誇りまみれの竜賭博 第5話 宴の終わり 祭りのはじまり




 夜はそれぞれに似合いの物語を提供し、一足先に人間どもを置いて立ち去っていった。夢の名残を楽しむ者にも、終わった悪夢を振り払おうとする者にも等しく朝が来るものだが、デリクスにとってみれば夜の長さを感じる間とてない。ハルフノールの貴族や侍女から散々に質問攻めに会い、ろくな食事も取れずに宿所に帰ってきてみれば、今度はシールズ宰相襲撃の報告である。デリクスは、やれやれとため息をつきながら、ツィーガ達を呼び出し、現状の情報共有を行う。話ぶりは、相変わらず店先の魚を猫が持ち逃げした、程度の深刻さだった。

「いやあ、とんでもない騒ぎになったもんだねえ。一国の宰相と大貴族両方同時に襲われるなんて」

「それにしても情報が来るのが早いですね」

 こほん、とファナが咳払いをし、デリクスは開きかけた口を閉じる。話を聞き終えたツィーガとエクイテオ、そしてリーファ達三人は顔を見合わせた。

「町中に鬼が出るなんて、エスパダールでは滅多にないことだけど……」

「人の世が乱れるときにつけ込もうとするのが、魔族であり鬼だからね。ハルフノールは想像以上に混乱しているのかもしれない」

「そういや、街に辻斬りが出たって話もあったけど、ひょっとしたら鬼だったのかもな」

 話しつつ、ツィーガ達は何とも言えぬ安心感に満たされる。自分達は偶然に出会ったはずなのに、顔を合わせてみれば必然であったかと思うほどに三人でいることがしっくりくる。

「こうなると、竜が来るという情報は怪しいですね」

「ほう、どうしてそう思う?」

 問われてツィーガは、上司の表情に浮き上がっている内容をそのまま読み上げる。

「……政情不安を引き起こすため、とか」

「うん。だとしたら、何故そんなことをする必要があるのかだよねえ」

 眠たげな様子を見せるデリクス。サボっているように見えてしまうが、情報が入って以来不眠で対応していたのだと思うと、ツィーガも気持ちを改める。彼自身も夜警当番だったが、少なくとも表情に出さない程度の余裕はある。体力の違いはやはり年齢の差であろう。ツィーガのある意味失礼な考えなど知るよしもなく、デリクスは目を閉じ、考え込む。放っておくとそのまま寝てしまいそうであったが、ちゃんと目を開けたのでほっとした。

「さて、君たちに任務を与えなくてはいけない。ハルフノールから直接依頼があった。今回の不穏な噂を速やかに消して、無事に誕春祭を開催するために、調査に協力してくれって」

「噂についての調査ですか?それとも宰相襲撃犯調査?」

「両方か、それとも根は一つと考えているか。何かさ、偉い人から犯人を捜せ、いなければ作れ、くらい言われてそうだよね。全く宮仕えは楽じゃないねえ」

 祭の前にカタをつけろ、とでも上からどやしつけられているのであろう、と同じ苦労をさんざん味わっているデリクスは、瞼を指で拭う仕草までしてみせる。部下達のうんざりした様子を見ないですんだのは、結果的によかったのかもしれない。

「いいんですかね?勝手に人様の国で調査なんかしちゃって」

「いいんじゃないの?あちらさんは祭の警備でそれどころじゃないんでしょうし」

 あまりに適当な返答に、ツィーガは呆れた。

「はあ……」

「こちらも自由に動ける人が少なくてね。ジェズト候の視察にも随行者が必要だし。ツィーガ、頼むよ」

 デリクスには、今回の依頼についてはハルフノール国内の対立が影響しているという認識があった。貴族達が自分自身の警備に人員を割くあまり、国内の警備が手薄になっているのだろう。考えれば、酷い時期に来てしまったものだと思うところであったが、彼自身の洞察を部下にどう伝えるかは悩みどころであった。

「分かりました」

 明るい顔で返事をするツィーガにデリクスは申し訳なさそうに頭を軽く下げた。

「よろしくね。ツィーガの友人さんたちにもきちんと報酬は出すからさ。ではファナ、調査状況報告よろしく」

「やはりというか、意図的に竜襲来の噂を広めようとしている人がいるみたい。しかも複数の地点で同時に噂が発生しているようです。酒場の噂話や井戸会議にいたるまで、祭が近いとはいえこうも周到に、この島国に入り込めるなんて、大したものね」

 ファナが調査内容をまとめた紙を読み上げる。そう言うファナ自身が着々とハルフノールの内部に侵入を果たしているようだ。大方、国際交流だなんだと称してにっこり笑っては細かいことまで聞きだしているのだろう、とはエクイテオの邪推である。反対にツィーガの称賛は率直だった。

「こんな短い間でそこまで調べるなんて。本当に、ファナ先輩は凄いですね」

「え?あは、そうかしら。皆平和を望む点では同じ、真摯に話をすれば誰もが心を開いてくれるものよ」

 ツィーガは尊敬の眼差しを向け、エクイテオはげんなりした顔で美貌を見つめている。ファナはツィーガの視線にやや挙動不審になり、そんな三人を横から不思議そうに眺めるのがリーファ、という図式である。デリクスは、誰にも聞こえないように、若いね、とつぶやいていた。

「ハルフノールの人が迎えにくることになっているから、それまでに準備をしておいてね。あと、ここは他国だから、自分の身分や立場をきちんと示せるよう確認しておくこと」


 デリクスの声に三人が退室した後、残ったファナに向かってデリクスがのんびり声をかけた。

「ジグハルトという男は信用できそうかい?」

 ジグハルトという単語に、ファナはまばたきを数度してから回答した。

「いい意味でも、悪い意味でもね。魅力も、実力も充分、なかなかの男だということは間違いないわ。でも、甘い言葉で浮かれているうちに、連れていかれた先は地獄への一本道、なんてね。彼の信念のために喜んで死ぬ人間もきっといるでしょう……彼の正義と、エスパダールの正義が同じ方向を向いているのならば、よいのだけれど」

「どんなに近しい人でも方向にはズレがある。そしてそれは先に進むたび、時間が経過するほど大きくなるものさ」

「だとすれば、程よい距離を保たないとね。火遊びは安全を確保して行わないと」

「君の持論?」

「持論なんてものじゃないわ」

 ふむ、とデリクスは顎に指をあてて考える。ファナの言いたいことをデリクスは理解していた。ロイ・ジグハルトという男は旗印なのだ。人を導き、大きなうねりを作るための。時代が急変しようとしている今、ハルフノールという国家にとって得難い人材であることは確かだが、エスパダールとして肩入れがすぎれば、より大きな歴史の獣とやらを目覚めさせることになってしまうかもしれない。

「スタン・ニルグという男は?」

「くだらない男ね。それ以上でもそれ以下でもない。得意なのはご自慢の愛犬を使った狩りだけ。愛人ですらシールズの許可がなければ作れないような男よ」

 吐き捨てる、というほどの強さもなく、興味がない素振りでファナが評する。人物評において、デリクスはファナを高く評価していた。

「前述の大した男と、今のくだらない男はうまくやっていけそうかい?」

「難しいわね。大した男はくだらない男の無能を許せないし、反対にくだらない男は大した男の有能さを許容できないでしょう。今の宰相みたいに力づくで従わせるなんてことも、ジグハルトの自意識が許さないでしょうから」

