据えているのだ。シールズもまた、敗れるべくして敗れたのだ。
彼だけは超えなければならないと、危機察知に特化した神経が警告する。でなければ、自分自身の何かが崩壊する、と。ジェラーレに宿る思いは、暗く黒煙を上げ、激しく燃え盛るかのようだった。
執務室に入ったとき、ジグハルトとジェラーレは、スクエアを一瞥し、思わず立ちすくむ。彼女のまとう香気に陶然とさせられたからだ。春を思わせる柔らかな匂いは、その場にいる誰をも和ませるに足りた。ジグハルトは、スクエアが自分ではなく、ジェラーレに視線を合わせたのを敏感に感じ取りつつ、その場に膝をついた。
「陛下、改めて御即位おめでとうございます」
「顔をあげてください。ジグハルト様。これから貴方に頼る場面が増えると思います。頼みにしていますよ」
「ありがたきお言葉。このジグハルト、非才なる身の全力を尽くします」
鷹揚に頷くスクエア。一夜にして風格のようなものまで漂わせ始めている。立場が人を作るということなのだろうか。
「そんなに畏まられると恐縮します。以前は私が仕える側でしたから」
「恥ずかしながら記憶にありませんな」
「それはそうでしょう。私はただ、颯爽と回廊を歩くあなたを遠くで見やっていた侍女ですから」
笑みを交わしつつ、スクエアはジェラーレをちらちらと伺うが、当の本人はジグハルトと同じく膝を屈し、何の反応も示そうとはしない。ようやく会えた、元気そうでよかった。スクエアの顔に宿る安堵を、しかしジェラーレは頭を垂れたままで見ようともしない。この距離間を選んだのはスクエア自身でもあるが、胸に宿る寂しさは隠しようもなかった。
「国民へのお披露目も滞りなく終了いたしました。皆陛下の即位を寿いでおります」
「ありがたいことです」
「フォンデク大僧正にもお世話になりました」
ジグハルトは、フォンデクに向け、頭を下げる。シールズの追及を避けるため、スクエアの身柄を預けるために秘かに協力体制を取っていたからだ。ジグハルト陣営としては、あくまで侍女、先王襲撃の生き残りという認識であったが、まさか王族の血を引く人間であるとは。情報戦において、フォンデクが一歩先んじていたためにジグハルトはしてやられたが、そこは何も言わない。王族内における暗闘を何より知りつくしていたフォンデクに一日の長があったということなのだから。
「御苦労であった。ジグハルト卿。卿のおかげで、宰相シールズの専横は終わり、この国に秩序が取り戻された」
フォンデクは常の温和な表情を消して語りかける。ジグハルトは無言で頭を下げる。
「ハルフノールに女神ハルの志を受け継ぐ正統な国王が即位したからには、神の名の元に、正しき統治が行われることになる。御身は高貴な血を引く一族なれど、王に勝るものではない。つとめて忘れぬようにな」
「おおせのままに」
「フォンデク、あまり言い過ぎては。ジグハルト卿は全てご承知でしょう」
「陛下、政事に関しては、私の方で万事承りとうございます。ジグハルト卿のお手を煩わせることはないでしょう」
フォンデクの言葉は、ややジグハルトを意識しすぎているようである。ジグハルトはやんわりと受け止めた。
「これから、女神ハルへのお願いが増えることでしょう。私は差し出た真似をしないよう心いたします」
「ジグハルト殿。お話したいことがあります。もう聞き及んでおられるかもしれませんが」
「竜、でございますね。今まとまっている情報を報告します」
割り込むように発されたスクエアの押し殺した声を受け、ジグハルトもまた態度を改めて新しい王に向き直る。ジグハルトの簡潔にして要点を抑えた説明を聞くにつれ、スクエア達の顔から血の気が引いていった。
「今の進路をそのまま直進すれば、ハルフノールに到達することになるでしょう。街中に流れていた噂は、真実であったということでしょうか……?」
「陛下、まだこのハルフノールに上陸すると決まったわけではございません。よしんばこの国に竜が向かってきたとしても、女神ハルの御加護が戻った今、恐れるものなどございません」
フォンデクの言葉の端々に棘が含まれている。ゼピュロシア大神殿の時とは様子が違っていた。ジグハルトに対して弱みは見せられないということだろうが、それにしても露骨であった。おそらく、フォンデクはスクエアに対し、これが、この宮廷でふるまうべき態度であると見せているつもり、なのであろう。スクエアはそう考えつつも、うんざりする気持ちを隠せない。一方、年少であるはずのジグハルトは、相手に合わせることなく沈着を保っていた。
「猊下のおっしゃるとおりですが、状況は予断を許しません。女神ハルの守りの消えた数年間、その空白によって竜にこの島が気付かれた可能性は否定できないでしょう。問題は、竜が実際に襲来した場合、我々には対抗措置がないということです」
「ハルはまた、奇跡を起こしてくださる!今回スクエア王女を呼び戻したのもまさに神の御意志あってこそ!」
「奇跡を期待していては、政治はできませぬ。最大の被害を想定した上で行動することこそ肝要です。恐れながら陛下、このロイ・ジグハルト、一点の私心も邪念もなく、ただ国のためにあえてご無礼申し上げます、陛下は女神ハルを降臨させることができますでしょうか?」
フォンデクが額に青筋を浮かべて何かを叫ぼうとしたのを、スクエアが止めた。
「わかりません……ハルの存在自体は感じています。島を離れ再び戻ったことで確信しました。ハルは私が生まれた時から、いえ、遥か昔から変わらずにこの島と共にあったと」
「おお……」
喜色を浮かべかけたフォンデクを再び制し、スクエアは言葉を続ける。
「ですが、あくまで存在だけです。ハルはこの島のすべてに宿っている。しかしそこに彼女の意志、知性といったものは感じ取れません。五大神のように、魂となって天に上ったのであれば、この世界に呼び寄せることもできましょう。ですが島と一体化した魂を再び切り離すことができるのか。やってみたい、いや、やらねばいけないのだと分かっていますが」
スクエアの凛とした態度に、ジグハルトは更に深々と頭を下げた。
「正直にお話いただき、感謝致します。陛下は自らを偽ることなく、この事態に最も正しい行動をとられた。ですので、私も率直に自分の意見を申し上げます。陛下、この国をお開きください、五大国の下、円蓋の一柱となるのです。竜に対抗するためには、それしかございません」
「何ということを!ハルフノールは女神ハルへの信仰こそが国の支柱!他の神々の介入の余地などない!」
「お言葉ですが、そもそも竜は神をすら滅ぼした破壊の化身。正面からぶつかってはいかに女神ハルとはいえ、勝てる保証がございませぬ」
「不敬なり!」
「フォンデク大僧正。まずはジグハルト殿のお話しを聞きましょう」
スクエアのとりなしを受け、フォンデクは引き下がる。熱くなってしまったことの自覚はあるようで、深呼吸を繰り返していた。だが、ジグハルトはさらに衝撃を与える一言を躊躇なく発した。
「私はエスパダールの使者と話す中で、【大いなる円蓋】を発生させる大法具を、ハルフノールに貸与するという話をいただいております」
「!」
「‼」
スクエアも、フォンデクもとっさに言葉がない。【大いなる円蓋】の驚異と力について、この世界で知らぬものはいない。竜に対する人類最後にして最大の備えであり、五大国以外の諸国においては垂涎の的であったからだ。
「条件として、私がスパッダの信仰を受け入れること。いずれはこの国にエスパダールの教えを受け入れること。そして今後の海洋貿易において、エスパダールに港を開き、補給の拠点として利用させること……」
一瞬の空白があったが、皆まで言わせずに、フォンデクが激した。
「世迷言を申すな!折角ハルへの信仰が復活しようというときに、他国の宗教を取り入れるなどと!しかも自身が改宗するとは、この国を見限るつもりか!」
「逆です。ハルフノールを守るためには、もうこの手しかないからこその決断です」
ジグハルトの舌鋒は鋭くなるにつれ、スクエアはたまらずに何度かジェラーレに視線を送るが、当の相手は全く動じることはなかった。
「ここで、大国エスパダールの支援が受けられるのであれば、此度の竜からも、そしてその後に来るであろう諸外国との覇権争いにおいても、ハルフノールはこの上ない味方を手に入れることになります」
「馬鹿な……」
絶句するフォンデクを後目に、ジグハルトは、立ち上がって話を始めた。
「エスパダールは切っ掛けにすぎません。いずれ残りの四国にも門を開き、大陸の国家と積極的に交わっていくべきです」
「……」
