誇りまみれの竜賭博 第8話 運命の楔 変転の道標





 スクエアが浅い眠りから目を覚ましたとき、見慣れない天井が視界に飛び込んできた。あまりにも豪奢な空間に、頭が真っ白になる。何故自分がここにいるのか考えようとして、脳裏に閃いたのは、かつて侍女であったときの朝の当番、庭掃除であった。

「いけない!」

 跳ね起きようとした寝台の、その柔らかさに足を取られ、スクエアは床に転がり落ちる。抑えを利かせながらも艶やかに装飾された室内の景色が、うろたえた女の記憶を徐々に現実に引き戻していった。古い思い出が緩やかに退き、現実に置いてきぼりとなった新しい王女は、一人赤面する。昔の同僚は、朝弱かった自分をさぞ持て余していたことだろう。あの時、自分は与えられた役割をきちんとこなせていたのだろうか。

「やれやれ……」

 床にぺたりと座りこみながら嘆息を一つ。遠く、高く見上げていたはずの景色、決して望んでいたわけではない立場が、一瞬にして自分のものになってしまったのだ。スクエアは、一夜にしてハルフノールの頂点に立っている。何と表現すべきか、分からない。復讐といえば、そうだろう。本来、自分が持ち得るはずの、当然の権利を取り戻しただけであると分かってはいる。が、だとしても変転の急激さに、内より湧き出る空恐ろしさを抑えることができない。あの一日で、一体幾人の人生が軌道修正を余儀なくされたのだろうか。何人が、望まぬ退場を強いられたのだろうか。全てを引き起こしたのは、自分なのだ。


「取り戻せ、自分の意思で」


 弱気になりかける気持ちを戒めるかのように、男の固い声が胸中に響く。今の自分を作り上げた言葉。それまでの自分を殺した言葉。あれから、もう八年も経つのか……スクエアの脳裏には、いつもの、薄汚い天井がよみがえっていた。



八年前


 血の匂いが充満する中で、スクエアは跪き、目をつぶっていた。自分の前に横たわるのは、かつて国王であったもの、かつて姫であったもの。魂が天へと上ったあとに残った躯は、単なる肉塊としてしか認識できなかった。かつて、自分が骨の髄まで信じ込まされていた絶対の存在、神秘の保持者であったハルフノール国王とその家族は、故郷から離れた遠い異国デュミエンドにおいて屍となり果てていた。神と繋がっているという事実のみによって国民すべてを従わせてきた人達である。そして国民が守りを欲し、すべての神がその祈りに耳を傾け、地上に集うべきとき、最も大切な瞬間に神の声を聴けなかった人達、ハルフノール以外を円蓋が覆ったことを呆然と見やることしか出来なかった人達でもあった。

 他国の神々、そして国民が築きあげた、大いなる防壁の外にいるしかないハルフノールはこれからも竜に怯え続けることが定められた。あまりに惨めな最後は、王族としての役割を果たせなかった人間の末路としては当然のものだろう。

「恨みはないが、死んでもらう」

 充満する血の匂いに飲まれながら、スクエアは無言で受け入れようとしていた。自分とて人のことは言えない。与えられた役割を果たせなかったのだから、こうなることは甘んじて受けいれるべきなのだ。侍従として仕えたのであれば、誰よりもまず、自分の命を賭けて主君を守るべきであったのに、自分は失敗した。失敗すれば、失敗に見合う罰を与えられるべきなのだ。役割を果たせないとは、そういうことだ。

「かわいそうだが、運が悪かったと思ってあきらめるんだな。お嬢ちゃん」

 覚悟は出来ていたはずなのに、襲撃者からそう声をかけられたとき、スクエアの目は自然と開かれた。無残に切り刻まれた王妃の顔が視界に飛び込んできて、スクエアは耐えられず嘔吐する。

「きたねえなあ」

 顔を布で覆っているため顔は判別できなかったが、声は聴いたことがある。自分の護衛という名目で追従してきた下級騎士に違いない。頼るべきデュミエンドの騎士達は、いつの間にか姿を消している。何故だろうか、何が起こっているのだろうか。スクエアの思考はしかし、無理やり服をつかむ男の下卑た顔が粉々にする。力任せに服を引きちぎられ、薄い胸が露わになった。気力の尽きたスクエアは、隠すこともなく虚ろに視線を彷徨わせるしかない。

「泣き叫ばないのか」

「ほら、命乞いでもしてみろよ」

 無反応の少女に嫌気が刺したか、男の剣の柄で頬を強く叩かれ、スクエアは床に吹き飛んだ。

「何だよ!言葉を忘れちまったのか!」

 熱を帯び、痛みはじめた頬を意識しながら、スクエアは再び自分の意識に沈みこんでいく。命乞いなどするものではないだろう、自分は役割を果たせなかったのだから。

『役目を果たせない人間は、屑以下だ』

 スクエアは、そう教え込まれてきた。お前は、押し付けられた子だ、役割を果たせ、お前がここにいるのは、役割を果たすためだけだ。それが、お前の運命なのだ。笑顔など一度も見たことのない父母からかけられた言葉は、それだけであった。生れてこのかた、誰とも会わず、読み書きと礼儀作法、そして日々届けられる枯れた花に祈りをささげ続けるという、奇妙な儀式を延々と続けさせられた。楽しいことなど何もない、ただ意味も分からず生き続ける日々が十二歳まで続いたあと、突如それは起こった。祈ること数時間、かぐわしい香りに気が付き目をあけた先にあった、生気を取り戻した枯れ花が蘇ったのだ。

「花が……咲いた!」

「ああ……ああ!申し訳ありません!神よ、お許しを!」

 態度を一変させた両親を後目に、スクエアはいきなり城に侍女として招かれた。この日のために今までの生活があったことを思い知らされはしたが、何の感慨も覚えることなく、スクエアは淡々と新しい生活、運命を受け入れた。今までの生活については絶対の黙秘を命じられ、また他の人間との仕事以外の交流も禁じられたが、『役目を果たすこと』だけを教え込まれたスクエアにとっては造作もないことであった。

 いきなり国王付きになったスクエアを、同僚であり初の同年代の少女達から嫉妬の標的となり、散々いじめられた。かと思えば、勤務先である宮廷内では王妃である第一夫人が幅を利かせ、意に沿わないことがあると、散々鞭で叩かれた。神の代理となる人間を産めなかったからだ、とも、第一子が謎の病死を遂げたからだ、とも言われていたが、何にせよ一番の標的はスクエアだった。ある意味、父母が施した教育は正しかったといえる。スクエアは黙々と日々の仕事をこなすことだけに集中することで、地獄のような毎日をやり過ごすことができたから……


 荒々しく床に放り投げられながら、スクエアはここに至るまでの人生を振り返っていた。死ぬ前には誰しもが人生を思い返すというが、戻りたいと思う瞬間は一瞬たりとてなかった。殺人者は、心を失ったかのような少女に唾を吐きかけた。

「けっ、つまらねえ。こんな餓鬼じゃ犯す気にもならねえ。さっさとやっちまおうぜ」

「きれいな奥方様はといえば、舌噛んで死んじまうしな。こちとら屍姦の趣味もねえっての」

「……」

 次々と死体の頭部を蹴り飛ばす。蹴られた反動で国王の顔がこちらを向いたとき、スクエアの胸の中で何かが蠢き、声を上げるのを必死で堪えた。違う、誰もいなかった訳じゃない、と胸が鈍く疼く。この世界において、唯一優しかった人がいた。会ったときから笑顔を見せてくれた初めての人。何故かは、分からない。だが国王の傍にいるときだけは、安らぐことができた。役割をこなすだけでなく、自分から進んでやろうと思わせてくれた唯一の人。

「王様ってやつも、こうなればみじめなもんだな」

 再び蹴り転がされた王は、まるで自分から顔をそむけたように別の方向を向く。瞬間、スクエアの胸中に、無視しえないほんのわずかなしこりが宿った。何故だ、何故、国王様がこんな酷い目に合わねばならなかったのだ。失敗とは、役目を果たせないとは、ここまでのことなのか?本当に、世界の人間達は役目を果たしているのか。自分の周囲を囲む薄汚い連中は、役割を果たしているといえるのか?何故私に、国王にこんな役割を与えられたというのだ?神は、苦しませるために、私をこの世界に呼んだというのか?