 となれば、昨夜の会合も、果たして上手くいったのか、ということになるわけだ。デリクスは頭を掻いた。さえない中年男であるデリクスは自身の役割を把握している。ハルフノールへの介入の度合いを周辺諸国の状況を読みつつ整理すること。浮かれがちなジェズトを場合によっては掣肘し、国際紛争の原因となりうる火種を事前に消すことである。理解はしていても、想像以上に混乱した現場にはため息をつかざるを得ない。

「あーあ。今回は骨休めのつもりだったんだけどな」

「凪のデリクスともあろう人に、楽な仕事がおりてくるわけないじゃないの。あなたの周囲は常に平穏無風。あなたが全て事前に処理するからってもっぱらの評判だけど」

「あのねえ、この世界には四季があって、嵐もあれば雨も降るんだよ」

「そういうときはどうするのよ?」

「決まっている。家で大人しくしているのさ」

 そういって、過大な仕事を押し付けられた憐れな男は、大きくあくびをした。





 デリクスの指示通り、迎えに来たハルフノール警吏三人と街に出る。人々は相変わらず陽気な表情を見せるが、何とは無しにざわついているような印象を持ってしまうのは、仕方のないことか。周囲に配る視線が事件に応じるそれになっているのを、老婦人が自分を見返す顔で気付いたツィーガは一人赤面した。

「しかし、大変っすね。折角のお祭りなのに」

 三人のうち一番社交的なエクイテオがライゴと名乗った神官と何かと話しつつ、現場へと向かう。

「全くです。折角彼女と祭を楽しむはずだったのに、人手不足で当日も仕事になってしまいました」

「そいつは気の毒だ。宰相閣下も罪な男ですねえ」

「そうですよ、今回のことだって、ある意味罰が当たったって奴ですよ。宰相に同情している奴なんか、いないんじゃないですかね」

「おい、少し喋り過ぎだ」

 同僚からたしなめられたが、ライゴは喋るのをやめない。

「現に国王だって、宰相に挨拶に行ってないってよ。いつもなら誰よりも早く駆けつけるのにさ。王宮勤めの仲間から聞いた話だけど」

「いい加減にしろ」

「だってよ……」

 喧嘩になりそうなふたりをまあまあと宥めるエクイテオを見やりつつ、ツィーガはリーファに話しかける。

「リーファ。いいのかい手伝ってもらって?」

「師匠からの許可はもらっています。むしろ、これも修行だって言ってくださいました」

「何の修行?」

「人の流れを読む修行、だって。よくは分かってないのだけどね。正直、少しの間解放されたかった、てのは内緒」

 そういって、リーファは笑顔になる。少女らしい表情はツィーガをほっとさせた。兄の死に対する悲しみを、少なくとも表面上は感じさせなかった。努力してのことなのだろうが。

「でも、本当に竜なんてでたら、大変だな」

 八か月前に記憶がよみがえる。白帝竜イングレイスの荘厳かつ圧倒的な存在感は、あの場にいた全ての人間を完全に屈服させていた。押しつぶされてしまいそうな威圧感と、今自分は世界の神秘と対峙しているという高揚感は、皮膚感覚として強烈に体に刻み込まれている。あんなものは、戦うとか、そういう次元のものではない気がする。ツィーガが身震いする中、神官達をなだめるのに成功したエクイテオが、肩をすくめつつ会話に参加してきた。

「まったくだ。俺ぁ竜と戦うなんて御免だぜ。なんせ神様すら追い払っちまうような奴だもんな」

「そういや、ラーガ。竜と戦ったことはあるの?」

『勿論ある。この前の五大竜クラスではなく、もっともっと位の劣る奴だがな。生身の体の時に一度。この姿になって一回、計二回だ』                                  

「凄い、よく生き残りましたね」

 リーファの賛辞に、かちゃりと音をたてる。

『まあ、それほどのことでもある、かな』

「しかし、竜とどうやって戦ったんだい?」

『うむ。丁度よいころ合いだから話しておくか。そもそも竜とは、人間がもつ大いなる可能性である『志力』の根源であり、その体は志力の純粋な結晶体であることは知っているな』

「授業で習った。確か人間ってのはそもそも竜の亡骸から神が作ったものだったよな」

『その通り。であるからこそ人もまた志力を宿すことができ、それゆえ竜に抗しえる可能性を持ったのだ。更に神もまた、信徒の志力を集約することにより、今まで以上に偉大な奇跡を起こすことが可能となった、というわけだ』

 祭りの雰囲気に似つかわしくない深刻な表情の三人に、店の売り子達も声をかけられずに見送るのみ。

『さて、人と竜の決定的な違いは、その肉体にある。人は肉体と魂で構成される。肉体は食物によって維持され、魂が生み出す志力によって活動する。一方、竜は奇跡の源である志力の純粋体。志力こそが肉体である。言い換えるなら、『意志ある奇跡』。要は、この世界においてやりたい放題ということだ。全てを焼き尽くす光だろうが、あらゆるものを防ぐ竜鱗だろうが、あり得ないことを実現する力をもっているのが、竜。志力の質、量ともに規模がまるで違う。人間個々人が持つ志力、魂などではあっという間に粉微塵にされるのがオチというもの』

「……」

『リーファの兄が使った【竜破】だったか。あれも大したものだったが、もし本物の竜が放ったとすれば、簡単に一つの町が灰燼に帰し、一国の軍隊が速やかに、一人残らず魂まで焼き尽くされる。竜達が力を合わせたのなら大陸まるごと完全に消滅させることが可能なのではないかな』

 知識として知ってはいても、実際に戦った人間の言葉は重みが違う。三人は思わず唾を飲み込んだ。

「……そんな奴に、どうやって戦うの?」

『竜は個人では対抗し得ない存在、人類そのものの敵だ。だからこそ人類は【円蓋】を作り、皆で対処する仕組みを構築した。だがもし、ごく僅かな数の人間で立ち向かわねばならなくないとするなら……』

 ラーガが話を続けようとしたとき、前方から別のハルフノール神官がやってくる。どうやら今回の責任者のようだ。

「ツィーガ・オルセイン殿ですか?」

「そうです」

「ご協力ありがとうございます。私は、スライ・エルダーと申します。丁度今、今回の騒動を起こしたとされる人間を特定できたところです。これから確保に参りますので、同行をお願いいたします」

「ラーガ、話は後でだ」

『仕方あるまい』


 細い路地を潜り、更に水路をゴンドラで抜け、ひそやかに目指す酒場である、『迷い猫亭』に近づいていく。街を流れる水路の水は濁っており、これから向かう先を連想してしまう。

「気を付けてください。ガーデニオンは穏やかな町ですが、どんな場所にも吹き溜まりのようなところがありますから」

スライがツィーガの胸の内を見透かしたような声をかける。集合場所には、すでに数人が集まっていた。いずれも鍛え上げた肉体をしており、いかにも荒事専門のようであった。打ち合わせを済ませ、店内を覗けば、中々の大箱で、喧噪に満ちている。ツィーガら招かれざる客に対し、既に何人かが敵意に満ちた視線を送り返すが、直接的な行動に出ることはないようだ。