正直、つい先日まで侍女でしかなかったスクエアには話の大きすぎる内容であった。
「今であれば、エスパダールの使節団の出国まで時間があります。陛下にもお話をいただければ、今後の展望も……」
「何を言う。ジグハルト卿、そなたの申すことは国を割り、民を乱す原因としかならぬ!」
「と、言われましても。現実に竜からこの国を守る術がないのは事実。まして竜が動き出しているとなれば一刻の猶予もない。陛下、ご決断を」
「陛下、妄言に惑わされてはなりませんぞ!この男、いずれ自身が王とならんがため、味方を引き入れようと考えているだけかもしれません!」
「フォンデク最高司祭とはいえ、今の発言は聞き捨てならない!臣民の為を思えばこそ!」
「止めなさい!」
高まりかけた口論を、何とか止める。
「お話は分かりました。少しでいい、時間をください……」
スクエアの顔にある焦燥と困惑に、ジグハルトは我を取り戻す。
「いきなりの話、無礼は慎んでお詫び申し上げます。ですが、時間がない。エスパダールの使節団には私のほうからお話させていただきます。同時に、陛下にお願いしたきことが一つ」
「何でしょうか?」
「国民に竜襲来の事実を告げること、そして避難のための船について貴族からの供出、さらに他国への救援依頼を、できるだけ早く」
「竜が来るとは限らないはずだ」
「来なければ上々。ただ来てからでは遅いのです」
「……分かりました。早速準備します」
「ありがとうございます。それでは」
ジグハルトはさっと一礼をして退出する。ジェラーレも彼について、部屋を出ていこうとする。
「ジェら―」
スクエアは出かかった言葉を飲み込む。必ずジェラーレは来てくれる。話をする時間を作ってくれる。確信めいた思いがあった。無言で見つめるスクエアに応えることなく、丈高い背中は部屋を退出していった。
スクエア達ハルフノール中枢で激烈な議論が交わされたことなど知る由もなく、ジグハルトに会うため、デリクスとジェズトは別室で待機していた。
「さて、大変なことになりましたな。ジェズト卿」
どう頑張ってみても大変そうに見えない様子のデリクスであったが、ジェズトも意外なほど平静であった。エスパダールが進路から外れており、危機感が刺激されないのだろうか。
「全くだ……街の噂が本当になるとはな」
「同盟に関して、本国の回答は?ジグハルト卿は当然締結を希望するでしょうが」
「既に来ている。当然のことではあるが、ジグハルト卿が政権をとれなかった以上、仕方のないことだ」
「そう、ならざるを得んでしょうな」
デリクスの言葉に対し、ジェズトが何か言うより先に、ジグハルトが姿を見せた。
「お待たせしました」
「いえ。竜というのは、全く無粋なものですな。こちらの都合など全く考えようとしない」
「先方にも思うところがあるのでしょうか。さて、一瞬でも時間が欲しい。エスパダールに改めて、同盟の件をお話したいのですが」
「……」
僅かな反応の遅れを感じ取れぬようでは、政を司る資格はない。ジグハルトは言葉の剣を僅かだが鞘走らせた。
「どうやら、結論は出ているようですね」
「申し訳ない、ジグハルト卿。状況が変わってしまった。もし華の儀において、あなたが完全な勝利を収めていれば、あるいは上手くいったのかもしれないが」
お互いが、重々承知していたことではあったが、華の儀における最大の亀裂は、何あろうハルフノールとエスパダール、両国間の関係である。ハルフノールの国民はみな主神ハルの復活に沸く一方で、周辺諸国への拒否感が増すのは致し方ないことではあった。折角再びハルが目覚めた今、何故ここで国を開き、他の神々を受け入れる必要があるのか。我々には古くからの守護者がまた戻ってきてくれたではないか、と。
「我々との同盟を、ハルフノール市民も、そして女神ハルもまた寿ぎませんでしょうな」
ジェズトの声はともすれば涼し気である。国家的、そして何より個人的な野心が泡と消えた今、ハルフノールへの関心が消え去ったことは傍目にも明らかであった。
ジグハルトは目を閉じた。当然、この結論は予想していたところではあるが、だからといって対抗策があるわけでもない。いまこの時期に同盟を結ぶことに、ハルフノール領内の賛同を得るのは難しいであろうことも事実である。だが竜という危機からこの国を救うためには、どうしてもエスパダールの力が必要であった。
だが、ジグハルトが持つこの感覚は、他の人間から見れば異様であり、異質であった。まず神があっての国であるのが、この世界の人間の基本的な価値観であったから。このことはジグハルト自身も気づいてはいるのだが、かといって完全に他者の気持ちになりうるわけでもない。
「ハルが目覚めたとはいえ、我々には【大いなる円蓋】のような竜に対抗する手段を持ちません。今あなた方の力をお借りできなければ、この国が亡ぶ」
「事実かもしれませんが、それを国民に納得させることができますかな?」
「……納得させます」
珍しく、根拠も自信もないジグハルトの言葉に、ジェズトは唇を歪める。
「果たして、できますかな。神への信愛は親へのそれと同じ、いやそれ以上かもしれません。私としてもむやみやたらと信仰を変えようとは思いません」
内心の失望を隠しきれずにジグハルトにぶつけ、ジェズトは立ち上がった。一刻もはやくこの地を立ち去りたいというのは、竜の襲来を聞けば誰でも思うところではあるが、一国の代表としては露骨に過ぎた。ジグハルトがジェズトの背中に向けて声を投げかけてしまうほどには。
「スパッダは正義の神と聞いておりましたが」
ジェズトは振り返らない。
「勿論、神の名において約束は必ず果たします。結ばれていれば、の話ですが」
「……竜が来たと知って恐れをなしたか」
後ろに控えていたジェラーレの呟きを、ジェズトは無視した。デリクスは当然この展開を察知してはいたが、かといってかける言葉はない。エスパダール本国は、ハル復活の知らせを受けて、おそらくはデュミエンドと極秘に調整を図ったのだろう。エスパダールとデュミエンド、二国の対立はここでの深入りは五大国全体に深い亀裂を生み出すことになる。そこにきての竜到来は、五大国にとっていっそ福音とすら言えるものであった。竜が来るとなれば、むしろハルフノールが滅んだあとに乗り込んだほうが効率的。各国の陰謀家達が策を練っているところであろうことは想像に難くない。
「無論、救援については万全を尽くします。避難民の受け入れについても。もし女神ハルへの信仰を捨てることができれば、ですが。竜の名を聞いて信仰を変える民を、他国の人間がどう思うでしょうな」
ジェズトが言い捨てる言葉を聞き流しながら、デリクスは他人事のように、室内の男達を眺めている。神への信仰と国政が直結しているこの世界において、人の生き方もまた生まれた国、土地に縛られるものではあるが、今回は更にハルフノールという国の成り立ちに深く根ざす溝であった。大陸に生きる人間にとって、島国ハルフノールは、竜から逃げた『臆病者』の住まう国であるという認識が、ここに来て仇となった。デリクスは、誰にも見られていないことをいいことに変な顔を一瞬だけ作ると、声を上げた。
「何やら、報せが来たようですな」
部屋の外に響く足音は、室内の淀んだ緊張感を変えることだけには役に立った。
「デリクス司祭長、一つ頼みがある」
退出し、話を切り上げてほっとしたジェズトが、後ろにひかえるデリクスに声を潜めて話かける。
「は、何でしょうか」
「聞いてのとおり、エスパダール、デュミエンドともに一旦は完全にハルフノールから手を引く。竜の襲撃が終わった後で、改めて対応を検討するというのが本国の決定だ。その際【円柱】は破棄するよう命令があった」
この命令もまた当然のものである。【大いなる円蓋】の神秘は、五大国間の最大の秘密である。実際のところ、法具だけでは役に立つものではないのだが、それでも、技術の流出は絶対に避けたいというところであろう。
「……竜が襲来した際、【大いなる円蓋】を発動させれば助かる命があるのではないでしょうか?そもそもそのために、わざわざ持ってきたわけですし」
「相手が悪い。ここでもし万が一【大いなる円蓋】が破られた場合、諸国及び五大国内部の影響は図りしれない。【大いなる円蓋】は無傷でなければならぬのだ」
相手が悪い、ジェズトは身を震わせつつ繰り返す。幼少期から刷り込まれた恐怖、畏怖が体を縛り付けて放さないというところである。たった今もたらされた一報は、それほどまでの凶報だった。
「かしこまりました」