 スクエアにほんのわずかな感情の灯が宿ったが、外に表現する力を全く持ちえない少女は、ただうつむくのみである。あくまで何の反応も示さないスクエアに対し、周囲の人間も興味を失ったようである。

「おい」

「……そうだな」

 一味の長らしき男が、黒く塗られた刃を振り上げる。自分の中の感情と戦いながらも、動く力は沸いてこない。胸のわだかまりをどうすべきか答えを見出すことのないまま、スクエアは瞳を閉じた……。


「いい加減、目を開けろ」


 どれくらい時が経ったのだろうか。気付けば、周囲にうごめいていた気配は、目の前の男一人になっていた。屈強な、丈高い立ち姿に、スクエアは息を飲む。

「あなたは……?」

 男が剣を一振りし、刃に着いた血を振り落とす。スクエアの頬に飛んだ血しぶきが温く伝う。

「こいつらと同じ、盗賊だ。偶然立ち寄ったらお前らがいたから、小遣い稼ぎに来た」

 一人ひとりに念入りに止めを刺しつつ、金目のものをはぎ取っていく。動作に全くのためらいがない。顔を隠す布から僅かに覗く瞳に、尋常ならざる狂気を感じて、スクエアの弛緩しきったはずの心が再び震え上がる。

「何か俺に渡せるものはあるか。なければ売春宿に売るが」

「見ての通りです。渡せるものなど、ありません」

 声が出ないかと思ったが、そんなことはなかった。

「それなりの身なりと顔立ちだが……」

「私は、ただの従者です。何の価値もありません。もう少し早ければ陛下から褒美がでたでしょうに」

「陛下?……成程な」

 男は死体の群れを見回し、国王の死体を更に漁りはじめた。

「どんな事情があった?金になりそうな話か?」

「詳しいことは知りません。私にわかることは、国王様もお姫様も、国の代表としての仕事を果たせなかった。だからお亡くなりになった、ということだけです」

「役割を果たせなければ死ぬ、か。えらく冷たい言い草だな。そういうお前は役割を果たせたのか?」

「私は国王様の従者だった。そして国王様を守れなかった。だから、私には価値などありません」

 感情のないスクエアの瞳を見やりつつ、男は淡々と質問を続ける。

「その役割は、お前が望んだのか?」

「望んでなどいません。生まれたときからそう教えられてきた。役割を果たせなければ死ぬだけだ、と。そういう意味では私は国王様と同じ。仕方がないのです。大いなる力、運命が決めたのでしょう」

 運命という言葉を聞いたとき、男の動きが止まった。内部にたまっていた熱が、出口を見つけて吹きだしたかのような劇的な変化である。男の怒りが、スクエアまで伝わってくる。男が顔を覆っていた布を取ると、中からは肉食獣のように研ぎ澄まされた精悍な顔が出てきた。

「運命か。運命などというものにそれほど価値があるのか?」

 スクエアは男の顔を見る。瞳に宿る強い輝きを恐れもしたが、それ以上に惹かれる何かがあった。今まで触れたことも、見たこともない、異質、異形といっていいほどの力強さである。陰湿な、内部に籠る淀みとは違う。余りに直接的で、直線的な感情の発露だった。

「価値も何も、運命ではないですか?逃れようもない力、人には覆せない力です」

「自身の怠慢を、運命などという都合のいい言葉で片付けるな!」

 スクエアが生きてきた中で、一番激しい怒りを秘めた声が、惨状となった森に響き渡る。遠くで鳥が羽ばたく音が聞こえてきた。

「真っ当な人生を送るべき、善良な人間が理不尽に奪われ、殺される一方で、唾棄すべき屑が大手を振って陽光あふれる道を歩む。こんな世界の矛盾を、運命などという言葉で済ませるつもりか!」

「……そんなことをいわれても……」

「矛盾多きこんな腐った世界が、本当に正しいと思っているのか?何故神はこんな世界を許すのか!なぜお前が、そんな悲劇を、理不尽を背負わされねばならなかったのか考えたのか!運命などという言葉一つで!」

 さっき、私が考えていたことと同じことだ。スクエアは、目を見開く。激しい言葉を聞きながら、スクエアはなぜか、目の前の男が泣いているように見えた。

「俺は認めない。そんな世界なら、全部ぶち壊してやる!運命などという役割は、全て切り刻んでやる!」

 狂熱から醒めたように、男は作業に戻る。やがて、全ての死体を漁り終えると、男はスクエアに正対した。自分が審判の座に立たされた気分になる。

「お前はどうなんだ?勝手に押し付けられた運命とやらいう痛みを、苦しみを受けいれるだけでいいのか?」

 唐突に突き付けられた問いであった。返答次第では自分は殺されるのだろう。

「私は……私は……」

 震えが止まらない。スクエアはただ男を見据えることしかできなかった。声が、出ない。

「お前が役割を果たせなかったためにここで死ぬというのなら、油をかけて、皆と一緒に生きたまま燃やしてやろう。俺が運命とやらをくれてやる。だが、違うというのなら、間違っているのが自分ではなく、世界だというのなら、立ち上がってみせろ!取り戻せ!自分の意志で!」

 男の言葉は、雷となってスクエアの全てを打ち砕く。力の入らなかった四肢が再び立ち上がる気力を取り戻したのは、それから少し経ってのことだった。そしてその間、男はずっとスクエアを見据え続けていた。


……今考えれば、あの時、初めて私の人生が幕を開けたのだ、回想から意識を戻し、スクエアは溜息をつく。寝台に腰を下ろし、枕元に置いた短刀を握った。ようやく手に入れた人生で得た、かけがえのないものの一つを掲げては、再び記憶をなぞる。


 ジェラーレと名乗った男は現場を始末した後、ついてこい、とスクエアを促した。売り飛ばされるのかという思いもあったが、黙ってついていくと、デュミエンドを出たところで当座の生活費を渡され、街道沿いの宿場町に放り出された。

「二年たったら、会いにくる。勝手に生きるならいずこなりとも去るがいい。もし、自分の境遇に復讐を考えるならここで待て。力を貸してやる」

 そう言い残し、去っていく背中を、恨めしいとは決して思わなかった。運命を認めないなら、自分の力で抗ってみせろと告げられた気分であった。

「やってやろうじゃないの」

 少女の中に生まれたばかりの意志は、いまや湯気を上げんばかりに煮えたぎっていた。食い繋ぐための職を見つけるには、徹底的に仕込まれた侍女としての技量が役立ち、何とか宿屋の給仕に潜り込むことができた。自分でつかみ取った仕事は、スクエアにとって最初の誇りとなる。必死で働き、何とか生活の目途が立ったところで、町道場で武芸を習い始めた。尚武の国デュミエンドの近隣だけあって、女性が武芸をたしなむことはむしろ望ましいことという文化も幸いした。筋はよくなかったが、熱心さだけは認められ、師範の家族からは可愛がられた。食事に招かれたとき、一度だけ過去を問われたことがある。無言のスクエアに対し、師はこう言った。

「何やら人に言えぬ秘密があるのだな。ならば言えるようになるまで抱えておけ。その分だけ、お前は強くなるのだから」

「……」

「きっとお前の痛みを、苦労を分かちあえるものが現れる。そのときまでは辛いだろうが、その辛さは決して無駄にはならない。内なる力となってお前を守るだろう。お前の生に、一欠片の無駄もないのだからな」

「……はい」

 生まれて初めて、人間として扱ってもらえた、安らぎに満ちた二年は、ジェラーレの出現で終わる。スクエアの覚悟は決まっていた。どんなに穏やかな毎日であっても、彼のことは一瞬たりとも脳裏から離れたことはなく、自身が陥った境遇に対する憤りは日々強くなっていったからだ。彼の背中を追うための準備は整っていた。師もまた、何かを悟ったように送り出してくれた。卒業記念の短刀とともに。


「変わったな」

 旅の途中、野営中に、ほとんど口を利かなかったジェラーレがぼそりと呟いたことがあった。スクエアは、宿屋で働いていたときに学んだ気安い口調をことさらに使って答える。

「そりゃあ、そうよ。二年振りなんだし。あなたこそ変わったわ」

 二年たって、以前から漂わせていた凄みに一層厚みが加わっている。一片のぜい肉もない身体に筋肉がみっしりと増えており、長身と相まって迫力が物凄い。傷だらけの顔は、浅黒く日に焼けているが、よくみれば切れあがった瞳に高い鼻梁をもった涼やかな顔立ちでもある。スクエアの胸がしらずに騒ぎ、らちもない質問が口をつく。

「ジェラーレ。そういえばあなた、歳いくつ?」

「二十二」

「はぁ?」

「……いくつだと思ったのだ?」

「三十七」

「……さすがに、心外だな」

 スクエアは噴き出した。表情がないと思っていたジェラーレがほんの少し顔を作ったからだ。といっても、髪の毛一筋ほど眉根を寄せただけであるが。随分と豊かな無表情だこと、と少女は嬉しくなってしまった。

「あはは!無表情なのに、そこからさらにもう一段階進化できるなんて凄いわ!」」

今度は聞こえるように舌打ちをし、ジェラーレは態勢を立て直そうと試みる。

「すっかり、世間慣れしたな。二年前はもう少し骨があるとおもっていたが」

「復讐はやめろってこと?お生憎様、この二年でますます気持ちは固まった。広い世界を知って、沢山のいい人がいることが分かったから。あなたの言う通りよ、ジェラーレ。まじめに生きている人達が幸せになるための世界を作る。そのためには、今頃ハルフノールでのうのうと暮らしている悪党どもに痛い目みせないとね」

 復讐とは遠い、陽性の決意であった。焚き火のせいか、きらきらと輝いてみせるスクエアの瞳に、ジェラーレはまぶしさを感じて視線を外した。僅かな邂逅の後、二年の別離れを経ても、何故か二人は自然と打ち解けていった。こうしてムダ話をしているのが当たり前のように思えてくる。