「ツィーガさん達は、店の入り口を固めてください」

「分かりました」

 スライ達が言い残して去ったあと、何となく全体を見回す。日々の喧騒が染み込んだような店の様子に、ラーガが嬉しそうに言った。

『うむ。いい雰囲気だな。剣になって一番残念なのは、酒が飲めないことに尽きる』

「ラーガ。前から聞きたかったんだが、あんたもしかして不良神官だった?」

『無駄口をたたく暇があるなら、周囲を警戒しろ。リーファやテオはすでに店の空気に溶け込んどるぞ』

ツィーガは慌てて周囲に目を配る。リーファはいつでも動ける程度に浅く壁にもたれ、気配を殺している。テオは神速の早業でちゃっかり酒杯を確保し、さりげなく辺りを見回せる位置に陣取っていた。今日は勿論私服ではあるが、棒立ちになっている異国の男を、周囲は胡散臭げに眺めている。

「おーい、こっちだ。お前も一杯やれよ」

 テオの呼びかけに、慌てて応じつつ、ツィーガは立ち飲み用の卓に肘をついた。

「すまない」

「何。目当ての連中は、あいつらみたいだな」

 薄暗い位置に置かれた卓に数人の男女がいる。神官戦士達は囲むような隊形を作りつつ、ゆっくりと卓に近づく。スライが真ん中に座っている男に、どすの利いた声をかける。

「トムス・フォンダ、だな」

 ツィーガが目を凝らすと、座っていた男が顔を上げた。痩せぎすで、身体つきからすると、あまり戦闘経験があるようには見えない。顔のつくりまでは見えないが、鼻が高く、堅い軍服のようなものをわざと着崩しているようだ。胸には、奇妙にねじくれた首飾りが光っている。装飾品としてはいささか不格好であるが、この男の風貌にやけに似合っていた。

「……あんたたちは」

「貴様が、ハルフノールに竜が来るという、根も葉もない噂を流し、町の人間を無用の不安にさらしているとの情報が入った。事実か?」

「……事実だ。この街に竜が来るってことが、な」

「なっ!」

 臆面もなく言い放つと、トムスは笑った。

「お前たちも、早く逃げたほうがいい。この街は間もなく廃墟になる。持てるもんもって、さっさとずらかりな」

「……一緒に来てもらおうか」

「いやなこった。俺は本当のことを言っているだけなのに、なぜお前らみたいなやつらとつきあわにゃならん」

 態度はあくまでふてぶてしい。このような状況には慣れっこであると表情が雄弁に物語っている。緊張の欠片一つ表に出さず無言になった姿には彫像のような無機質さすら感じさせる。スライは動揺を大声に示した。

「いいから来い!」

「おっと、旦那は俺達と飲んでいるんだ。横から邪魔しないでくれるかな」

 同じ卓に座っていた、明らかに裏街道を歩んできたような男が立ち上がり、スライ達に突っかかる。彼らの動きとともに、何と店の客たちが皆一斉に立ち上がった。逆に囲まれる態勢になりつつも、まだ抜剣はせずに声で威嚇した。

「き、貴様ら!抵抗するならまとめて牢屋にぶち込むぞ!」

「おもしれえ、やれるもんならやってみな!」

 歓声が沸くとともに、いつの間にか背後に寄っていた男が酒瓶で神官の頭を殴りつけた。

「いいぞ!やっちまえ!」

 店内が一気に沸騰する。

「全員、逮捕してやる!」

 殺到する酔漢たちに、神官たちも負けじと応戦するが、その間に肝心のトムスはやけに鮮やかな身ごなしで店内を巧みにすり抜け、財布を店主に放り投げつつ、店外へ逃げだそうとしていた。

「待ちなさい」

 ツィーガが静かに横からトムスの動きを止める。

「おめえも神官戦士かい。まだ小僧じゃねえか」

 男臭い声が耳に届く間に、トムスの背後にはリーファが回り込んでいる。

「エスパダールの神官戦士、ツィーガ・オルセイン。ハルフノールに助勢する」

 ふん、とツィーガ達の顔を見て笑みを作る。実力のほどは伺えないが、余裕だけは十二分にあるようだ。

「わざわざエスパダールからご苦労さん。だが、お前に俺を取り締まる権限はねーだろが。ここはハルフノールだぜ?」

「国家間の警備相互協定第二条に基づく処置だ」

「だったら、取締証を見せな」

「第二条第三項、臨時応急的な場合に基づく現行犯対応!」

 デリクスの言葉を受け、条文を暗唱してきたツィーガは何とか言い返すことができ、内心でほっとする。まさか薄汚れた酔っ払いから法的根拠を求められるとは思っていなかった。

「よくできました、って奴だな。ま、折角ハルフノールくんだりまで来たんだ、あんたらも無駄に命は落とすなよ」

 ツィーガはトムスの言葉をすべて聞き取ることはできなかった。背後に殺到する気配を感じるやいなや飛び退く。猛烈な勢いで、槍の石突らしきものが今までいた空間を通り抜けていく。

「よく気付いたね!」

 向き直る前に第二撃がツィーガに向かうが、それを防いだのはリーファだった。とっさに金属製の酒杯で受け止めたが、激しい火花が飛び散り、杯がぐにゃりとへこむほどの威力であった。トムスはその隙に、まんまと抜け出している。

「ほう。二人とも若いのに、よく修練を積んでいるね」

 リーファは酒杯を投げ捨て、左手を前に身構える。刃を受けた右手は、衝撃で軽く痺れていたからだ。年配の女性でありながら、ツィーガとリーファ二人と対峙しながら小揺るぎしない。堂々たる偉丈婦、イヴァ・ソールトンだった。二人を射すくめる眼光は、歴戦の戦士が見せる迫力である。ツィーガは気負されつつ、今も酒杯を傾ける相棒に声をかけた。

「テオ!」

 ツィーガの声を受ける前から、すでにテオはひそかに精霊への指示を出している。今まさに店外にでたトムスの周囲を地面から吹きあがる突風の壁が取り囲む。気付いた護衛らしき男が、トムスに手を伸ばそうとして吹き飛ばされていた。

「じっとしてなおっさん!うかつに触ると怪我するぜ!」

 会心の笑みを浮かべるテオ、だが次の瞬間表情が変わる。

「せいやっ‼」

 大きく踏み出したイヴァの槍が一閃すると、あっさりとテオが作り上げた風の檻が弾け飛ぶ。周囲に飛び散った突風が店内まで吹き込み、食台やら酔漢やら、神官戦士までをもひっくり返し、騒動がますます加速していく。

「何だと!?」

『あの槍は法具のようだな。対法術、精霊術の効果が付与されているのだろう。もしくは、だれか付与法術を使ったか』

 軽く振るっただけでテオの術を無効化してしまうあたり、余程の実力なり法具の威力があるとみていいだろう。ラーガの声を聞き流しつつ、ツィーガは反射的に踏み込むが、イヴァにがっちりと受け止められる。

「まだまだだね!」

 絶妙の呼吸でツィーガを押し返す。続けざまの一閃で、リーファもあわせて釘付けにしつつ、イヴァはトムスのための壁となった。トムスは悠々と歩みながら、周囲に喧伝する。

「みな、聞いてくれ!トムス・フォンダの名前において断言するぜ、この国に竜が来る!いまならまだ間に合うぜ!仲間内で博打をやるなら全財産張ってみな!保障するぜ!」

 トムスは細い体からは想像できないほどの、大声を上げた。近くにいた人が思わず耳をふさぐほどだ。

「捕まえろ!!」

 店内の混乱から抜け出した神官戦士の一人が、殺到しようとしたが、イヴァの鮮やかな槍捌きに足をひっかけられ、食台に頭から突っ込んだ。

「この国に竜が来るぜ!働いている場合じゃねえ!賭けるなら今だ!一発当てていい夢見なよ!」

 大声をあげながら、トムスは駆けだした。ご丁寧に、チラシまでまき散らし始める。それだけでは終わらなかった。耳を澄ませると、どうやらトムスの声がそこかしこから聞こえてくるようである。