デリクスは頭を下げつつ気を取り直し、軽く冷笑した。結局はどこも自己保身に走るということだ。大いなる大義とやらを今まさに果たすべき瞬間であろうに。ジェズトが立ち去る足音が遠くなってから頭を上げたデリクスは、身を翻して悩める大貴族の元へ戻る。
悄然とした様子を僅かに漂わせたジグハルトを、デリクスはぼんやりと見つめたが、やがて声をかけた。
「お気の毒、という言葉は失礼でしょうな。ジグハルト卿」
「……お気持ちはありがたくいただきましょう。私がジェズト殿、いやエスパダールと同じ立場であれば、同様の判断をしたでしょうから。五大国のお歴々は、ハルフノールが滅んだ後のことを既にみているのでしょう?」
デリクスは目だけで同意の意志を示した。
「一言だけ言わせていただければ。ジェズト侯爵の申し上げた通り、もし先に約定がなされていれば……」
「分かります。同時に、何の意味もないことですね」
「……」
デリクスとしても自身の想定と現実が大きくずれてしまっていること慨嘆しつつ、顔全体を手で撫でることで表情を隠した。彼の見立てではそもそもハルフノール内はしばし混乱しつつも、次第にジグハルトのもとで統治が安定していくであろうと考えていたからだ。エスパダールもその過程で五大国間の調整を実施し、【大いなる円蓋】の傘を少しずつ広げていくことがもっとも望ましいものと思われた。が、ハルの声を聴く女王の誕生によりハルフノールは外へと開く門を閉ざすことになった。デリクスも千里眼ではないので、流石にこの結果まで予想することはできなかったが、それにしても、何とも皮肉な話だというしかない。
それでも、あと一年あれば、エスパダールは諸国を説得し、単独ではなく五大国の総意にもとづき、【大いなる円蓋】の傘の下にハルフノールを迎える可能性もあった。しかし、それすらも竜の襲来によって阻まれようとは。
「それにしても、不幸というものは、どうしてこう限度を知らんのでしょうな。まさか、竜王に御足労いただくとは……」
エスパダール本国からの知らせは、簡潔で、深刻であった。
「黒王竜、グリオーディア襲来」
名前を聞いたとき、デリクスが立ちあがって机の脚に自分の足をぶつけ、ジェズトも顔面蒼白となって暫く声が出ないほどであった。グリオーディアといえば、八か月前にツィーガが遭遇した、白帝竜イングレイスと並ぶ五大竜のうちの一体である。
人類が把握している竜の中でも最古にして最上位に位置する五大竜中、最も凶暴かつ獰猛と恐れられ、数多の神々を天に昇らせることなく根源まで焼き尽したとされる伝説の存在であった。人類に対し明確な破壊の意志を有し、遥か昔に出現した際、滅んだ国は四〇を超え、現在の五大国への再編成の大きな要因となった。身の丈は山を覆い、「息吹」一つで一国を焼き尽し、世界のどんなものよりも黒いとされる鱗を傷つけることは神々ですら成しえなかったという。
言葉がない、とはこういうことだ。ジグハルトにとっては、エスパダールとの決裂以上に衝撃である。神ですら及ばなかった竜が、今ハルフノールにやってこようとしているのだ。
「ジグハルト卿。誠心より申し上げる。民を救うためには、この島を捨てることが必要かかと」
「捨てたとして、どこに行く?私ならば何処へでも行ける。だがこの国には、この島でしか生きられぬ人々が大半だ」
「……」
「そして、他の国の人々は言うだろう。竜より逃げた臆病者に、ついに天の罰が下ったのだと。先程のエスパダールの貴族殿のようにな。たとえ生き永らえたとしても、待っているのは他の信徒からの侮蔑と迫害であろうよ」
デリクスは否定する言葉を持たなかった。流浪の民の悲哀は、この世界の過酷な一面である。国は決して元にはもどらない。信仰は分断され、より大きな力に飲み込まれていく。
「ならば、戦うのですか?」
「私は、戦わねばなるまい、命をかけて。そうすれば国は滅んでも、名は残る。その名によって、生き延びた人間が救われるのならば本望」
ジグハルトの瞳が燃え上がる。そこには純粋に、高貴なるものが背負うべき重責に屈することなく立ち上がろうとする、凛々しき人間の姿があった。デリクスの頭が自然と下がる。
「で、あれば、まずは情報を集める必要がありそうですな」
「情報?」
「竜の接近を予測していた男が一人、彼に事情を聞く位の時間はあるでしょう」
「その通りですね」
「待ちくたびれたぜ」
トムスはデリクス達にそう言って笑いかけた。竜到来を的中させたことによる自信が身体の内側から溢れでんばかりに満ちているように見える。
「いやあ、流石はトムス・フォンダ大先生!このデリクス感服つかまつりました」
卑屈にすら見えかねないデリクスの遜りに、ジグハルトは息をのみ、トムスも毒気を抜かれたような顔を一瞬みせた。
「それで先生、どうしてグリオーディア来襲を予測できたんです?ひょっとして先生がお呼びになられたとか⁉」
「おいおい、聞く必要がなかったんじゃなかったのかい?」
「もう聞いても良い時期でしょう。ヒルピレン山脈を越えた時点で賭けは締め切りでしょうし」
トムスが器用に片方の眉だけ吊り上げてみせた。
「あんた神官のくせに、妙に竜賭博に詳しいな。ひょっとして隠れてやってるのかい?」
「とんでもない。あくまで知識として、ですよ」
「まあいい。散々繰り返している通り、俺の仕事は襲来を予測するまで。だからこそわざわざこんな辺境の国までやってきて、さっさと逃げろと注意してやったんじゃねえか」
「それだけが目的なんですか?」
「勿論それ以外にもあるさ」
「何です?」
「観光だよ。誕春祭には一度来てみたかったしな」
「……」
考え込むような顔に変わったデリクスを見て、ジグハルトが質問を始める。
「グリオーディアが襲来する場所や日時は分かるのか?それまでに避難を完了させねばならない」
「竜によって個体差があるから何とも言えんが、大型種であれば大陸を跨ぐのに、七日とかからんだろうな」
「七日……大陸への船も二往復が限度か」
「戻ってくることなんか考える必要ないぜ、相手は一息で国一つ消したとされる竜だからな。こんなチンケな島なんざ跡形もなくなるだろうよ」
皮肉に対して言い返す余裕も時間もない。ジグハルトが指示を出すために退室しようとするのを、デリクスが止めた。
「先生、それだけではないのでしょう?」
「あ?」
「ニアコーグですよ。ツィーガから聞きました」
「ニアコーグ?」
「邪竜と呼ばれる百歳前後のまだ若い、だが急速に力をつけてきている竜です。トムス大先生はそのニアコーグがこのハルフノールに現れるといっているそうなんですよ」
「何ですと……!」
ジグハルトの顔が引きつる。グリオーディアへの対応だけで限界を超えているというのに、その上まだ脅威があるというのか。トムスは若き大貴族の顔に薄笑いを浮かべていたが、口を開こうとはしなかった。
「さあな、ニアコーグについちゃ、なんとも言えねえよ」
「あなたは、ニアコーグに借りを返すそうですね」
デリクスの言葉に対して、トムスは沈黙のあと、ようやく呟いた。
「ああ」
「返す当てがあるということですか。先生の起こした騒動も、そのため?」
「さあね」
「借りを返す当てがあるというなら、いつニアコーグがでるか、分かるということですよね?」
「だから、何ともいえないね。何せ俺ぁこの国を詳しく見て回ったわけじゃあないからな」
「何とか突き止めてくれ、必要とあらば人も出す」
射貫かんばかりの鋭いジグハルトの視線に対して、トムスはこれぞ辛辣という表情と声になった。
「いいのかよ?ただでさえ人が足りないのに、無駄足になるかもしれないようなことに貴重な資源を投入してよ。んなことより、さっさとこの国捨てて逃げ出しな!」
面倒なことは御免だ、とトムスはせせら笑って言い切った。
「勝手にやらせてくれ。お前らと組んでもうまくいかねえことぐらいわかるだろう。出してくれたら、礼に何かわかったら知らせてやるからよ」
ジグハルトはデリクスを見た。デリクスは卑屈な態度と表情のまま、頷いてみせた。
「任せましたよ先生!」
「……じゃあな」
さすがのトムスもデリクスの態度に辟易しつつ、悠然と歩み去る。
「……これでよかったのでしょうか?」
「彼の行動を縛ることはできませんよ。せいぜいが監視をつけるぐらいでしょう」
「しかし、ニアコーグなる竜が出てくるとなれば、避難にも影響が……」
ジグハルトはいつになく気弱な様子を見せる。デリクスとしては、気の毒に思うところもあるが、上に立つものとしては当然の義務ということでもあるので、気安げに声をかけるのみである。