「遠まわしに、気を使ってくれてありがと」

「気を使ったわけではない。覚悟がない奴とは組まない、それだけだ」

「はいはい。んで、これからどうする?」

「俺は今、ハルフノールに潜り込んでいる。お前は顔が知れているからな、機会を見て入国するが、その前に利用すべき男がいる」

「誰?」

「名前を口にするのも憚られるような、人間の屑さ。こいつを使って、お前らを陥れた犯人を捜すんだ」

「わかったわ。あなたに任せる」

「早く寝ろ。明日も歩くぞ」

「……ねえ、一つ聞いていい?」

「何だ?」

 寝袋に横たわるスクエアは、ジェラーレの広い背中を見やる形となった。スクエアの言葉には振り向かずに火の番をしている。

「何で、あのとき、私を殺すとか、売春宿に売るとかしなかったの?」

 星のあまり見えない夜。暗い色の服を着たジェラーレは、まるで亡霊のように見えた。どこか遠くへ行ってしまうような気持になる。

「きまぐれだ」

「どんなきまぐれだったのよ」

 スクエアの促しに、ジェラーレの背中は反応しない。諦めて寝ようとしたころ、再びぼそりと呟いた。

「お前が、俺と同じものを見ていたような気がしたから」

「同じ、もの?」

「どうしようもない現実の中で、掴めもしないのに、何かに手を伸ばそうとしてる気がしてさ」

「何それ、そんな物欲しそうな顔してた?」

「ああ。最後の最後まで。諦めたようなことを言っていたくせに、目だけは雄弁だった」

 ジェラーレは苦笑した。

「命乞いしたり、逆に泣き叫ぶようなら殺していたさ。だがあんときのお前は、死ぬことに関心がなかったように見えた。そのくせ何かを信じているような顔をしていた。だからさ」

 ジェラーレは身じろぎする。たぶん、恥ずかしいのだろう。スクエアは許してやることにした。

「お休み、ジェラーレ」

「ああ」

 そうしてスクエアは柔らかい気持ちで、睡魔に身を委ねた。


 ジェラーレに連れられ、トムス・フォンダに出会った後も、苦難の連続であった。王を殺害した犯人を捜し出し、当然の報いを受けさせるために、幾度も危険の橋を渡った。シールズとデュミエンドは巧妙に王族殺しの証拠を隠滅し、関与した人間を闇に葬っていったからだ。探索の中で、さまざまな人間と話す中、自分が王族の血を引いていたことを宣告されたとき、抑えつけていた激情がようやく正しく向かう先を見つけたと思った。父母が、正しくは父母と思っていた人物達が、なぜあのよう冷たい態度を取り、誰の目にも触れない場所で生活をしなければならなかったのか。何故自分が王家直属の侍女になったのか、なぜ、国王だけが、あそこまで自分に優しかったのか。国はシールズが勧める血統撲滅の粛清に溢れ、何の能力もないが遠縁であるだけで秘かに始末されるような暗い時代に、自分はさぞ迷惑な存在であったのだろう。スクエアは今では全てを認め、赦すつもりになっていた。そして改めて思う、自分の怒りは正当であり、自分からすべてを奪った人間に対して、復讐をしなければならない、とも。

 最後に残った証拠書類を手に入れられたのは僥倖としかいいようが無かったが、どうやらトムスというあの男が裏で動いたのだとは聞いていた。莫大な金額と、身元を保証するという約束で、あの文章を買い取ったという話であるが。なぜそんな金をジェラーレに出してやるのかが分かったのは、つい最近になってからのことだった……



 ……過去から意識を引き戻す。これからやるべきことは多いのだ。国を守り、民を守るためにやるべきことは多い。自分には情熱以外、政治的な知識も、後ろだても無い。この機会に、大国が改めて他国が牙をむくこともあり得るのだ。

 共に歩める人間を探す必要があった。ロイ・ジグハルト、自分が侍女だったときはほとんど国外にて周遊しており、直接の面識はないが、今、国政を担うに足る力量と人望を有しているのは彼しかないとの話だ。華の儀での振舞いからすれば、自分の存在は彼の理想とは違うかもしれないが、何とか協力を求めなければならない。これまでの努力の結果、先人達が築いてきたハルフノールの繁栄を続けていくこと。それこそが、自分に課せられた、いや自らの意志で選びとった役割であるのだから。

「ジェラーレ……」

 再び男の名を呼ぶ。彼の気持ちを聞いてみたかった。ジェラーレと共に歩み、成し遂げた成果を分かちあう時間が欲しい。この八年、スクエアの胸を焦がした怒りと憤りの炎は、もうほとんど消えかけている。勝ち取った権利を正しく使うための熱を、スクエアは欲していたのだ。






 街はお祭り騒ぎが終わったあとの、言いようのないけだるさに包まれた朝を迎えている。誕春祭、そして華の儀がひと段落し、次に動き出すための活力を欲するかのように静まり返っていた。だが、ハルフノールを統治する義務を背負いし一部の人間に、休息は許されない。今回のような波乱が起きたとすれば猶更である。世に知れぬ、知られてはならぬ政争を終え、夜が明けぬうちにガーデニオンに戻ったあとも、ロイ・ジグハルトの邸宅の灯は消えることなく、新体制構築のための協議が続けられていた。

 スクエアが目覚めた頃と同時刻、一人の男が忽然とジグハルトの執務室前に現れた。ジグハルトの秘書がギョッとした顔を作りながら、声を上げた。

「ジェラーレ!ジェラーレ・シンタイド!シールズの犬が何しにきた!」

 勝利の余韻と睡魔に緩んだ顔が、ジェラーレの眼光にひと撫でされると、一瞬で血の気が引いていく。様子を見ていたジグハルトが苦笑した。

「かまわん」

「ジグハルト様……!」

 部屋の主に気を使いつつも、半ば安堵したように道を開ける。ジェラーレの眼差しを受け、ジグハルトは秘書に退出を促した。

「変節漢め」

 立ち去りかけた男の言葉を、背中で聞き流したジェラーレは、ジグハルトと二人になったとき、常と変らぬ言葉と声を発する。

「ジグハルト様。ガーデニオンに居たシールズ一派の主だった連中について、ほぼ捕縛、投獄が完了したことを報告いたします」

「御苦労だった、ジェラーレ・シンタイド。長きに渡る潜入調査。報いるための言葉が見つからない」

 ジェラーレは無言で頭を下げる。宮廷の人間が見れば驚愕する光景ではあったが、双方の間では、特段言うべきことは無かった。今まで秘かに行われてきたことが、公になっただけのことである。ジグハルトは隠す必要を認めなかったし、ジェラーレもまた周囲の悪評などに左右される程度の実力でも、人物でもなかった。

 ジェラーレがスクエアから離れたのは、ハルフノールに士官するためである。偶然知りえた秘密を利用するため、また自身の高ぶる思いのはけ口を見出すためである。血統も、学歴もない男が僅か数年で現在の地位を築くためには、汚れ仕事しかなかった。密偵、裏切り者の粛清。醜聞の後始末。どんな仕事においても、ジェラーレは抜きん出た結果を残していた。今までの生活に公的な後ろ盾が出来ただけ、といえばその通りであったが。周囲はジェラーレを恐れ、ジェラーレ自身が何度も暗殺の標的とされたが、平然と反撃し、全てを返り討ちにしてきた。彼の活躍を認めたジグハルトが身元引受人となったところで、ようやく地位は不動のものになる。国外にて世情を知り、また出自にこだわらないジグハルトは、血生臭い匂いのするジェラーレをすら懐に抱え込んだ。すべては大敵である、モス・シールズを打倒するためであった。ジグハルトは自身の能力を正確に把握しており、暗闘においてはシールズに敵わないことを知っていたため、対抗出来る人材を求めていたのである。

 ジェラーレはジグハルトの期待に見事応え、用心深いシールズの信頼を勝ち取った後、前国王暗殺に関するシールズとデュミエンドとの密約情報を入手し、スクエアを誕春祭に招き入れ、シールズ暴発の切っ掛けとなる遠矢を放ったのも全てはジェラーレ・シンタイドの口外できぬ功績であった。

「本来であれば、卿とこうして顔を合わせるのは、もう少し先であったろうな」

「シールズ閣下は容易ならぬ人物でした。私としては正攻法の限界を常々申し上げていたはずではありましたが」

 常日頃より、ジェラーレは暗殺の必要性をジグハルトに訴えていたが、聞き遂げられることはなかった。破局を迎えようとしてなお変わらぬ態度を貫く上司に、ジェラーレは怒りに近い感情を覚えたこともあった。