「あの野郎、街中に【拡声】の法具でも仕込んでやがったな!」

「ここに、俺の書いた推察が書いてある。引用元の本も書いてあるぜ!調べりゃ分かる。竜が来るのは間近だぜ!金がない奴は、さっさと逃げな!竜に食われちまうぜ!家も町も粉々だ!」

 トムスは人が密集しているところにあえて突っ込み、チラシをまいては声を張る。何事かと思いつつ、チラシを見ては周囲の人間と話し合う人間がちらほらでてきた。

「いい加減にしろ!」

 重装備のせいで息を切らし始める警吏たちを尻目に、お祭り騒ぎのようにはしゃいでまわる中年男。その言葉に道行く人々は呆れるものが多数であったが、中には、祭の余興とでも思ったのか、一緒に走り出す者ややんやの喝采を送るものまで現れはじめた。

「逃げるなら、今のうちだ!この国は亡びる。後から嘆いても遅いからよ!」

「くそっ!」

 人混みが拡大し、トムスと神官達の間に壁ができつつあった。みるみるトムスの背が遠くなっていく。

「ラーガ!あれをやるぞ!」

『うむ。仕方あるまい』

 ラーガの声は何となく嬉しそうである。

「リーファ、援護を!」

 短い言葉に意図を察したリーファが、イヴァに対し積極的に攻撃を仕掛ける。

「神よ!我ら二心を一つに!一つの身体を分かち合わせたまえ!」

 激痛が、ツィーガの意識をむしろ覚醒させた。見れば、リーファがイヴァの槍に追い詰められている。そもそも間合いの長さで、拳と槍では絶対的に槍に分がある。経験でも技量でも劣るとなれば、劣勢はどうしようもないところであるが、どうやらそれだけではない。この密集した状態において、リーファはどうやら追竜者ドラグナーの力を発揮することをためらっているようであった。

「いくぞ!」

 リーファに向けて槍が伸ばされた、絶妙のタイミングでツィーガが仕掛ける。

「!」

 イヴァはツィーガの踏み込んでの一刀を槍で受けつつ、踏みとどまることなくさらにリーファの方に足を進めていく。追い詰められるリーファを援護するために、ツィーガは柄を力で抑え込んで槍の動きを牽制し、さらに一歩踏み込ながら横凪ぎの一刀を放った。イヴァもさすがにリーファから離れ、警戒するように更に一歩大きく引き下がる。動きの質が変わったことを一瞬で悟ったのか、先程とは違う笑みを浮かべる。

「動きがまるで違うね。どんな法術を使ったんだい?」

『あんたこそ、その年で大したもんだ』

 ツィーガの身体を借りたラーガが、賞賛とも皮肉とも取れる言葉をかける。イヴァは不敵に笑った。

「偉そうに!青二才が!」

 イヴァがツィーガに狙いを定めた。槍の長さを活かし、細かく突き出しては踏み込みを抑え、牽制する。必殺の機会をうかがった動作であることは明らかであり、ツィーガ=ラーガもうかつには飛び込めない。

「……」

 自分に対する注意が薄れたのを察し、リーファは大きく息を吐き、【竜破】の準備を始める。志力を放出して遠距離で攻撃する、『追竜者ドラグナー』達に伝わる武芸の一つである。槍の間合いのさらに遠くから攻撃が可能であったが、リーファはいまいち集中しきれていない自分を感じている。師であるヤンの意図に、ようやく気付くことができた。

「これが、修行ということですね、師匠」

 このような状況で単純に能力を開放すれば、間違いなく他の人間や建物に被害を出すことになる。必要最小限の力を、最大の好機に放つ精緻な集中力と、相手の行動を読む洞察力が要求されていた。威力が強すぎれば周囲に迷惑をかけ、弱すぎれば味方に迷惑をかける。今のリーファにとってはかなりの困難事と言えた。とはいうものの、やるしかない。もう一度息を吐き、気合を入れなおしたリーファは両手をイヴァに向け、発射態勢に移る。イヴァはいまだツィーガ=ラーガの見事な牽制にかかりきりである。

「破!」

 威力を絞って、【竜破】を放つ。圧力がイヴァに殺到していく。が、到達する直前で別の何かに衝突し、威力が拡散してしまった。

「何で⁉」

「何だと⁉」

リーファもだが、何故かイヴァまで驚いていた。

「いかんな。甘いぞ、我が弟子よ」

「えっ」

 思わず口をついた言葉に返答があり、驚愕に振り向くリーファ。そこにある顔を認識するかしないかの間に鋭い衝撃が走り、記憶は途切れた。

「リーファ!」

 仲間が崩れ落ちるのを察知するが、イヴァがその隙を見逃す訳も無い。次々と繰り出される槍を捌くツィーガの懐に、いつの間にか老人が潜り込んでいる。

『何の!』

「ほほう」

 だがそこは、ラーガである。この状況においても身体が即反応する。突出される掌底を難なくいなし、牽制の一撃を放ちながら二人から距離を取った。

「これはこれは、若いのによく精進をしておる。我が弟子にも見習わせたいものだ」

「ヤンさん……ヤンさんじゃないですか⁉」

「引き際じゃぞ、イヴァ。雇用主は遠くへいってしまった。護衛が我々の任務であろう?」

「……ちぇっ。面白そうな相手だったのに」

『二人だからって、逃がすと思っているのか?』

 ラーガを構えるツィーガ。

「うむ。これも仕事だからのう。ほれ」

 またしてもいつの間にか気配を消していた老人が、唐突にリーファの身体を軽々と抱え上げると、おもむろにツィーガに投げてよこした。

「何?」

 受け止めない訳にもいかず、剣を離して抱きとめる。強制的に同化が解除され、ツィーガはよろめいて尻もちをついた。

「ではな、また会おう」

「私はイヴァ・ソールトン。勝負はまだ付いていないからね。今度会うときまで預けておくよ!」

「ま、待て!」

 ツィーガはしかし立ち上がることができず、人ごみにまぎれていく二人を見送ることしかできなかった。

「テオ!」

「あいよ。追っかけてみるぜ!」

 ようやく店内の暴風を抑えたテオが、今度は自身に風を纏って、走り出していく。あの速度であれば、離されることはないだろう。ツィーガはリーファを手近な長椅子に横たえる。

「何者なんだ、あの人達は……?」

『落ち付いている暇はない、追いかけるぞ!』

 ラーガの言葉に緩んだ緊張を締め直す。幸い、救助にあたっている神官がいたため、リーファを預け、ツィーガは痛みをこらえつつ走り出した。


 店を出たエクイテオは風にのり、一気に屋上まで飛び上がった。周りの人間が突然のことに眼を剥いているが、気にも留めない。風の精霊も、久々の活動に御満悦のようである。

「いい風だ!」

 エクイテオは意志を持った羽毛のように、ひらりひらりと屋上を渡っていく。騒動の中心があっという間に近づいて来て、再びあのでかい声が響くようになった。

「お祭りの場合じゃねえ!さっさと逃げるんだ‼」

 トムス・フォンダの足は相当なものだ。鍛えていなければあそこまではいくまい。エクイテオは認識を改める必要を認めた。当人は警備の兵を巧みにあしらいつつ、ただひたすらに大声をあげては紙をばらまいていく。