「竜賭博師にとって、借りを返すという言葉は重いんですよ。貸したものは忘れても、借りだけは必ず返す。そういう人種です、彼らは。負けたままでは先に進めないってね」
「デリクス卿は、トムスという男に対しては好意的ですね」
「好意的というか、郷愁めいたものですな。私のような宮仕えでは決してできない生き方ですからねえ。近頃ああいう人種はめっきり少なくなりました」
廊下に出た二人の前を、騎士達が集団で駆けていく。どうやら竜について、国王からの下知を行うためのようだ。
「デリクス殿、ひとつ頼まれてください。竜の情報が正式に流れればおそらく街は混乱の極みに達する。治安維持と速やかな避難のためにエスパダール神官戦士達の支援が必要になるでしょう」
「頼まれましょう。部下も避難せねばなりませんから、時間の許す限りですが」
「当然のことです……この混乱、トムスはこれを狙ったのでしょうかな?」
「ニアコーグへの借りを返す、という言葉を素直に受け取るとすれば、邪魔な連中にはさっさと出て行ってくれということですがね」
「……」
考え込む時間はなかった。デリクスは足早にジグハルトの元を離れる。まさかハルフノールに来てまで超過勤務とはね、と内心でぼやきながら。
Ⅲ
デリクスの命を受けたツィーガは、祭当日よりも騒然となった町中を目が回る思いをしつつ走り回る。上司と違い、やる気は十分以上にあるのだが、そんな一個人の熱意を消し飛ばす暴風雨が街中に吹き荒れているというところである。
ハルフノール行政府から正式に竜接近の報が出された瞬間、人の流れがうねりとなって駆けまわりだす。予定を早め、我さきにと出国しようとする連中が港に押し掛け、出航しようとする船に無理矢理乗り込もうとする。
「いやだ、私はこの国からどこにもいかないよ、女神ハルが守ってくださる。まさにこの日この時のために、また戻ってきてくださったんだ、そうじゃないのかい?」
一方当然と言えば当然ではあるが、頑なに避難を拒み、ハルに祈りを捧げる者も現れ、避難は遅々として進まない。家族と別れ、一人閉じこもった老婆を何とか説得し終えたところに、同じく駆り出されていたエクイテオから声がかかった。
「今度は喧嘩だ!」
「もう喧嘩の一つや二つ放っておきたい……」
エスパダール神官戦士にあるまじき言動を、エクイテオは非難せず事実だけを述べた。
「子供が大人の集団に囲まれてる。あのままじゃ集団で私刑を受けるぞ」
「何だって⁉」
疲れ切った身体に鞭を打ちつつ、ツィーガはエクイテオに続いて駆けだした。目的の路地に来ると、丁度少年が突き飛ばされて路上にてへたりこんだところだった。年齢は一〇代に入ったころか、強気な表情を崩さず、取り囲む男達を睨みつけている。周囲の人間は、男達の剣幕を迷惑そうに眺めているだけ。ツィーガは勢いをつけて割り込んだ。
「どうしました!」
「うるせえ!」
声をかけるなり、手にした鞘に入れたままの剣をツィーガに振るった。はじめから理性の箍が外れている。軽くかわすと、相手が驚きの顔を浮かべつつも、鋭い剣幕で捲し立てる。
「どうしたもこうしたもない!こいつ、俺達の財布を掏りやがった!」
「へっ、お前らみてえな貧乏人から盗ったりするもんか。たまたま落ちてたから拾っただけだ」
少年は財布を男に投げつける。
「何だと!」
目を血走らせて睨みつけるひげ面を男と少年の間に割り込みながら、ツィーガは必死でなだめようとする。街全体が殺気立っている中、誰もが自分のことで必死なことを責めるわけにはいかないことは充分に承知しているが、かといってその場を収めることができるかは別問題である。
「まあまあ、まずは落ち付いてください。今はもめている時ではありませんよ。竜が来る前に早く避難しなければ。財布があるならそれでよしとしましょう」
「うるせえ、そもそもてめえはなんだ!余所の国の奴が、偉そうに指図するんじゃねえ!
「おい、あいつ逃げるぞ!」
見れば少年は一瞬の隙をついて、逃げようとした。
「待て!」
「わっ!」
少年に押しのけられ、尻から落ちたツィーガが見たのは、後ろを伺いつつ走りさろうとした少年が、正面からきた大柄な騎士と正面衝突しそうになるところだった。
「おい!邪魔をす……」
男の口を封じたのは、電光のごとく抜き放たれた刃だった。右手の刃で男を制し、左手で少年の肩をつかんでいた騎士の顔を見て、皆が蒼白になる。
「……じぇ、ジェラーレ卿……」
ハルフノールの人間であれば知らない者はいないであろう、その強面に一瞥され、男達の威勢は一息に凋んでしまった。騒ぎを取り囲んでいた野次馬も、蜘蛛の子を散らすように消えていく。
「何事だ?」
何事もなかったかのように左腰の鞘に剣を納め、ジェラーレは男に問いただした。
「へえ、実は……」
細い声で事情を話しだす。すでに騒動は収まっていた。
「わかった。ではこの子供の身柄は私が預かる。財布の中身は大丈夫だな」
「はい……お手数かけてすいません」
「今はまさに未曾有の国難、互いの協力こそが重要だ。気が高ぶるのは仕方ないが、ほどほどにな」
すごすごと立ち去る男達の姿が消えた後、硬直して動けない少年に向けて、ジェラーレが穏やかに、だが単刀直入に問いかける。
「何故、盗みなどをした?」
「家に、病気の母親がいて……逃げたくても船賃も無いし……それで、俺」
観念したのか、べそをかきつつ真実を口にした少年の目線までしゃがみ込むと、ジェラーレは普段を知る人間からすればびっくりするほどの柔らかい声を出した。
「そうか。お前も必死に生きてきたのだな」
「……」
「お前の罪は、私が預かろう。今は母親の下に帰れ。名前は?」
「シンダ」
「船の代金が払えないような者達を載せる船を今調達しているところだ。募集が来たら、私の名前をだせ。乗れるよう手配をしておこう」
「……あ、ありがとう!」
「では行け、これに懲りて、二度と悪さをするなよ」
立ち去る背中を見ていたジェラーレは、ツィーガの視線に気づく。
「貴方は……」
「何か驚くようなことかな。私とてこの国の騎士だ。民の避難を援助するのは当然の務めのはずだ」
「え、ええ。そうですね。私もお手伝いさせてください」
何故だかツィーガは嬉しくなり、自然と顔がほころんだ。
雑踏の交通整理や、もめ事の仲裁、救援を必要とする人を記載した名簿の本人確認といった作業に多忙を極めつつ、一日が終わっていった。何となくそのまま同行することになったツィーガとジェラーレだったが、街灯が灯りはじめたのをきっかけにいちどそれぞれの拠点に戻ることとなった。帰路の途中、ツィーガはふと昼間のことを問いかける。
「何故、あの少年を捕えなかったのですか?」
「あのような微罪を裁いている暇はない。今は避難支援こそが成すべきこと。余計な混乱を拡大させても無駄な仕事が増えるだけだ」
切り捨てるような言葉を聞きつつも、ツィーガは視線を逸らさない。ジェラーレは、しばし無言であったが、やがてぼそりと呟いた。
「誰もが、好き好んで罪を犯すわけではない。恵まれぬ境遇の中、必死で生きてきた結果だ。本当に悪いのは社会であって人ではないからな」
淡々とした口調に秘めた熱が隠されている。ジェラーレはこの一日、疲れを知らぬかのように働き続けていた。彼もまた今日のような人と触れ合う仕事に充足を覚えているように、ツィーガには見える。
「その通りだと思います。個人の不幸を減らすためにこそ、社会があるはずだ」
「しかし、現状は違う。自身の出自だけで幸不幸が決まる階級制度。みじめな立場の人間を踏み台にし、幸福をかすめ取ることで生きている連中。このままでいいはずがない」
「社会を、変えねばならない、そういうことですか?」
「そうだ、そしてそのためならば私は全ての苦労を厭わない」
ツィーガはまっすぐ向きなおり、ジェラーレに対して頭を下げた。
「私は、貴方を誤解していた。率直にお詫び申し上げる」
「別に詫びてもらう必要などないがな。ではいく」
立ち去る姿が見えなくなるまで、ツィーガは背中を見つめていた。
翌日、狂騒の裏で、ひっそりと一つの決定が下る。前国王スタン・ニルグはハルフノールから船で三日ほどかかる離れ小島での幽閉となったとの連絡を受けたリーファは、ようやくにジグハルト邸での監禁生活から解放されることになった。
丁重な扱いではあったが、終始護衛の目を受けた生活が終わり、やれやれと外の空気を吸おうとしたところに飛び込んできたのは、街を駆けずり回る人々の群れである。家財道具を纏めて港に向かう人間が大移動する中、ここ数日の情報が全く入ってこなかったリーファは、荷物を抱えて途方に暮れている婦人を見かけ、手伝いつつ質問をする。