「言うな。分かってはいても出来ぬことがある。シールズを暗殺しては私が、同じ存在へと成り果ててしまう」

「ですが今回、もし華の儀において彼を仕留め損なえば、国内は分断されより大きな被害がもたらされたことでしょう」

「その通りだ。だからこそあの一矢を讃えこそすれ、咎めだてなどしない」

 ジグハルトは感情を整理し、自分に不都合な現実を直視し、受け入れるだけの度量もあったが、華の儀を振り返るときには憂愁を纏った表情を抑えることができない。自分の戦術ではシールズを崩しえなかったこと、そして『流れ矢』が事態を終息に導いたことを誰よりも理解していたからである。

 一方、沈黙する上司を見やるジェラーレの視線もまた複雑である。ジェラーレは、王族、貴族という存在を吐き気がするほど憎悪していた。出自によって厚遇され、罪を犯しても許される存在などあってはならない。だがそんなジェラーレでさえ、目の前の男、自分を拾い上げてくれた恩人でもあるジグハルトについては、その能力、度量、思想において認めざるを得ない、難儀な相手であった。言葉にならない思いを交わしつつ、ジグハルトはもう一つの不確定事項について口を開く。

「それにしても。まさか、侍女であったスクエア・アトランが王家の血を引いているとは……」

「申し訳ありません。私の調査不足でした」

「何、ハルフノールに生れし我らですら気付き得ないことだ。ましてや他国から士官した卿が知る由も無い。王家には底なし沼のようなものさ。秘密が今も眠っていようよ。全ては、今は亡き国王の執念が実った、というところだ。いやフォンデク大僧正の狡猾さ、かな?」

 ジグハルトとしても、フォンデクを過小評価していたことを認めざるを得なかった。彼は国を割る覚悟で改革を進めるつもりであったが、終わってみれば守旧派の勝利となっていたからだ。

「いずれにせよ、国内の混乱は最小限に止められた。これからのことを考えるとしよう」

「殺しますか?スクエア・アトランを?」

 あっさりとしたジェラーレの言葉に、ジグハルトは眉を顰めた。

「いや。これで女神ハルの力が蘇るのであればそれに越したことはない。どうあれ、私の仕事は変わらない。国を開き、より安定した社会を作り上げること。ハルの加護を持って五大国と話をつけることができればよい。今回はシールズという奸物を排除できただけでもよしとすべきだろう」

「……」

「彼女……いやスクエア陛下は政治の経験がまったくない。フォンデクも必ず我々に接触してくるはずだ」

「御意」

「繰り返しになるが、御苦労だった。これからは私の下で堂々と働け。世間体など気にする卿ではあるまい」

「まずは、シールズ一派残党の始末を進めます」

「無意味に残虐な真似は慎めよ。それから……あのトムスという男だが」

「処刑の準備は既に整えております。あとはジグハルト様の御裁可を頂ければ」

「彼がシールズ宰相の襲撃に関与していたというのは事実なのか?」

「はい。襲撃の計画書を入手し、内容については確認しております。彼の目的は竜が来るという噂を流し、さらに国政を牛耳る宰相を暗殺し、ハルフノールを混乱させることで不安を呷り、土地の購入や不当な代金での他国への避難あっせんといったことを企んでいたようです」

 竜襲来ともなれば、国内は騒然とし、そこに付け込んで富を築く人間もいる。竜相場ともいわれ、古くから様々な土地で起こらざるを得なかった混乱に乗じて一儲けするのは、トムスら竜賭博師がよく使う手法であった。

「そうか。しかし背後関係を洗わなくともよいのか?」

「確かにあの男、影で何やら動いている様子。かといって御しきれるような人物ではありません。買収でもされて逃げられる前に、一刻も早く処罰すべきです」

 ジェラーレの口調に、ジグハルトは二呼吸程の間を取った。

「分かった。処理は任せる」

「はい」

 一礼して退出し、廊下を歩く自分に向けられる視線を平然と受け流しつつ、ジェラーレは現状を整理する。これで、トムス処刑への目処は立った。ジェラーレに安堵とも虚無感ともつかぬ感情が湧きあがる。トムスの死罪について、ジェラーレは何の心配もしていない。なぜなら計画書の件は、全くの事実であったからだ。ただ一つ、自分が関与しているという事実が隠匿されていることを除いては。

 ジェラーレは誕春祭に合わせて、かねてよりの計画を実行した。ハルフノールに混乱をもたらし、新たな秩序を築くため、そして自分自身の復讐を果たすための壮大な陰謀である。計画の鍵にして最大の標的が、トムス・フォンダであった。カスバロの惨劇についてトムスが動いていたのを知ったジェラーレが、敵であることを隠しつつ接触を図り、今回の計画を打ち明け、協力を強要したのだ。事実、トムスはよくやってくれた。竜の噂を用いて国内に混乱を引き起こした手腕は憎んで余りあるジェラーレとしても認めざるを得ない。シールズ襲撃についても足のつかない人間を配置し、寸前でジェラーレが助けに入ることまでも計画通りであった。スクエアを無事に誕春祭に出席させ、八年に渡る彼女の復讐劇を終わらせることもできた。後は、トムス自身が処刑されることで、全ての罪を背負ってもらうだけである。

 ジェラーレの見立てでは、国内の混乱状態はもうしばらく継続し、トムスの処刑はシールズの下で行うものと予想していた。ジグハルトが処刑を認めるかは判断がつきかねたが、どうやらその心配も杞憂で終わりそうである。

「それにしても、トムスの奴、何故落ち付いていられるのだ……?」

 ジェラーレは歯噛みする。ここまで追い詰められているにも関わらず、トムスが余裕の態度を崩さないのは意外であり、不快でもあったが、何か秘策があるということなのだろうか。それとも、賭博師は追い詰められるほど作り笑いをするという俗説が正しかったということなのか。出会って以来、あの男の言動は挑発的であったが、その実、大層協力的であった。今回の騒動で大儲け出来るとでも感じたのか。もしかしたら、カスバロの惨劇をそれほどまでに悔いていたということなのだろうか。だとしても、ジェラーレの怒りが静まるはずもない。彼を処刑することについて、ジェラーレに良心の呵責は全く無かった。

 これで、自分が目指してきた復讐が終わるのだ。誰もいないのを確認して、ジェラーレは立ち止り、目を閉じた。過去の記憶を一つ一つ、切り捨てるように心の中で整理していく。奪われた平穏も、過去に犯した数えきれない罪も、もはや自分には必要ないのだ。

 ジェラーレが再び目を開ける。これからのことを見据えるために。華の儀は、結果として、ハルフノールは収めるべきところに収待った。モス・シールズが死んだことで、ハルフノールはスクエア・アトランという御旗の下、ロイ・ジグハルトによって新たな秩序が構築されることだろう。これは神の導きというべきなのか、それとも……

「スクエア……」

 活力に溢れる瞳を思い描きつつ、ジェラーレは小さく呟いた。偶然の出会いから始まった関係であったが、スクエアの行動は常に予測を超えていた。彼女の出自については、実はジェラーレとしても半信半疑であったところである。複雑にこじれたハルフノール血族関係もあり、ある程度の血を引いているであろうが、まさか華の儀を達成するほどの力を秘めていたとは。

「きまぐれ、か」

 ジェラーレにしてみれば、彼女を助けたことはまさにきまぐれであって、最初から彼女を利用する気などはなかった。宿場町に置き去りにしたのは面倒をみる余裕がなかったからであり、迎えに行くといったのは、娼婦にでもなっているだろうと予想してのことであった。だが、スクエアはジェラーレの真意を『誤解』し、自ら道を切り開いていた。同行してからも、スクエアはジェラーレとの苦難の旅路を耐え抜き、ついには、ハルフノールの玉座を手にするまでに至った。一体、何が、スクエアという女を駆り立てたというのか。復讐などという振舞いが出来る女でないことは、この数年間で理解している。陰謀渦巻く宮廷などに生きるにはあまりにも平凡な価値観しか持たぬはずなのに、だ。王家の血を引いているなどと、宣言しなくても良かったのだ。自分の手駒として生きるよりも、もっと有意義に生きる道などいくらでもあったのだろうに。

「……」

 ここまで考えて、ジェラーレはふと胸に拳をあてる。いいようのない熱が、未だ胸の奥で燻っていたからだ。焦燥感とも言っていい。自分は人生を取り戻した。これからは過去を振り返らず、未来の理想のために生きよう。そう決めたはずなのに、だ。内側に眠る不定形の衝動が、ジェラーレを刺激してやまない。確かに理想は遠い、シールズについても本来であればジグハルトの求めた正攻法にて決着をつけることが望ましかった。これから実現していかねばならないことは多い。分かっている、それなのにだ。

「何をしろというのだ!」

 思わず声が出る。己自身を持て余すとはこのことだ。自らの暗闇に向けた問いに、答えを見いだせないまま、ジェラーレは屋敷の扉を開ける。まずは、己の職務を全うするのだ。見えない不安など、動いていれば消えるはずだ。

「……」

 ジェラーレが処刑を急ぐ理由がもう一つある。明日、スクエアが神殿での祭事を終えガーデニオンにやってくることになる。彼女がトムスの処刑を知れば、ジェラーレの怒りを知ってなお、必ず止めるであろうからだ。その時、彼女にどんな顔をすればいいのかについて、ジェラーレは考えを放棄していた。