「いい加減にしろ!」

 警備兵が捕まえようとするのと、飛び退って避ける。驚くべきことに、トムスの身体はそのまま浮き上がっていった。

「な、何だ!」

「法術か?」

「ほらよ!神様だって俺を認めてんだ!我もて、神意を広く知らしめよってよ!信じるものは救われるぜ!」

 あらゆる広場でトムスの声が響く。今や街全体がトムスの演説を聞くことになっていた。宙に浮かんだトムスは、朗々と自説を述べ、訳も分からずに見物する人間が増え、噂が噂を呼びどこまでも広がっていくようだ。

「何だあのおっさんは?」

 テオは捕まえることも忘れそうになり、様子を伺ってしまう。それほどに目を惹く光景とである。追手の警備達もまた、手が届かずに呆然と成り行きを見守るのみである。

「俺は生まれてこのかた、竜のことばっかり考えてきた。竜がくるのには条件があって季節や天候、他の場所への発生回数なんかも関係するが、何よりでかい原因は、国が乱れているかどうか、これに尽きる!あんたら、胸に手を当てて考えてみりゃ分かるってもんだ!」

 最後の部分に反論できる人間は、誰もいなかった。

「こんな小国にしがみついてる場合じゃねえ!何もかも失うまえに大陸にでも逃げるんだな!」

 調子にのって話し続けるトムスに対し、警備兵が訴える。

「いいから降りてこい!話は神殿で聞いてやる!」

「そうだぞ、あんたの話は聞いて貰うべきだ!」

「国に訴えるべきだろう!」

 次第に、トムスの言葉に理解を示すことが増えてきた。彼の書いたチラシはびっしりとかきこまれており、ハルフノールの現状に思うところがあったのか、野次に真剣な響きが混じるようになってきた。頃合いを見計らったのか、トムスはゆっくりと何と地面に降りてきた。

「お前らの言うことはもっともだ!俺はこれから、国に訴えに行ってやるが、国はお前らなんか守っちゃくれないぜ!さっさと逃げ出すのが身のためだぜ!」

 降り立った瞬間、警備兵が殺到し、身柄を取り押さえられる。

「頑張れよ!」

 応援の声まで混じる中、トムスはまるで英雄にでもなったかのように手を振って集まった人間に応えていった。


 ツィーガは遅れて追いかけたものの、すっかり大騒動になったトムスの周辺には既に近づくことはできなくなっていた。群衆が通り過ぎた後には、壊れた家財、そして怪我をしてうずくまる老人などもおり、収集をつけるのに一苦労といった有様である。ツィーガは大きく息を吐いた。

「もう追いかけてもしょうがないな、ラーガ」

『不本意であるが、その判断は正しかろう』

 怪我をした人間の救助に切り替える。瓦礫の排除などに汗を流していると、ふと気になる光景に目を止める。治癒術を使える人間がいるようで、怪我をした人々が集まっているようだった。手を止め、何気なく様子を見ると、フードを深く被った人間が、怪我の部位に手をかざしている。

『見事なものだな』

 傷がみるみる癒えていく様子に、ラーガが珍しく減点なしで褒める。ファナの治癒術に比肩、あるいはそれ以上の速度であり、ツィーガはその技量に深く感心したが、ふとあることに気付き、驚愕した。

「祈りの言葉を全く唱えていない……しかも法具すら使ってないなんて……!」

 基本法術は、法具を通じて行使されるのが常であり、そのためには発動の鍵となる祈りの言葉を唱えるのが普通である。神の承認のもとに行われるべき法術であるが、今行われている治療術は、その段階が丸ごと省略されている。圧倒的な実力だけでなく、神の信任を得てはじめて可能となるものであり、神官を束ねる司祭、それもかなりの高位となって始めて可能となる奇跡である。エスパダールでも十数人いるかいないかの実力者といえた。街角で片手間に治療するような身分ではあるまい。

「何者なんだ?何故こんなところにこんな人が……」

『動くな!』

 かちゃりかちゃりと僅かに剣が二回震え、放たれる極めて小さい声。ラーガの警告である。

『瓦礫の撤去作業に戻れ。視線も上げるな』

「……」

 有無を言わせぬ強い口調。何気ない態度をよそおいつつ、地面に落ちている角材を拾い上げる。傍目には伝わらぬ無言の緊張状態が続いていく。

『もう、いいぞ』

 ラーガの声が聞こえるまで、耳鳴りがするほどの緊迫感に耐えてきたツィーガは、思い切り息を吐き出した。周りは騒ぎも一段落し、日常へと帰ろうとする人々が流れを作っている。肝心の外套を目深に被った人影は、どこかへ消えてしまっていた。

「どこに行った?」

『どうやら街の北に向かっていったようだが、今更追っても遅いだろう』

「……何だったんだよ」

『気付かなかったのか、未熟者め。お前を遠矢で狙っている人間がいたのだ』

「俺を?何故?」

 そういってすぐ、ある結論に辿り着く。

「あの、見事な治癒術の人を守るためか」

『ああ。お前がもう少し近づいていたら、射抜かれていたかもしれぬ。構えから見ても、なかなかの凄腕のようであったし、な』

 ラーガが凄腕というのであれば、余程のことである。一気にツィーガの体から汗が噴き出した。

『今回の騒ぎといい、裏で何かが起こっているのは間違いないようだな。どんな島なんだここは?』

「あんまり、嬉しそうに言うなよ……」

 ラーガの口調に、やれやれとツィーガは溜息をつく。自分はもっと普通に生きる人の毎日を守りたかったのに。陰謀などに関わりたくはなかったのだ。彼の溜息は、街の外気に紛れて、形作られることもなく消えていった。





 トムスの逮捕により、騒動は一応集結を見たはずであった。だが、トムスの部下や雇われ人はそこかしこにおり、自首するものもいれば、未だに逃げ回るものもいて、まだまだ喧噪が止まない状態が続いている。イヴァとマリシャは警戒をかいくぐり、トムスが指定した隠れ家に辿り着いていた。騒動の規模といい、周到な手配といい、トムスという男の底知れなさを感じつつ、イヴァは全く別のことで頭が一杯であった。

「マリシャ!」

 憤然と食って掛かる。身長差で圧倒するかに見えたが、冷静かつ峻厳なマリシャの迫力に詰め切れないようだ。

「何?」

 特に力を込めたわけではないが、誰もがひるむ。目の前に立った者しかわからないといわれる威圧感に、イヴァはそれでも負けずに声をあげた。

「あんた、あたしに前もって守護法術を使ったね!あんな若造が相手だったのに」

「仕方ないでしょ。あなたの本番は竜との戦なんだから。こんなところで怪我したらつまらないじゃない」

 イヴァの叱責にマリシャは表面上淡々と答える。騒動の最中、人知れず店内から状況をうかがっていたマリシャは、イヴァに対して付与法術で支援していた。リーファの【竜破】を防いだのは、彼女の防御法術だったが、イヴァにはそれが気に食わなかったらしい。