「何か、あったのですか?」
「ぼーっとしてんじゃないよ!竜が、竜が来るんだよ、ハルフノールに!」
「本当ですか?」
「しかも、竜の中の竜、五大竜王の一体、黒王竜、グリオーディアだよ!」
「グリオーディア……!」
リーファは目を見開いて答えとする。イングレイスに引き続き、五大竜が出現するのは、何か意味があるのだろうか。竜に出会ったときの感覚を思い出し、身体に自然と震えが奔る。八か月前に対面したあの偉大なる竜と同等の存在が、今また自分の前に現れるというのだろうか。
「昨日、国から避難命令が出たところさ」
「行く当てはあるのですか?」
「一応。ハルフノールは海の国だからね、知り合いや親族が他国にいるから、ひとまずはそこに身を寄せることにするよ。まさか、この国に竜がくるなんて思わなかったけど」
この世界において、竜の襲来はある意味日常茶飯事であり、各国において一時的な避難に関する協定は当然のごとく結ばれている。ただ問題は、今回グリオーディアが去ったあとに、果たしてこの国が残っているのかということだが、今は深く考える余裕もない。リーファは軽々と荷物を抱え、婦人は目も丸くする。船上の人となって、リーファ手を振ってきた。
「手伝ってくれてありがとうよ。あんたもこの国の人じゃないなら、早く逃げたほうがいい!」
見れば、祭や竜の騒動を当て込んで商売を行っていた集団も、我先にと船に乗り込んでいる。港は、船を待つ人間でごった返しており、混乱を収拾できないまま拡大していくようだった。残されたリーファに恐怖はあったが、心にはまだ落ち着きと余裕があった。
「グリオーディア……」
『追竜者』にとって、竜は生涯を賭して追いかける目標である。かの偉大なる存在に触れ、挑むことは人生の本懐であると、幼い頃から叩き込まれてきたからであろう。いざとなれば、堂々と戦い、果てる。イングレイスに対して振り上げることのできなかった拳を、今度は振るうことができるのだろうか。相手は自分など一顧だにせず滅ぼすだろう。その時、自分は何を見ているだろうか。
リーファは自らに問いかけつつ、何かを思い出したかのように駆けだす。ツィーガ達もさぞ苦労しているだろうということに思い至ったからだ。
エスパダールの宿舎に戻り、見知った顔から安堵の声をかけられつつ、デリクスの部屋に挨拶に向かった。
「おお、無事で何より。いやあ大変だったねえ」
そう口にするデリクス本人のほうが、徹夜明けと分かる顔でいかにも疲労困憊である。リーファはここ数日の、ある意味では安楽といっていい生活を思い返し、内心で赤面した。
「いえ。ジグハルト殿のお屋敷の皆様にはとても良くしていただけました。デリクス司祭長にも色々とご尽力いただいたそうで、ありがとうございました」
「街を歩いてきたから、おおよその事情は察していると思うけど、何にせよ人が足りない、ツィーガも丁度戻ってきているし、手伝ってもらえるとありがたいな」
「勿論です」
「もし、グリオーディアが来たら、君は戦うのかい?もしそうでなければ我々の船に乗るといい。『追竜者』に対して、失礼かもしれないが」
「ご配慮ありがとうございます。自分も今まさに、それを悩んでいるところです」
リーファの率直な言葉に、デリクスは曖昧に頷くのみだった。居場所を教えられ、続いて食堂を訪れると、半ばまで口をつけた朝食をそのままに突っ伏しているツィーガを見つける。何とも言えぬ愛嬌を感じて、思わず吹き出してしまったが、エクイテオに見とがめられてしまった。
「よう、リーファ」
「あ、あの、その、ごめんなさい」
「?とりあえず元気そうでよかった。屋敷の奴らは意地悪しなかったかい?」
リーファの内心に気付いているのかいないのか、エクイテオの笑みは柔らかく、韜晦に満ちて、心情を映し出すことはなかった。
「ええ。皆さまとても親切でした。ツィーガは大丈夫?」
「ああ、昨日働きづめでさ。今日も朝飯食ったらすぐ行くなんて言ってたけど、この様さ」
「休ませてあげたほうがよさそうね」
「そうだな。俺達でできることをやろうぜ」
いつもと変わらない朗らかな様子のエクイテオに、リーファは気持ちが落ち着くのを感じつつ話しかける。
「にしてもテオ。あなた竜は怖くないの?」
「勿論怖いけど、怖がっててもしょうがないさ。できることからひとつずつってね」
まずは、こいつを寝台につれていくことさ。そう笑うエクイテオだったが廊下からの声を聞きつけ、表情が引き締まる。
「火事だ!船が燃えている!」
「いこう、リーファ」
「ええ!」
大声と、火事から逃れようと雪崩を打って逃げる市民の激流を脇道に逃げ込み、さらに壁を蹴って二階に上がり込み、すんでのところでかわす。巻き込まれて下敷きになってしまった人間も多数いるようだ。さらにリーファは壁伝いに屋上まで登り、様子を見ると、すでに黒煙を上げ半ば以上が炎に包まれた船体の船と、逃げるために海に飛び込んでいる人々が見えたところであった。
「酷い……」
助けにいかなきゃ、跳躍のために大きく屈み込もうとしたところ、リーファの鍛えられた視野の端に、自分と同じように屋上から状況を見やる人影を発見した。とっさに遮蔽物に身を隠す。慎重に様子を伺うと、何やらを船に向かって放っていた。どうやら、火矢のようである。命中した船がさらに激しく燃え上がる。
「あの人が、犯人!」
こちらの様子に気付いている様子はないが、人影は新たな標的を求め屋根を飛び移り始めた。身ごなしは軽く、自分と同等か、それ以上の敏捷性である。船の様子を眺めたあと、どこかに消えようと移動を開始した。とっさに何をすべきか逡巡したとき、助けの手が突如現れた。
「テオ!」
風の精霊の力だろう、宙に浮いてリーファの近くに寄ってきた。
「こんなところで何をやってるんだ?」
言葉ではそういいつつ、リーファの視線の先を追う。状況を察してすぐさま身を隠し、声を潜めた。
「あいつが、火矢で船を射ていた」
「何だって?」
「私が何とかしてみる。テオは、火事をお願いできる?」
「了解だ。気を付けてな!」
テオとリーファはわずかに頷きあい、行動に移る。気配を悟らせることなく、さりとて置いて行かれることのないよう、相手の動きに呼吸を合わせる必要がある。リーファは全身の志力を意識し、解放する。身体に意識を預ける感覚に、四肢が研ぎ澄まされていく。標的に向け、リーファは軽やかに宙を舞った。
「さて、いきますか」
リーファの背中を頼もしげに眺めやりつつ、エクイテオは呟いた。
『私もいますよ』
どこからともなく声が聞こえる。風の精霊の力を借りた遠話であった。
「カイムさん!」
『この土地の精霊とは、私が話をしたほうが通じやすい。海の精霊と話しをつけて消火させますので、エクイテオさんは連れ合いである風の精霊と、人命救助をお願いします』
「分かりました。あと、放火の犯人が、火矢を使ったそうです。分かりますか?」
『探してみましょう』
海面の一部が盛り上がり、巨大な水の塊が炎に覆いかぶさりはじめた。盛大な音とともに水蒸気があがり、一気に火を消していく。水の量といい、船体に負担をかけない柔らかさといい、見事な操作である。海の精霊は気まぐれで、なかなかいうことを聞いてくれないが、カイムほどの技量と信頼があればこその芸当である。
「負けちゃいられないな」
エクイテオはそういうと、海に向かって飛ぶ。溺れている人の体を抱え、近くの救助船に運ぶ。自分の力では一人ずつが精一杯である。
「さっき言った通り、やれることからやっていくしかない」
自分に向けてつぶやくと、風の精霊に向けた声を発する。
「シャルト、即決契約だ。志力、好きなだけ持っていきな」
テオの言葉に、風の精霊は嬉しそうな顔を作った。
リーファは足の回転を上げる。距離を保ちつつ、と思っていたが、相手の速度はついていくのがやっと、という速度であった。驚愕と同時に、闘志がわいてくる。自身の志力を意識し、足に向ける。彼女がこの八か月の間、ヤンの教えを受けて取り組んできたのは、志力の体内制御であった。大地を蹴る瞬間に足に志力を集中させる。一蹴りで体が宙に舞うような感覚を味わいつつ、今度は着地の瞬間に、軽く志力を放出し、音もなく着地する。悪路でも変わらない速度を保ち、静かに走ることのできる、『竜追者』独自の走行法であった。
「師匠のようにもう少し足の回転数を上げたいけど……」
一声、小さな声を出すと、再び精神を集中する。前を行く人影は、街を抜けて、木々が生い茂る林のほうへ駆け去っていく。気付かれないようにと距離を取っていたが、このままでは林に飛び込む前に、遮蔽物のない平地を走り抜けねばならない。弓矢の格好の的となるであろう。