「……以上、報告を終わります」


 エスパダールの宿舎、あてがわれた一室において、デリクスは水晶から放たれる光に映し出された女性の映像に向けてハルフノールにおける顛末を語り終えた。宰相が死亡し、実に微妙な空気の酒宴をジェズトに任せ、ジグハルトと同じく不眠で神殿から急ぎ帰参し、情報収集してからの報告である。既に太陽は空の一番高い所を通り過ぎていた。

『御苦労様です。早速、陛下にもお伝えしましょう』

 映し出された女性は、固い表情のままデリクスにねぎらいの言葉をかける。その間も手は止まることなく、簡単な報告書を作り上げると、後ろに控えていた男に渡していた。

「相変わらず仕事が早いね。ラマム。旦那さんとの仲は順調かい?」

『公式通信で話題に上げる必要がない位にはね』

 口ではそういいつつ、眼鏡の位置をなおす動作で左手薬指に光る指輪をこれみよがしに見せてくるところなどは実に可愛いものだ、とデリクスは内心思う。ラマム・バグラシーはエスパダール宮廷筆頭書記官であり、国王の秘書として辣腕を振るう「出来る女」であった。デリクスとは旧知の仲であったが、態度も表情も、一貫して硬い。彼女をどうやって口説いた(口説かれた)のかは、非常に興味があるところであったが、決して他人に話すことはないだろう。

『あなたのおかげで、ハルフノールをめぐる諸国家の思惑は、形になることはなさそうね』

「俺のおかげじゃないさ。それに神と意思を繋ぐことができる王が戻ってきたとしても、円蓋の一柱となれた訳じゃない。一度開いた他国との交流を完全に断つことはできないだろうし、ロイ・ジグハルトあたりが目指す国づくりと、守旧派である神職達がどう折り合いをつけていくことやら。介入の余地は想像以上に大きいよ」

『正式な同盟を結ぶのは困難かしら?』

「本来孤立主義こそが、女神ハルの教えだからね。これからは神官達の発言力が極めて大きくなるだろうから、ジグハルトはさぞ苦労することだろう」

 人類が力を蓄え、版図を拡大する中でハルフノールは注目を浴び、結果として平穏が壊れたという図式である。【大いなる円蓋】に引き摺られて前国王は開国を目指したが、女王スクエアはどのような道を選択するのだろうか。シールズが去り、改革派と神殿という新たな対立構造の中で、混乱を呼び起こさずに統治するほどの力量を持っているのか。エスパダールとしても見極める必要があった。

「何にせよ、帰国までにはもう少し時間がかかるかな」

『了解、延長を申請しておきます。ファナは役に立っている?』

「今も元気に情報収集しているよ。しかし、俺がいうのもなんだけどさ、ファナ・イルミは下手に暗部に関わらせることなく、真っ当な道を歩ませたほうがいいと思うんだけど。今回華の儀の混乱を最小限に抑えきれたのも、彼女の法術のお陰だしね」

 華の儀において、ファナはデュミエンドの一団に対し、桜だけでなく、数々の花が開花する瞬間に、法具【女神の息吹】により集中を乱す香りを放つ法術を成功させていた。デリクスがモルガンの背後を取れたのは、彼の虚をつく動きだけではなかったのだ。

「他の神様の神域で法術を成功させるなんて、中々できるものじゃない。報告書にも書いておいて」

『わかりました。私が見込んだだけのことはありそうね』

「どうやら、君あたりがそそのかしているようだけど、より望ましい方向に導いてやるのは先達の務めだと思うけどな。あれだけ美人なんだし」

『美人は余計。そういう男の考えこそ余計なの。私は、彼女には今の仕事に資質があって、熱意もあると判断しています』

「否定はしないけど、敢えて底なし沼に招き寄せる必要があるのかなあ」

 デリクスはそれ以上言おうとして、やめる。ファナは女性ながら筆頭書記官まで上り詰めたラマムを非常に尊敬しているようであり、デリクスの助言などは鼻で笑っておしまいであろう。しょせんは、他人の人生である。

「では、もったいないから切るね」

『あなたにスパッダの加護を。デリクス』

「君と旦那さんにもね、ラマム」

 通信が切れる瞬間、ほんの僅かラマムに浮かんだ笑みは、苦笑に近かった。デリクスが頭を掻きつつ部屋を出ると、当のファナの顔にぶつかる。改めて見ても瞠目するほどの美しさであったが、 生憎デリクスには経験による、美女への耐性があった。内心などおくびにもださず、気の抜けた挨拶を発する。

「やあ。おえらいさんのお相手、お疲れさん」

「まったく、酒でも飲まなきゃあんなおっさんたちの相手はできないってのに、いい子ちゃんの顔するのも楽じゃないわ。ま、おかげで色々と話は聞けたけどね」

「どんな話かね?」

「祭りにも参加せずに姿を消した奴らの話」

 ハルフノール宮廷内部において、シールズ一派は核を失ったところに、ジグハルトの速攻により一気に捕縛されたとのことである。祭りの参加者も、ガーデニオンに残っていた一派も含めて。かねてより調査を進めていたのであろう、ジグハルトの果断さと、周到さがうかがえた。

「これで、ジグハルト卿がこの国を牛耳るのかしら。新国王も何の経験もない女の子みたいだけど……」

「街の様子は見てきたかい?皆女神ハルの名を嬉しそうに讃えているよ。彼等の本音は、変革じゃなくて、安定だよ」

 空気の変化はあっという間であった。というより、奥底に眠っていたものが噴き出たというのが正確であろう。シールズが倒れたことで、市民の間には争いを忌避する気持ちとともに、平穏な日常への希求が強くなっているようだった。

「それは、確かにそうね。となると、しばらくは国内の地盤固めで一杯か……」

「デュミエンドの動きはわかった?」

「ついさっき、新王即位を歓迎する旨の声明と、先々代国王暗殺については正式に国際裁判所に届け出ることを表明」

「さすがは、モルガン将軍。相変わらず動きが早い。こちらもジェズト卿あたりに動いてもらわないとな」

 もうピトー・ヴィッチの始末は目星ついたのかな、とデリクスは他人事のように考える。デリクスの見立てでは、モルガンとジェズトは裏でハルフノールの分裂を認め合っていたような節があったが、今後にどう影響するだろうか。昨日は思い返しても危うい場面が多すぎた。モルガンは自身の勝負に固執したことで、ジェズトは保身と、戦争の切っ掛けに自身がなることに恐怖を抱いたために、華の儀においてハルフノールは破局を免れた。デリクスとしてはモルガン自身が提案した国際裁判による時間稼ぎの中で、エスパダールとして介入する手段を探す、というのが落としどころと考えていたが、まさか王族の生き残りが現れるとは。結果として、ハルフノールは新たな王の元、他国の介入を受け入れることのない立場を確保したことになる。

 だが、全てが終わったわけではない。対立構造を生み出し、国を二分して片方に与するのはデュミエンドのお家芸だったが、次に狙うとすれば、ジグハルトか、それともフォンデクか、いっそのことスクエア女王なのか。

「私からの質問、そのジェズトは今何してるの?」

「さっき帰って来て部屋に籠ってる。おそらくあちらはあちらで上司に報告中なんでしょ。当初の目論見がズレたから、さっさと帰りたいとかいってんのかもね」

「さっきの話じゃないけど、ハルとの交信が復活し、世論が他国の介入をよしとはしないとなれば、同盟もパー、か。御気の毒さま。でもデリクス、あなたはそれでいいの?」

「ああ。新たな煙が立つにせよ、出来る限りは休みが長いほうがいいからね」

 ファナは意地悪い笑みを浮かべていた。

「さてと、少し眠らせてもらおうかな。あとはよろしくね」

 デリクスが大きく欠伸をしたとき、エクイテオが通り過ぎた。挨拶もそこそこに、上着を着こむ。デリクス達とは別行動、カイムの力で一息に帰ってきたところであった。

「デリクスさん。おれちょっとツィーガを見てきます」

「そういえば、今日が賭けの期限だったっけ」

 デリクスは働かない頭を振っていると、ファナが突如大きな声を出した。

「あ、一つ忘れてた。あのトムスとかいうやつ、処刑されるみたいよ」

「何だって⁉」

 エクイテオの声に、デリクスは眠そうな目を見開いた。

「どうも、シールズ前宰相襲撃事件にも関与してたってことになったみたい」

「ふむ……執行はいつかな?」

「そこまでは分からなかった。けど、どうやら秘密裏に処理するつもりだから、話聞くなら早くしないと」

「行ってきます!」

 再び欠伸をしながらエクイテオを見送るデリクスに、ファナが訝しげな視線を向けた。

「どうするの?あのトムスとかいう男が死んじゃったら、ラーガが戻ってこないんじゃないの?」

「ジグハルト卿にでも頼むしかないかな……やれやれ」

 頭を掻いたデリクスであったが、次第に近付いてくる足音に気付く。扉を叩きもせずにジェズトが部屋に飛び込んできた。

「デリクス司祭長!緊急事態だ!」

 どうやら受難の司祭長に安息の時間は訪れないようである。ファナの生ぬるい視線が、デリクスに刺さる。街の浮かれた様子が遠く聞こえ、何とも言えずにやる瀬なかった。



 息せき切って走ってきたエクイテオの来訪を、初日と同じく執事らしい男は無言で受け入れる。恐らくトムスに関する情報は入ってきているのだろうが、こちらも泰然としたものである。