「何で、最初から法術をかけていたのさ?」

「結果的にそれで助かったからいいじゃない。私だって、あの若い男があんな手練れだなんて予想もできなかった。いきなり別人の動きになるなんてね」

「……」

 イヴァも黙りこむ。これまでいつも彼女はマリシャの支援を拒むような姿勢を見せていたが、今回、マリシャは敢えて何も言わずに支援法術をかけた。役に立つことがないことを祈りつつ。

「奇妙な法術だったわね、あれは。それまでは素人に毛が生えたような動きだったのに」

「取り敢えず、私達の役割は果たしたんだから。それで良しとしましょう」

「……次は私が言うまでは、支援法術は待ってくれ」

「最後までいわないでしょ」

「あたしはどんな相手とも正々堂々戦いたいのさ!」

「わかったわかった。この話はこれでおしまいね」

 イヴァはまだ何かいいたそうだったが、マリシャがその場を離れたので、ようやくに飲み込んだ。内心ほっと一息ついたマリシャは、心の中で神に感謝して、お茶の準備をする。以前なら酒を出すところだったが、イヴァは何も言わずに受け取った。

「本当に、竜がくるのかしらね」

「来てもらわないと困る」

 イヴァはそれきり黙りこんだ。彼女の怒りの矛先は何より自分自身にも向けられている。リーファの動きに対する注意力、反応の遅れを、誰よりも彼女自身が強く認識させられていた。どんなに努力しても追いつかない、加齢による衰え。いずれ戦うことすらできなくなる日がくるのだろう。それも、それほど遠くない時期に。戦士であるからこそ、きちんと向き合わねばならない事実にじっと考え込む老戦士に、マリシャは気づかわしげな視線を向けることしかできなかった。



 同じころ、ツィーガ達は宿舎に帰ってきていた。リーファは無事意識を取り戻したが、念のためファナの治療を受けている。食事を終え、なお疲労困憊という様相の三人の前にデリクスが姿を見せる。騒動の間に一休みをしたのだろう、幾分顔色が良くなっていた。

「やれやれ、お疲れ様。大騒ぎだったね」

 気安げな態度でくつろぐデリクスに、三人も自然と緊張が解けていく。思えば不思議な男であった。ツィーガも率直に気持ちを表明する。

「参りました」

「何なんだよ、あのトムスって奴は。それにあのおっさんおばさん連中も!」

 エクイテオが憤然とし、リーファは悄然としている。どうにも、身内から試される子だなと思いつつデリクスはそこには触れない。

「あの……申し訳ありません。まさか師匠がトムスとかいう男に雇われていたなんて、何も聞かされてなかったから」

「何か理由があったんだと思う。悪いことする人では絶対ないと思うぜ」

 悪ふざけとかは喜んでしそうだけど、と思いつつエクイテオが弁護した。

「リーファさんとヤンさンの関係は、取り敢えずハルフノールには黙っておこう。一応宿は調べさせてもらうけど、いいかな?」

「はい」

 デリクスの言葉に、リーファは同意した。ツィーガはヤンの飄々とした顔、それにあの槍使いの女性も、悪事をたくらむという顔ではなかったようにみえるが、どちらも尋常一様の腕前ではなかった。トムスという男は、何が目的で、あのような手練れ二人を雇いあげたのか。

「ラーガ、次にあの女性と戦ったら、勝てるかな?」

『お前次第だ』

 ラーガのつれない返事が、イヴァの実力を認めていることを示していた。

「しかし、トムス・フォンダの名前を聞くことになるとはね」

 デリクスの手にトムスが配っていたチラシがある。いままでの竜襲来の履歴や、季節との関係など独自の説がびっしりと書き込まれている。真実がどうかは分からないが、それらすべてが、ハルフノールに竜が来るという結論に達していた。

「デリクス司祭長。あの男をご存じなんですか?」

「この前、竜賭博の話したよね?数多くの天才的な人物が生まれては消えていった中、驚異的な的中率を誇る伝説の人物がいた。最近、とんと名前を聞かなくなったけどね。もう十五年くらい前の話かな」

「それが、トムス・フォンダ」

「彼は『竜誑し』とか『竜の主』とか言われてね。あいつは竜を飼って、指定の場所にけしかけているとまでいわれたもんさ。莫大な資産家に成り上がったはずだよ。彼の賭けた内容を知ろうと皆が必死になっていたもんさ。でも今回に限って、何でみんなに知らせようとしているのかねえ」

「賭けを不成立にするため?」

「ハルフノールまでは竜賭博は広がってないよ。大陸の中で、厳密なしきたりのもとに行われる賭博だからね。彼も当然それを念頭に置いた上での、今回の行動だろうけど」

 懐かし気にいうデリクスに、ツィーガが何気なく質問した。

「もしかして、デリクス司祭長も賭け事をなさってたんでしょうか?」

「いやまあ、当然知識としてしっているだけさ。聖職者が賭け事なんてもってのほかじゃないか」

 わざとらしく咳払いをしながら、デリクスはその場を離れようとした。

「どこへ行かれるのですか?」

「ちょいと王宮にね、トムスという男の情報提供もしておきたいし」

 どう見ても会話が不利になった言い訳にしか見えない、デリクスのうろたえぶりであった。



 トムス・フォンダの情報を報告し、ファナとデリクスが屋敷を出ようとしたところで、ジグハルトに呼び止められた。彼も今日の騒動の収集に当たっていたようだ。二人に気さくな態度で語り掛ける。ファナには特に丁寧に。

「この度はご迷惑をおかけしました。ファナさんも、昨日は残念でした。是非またの機会を」

 他の男を前にして、この台詞である。ファナが手こずるのもむべなるかな。あいまいな笑みを浮かべるファナに代わって、デリクスが挨拶をした。

「いえいえ。お役に立ててなによりですよ」

「丁度良かった。ジェズト卿をお招きしていたところで、お二人にも声をかけようとおもっていたのです」

 ジグハルトに案内されたのは、王宮内の執務室でなく、本人の私邸である。ジェズトは既に到着していた。現状を報告するデリクスの前に、ジグハルトとその秘書や仲間の貴族達がやってくる。くだけた印象が少しずつ変わっていった。

「ハルフノールの街はいかがですか?」

「とても美しい街だと思います。人がそうあってほしいという願いを体現しているような」

 ジェズトの言葉に、ジグハルトは最初笑みを作り、すぐ苦悩の表情になった。

「うれしいお言葉です。だが現在、国の内部は静かに、だが確実に腐敗をはじめている。政治は軽んじられ、縁故だけで人事が決まり、罪を犯しても正当な裁きを与えることすらできない。全ては宰相、モス・シールズの専横です」

 のっけからジグハルトは断言する。大げさながら真摯なまなざしでエスパダールの一党に訴えかけはじめた。ファナ達も居住まいをただしつつ、真意をさぐりはじめる。

「外敵からの守り、そして内部の腐敗に対する守り。私には、いえ私たち貴族にはこの美しい国と国民を守る義務が課されているのに、私利私欲に走り、人々をないがしろにしていると言わざるを得ません。実は……」

 ジグハルトは、演説映えのする低く、よく通る声を詰まらせ、うつむく。次に顔を上げたときには決然とした顔になっていた。

「実は……何よりも重大な問題がある。これはハルフノールでもごく限られた人間にしか知らされていない事実、勿論他国の方にははじめてお伝えすることですが……女神ハルが目覚めなくなってしまったのです」