「おびき出されたか」
それでもかまわない。敢えて誘いに乗る、リーファは一瞬で決断した。この機会を逃しては二度と相手と接触はできないであろう。手と足に志力を集めて、更に加速をかける。
「っと!」
リーファの予想は当たっていた。飛び出した瞬間。強弓が頬をかすめ飛ぶ。かろうじてかわしつつ、放たれた方角を確認してさらに加速する。
「はあっ!」
志力を全開放、駿馬もかくやと思わせる突進を見せる。だが、相手の強弓は人間の常識を超えたリーファの動きにも、即座に反応してきた。ポツリと立っていた木影に飛び込もうとするリーファに対し、絶妙の瞬間で矢が唸りを上げて飛来する。
「えいっ!」
リーファは正拳突きの要領で、右拳に集中した志力を前方に放出する。不可視の壁に当たって、矢の方向が僅かにそれた。リーファはしかし、それ以上進めずに、木を盾にして大きく息をつく。
「なんて弓勢……!」
リーファの志力の放出を切り裂くような矢である。難敵を前に、リーファの戦意はむしろ高揚していたが、本能が彼女を押しとどめている。次はどんな手を打ってくるか。リーファは志力の高まりを維持しつつ思考する。だが、思わぬところから邪魔が入った。
「!」
横から、唸り声が聞こえたかと思うと、四足獣のような異形が襲い掛かってきたのだ。完全に不意をつかれたリーファだが、とっさに飛び退って距離を開けることもできない。この木から飛び出せば、再び矢が飛んでくるだろう。組み敷かれるのをとっさにかわしつつ、蹴りを放つ、確かな手ごたえがあったが、獣は一歩退いたぐらいでリーファの一撃に耐えていた。
「獣鬼か……!」
相手は一人ではなかった。ここに逃げ込むことを想定して、あらかじめ伏せておいたのか?リーファは思考しつつも、再び飛び込んできた獣鬼に対し志力を放つ。物凄い衝突音を残して、獣鬼は宙に吹き飛んだ。エクイテオがいれば、彼が森で遭遇した二つ尾の獣鬼、メーガルペデラであることに気付いたであろう。獣鬼は、宙で一回転すると、木を蹴り、再度飛び込んでくる。
「この!」
予測を超える速度に、止む無く転がるように避けたリーファは、木の陰から弾きだされる形となった。空恐ろしい程の精密な狙いで次々と飛来する矢を、二矢までは何とか避けたが、三射目で腕を切り裂かれ、少女の体はくるくると独楽のように回る。
「ちぃっ!」
体勢を立て直す間を与えず、間髪入れずに放たれた一矢が、リーファの胸に吸い込まれるように飛来した。志力を胸に集中させ、受け止めるしかない。火花散るような思考と肉体のせめぎ合いの中、到来した矢はしかし、寸前でばちんとはじけ、消し飛んだ。
「大丈夫かしら?」
優しい声がかけられる。リーファが顔を上げると、薄い唇に柔らかい笑みを浮かべた女性がこちらを見ている。マリシャ・ゲブニルである。マリシャは手を矢が放たれた方角に向けると、小さく呟く。
「【盾】よ、在れ」
赤い外套が輝き、志力の分厚い壁を瞬時に展開させた。再び飛来した矢が次々と消し飛んでいく。ほとんど詠唱をせずに、リーファの拳圧を上回る強度の防壁を生み出してみせたのだ。さぞ高位の司祭なのだろうとリーファが感心していると、マリシャは鋭い声を上げる。
「イヴァ!」
「あいよ!」
対照的によく響く声が聞こえたかと思うと、槍を抱えた女が一人。以前トムスをかばって対峙したイヴァ・ソールトンである。再び飛びかかろうとした獣鬼を、一閃で追い払う。
「あなたは」
「話はあとだ。まずはこいつを仕留めるよ!」
獣鬼に向かって槍を構えると、吠えるように神に祈る。
「デュモン!【刃】を!」
槍の穂先が光ったかと思うと、巨大な刃が展開された。突進してきたメーガルペデラに神速の突きが繰り出され、分厚い光刃が深々と獣鬼に突き刺さる。それだけで獣の体が引きちぎられそうになるほどの大きさである。獣鬼の、声にならない咆哮が響きわたる。
「弾けろ!」
イヴァの一声で、志力の刃が爆散する。獣鬼の四肢は文字通り四散すると、身体を形作る力をなくして、世界に拡散していった。イヴァもまた駆使する志力量といい、光刃の形成の速さといい、尋常のものではない。リーファは再び嘆息した。以前戦ったときは、手を抜いていたのだろう。二人はいまでも歴戦の、現役の古強者であったのだ。
「さて、次は、曲者のほうだね」
「なかなかの相手ね。私の【盾】も長くはもたないわ」
この間も、矢は止むことなく飛来し続けている。こちらの志力切れを狙ってのことだろうか。イヴァは表情を変えずに、マリシャに話かけた。
「へえ、マリシャの毒舌並の鋭さってことかい?」
「イヴァほどではないけどね。法術も使わぬのにこの威力……長期戦は不利、かといって相手の位置がつかめない」
「んでは、景気よく一発ぶちかましますかね」
「……まあ、いいでしょ」
眼鏡を直しつつ、渋々といったマリシャの同意に、意気揚々とイヴァは槍を構えた。
「デュモン!あたしのために、道を開きな!」
「戦神デュモン、我ら二人を塞ぐ敵に、鉄槌を」
二人のバラバラな祈りを受け、マリシャの外套が、そしてイヴァの槍が共鳴を始める。盾として展開していた志力が槍に吸い込まれたかと思うと、イヴァが作り出した光の刃がさらに長大になった。イヴァは林に穂先を向ける。
「「放て!!」」
唱和とともに、光刃が森に向かって射出される!雷霆のごとき速度で林に吸い込まれたかと思うと、瞬間、恐ろしい轟音と光が炸裂する。遅れて衝撃がやってきて、リーファは思わず身を伏せた。荒れ狂う風が止み、砂埃も収まったころ、ようやくに顔を上げる。
「なっ……!」
リーファは目を疑った。そこに、あったはずの林がすっかり薙ぎ払われていた、跡形もなく。当然というか、弓を持った人影も綺麗に消えていた。
「いやあ、爽快!」
「神よ、お許しください」
はしゃぐ陽気なイヴァと、あくまで冷静なマリシャ。好対照の二人に、しかしリーファはかける言葉がなかった。
「これが、デュミエンドの神官戦士……」
熟練の【竜破】でも、ここまでの威力を出すのは難しい。彼女ら二人はおそらく、他者の志力の行使を許された最高位の神官なのだと確信する。茫然とするリーファの様子に気づいたイヴァが笑顔で声をかけてきた。
「おう、この前はすまなかったね。雇い主の命令だったから、勘弁しておくれな」
イヴァは上機嫌だった。久々の法具解放に気をよくしているのだろう。
「い、いえ」
「怪我の手当てをするわ、見せてみて」
マリシャは自分達の行為を吹聴するわけでもなく、淡々としたものである。治癒法術もよどみなく、効果も見事なものであった。
「これで、大丈夫」
「へいへい。さ、戻ろうか、リーファ・ラン」
「まだ相手がどこにいるか……」
「なに、この程度じゃくたばったりしないさ。それに別の人間が尾行を続けている。そいつに任せたほうがいい……なんせ、あんたのお師匠様だからね」
「師匠が!?」
「細かい話は、あと。さ、行くよ」
「ええ、行きましょう。もう動けるわよね?」
「は、はい!」
慌てて二人の後を追う。何が何だか分からないうちに、リーファは烈女二人に従うことになっていた。
Ⅳ
夜間の警護において、ツィーガは再びジェラーレと同行することになった。傷だらけの顔、巨体といっていい容貌の威圧感は、夜ともなるといや増すが、ツィーガは気にならなかった。が、腕や足に包帯を巻いているのが目を引く。
「怪我をされたのですか?」
「馬車が暴れたときに巻き込まれた。大した傷ではない」
「ああ、確かに報告がありましたね。現場にいたとは、お気の毒です」
死者まで出すような惨事であったと聞くが、こんな男すら怪我をするような状況であれば止めようもなかったのだろう。もう少し話が聞きたかったが、目の前で始まったいざこざが聞く機会を奪っていた。
「気を付けて!よい旅を!」
夜中の出港を見届けて、ツィーガは大きく手を振る。港では火事騒ぎがあったようではあるが、無事鎮火しており、無事であった船は次々を離れていった。
「これで最後ですね」
「ご苦労」
ジェラーレの声に感情はこもっていない。ツィーガもとやかく言わず頷くだけであった。喧噪が潮騒のように引いていた。周囲に灯りが灯り、美しい光景と言えたが、二人並んで歩くのも難しい狭い街路には先日の祭の賑わいはなく、むしろひっそりと声を殺すような静謐に満ちていた。
「貴殿らはいつこの街を離れる?」
ジェラーレの問いに、ツィーガは頭を横に振った
「分かりません。そう遠くはないでしょうが、自分としてはこの国に残らざるを得ない人達が心配です」