「ツィーガの調子はどう?」

「最後の一日は食事をとる時間もないようでした。こちらへ」

 案内された部屋の前には、手のつけられていない食事が置いたままになっている。

「声かけてもいい?」

「ええ。まあ、それぐらいならよいでしょう」

 男が立ち会う中、エクイテオは扉を叩く。

「おーい。ツィーガ、起きてるかー?」

 反応がない。エクイテオが扉を叩く腕に力がこもり始める。

「起きろー!」

「……おーう」

 しばらくして、微かな声がようやく聞こえてきた。男が無言で開けてくれた扉に飛び込むと、机の上に突っ伏したツィーガがいた。見れば部屋中の書物が散乱している。片付けを思ったのか、執事の男が僅かに眉をひそめた。エクイテオはツイーガの肩を引き起こす。

「おい!しっかりしろ!分かったのか!?」

「ああ……そうだ、早く行かないと……」

 ふらつく足に力を込めようとしてよろける。不眠不休で資料を読み漁っていたようだ。

「一夜漬けは得意だったけど、三夜漬けは難易度高いな……」

「歩けるか?」

「大丈夫だよ、自分で歩ける……賭けはまだ終わってない、辿り着くまでが勝負ですっと……」

 立ち上がったが、足下がおぼつかない。エクイテオは執事を見た。

「私は申しつけられているのは、この船内においてのこと。船を出た後について申し上げることはございません」

「だ、そうだ!行くぞ!」

「……では、行きます。色々とありがとうございました。」

 ツィーガが男に丁寧に一礼すると、そのまま倒れ込みそうになる。エクイテオが横から慌てて支えた。


 エクイテオに背負われ留置場に到着したツィーガは、「時間は、あまりありません」との守衛の言葉を聞き流し、意識を繋ぎ止めつつトムスの前に座る。トムスは神官戦士の様子からこの三日間の苦労を悟ったのか、苦笑を浮かべていた。

「よう、小僧。何とか間に合ったようだな」

「小僧はやめてくださいよ……処刑されると聞いたのですが」

「まあな。遺言書は残してあるから心配すんな。こいつは俺の棺の装飾品だけどな」

 トムスが差し出したラーガの宝玉を前に、朦朧とした意識を奮い立たせる。まだ勝負は終わっていないのだ。

「さ、回答を聞かせてもらうぜ」

 ツィーガは頷くと、エクイテオに退出を促す。エクイテオはトムスを一度見やったのち、無言で引き下がった。

「初めに言わせてください。やっぱり、貴方は凄い人でした。一つの竜襲来を予測するのに、あそこまでお金と時間と労力とを使い、全大陸を歩きまわり、歴史を全て学びつくして、法則を探していたんですね……」

 トムスはツィーガの言葉にまんざらでもなさそうな顔を見せる。

「法則とまで言えるものがあるわけじゃあねえが、な。勘だの運だのは、最後の最後なんだよ。そんなことも知らずに、俺のことを運がいいだけの奴、という阿呆どもも多いこと」

「貴方のこれまでの努力、積み重ねてきた知識に、まず敬意を表したい、そう思いました。だからこそ、あなたが求め、見つけ出したものは、危険極まりない」

 ツィーガは一息入れ、一気に核心を突いた。

「邪竜ニアコーグ」

 ツィーガの言葉に、トムスはつまらなそうにラーガの魂が宿る宝玉を投げてよこした。

「お前の勝ちだ」

『ほれ、俺の言った通りになっただろ?』

「ああ、まあ小僧にしちゃあ、よく頑張ったってところだな」

 ラーガが声を発し、トムスが普通に答えるのを見て、ツィーガの達成感と緊張感が急速にしぼんでいった。

「……何やってんだよ、いつの間に」

『三日間ずっと黙ってんのも暇だしな。おかげで色々と興味深い話が聞けた』

「俺も勉強になったぜ、旦那」

 旦那、とは。何となくではあるが、気が合うだろうと思っていたが、そこまでとは。トムスはツィーガの様子を気にすることなく、身を少しだけ乗り出してきた。

「さて、どうやってニアコーグに辿り着いたか、聞かせてもらおうか」

「どうやってと言われても……カスバロの惨劇について書かれた書籍から入って、あなたがつけた印や、下線が引かれた言葉の出てくる書籍を当たっていっただけですよ。あなたは、カスバロの惨劇に似たような事件を探していた。犠牲者の数、事件の発生時期、鬼の生息状況まで、あらゆる分野を調べていた」

 それは、トムスの長年にわたる人生、知的探求をなぞる長い旅だった。大河のような情報の奔流がツィーガをもゆっくりと過去に遡及させていく。つい賭けのことを忘れそうになったのは、ラーガには内緒だ。膨大な資料の中に示された道しるべは、目の前のトムスが何もない未踏の地を切り開いた証であり、ツィーガが辿るべき足がかりだった。

「これは想像ですが、調査の傍ら、あなたは周囲の盗賊団を潰しまわっていますね。そうやってカスバロの惨劇の犯人を絞り込んでいる。そして残ったのが」

「ニアコーグ、か」

「そうです」

 ツィーガがトムスに向ける目には敬意がこもっている。トムスがこの十五年間費やしてきた捜査は、執念といってよかった。カスバロの惨劇に少しでも関係しそうな連中に接触をとり、あるいは傭兵団を組織し、叩き潰しては可能性を消していったのだ。一体どれほどの財を投じたのか。

『邪竜、と呼ばれるということは、それなりの理由があるのか?ツィーガ?』

「ああ。魔竜だの、暴竜だの色々あるけど、ニアコーグのそれは人に対する、悪意だ。竜は街を破壊する為に飛来してくる。だけどその実、人間そのものだけを標的として狙うことは少ない。妖精族も被害にあっているし、どちらかといえば世界そのものを破壊している」

『竜の通った後には何も残らない。だが人間のために寄り道はしないということだな』

「そうだ。だけど、ニアコーグは違う。奴は街を破壊することなく、人間だけを標的に選び、襲っているんだ。しかも狙うのは他の竜から逃げてきた避難民や、戦争難民など、弱者をめがけて襲うような竜なんだよ」

 人類の歴史に隠れ、寄り添いながら、被害者を着実に増やしてきた竜であった。ようやく人間に認識されたのは、五〇年ほど前の、円蓋が始めて発動した時である。ただしその後、ニアコーグ発生を掴むのは難しく、生態の把握は容易ではなかった。

「トムスさんの資料によれば、疑わしいのを含めると一〇〇〇人は犠牲になっている」

『……』

「もう一つの特徴は、突然出現すること。通常竜は生息地から飛来するため、実際の襲来までに時間的な余裕があるため対処方針を決めることができる。竜の位置を把握するために、志力の観測所が設置されたのはこのためだ。けど、ニアコーグは正に神出鬼没といっていい。何の前兆もなく目の前に出現し、人間を喰らい尽くして去っていく」

『喰らう?』

「そうだ。あいつは、人を食う。竜が人を喰らうなんざ聞いたことないがな」

 トムスが口をはさむ。

『ふむ……』

「更に、竜は居所を変えることは無いから、どの竜がどこに襲来するかはある程度予測できる。が、ニアコーグと思しき出没は大陸全土に及んでいる」

『ニアコーグの存在を認知できたのはいつだ?』

「えーと……円蓋を生み出し、妖精族との緊急時の避難協定を結んだときに得た情報。彼らによると、ほぼ、一〇年前後の周期で出現しては消えるを繰り返しているとのことだとか」

 記憶を整理しつつ、一通り話をし終えたツィーガは、トムスに質問した。

「ニアコーグがカスバロの惨劇の犯人、いや犯竜だと考えているのですか?そして、このハルフノールに出現すると?」

「ああ」

「理由は?」

「勘、だよ」

「ここまで来て、勘ですか」

「ああ。馬鹿にしちゃいけないぜ。さっきもいったが、突き詰めるだけ突き詰めて、考えるだけ考えて、最後に決断するのは、自分の勘なのさ」

『そして、だからこそ人を説得できない、と』

 ラーガの言葉に、トムスは笑った。今までで一番人情味のある、苦笑いだった。

「そういうこった。坊主が今まさに取った反応こそが全て。最後は勘だと?ってな。いいかい、俺の言葉で誰かを動かせるなんて思うな。俺のやっていることは学問でもなんでもない。賭けさ」

 トムスの言葉を、ツィーガは無言で聞く。眠気はどこかに吹き飛んでいた。

「それに賭けって奴は誰かが泣く仕組みになってる。大抵は運も力も無い奴だ、お前さんが助けようとしている連中なんざ、いいカモだぜ。それをよく覚えておくこった……さて、用事は済んだな?」 