「目覚めないと、何か問題が?」

「この島はハルの加護により成立しているのです。豊かな実り、穏やかな気候といった自然条件だけでなく、おそらく竜という危難から逃れ続けたという事実についても。もしハルが目覚めなければ、そういった恩寵が失われていくのではと危惧しております。」

 静かな衝撃が波のように広がっていく。デリクスはジグハルトが話していた作物の収穫量について思い出す。エクイテオがこの場にいたら、カイムという精霊士がただ一人真実に辿り着いていたことを密かに誇っただろう。

「誕春祭において、最も重要な神事に、『華の儀』というものがあります。大神殿の内庭にある桜の木は、女神ハルと繋がっているとされており、ハルが目覚め、祈りを聞き届けた証として、最初の花を咲かせるといわれます。実際、前国王は花を咲かせることができましたが、スタン国王にその力はありません」

「では、今はどうやって『華の儀』を成立させているのですか?」

「お恥ずかしい話ですが、春になれば、自然に桜は花を咲かせます。最初の開花をもって『華の儀』を執り行うように変更されています。そんな状況ですから、現在巷を騒がす竜襲来の噂は、笑いごとではありませんでした」

 ジグハルトの苦悩を、隣席する周囲の貴族達も感じているようである。

「まだ国民は知りません、が気付いている人間も当然いるでしょうし、いずれ皆が、女神ハルが目覚めないことの意味を知る。そうなったときに、国として、秩序が維持できるかは疑問です。まさにハルフノール存亡の危機の最中に、あなた方エスパダールより、何にも代えがたいお話しをいただいたのです」

「おお……それでは」

「はい、スタン国王からの正式に御承諾をいただきました。ハルフノールは国を開き、エスパダールとの攻守同盟を締結し、貿易その他に関する優先権をお約束したいと思います。『華の儀』当日に公表したいと考えています。同時に私もスパッダへの改宗を発表するつもりです。そのうえで、スパッダ信徒を守る目的で、【円柱】設置をお願いしたい」

 ざわめきが、エスパダール側だけでなく、ジグハルトの従者や秘書からも起こる。その国に生まれること自体が神との繋がりを示すものと認識されるこの世界において、改宗とはとてつもない意味を持つ。どうしても改宗を希望するような事態に陥ったとしても、全てを捨てる覚悟が必要である。今回、国の大貴族の一人がこうも容易に改宗を口にするというのは前代未聞といっていい。場合によっては、神を軽んじるものとして処罰の対象となりうるものですらあった。

「本当によろしいのですか?」

「私は幼い頃より、世界各国を巡ってきました。それぞれの国、それぞれの神の在り方を学び、私が辿り着いた結論、信仰は、人がこの世をより良く生きるためにあるべきであって、決して神のためにあるわけではないということです」

 ジグハルトは立ち上がった。周囲の目を集めることに慣れたものを動きである。

「私には、国を良い方向に導く義務がある。今逡巡し機会を逸することなく、世界の潮流にハルフノールを乗せねばならない、エスパダールという良き導き手を得て。私一人の信仰など、幸福など、顧みるに値する価値など存在しないのです!」

「お見事です。ジグハルト卿。あなたの確固たる決意に、そして何より国王陛下の御英断に敬意を表します。我々エスパダールは決してあなたを見捨てることはありません!」

 ジェズトは感極まったように声を震わせる。ハルフノール国家運営の一大方針転換であり、エスパダールにとっても極めて重要な瞬間である。今後国家戦略上、エスパダールは極めて重要な海運拠点を得ることになり、ハルフノールは五大国に取り残されることなく、協調して歩む手がかりをつかむことになる、かに見えた。誰もが感激と興奮の渦に飲み込まれている室内で、それでもデリクスは表情を動かすことなくジグハルトに質問した。

「しかし、現在あなたは一国を代表する立場にない。シールズ閣下の御承諾はいただけましょうや?」

 デリクスの冷静というか、当然の指摘にたいし、ジグハルトは表情を改め、声の調子を抑える。軽い笑顔は、男から見ても、うんざりするほどの魅力に溢れていた。

「勿論これは、私が正式に宰相として任命された上で初めて効力をもつ約束です……ですが」

 ジグハルトはもう一度微笑む。今度の笑みはひそやかな自信を隠す笑みだった。ジェズトなどからすれば止めの一撃だろう。

「ですがそれは、そう遠くないことと思っています。皆さまの御好意を無駄にすることは、無いと思います」

「分かりました。それでは、我々も盟約が達成される日が一日も早く訪れんことを。この春溢れる地に、エスパダールとハルフノール両国で蒼天の奇跡を顕現させましょうぞ!」

 熱狂的な雰囲気が室内に生まれようとする中、あくまでデリクスは常の平静を崩さずに、ジグハルトに向き合う。

「二国間の友諠に、私デリクス・デミトリウスとしても謹んで喜び申し上げます。つきましては国王陛下にも是非ご挨拶させていただき、今後のお話しをさらに進めたいと思われますが」

「おお、デリクス司祭長の言う通り。ジグハルト卿、ぜひお願いしたい」

 ジグハルトの表情は、苦笑というには深刻すぎた。

「陛下は祝宴の後、狩り場へと赴かれ、まだ御帰参には至っておりません」

 スタンとすれば、ようやくにシールズという重荷から解放される見通しが出た瞬間、今までの疲労と不満が噴き出したというところなのだろうが、一国の王として取るべき対応でないのは誰の目にも明らかである。

「万事、私に任せるとのお言葉をいただいております。ご信頼めされよ」

「勿論です」

 ジェズトは高らかに宣言するが、ジグハルトはデリクスを見やる。デリクスもまた、笑顔を見せずに見返すのみだった。



「あーあ。ジェズト侯爵も舞い上がっちゃったわね」

「無理もない。この同盟が成立すれば歴史に名を遺すことになるからねえ」

 浮かれている周囲の中、デリクスとファナだけは冷静というよりは醒めた顔をしていた。

「そもそも、今回の話がなんでエスパダールから出たの」

「どうやら王弟一派からのようだ。円蓋を巡る状況は、どの国の誰もが気にしていることだからね。それに今後の王位を争うにあたり、得点稼ぎや下地作りを始めているってところじゃないかな」

 エスパダール現国王ティベル・フェデラーの弟であるガスデイルは今代の王位継承争いに敗れた男である。平地に乱を起こすような男では決してないが、次代の権力闘争には静かに闘志を燃やしているという、もっぱらの噂であった。さらに背後には、エスパダール屈指の大貴族クレメンテ伯がいる。現国王体制は盤石であり、国威にいささかの揺るぎもないが、それだけに次代の後継者たちに注目が集まってもいた。

「ジェズトとしても、ここで顔を売っておけば、国家の中枢へまた一歩近づけるという算段だろうね」

 デリクスには出世、栄達の興味がないので、あそこまで熱心になる男や、ファナのような気概に燃える女達の気持ちがあまりよくわかっていない。ファナからすれば、そういったところが嫌味に見えているということは知っていた。