「他の神の信徒が、か」
「そうです。再び神の意志を感じ取れるようになった今、かえってこの国を離れることを望まない人がいるでしょうから」
ジェラーレの皮肉めいた言葉は、ツィーガの生真面目な返答しか呼ばなかった。かちゃりと音がしたのは、ラーガが苦笑したからであろう。大通りから、脇道に抜けると人はさらにまばらになる。おそらく、ジェラーレはジグハルト邸へと向かうのであろう。ふと、ツィーガに疲労がどっと押し寄せる。疲れていることすら忘れるほどの緊張が解け、思わず足を踏みしめた。
「それでは、また」
「うむ」
去りかけた瞬間である。視界の端に、何かが写った。小さな人影が、いつぞやジェラーレが助けた少年、シンダであったことに気付く。
「こんな時間に、出歩くものではないよ」
ツィーガの声に、少年は何かを抱え、小走りで近づいてくる。ツィーガも歩き出そうとしたが、狭い路地の中、先にジェラーレが一歩踏み出したので控えることにする。
「どうした?」
ジェラーレの声がかかる。少年は抱えていた腕を開くと、黒く塗装された刃が隠されていた。少年が加速する。一気に距離を詰める速度は明らかに訓練された動きだった。見る間に、ジェラーレの胸に短剣が迫る。剣を抜くにも狭い街路が邪魔をする中、二人の身体が一気に接触した。
「ジェラーレ卿!」
ツィーガの声と、少年が吹き飛ぶのが同時。立ち続けるジェラーレの左手に握られた短剣からは、血が滴っている。状況を理解し、ツィーガが少年に駆け寄って抱き起すと、震える手で何かを差し上げた。財布のようだった。
「これ……か、ぞくに……」
「分かった。必ず届ける」
財布を受け取ったツィーガに笑顔を向けようとして果たせず、少年は死んだ。ジェラーレに向き直るツィーガに向けられた視線には、感情はない。濃い夜の影が、まるで絵画のようにジェラーレの姿を切り取っていた。
「何故、この子を斬ったのですか?」
ツィーガの声が低くなる。ジェラーレの様子に変化はない。
「殺意を持って向かってくる相手であれば、子供であっても斬る。非難するのは一向に構わんが、相手は暗殺者だ」
路上に転がった短剣を見下ろす。よく手入れされており、恐らくは何人もの命を奪っているのだろう。いつぞやの喧嘩も、ジェラーレに近づき、油断させるための策であったことは疑う余地もない。ジェラーレのとった行動に非はないはずである。だが、それでもツィーガは目の前の男を見据えた。
「この少年は、あなたが言っていたこの世界における矛盾の象徴だ。彼は、こんな世界の中で、それでも必死で生きてきた。生まれながらの不平等に負けずに戦い続け、結局はより大きな力に破れた」
「何が言いたい?」
「あなたは、最初から彼を斬るつもりだったのですね」
ジェラーレがいつも使う剣が、腰に下げられたままであることからツィーガは理解した。ジェラーレの「左手」に握られた剣は、この瞬間のために準備されたものである、と。襲撃を予測し、逆に相手の不意をついた、ということだろう。
「だからこそ、あの場で喧嘩の仲裁にも入り、少年を誘い出した」
「ああ、情報はつかんでいた。その少年、シンダといったか。彼の母は貴族の愛人でな、そいつは汚職が発覚し、貴族は領地没収。母もその影響を受けてわずかな手切れ金で放り出され、体を壊した。息子は生活のために、母の看病のために人殺しを始めた」
「……彼を救うことはできなかったのですか?そこまで事前に知っていたのであれば、止めることはできたのではないですか?」
「彼は、罪人だ。それに少年一人を救ったところで何になる?世界そのものを変えなければ意味がない」
ジェラーレの冷めた言葉に、ツィーガは思わず声をあげる。
「世界を変えたいと考えるのは、いい。だが、本来守るべき存在が世界を変えるために犠牲になるのであれば、貴方の剣は何のためにある?何のために世界を変える?」
ツィーガの声には怒りはない。歎願するかのように、ジェラーレに迫った。
「不公平な社会を変えたいという貴方の志に、嘘があるようには思えない。それなのに、貴方の剣は志とは別の方向に向いている。矛盾している。何故だ?」
「……」
「あなたなら、できたはずだ。彼を殺すことなく、事前に企みを潰すことが、あなたならできたはずなのに。殺すのではなく、守るための剣もあるのだから」
ジェラーレは反論しようとして、声がでないことに気付く。ようやくのことで喉から絞り出す。
「黙れ。貴様に何が分かる」
「分からないから、聞いているのです」
「答える必要はない。人を呼んでくる」
ジェラーレはそれきり、逃げるように立ち去っていく。後には安らかな死に顔の少年と、苦しそうな表情のまま固まったツィーガが残された。
船火事は、船三隻を半焼させて鎮火し、港の被害を最小限に済ますことができた。現在も出航する船は続いており、しばらくは混乱するだろうが、今はハルフノールの神官戦士達が警備にあたっていた。宿舎に戻ったエクイテオが疲れ切った顔で休んでいると、良い香りのするお茶が差し出される。ファナだった。彼女もまた、休みもとらずに怪我人の治療に当たっていたが、夜になってようやく交代をした。疲労困憊のはずだが、その美貌に陰りはない。法術でも使っているのかと勘繰るほどである。
「何だよ」
「自分のを淹れたついで。嫌なら捨てれば」
「薬でも入れてるんじゃないだろうな?」
「ええ。疲労回復のためのね」
ファナは表情を変えずに自分で飲んで見せた。
「まともに働いた人間の弱みにつけ込むようなことはしないわ。一応」
「罠ってのは、人間が一番望むときに仕掛けるもんだろ?」
「まあね。だけどあなた程度ならいつでも仕掛けられるわ」
へん、と笑って、エクイテオはファナの入れた茶を飲んだ。芳香が全身を包み、疲れがゆっくりと溶け出していくような気分になる。
「にしても、人、増えたな」
エクイテオの前には、船火事を救った功労者こと、カイム・ジエンディン。さらにリーファが連れてきたマリシャとイヴァもいる。デリクスは、ちらりと顔を見せたが、何もいわずに奥へ引っ込み、ファナは光り輝く笑顔を浮かべて、お茶を配り歩いた。
「カイムさんもどうぞ。大変なご活躍でしたね」
率直な賛辞を受けて、カイムは頭を掻いた。彼がいなければ被害はもっと大きく、取返しのつかないものになっていたかもしれなかった。
「いや恐縮です。こんなに褒められるなんて照れくさいなあ」
カイムは自身のなした功績については照れ臭そうにするだけである。やや強い咳払いが一つ、隣のエルンがカイムを冷たい目で見やっていた。
「あ、いや、これはその……」
しどろもどろになるカイムから素早く間をあけて、ファナはお茶を配っていった。
「いいお茶ね」
「ありがとうございます」
「法具なのかしら?少し分けてほしいくらい」
「ええ。勿論です」
「そんなことより、酒ないの?」
「イヴァ」
「へいへい」
「でも、お二人とも本当に凄い、追竜者ならぬ身で、あそこまで至ることができるのですね」
リーファも戦いの緊張からようやく落ち着いたのか、生気の戻った顔でイヴァとマリシャへ率直な賛辞を口にする。
「へへ、まあ、そんなことはあるかな」
「大したことではないわ」
発現は対照的だが、二人が話すと、会話の調子が実に合う。
「お二人は、あのトムス・フォンダという男のお知り合いなのですか?」
「まあね。古くからの馴染みなのさ」
「雇われたと仰られていましたが、役目は護衛ですか?」
「ま、そうなるわな」
「マリシャさんも?」
「私は、イヴァのお守り」
イヴァがじろり、とにらむが、マリシャに睨み返されて顔を逸らす。視線の先にあった微笑むカイムの顔に言葉の剣を突き立てる。
「にやにや笑ってんじゃないよ!」
「わ、すいません」
カイムの狼狽ぶりに、エクイテオが助け船を出した。イヴァはイヴァでいつの間にか皮袋の水筒を呷りだす。中身は酒のようだ。
「二人はカイムさんとも知り合いだったんですね」
「ああ、トムスを通じてね」
「むろん、儂もな」
「師匠!」
「未熟者め、目で追うてはならぬ。世界を全身で感じ取れと教えたではないか……怪我は大丈夫か?」
突如現れた小柄な老人の厳しいと言葉と優しい心遣いに、リーファの胸は知らずと熱くなった。
「はい。これぐらいであれば支障ありません」
「首尾は?」
イヴァが問いかける。顔は赤らんでいるが、目には酔いはない。
「いやはや、罠もあり、相手も手練れ、苦労はしたが、無事成し遂げた。本拠地は見つかったぞ」