 立ち去ろうとするトムスに、ツィーガが慌てて質問する。

「あなたは、ニアコーグに会って、何をしようというのですか?」

「決まってるだろう。借りを返すのさ。俺は、借りたものは必ず返す。恩であれ、仇であれな……だが、それもどうなることやら」

 言葉を続けようとしたツィーガを遮るように、扉が叩かれ、守衛が部屋に入ってきた。

「トムス・フォンダ。時間だ」

「あいよ」

「まさか……」

「そうだ。俺様の処刑の時間が来たってことさ」

 ツィーガが思わず立ち上がる。足下のふらつきに疲労を思い出しているころ、次に部屋に入ってきたのはジェラーレ・シンタイドだった。身体に纏う空気から、今まさに駆けてきたことが伺われた。

「ジェラーレ卿……」

「オルセイン殿との話は終わったようだな」

「ああ、待たせて悪かったな」

 泰然とした様子を全く崩すことなく、トムスは立ち上がり、扉を出て行く。見送るツィーガに対して、ジェラーレが冷ややかな眼差しを向けてきた。

「今回は、ハルフノールの法に基づいた正式な判決によるものだ。何なら調べて貰っても構わないぞ?」

「……」

「まさか、竜が出るという話を真に受けた訳ではあるまいな?」

「彼の言葉には調査や歴史に基づいた裏付けがある。軽視していよいものではない」

「賭博師ごときの言を信じろというのか?しょせんは博打打ちの戯言。それによって、どれだけの悲劇が生み出されてきたことか。むしろ世を乱し、それによって利益を得んとする不貞をここで断つべきだ」

 ツィーガは黙った。ここで仮に、船に眠る膨大な資料を持って説明したとしても、全ては仮説として片付けられることは明らかである。だが、もしトムスの話が本当だとしたら、竜に対する備えの全くないハルフノールは、一体どうなってしまうのだろうか?その焦りをどう読み取ったか、ジェラーレは話を変えた。

「人道的対処については大変勉強させてもらった。だがこれ以上の介入は無用だ。奴は犯した罪によって正しく裁かれるのだから」

「……貴方は、何を望んでいる?貴方からはトムスに対する悪意が感じられる。法を恣意的に用いてはいないか?」

「答える義務はないが……確かに私はあのトムスという男に悪感情を抱いている。自分では何も生み出さず、人を騙し、上前をはね、時には破滅に追いやってまで自身の利益を追求するような奴だ。好きになりようがないではないか」

「……」

「私の望みといったな。真面目に生きる人間が、生れや境遇で不幸になることのない社会だ。その社会に、トムス・フォンダのような人間は必要ない」

 ジェラーレの言葉は、ツィーガにとって意外だった。彼の言葉には真情がこもっていたからだ。

「あの男に対して、オルセイン卿が何を考えているかは分からない。だがこれだけは言える。トムス・フォンダは厳正な法による裁きの下に処罰される。それこそが私の望みだ」

 それきり、ジェラーレはツィーガに背を向けた。



 ツィーガは留置場の外に出て、ジェラーレとトムスが乗った馬車を無言で見送った。トムスも気になるが、あのジェラーレという男も気になった。身に纏う剣呑な雰囲気とは裏腹に、市民を想う気持ちは強く純粋であったように感じられた。おびただしい刀痕を有する容姿といい、尋常一様の人生を送ってきたわけではないのだろう。

「なあラーガ。あのジェラーレって人、そんなに悪い人じゃないよな?」

『ツィーガ、覚えておけ。世の中一番怖いのは野心と結びついた善意という奴だ。理想を超えて妄執となり、正義を超えて独善を産む最適の土壌だからな』

「あの人は、それだと?」

『……そう言えば、お前に話しておかなくてはな』

 前置きをしつつ、ラーガはトムスと居た際に仕入れた情報をツィーガに伝える。ジェラーレがカスバロの惨劇の唯一の生き残りであること、トムスを恨んでいることなどを話して聞かせた。

「そうだったのか……」

 僅かな情報だけで、分かった気になってはいけないが、腑に落ちた感覚を否定もできない。無言になったツィーガに対し、かちゃりかちゃりと音が鳴る。

『余計なお節介と知っていっておくが、余り肩入れするべき相手ではないぞ。その、お前と似たような境遇だし、な』 

「そんなことはないさ。俺には姉さんがいたし……それにあいつもいたよ」

 ふと視線を別の位置に移し、空に向かってぶつぶつ呟いているエクイテオを見つける。ツィーガはラーガを手に握りつつ合図を送ると、気付いたエクイテオが走り寄ってきた。

「よかった!無事戻ってきたんだな」

『心配をかけたな』

「ああ。テオのおかげだよ……そういや、さっきから何話してんだ?」

「あ?いやあ、シャ……いやいや風の精霊にお礼を言ってたんだよ。お前を背負って運ぶのに力借りたからな」

「そっか。俺からの礼も伝えてくれよ」

 エクイテオの表情は曖昧だったが、ツィーガは追及せず、トムスの話をした。

「そっか、トムスのおっさんの死刑は決まりなのか」

「ああ」

「でも、ツィーガの話にでた、ニアコーグって奴はどうすんだ?本当に出てくるならやばい奴だろ?」

 ツィーガの表情を思いやってか、若干声を抑えた。エクイテオからすれば好き勝手やったのだからある意味自業自得、という感想である。

「神出鬼没ってやつだからな。いつ、どこで出てくるかなんて分からない。だからこそトムスさんも苦労したんだろうさ。こんな時期にハルフノールの人に伝えたとしても、果たして相手にしてくれるかどうか……」

 トムスがあれほどまでに時間をかけ、可能性を消してなお勘に頼ることしかできないほどの細い糸である。『話の分かる』デリクスにかけ合ったとしてもこの程度の情報でエスパダールに救援を求めることはできないであろう。だからトムスは、騒動をおこしてまでも竜の襲来を告げようとしたのだろうか。

「確かに……難しいな。かといって、放っておかないんだろ?ツィーガは」

 やれやれと言いたげなエクイテオに、なんの衒いも迷いもなく頷くツィーガ。

「ただそれにしても、トムスって人にしては往生際が良すぎるのが、むしろ気になる」

『ようやくそこに至ったか。何故かは分かるかな』

「ひょっとして、やっぱり竜と関係するのかな?」

 柄にはめこまれたラーガはかちゃりと音を出す。賛同の意を示したのか、それともいずまいを正したのかは分からない。

『賭博師の往生際が良くなるときなんざ一つしかないぞ。白か黒、どちらかに賭け終わったときだ』

「?もしかして、ニアコーグがすぐに出てくるのか?」

『さにあらず。自分がトムスに説明したときの言葉を思い出してみるといい』

「えーと。ニアコーグは危険、人を標的にする……襲うのは戦争難民とか竜の被災者……っておい!」

『その通り。どうやら、お前の予想に対する答えがやってきたようだぞ』

 ラーガの声を受けて視線を上げると、エスパダールの馬車が物凄い勢いでやってきたところであった。



 トムスが連れられてきたのは、城内の奥まった場所にある空き地といっていいような場所であった。二人の刑吏が左右から腕を取り、進みゆく先には台と、首を切るために磨かれた斧を肩に担ぐ首切り役人であった。事務的な様子に誰もが凄味と恐怖を覚える中、賭博師の不敵さには一向に陰りが見えなかった。

「トムス・フォンダ、何かいい残すことはないか?」

「死ぬ日ってのは、案外こんなものなのかな」

 不敵な陽気さは、処刑台を目前にしても小憎らしいほどに変化はない。死に対して何故ここまで泰然としていられるのか、刑を執行する人間のほうが、却ってうろたえるほどの自若ぶりであった。

「トムス・フォンダ。前宰相襲撃の罪、また国内に騒乱を広げた罪に対し、死刑を執行するものとする」

 ハルフノールの司祭が死にゆく者に対する祈りを始めた。秘密裏の執行ゆえ、聴衆はいない。そんな中ただ一人、少し離れた場所からトムスの様子を、眺めやるジェラーレがいた。歓喜とはいえぬまでも、これまでの憎悪に満ちた日々からの解放、安堵の瞬間を迎えようというのに、表情は歪み、眉根は寄せられ、疑念に満ちている。余りにも平然とし過ぎているトムスに対する焦燥感である。公正に裁かれることへの達成感だけでは満たしきれぬ、暗い情念が本人の抑制を超えて吹きだしていた。

「死を、恐れてはいないのか?」

 これでは面白くない、自分の家族が味わったであろう苦しみ、嘆き、恐怖を感じ取るべきなのに。ジェラーレはふと気づいて舌打ちした。結局、過去を切り捨てようとしてもできない。この汲めども尽きぬ憎悪は、一体どこからくるのだろうか。首を断つ斧を見せられても目を逸らすことなく笑みを崩さない男に対し、畏敬に近い感情を持ったことが、ジェラーレにとっては二重に屈辱であった。こうなれば、さっさと処刑を終わらせて、忘却の彼方へ記憶を放り投げるしかない。死刑を急がせようと指示する前に、ものすごい勢いでジェラーレに向かい走ってくる神官が目にとまった。

「待て!」

 振りあげられた斧が、ぴたりと止まる。

「その処刑、待った!ロイ・ジグハルトよりの命令である。その者の嫌疑につき、再調査を必要とするとのお達しである!」

「どういうことだ!」

 突然の来訪を受け、刑場の空気が乱れる。ジェラーレは辛抱たまらず、処刑場に足を踏み入れる。トムスのうすら笑いが視界の隅に入り、逆上寸前になる。

「何があった!この者の罪状に疑わしいことなど微塵もないはず!またどこぞのおしつけ国家の横槍か!」

「いえ……何やらジグハルトが至急このトムスなる男に問いただすことがあるとかで……これをジェラーレ卿に渡せと」

 ジグハルトの筆跡を確認して、ジェラーレが書状をひったくる。読み進めるうちに、遠目で見てもわかるほどに大きな手が震えだした。

「……分かった。刑は中断だ」

しどろもどろだった刑吏達も、トムスの様子に疑問を抱いていたのだろう。ホッとする。だが瞬間、トムスの襟元を持ちあげると、近くの壁に叩きつけた。

「貴様……!」

「その顔だと、どうやらまた、俺の勝ちのようだな」

 せせら笑うというのは、こういう表情をいうのであろう。こうなることを知っていたかのような態度である。見せかけとはいえ、挑発の技術としても一級品であった。

 過去が痛みを持って引き摺りだされ、ジェラーレは思わず拳を握りしめた。トムスは、これ以上ない嘲りと、僅かな怒りを込めて言い放つ。

「貴様……貴様……もしや、本当に……」

「勘違いするな。俺にお前が今考えてるような力はねーよ。嘘はつかねえ、それだけさ」

「何を企んでいる?」

 ジェラーレの腕を払い、トムスは服を直す。表情を読ませるような男ではない。張り付いたような嘲笑は、自分以外の世界すべてに向けられているかのように傲慢であった。

「何も企んじゃいないさ。お前に借りがあるのは事実だから、色々と手助けしてやったつもりだぜ。だが、もうこれですっかり借りは返したぜ」

 ジェラーレの眼光をまともに受けつつトムスはなおも口撃を止めない。

「全く、似たような境遇なのに、あのエスパダールの神官戦士とはえらい違いだぜ」

「何……?」

「ツィーガとかいったか?あいつも竜に町を壊され、家族を失ったそうだが、お前と違い真っ直ぐ陽の当たる道って奴を進んでやがる。どこが違うのかね?」

「黙れ!!」

 半ば床に叩きつけるかのごとくトムスから手を離したジェラーレだったが、やがて身体じゅうに怒気をまとったまま立ち去った。トムスは痛みを無視するかのように体を起こし、壁に背中をあずけ、大きく息をつく。何のことでもない、彼はまた賭けに勝っただけのことである。今まで死ぬ寸前から生還したことなど数えきれないほどある。こんなものは危機と考えるほどもない。ジェラーレには悪いが、人生経験の違いというところだった。

「おい、座っている場合じゃないぞ、さっさとしろ!」

 ジェラーレが姿を消し、急に元気になった使者に軽く手を上げつつ、トムスはつぶやいた。


「さあ、いよいよだ」





「ここが……」

 スクエアの溜息は漆黒に飲みこまれる。神殿における様々な儀式を終え、最後に尋ねたのは、女神ハルがその身を投げ、ハルフノールという島を生み出したとされる大洞穴の最深部であった。深い穴の先を見通すことは出来ない。一体どこまで続いているのか。一説には世界の底まで、落下しても辿り着くのに一〇〇年かかるという大袈裟な話まである程だった。

「この先に、ハルがいるの?」

「そう言われておりますが、誰も確かめたことはございません。どこまで深いのか確かめようとした人間もおりましたが、みな断念しております。二度と戻らない人間も多数でておりますので、あまりお近づきになりませんように」

 地面がどこまで続いているのかも見えないほどの闇に対峙し、スクエアは膝まずき祈りをささげはじめる。

「ハルよ。永久の女神ハルよ。威光と恩寵を我に、我が国民に。私は御使いとなりてこの島に安寧を導くものなり。願わくば豊穣のゆりかごを、静謐なる棺をもたらさんことを」

 スクエアの身体にも、感覚にも何の変化もない。ここが最もハルに近しい場所とは思えなかったが、儀式は果たさねばならない。やがて目をあけ立ち上がったスクエアに対し、フォンデクが笑みを向けた。

「お疲れ様でございました。これで本日の予定は終了です」

「ありがとうございます」

 スクエアをあくまで女王として立て、優しい笑みを浮かべるフォンデク大僧正の真意について、スクエアはまだ読みとることが出来ていない。スクエアの能力についてはこの男だけが認識しており、結果今回の政変において一番の利益を得たことになった。恐らくは、王家の血筋を絶やすまいとの隠密行動の首謀者はフォンデクなのだろう。今のところ、彼からは再び女神ハルに対する信仰を取り戻すという理念だけが示されているが、いまやハルフノール最大の実力者であるロイ・ジグハルトの理想とは正反対であり、対立の火種となりうることについては流石にスクエアでも気付いている。

「明日はガーデニオンに向かい、行政の仕組みについてのお話を聞いていただくことになります。今頃はジグハルト卿が用意を進めてくれているはずです」

 狭まっていた洞穴が突然広くなり、一〇〇〇人単位の人間が収容できる大きな穴を進んでいく。まるで自分の人生のようだ、暗く、狭い隙間からようやく抜け出したけど、ただ広いだけの空洞に明かりもささない、というのは。はじめて続きで披露困憊のスクエアに対し、フォンデクが声をかけてきた。

「さぞお疲れでしょうが、何とか耐えてもらわねばなりません。」

「分かっています」

「国民は皆、女神ハルの下での平穏を求めております。シールズという冬が去ったいま。春をもたらし、新たな繁栄を築くのです……そのためには、人心の統一こそが何よりも肝要かと」

「何がいいたいのですか?」

「ジグハルト卿とは、どう接していかれるおつもりですか」

「彼は人望もあり、行政能力も高いとききます。是非力を貸してもらわねば」

「確かに能力の点ではハルフノール随一でしょう。だが思想となると注意が必要です」

 そらきたぞ、と思いつつスクエアは緊張を高める。

「彼は、国を開き、人の流れを活発にし、自由の気風を取り込みたいと。しかしそれは女神ハルを目覚めさせる人間がいなかったゆえ。でも今は違う。ハルフノールの女王であり、女神ハルの受け手たるあなたがいる。毅然とした対応こそが求められております」

「……分かりました」

「我らはいつまでも陛下の味方。お忘れなきよう」

「ありがとう」

 遠く見えていた光が周囲を包み始める。ようやくに出口だ。一日一日を積み上げていくしかないのは、これまでと同じ。ひとまずは頭を休めよう。そう思ったスクエアであったが、洞穴を出た瞬間、神官達の血の気が引いた顔が飛び込んでくる。見れば、早馬による知らせがあったようだ。

「陛下、恐れながらお耳にいれたき情報が」

「教えて下さい」

「竜が……竜が観測されたとの情報です!」

「⁉」

 あまりの凶報に、目の前が再び洞穴に戻ったかのごとく真っ暗になる。

「エスパダール、デュミエンドら数カ国から同時に寄せられた情報です。恐らくは真実かと。しかも、恐るべきことに……我らハルフノールの方角に進んでいるとのこと!」

「何と言うことじゃ……!やはり、女神ハルの守りが薄れてしまったことで、ハルフノールの存在を竜が強く認識してしまったということなのか」

 フォンデクは天を仰ぐ。皆の思考が停止した中、スクエアの脳裏にはトムスの顔が浮かんでいる。彼が言っていた竜が来るというのは、単に混乱を起こすためのハッタリだと思っていた。だけどまさか、彼はハッタリではなく真実を述べていたということなのか。となれば、彼の真の目的もまた……スクエアは悪寒を感じ、我が身を抱きしめる。

「恐れながら、陛下。こうなった以上、明日を待っては居られませぬ。一刻も早くガーデニオンに赴かれ、対策を協議する必要があるかと」

 いち早く虚脱状態を抜け出したフォンデクの進言に、スクエアは賛意を示す。ひとまずは竜に対する対策を練らなければならない。何せ、ハルフノールには円蓋がない。もし竜が押し寄せることになりでもすれば、建国以来、未曾有の危機となるだろう。

「まだ、ハルフノールを目指していると完全に決まった訳ではありません。慌てないことが肝心。幸いにして、今なら他国からより詳細な情報を得ることができるでしょう。申し訳ありませんが、出立の用意を急いでください」


 スクエアの言葉に、皆が一斉に動き出す。自身も急ぎ足で神殿に戻る道を歩みつつ、考えたのはジェラーレのことだった。これでようやく、ジェラーレと話ができる。再び沸き起こり始めた暗雲の中、それだけがスクエアの支えであった。




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