ヤンの言葉に、一同はそれぞれの反応を見せる。イヴァは不敵に笑い、マリシャは不安そうに瞬きする。ツィーガが悄然とした姿を見せたのは、しばらくしてからだった。
「なんだ、この光景は……」
目の前に広がる光景に、今までの疲れも忘れ立ちすくむ。
「おう!ツィーガお疲れさん!」
エクイテオの陽気な声が、右耳から左耳へと抜けていった。
「お前も飲めよ!酒じゃないけどな!」
「おい……何やってんだよ」
「何って、歓迎会さ、この美しいご婦人達の」
「おや、帰ってきたね、さっそく腕だめしといくかい」
「イヴァ、いい加減にしなさいよ。あなた酔っているわ」
「ああ、そうさ。酔わなきゃね。どうせ竜に食われて死ぬなら、今このときを楽しまなきゃ」
対照的な二人の女性は、結局ツィーガのことを気にせず口論を始める。目の前の大柄な女性が、いつぞや対峙した凄腕の槍使いであることは理解したが、なぜこんなところで酒を飲んでいるのか。一瞬の空白から立ち直ったツィーガは、腹の底に淀んでいた鬱屈を吐き出そうと大きく息を吸い込んだ。
「おっ、やってるな」
だが、折角の息は声という形にならずに吐き出される。ツィーガの背後から現れたのは、誰あろうトムス・フォンダであったからだ。
「トムスさん!」
「おうお前か。相変わらず真面目に仕事してんのか。変人め」
毒舌をさらりと受け流し、ツィーガは竜についての質問へと頭を切り替える。しかし、トムスはそんな若き神官戦士の声などお構いなしに、大声を上げた。
「さあ、そろそろお暇しようや!おめえらの雇い主を忘れるんじゃねえぞ!」
にやついた顔をしていたが、微妙な緊迫感がある。何事かという顔を向けた、ツィーガと目が合い、トムスは皮肉な笑みを深くした。
「おっと、男になんざ見つめられても気色悪いだけだぜ。坊主もお勤めご苦労さん。さっさと寝たらどうだ?」
「ニアコーグを探すのですか?だったら、お手伝いします」
「そんな、無駄なことをする必要はないぜ、島民を逃がす手伝いをしていたほうが、なんぼかましってものさ」
「あなたの話が真実であれば、放っておけることではない」
「真実かどうかはわからないといったろ?」
「私はあなたを信じている。竜を探し求める熱意と、研究を」
「人柄は信じてないってよ!トムスの旦那!」
イヴァの声が響く。見れば皆帰り支度は済んだようだ。
「楽しかった。縁があったらまた飲もうや、今度こそ酒をね」
それぞれが立ち上がり、トムスに従って宿舎を後にする、ツィーガは一人トムスに追いすがった。夜道を進む一行の中、トムスだけが立ち止まる。
「トムスさん」
トムスは笑った。
「しつこいな。お前、女を抱いたことはあるか?」
「……」
唐突な質問に対し、交渉技術として弱みを見せる訳にはいかないが、とっさに受け答えができなかったのは、正直ゆえというところであろうか。トムスの笑みが深くなる。
「どうやらなさそうだな。そんな若造が参加できるお祭りじゃねえんだよ。もうくたばっても構わねえ位、世の中を味わった奴らの出番なんだよ」
「しかし、もし、竜と戦うというのであれば、少しでも戦力がないと」
「お前みたいな奴はさっさと逃げろ。どうせ竜なんざこれからいくらでもいる。功名に逸る必要はねえ」
「別に名誉のためではありません。ニアコーグに襲われる人を食い止めたいだけです」
トムスは手を払って、追い出しをかけた。ツィーガは食い下がる。
「竜は何時頃現れるんですか?もう分かっているのですか?」
うんざりした顔をしつつ、トムスはそれでもツィーガに対し答えた。
「無料で教えると思うか?物好きにもほどがあるが、どうしても戦いたいってんなら自分で調べな。宴会は会員制といいたいところだが、会場を探し当てた奴を追い返すなんて野暮なことはしねえよ」
トムスは背を向けた。話は終わり、ということなのだろう。
「じゃな、旦那。おい坊主、調べたいなら資料室は使わせてやる。旦那とでも相談してもう少し考えてみるこった」
『おう、まかせておけ』
とぼとぼと宿舎に戻ってきたツィーガに、いつの間にか現れたデリクスがねぎらいの言葉をかけた。
「取り敢えず、ご苦労さん。先輩も無事に帰ってきて何よりです」
『あのトムスという男、国に仕えてもひとかどの男になっただろうにな』
ラーガの嘆声に、デリクスはぼやけた笑みを浮かべる。ツィーガは煮え切らないように見える上司の態度が癇に障り、つい声を荒げる。
「司祭長。このままでいいんですか?」
「トムス・フォンダのこと?ああ、今彼らを拘束している余裕がない。何かを企んでいることは間違いないけど、どうともしようがないな」
「我々は、どう動くのでしょうか?」
「もしエスパダール司祭長として言わせてもらえるなら、さっさとハルフノールから逃げるけどね。部下を無用な危険に巻き込むわけにはいかない」
「……でも、それじゃこの国の人達はどうなるのですか?」
「酷い言い方だけど、自分で何とかしてくれ、だね」
ツィーガは押し黙った。上司の言うことには一理も二理もあることは事実である。不満そうな若者に、デリクスはとぼけた声で告げた。
「ツィーガはどうも気になっているようだから引き続き調べてもいいよ。だけどその前に、一休みしてくれよ。戦うにせよ、逃げるにせよ、いざというときに動けないと困るからさ」
自室に戻り、くたくたの体を寝台に預けようとしたが、妙に目が冴えるというより眠れない。剣の手入れをしつつ、ラーガに話しかけた。
「なあ、ラーガ。トムスさんは何を隠しているんだろうな」
『ニアコーグが出る、という予測を立てたこと、それに応じてハルフノールの民に避難を促すこと。この二つは間違いなかろう』
「借りを返す、というのは被害を食い止めるということ……なのかな」
『その程度で満足するようなタマではない。あのトムス・フォンダという男は。むしろ逆だろう』
「ハルフノールの国民を使って、ニアコーグをおびき寄せた、ということ?」
『そちらのほうがしっくりくるのは否定できないだろう?』
「……」
ツィーガは押し黙る。マリシャ、イヴァ、それにエクイテオの知り合いというカイムという男の顔が浮かぶ。彼らを雇うことの意味がどこにあるのか。
『もし彼らが竜と戦う、としたら、お前はどうしたい?』
同じことをラーガも考えていたようである。
「俺の仕事は、人を守ることだ。竜と戦うことじゃない」
『その通りだ』
「でもだからこそ、竜の正確な情報を知りたい。トムスさんの真意も」
『であれば、もう少し調べるしかあるまい、行くか』
「行くってどこへだよ」
『トムスの船。気になるなら調べろって言ってただろう?入れてくれるだろうよ』
ツィーガは立ち上がった。デリクスから許可をもらうと、疲れた体に鞭を入れつつ宿舎を出る。夜道にラーガに語りかける姿は、端から見ればさぞ奇妙に見えるだろう。
「トムスさんといい、ジェラーレ卿といい、世の中難しいな。皆誰もが理想を抱えて、自分の生き方に誠実であろうとしているのに、何故か食い違う」
『当たり前だ。悪い人間などいない。そもそも人生に意味などないのだから』
「?」
『神がいれば、その神の数だけ正義がある。そして敵対するものも。聞けばジェラーレという男、神を信奉していないということだ、トムスもまた、な』
「人として生まれて、そんな生き方もあるのか」
神への信仰と、親愛、ひいては信仰を同じくする国の民に対しての想い、そういったものが何もない中で、それでも生きねばならぬのなら。ラーガの言う、意味はない、という言葉は頷けなくもない。だが、言葉としては理解できても、深く自身に宿った神というものへの信仰は捨てようがない。神を通じて人を大切に思うことを学んできた自分にとって、神が介在しない世界というのは現実感がなかった。
『ツィーガ、お前が人生なんぞを語るのは二十五年程度早い。今は自分のできることに集中することだ。存分に生きて、それからのことだ』
「わかった。その通りだ」
船につくと待ち構えていたかのように、執事が姿を見せた。
「トムス様より、ツィーガ様が見えたら書庫にご案内するよう申しつかっております」
ツィーガは気を引き締めなおし、三日間不眠で戦った部屋へと再び舞い戻った。
「さて、どうするかな」
「ニアコーグ関連の書籍をもう一度洗い直しだ。奴が確信していること、なおかつ他人には言えないような何かが必ず残っているはずだ」
日誌の文字の粗さに閉口しつつ、ツィーガはふと思った。誰も信じないということは、逆に言えば、どんなことでも受け入れられるということなのでは、と。
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