「ジグハルト卿はやけに自信満々だけど、楽観視できるものなのかしら、ひょっとしてシールズ宰相を襲撃したのは、彼?」

「可能性は否定できないな」

 ファナが渋面を作る。人々を動かす情熱家である顔と、非情な策謀家としての側面を持つとなれば、尚更一筋縄ではいかぬ相手ということになる。

「本当にうまくいくのかしら」

「さあ?どうなると思う」

「そうね、シールズという男がすごすごとやられるとは思えないわ。何かしらの因縁をつけてくるんでしょうね」

 デリクスは内心で考える。ジグハルトはおそらく国の大事として緊急に統治機構を再編整理し、自分がその首座に座る、というのが狙いだろう。自信に満ちた表情であそこまで断言するということから察するに、現宰相であるモス・シールズへの対抗手段も、すでに手に入れているのかもしれない。

「もし王がシールズを罷免するとなれば、彼はおそらく領地に帰り、デュミエンドの支援を仰ぐだろうね。そうなったら内戦にまで発展するかもしれないな。最悪の場合、ハルフノールは分裂する。それぞれの後ろ盾を持ってね」

「……エスパダールとデュミエンドの代理戦争ってこと?」

「そういうことになるかな。何せ円蓋ができて以来、五大国間での戦争はできない。先方は戦がしたくてたまらないだろうからね」

「……」

 こうなってみると、竜襲来の話もハルフノールの置かれている現状を理解させるために、これほどうってつけの内容もない。デリクスは顔を上げた。

「と、なると、やっぱり気になるのはトムス・フォンダか」

「何?」

「ちょっと、例の竜賭博師に会ってくる。君は先に宿所に戻って待機してくれ」

 ファナが何事かを言っていたが、デリクスは振り返ることなく一人歩み去った。



 許可はすんなりとおりた。デリクスが向かった先は留置場である。ハルフノールの牢獄はエスパダールのそれよりも、簡素で、規模も小さかったが、現在は溢れんばかりの人数が押し込められている。おそらくはいつもは犯罪の数も規模も少ないのであろう。野次を聞き流しながら、奥の部屋へと進むと、尋問室が用意されている。国を憂い、声を上げた人物としてでなく、街を騒がせた犯罪者の扱いということだろう。トムスはだらしなく座っていた。

「あなたが、トムス・フォンダ。お噂はかねがね」

「そういうあんたが、『凪のデリクス』ことデリクス・デミトリウスか。ひとつお手柔らかに頼むぜ」

 人を呑む態度を決して崩さず、不敵な笑みを浮かべるトムスに、デリクスは表情を消して対峙する。なぜ自分の顔を知っているのか、などという疑問は口にしない。

「なんでしたか、竜賭博師の言葉。竜は飯の種、人は……」

「クロッカス爺の言葉を知ってる奴がエスパダールの司祭にいるとはな。竜は飯の種、人は糞の塊さ」

「そうそう、そして賭博は時の宝、人生は屑の山でしたっけ……時間もないので一つだけ聞かせてください。私が何を考えているか分かりますか?」

 デリクスの問いに、トムスの唇は笑みの形をさらに深めた。

「面白い聞き方するな。普通こういう場面じゃ、俺が何をたくらんでいるか聞くもんじゃねえのか?」

「それはハルフノールの方々の仕事でしょう」

「……自分達はあくまでエスパダールの人間だってことかい」

「ええ、ハルフノールとエスパダールの利益も目的も、完全に一致しているわけではない」

「デュミエンドとも違うってか。そして当然、俺ともな……あんたが恐れているのはハルフノールが二分されること、それにエスパダールが巻き込まれることだな」

「その通りです」

「安心しな。さっきの言葉通りだよ。俺は糞の塊どもの相手をしている暇なんざねえってことさ」

「それが聞ければ十分です。ありがとうございました」

 トムスの言葉を聞くと、デリクスは立ち上がり一礼した。退出したあとも、トムスはしばらく視線を扉に向け、不敵な笑みを顔に張り付かせていた。



「やあ、ただいま」

 結局宿所に戻らずに待っていたファナに対して、デリクスはのんびり手を上げた。興味深々のファナは、早速状況を聞き出そうとする。

「トムスから何を聞いたのよ」

「ん?大したことじゃないさ。第一、ひねくれ者の代表選手みたいな竜賭博師が、本心を初対面の人間に話すわけないだろう?」

「勿体ぶらないで」

「彼が本物のトムス・フォンダかどうかを確かめたかったのさ。真偽はともかくとして、すくなくとも彼は昔堅気の竜賭博師だった」

「……だから、何なの?」

「彼はこの国を壊すつもりはないってことさ」

 デリクスの言葉に首をかしげつつ、ファナは言付けを思い出した。

「ハルフノールから追加の依頼があったわ。逮捕だけでなく尋問についても協力してほしいって。今回の騒動で、苦情やら相談やら逮捕者やらが続出しててんやわんやらしいわ」

「ふうん……」

「何?何か言った?」

 ファナの問いには答えず、顎に手を当てて考えていたデリクスは、まじめな顔を崩していつものとぼけた顔になった。

「ツィーガにやらせてみるか。うん、これも勉強だね」


 デリクスに呼び出されたツィーガは、トムスへの尋問を命令された。

「いいんですか?俺なんかが尋問しても」

「目標は、トムスという男の目的を突きとめること。だけどまあ、これも勉強だ。無駄にこちらの情報を流さなければ、好きに話していいよ」

 デリクスはお茶をすすりつつ話す。湯気を気持ちよさそうに顎にあてていた。

「一つだけ言っておくと、彼ら竜賭博師は、悪人であっても罪人ではない。そもそも竜がどこへ到来するかの予測は、都市計画上でも非常に重要な意味を持っていてね、他の賭博とは少し別の目で見られていた時代もあったんだよ。彼ら竜賭博師が相手にするのは竜であり同業者であって、一般市民から金を騙し取ったりするわけじゃないからね」

「分かりました」

 深呼吸し、気合を入れて退出したツィーガの目の前には、ファナがいた。先刻のデリクスの様子が気になったのだろう。トムスのところへ同行を申し出てきたのだ。

「もしかして、トムスって人の所へ行くの?」

「はい」

「私も行くわ」

「え?大丈夫ですか?」

「それはこちらの台詞。先輩として、尋問とはどういうものかを教えてあげる」


 ファナのせいで野次が一層ひどくなった留置場。先行して一人で尋問室に入ったファナだったが、すぐに乾いた音が鳴り響いたかと思うと、憤然とした表情で退出してきた。

「ファナ先輩……?」

「……気をつけてね。一筋縄じゃいかないわ」

「何か、されたんですか?」

「いや、その、あの変態好色野郎……!!」

「?よく聞き取れなかったんですけど、本当に大丈夫ですか?」

「と、とにかく気をつけてね」

 ファナはそのまま歩み去ってしまった。鍵を開けてもらうと、酒場で見た時と同じ、机に足を乗せた姿勢で男がこちらを見ていた。留置場での姿が決まっている、などとは決して褒め言葉ではあるまい。

「おう、久しぶりだな。ツィーガ・オルセイン」

 ツィーガの物腰を鼻で笑いながら、無言。この尋問もまた、国家間協定に基づく正当な行為であることを説明したあと、質問を始めた。

「あんた、さっきまで話をしてた別嬪さんとは、知り合いかい?」

 そうです、と言おうとして慌てて止まる。情報を余り与えてはいけない、そう言われたばかりである。

「誰のことかはわかりませんが、こちらのお話をしてよろしいですか?」

「ったく、あの女……世の中にはすげえ女もいたもんだな」

 眉根を寄せて、ぶつぶつと文句を言っている。何があったのだろうかと思いかけたが、ツィーガは尋問に集中することにした。

「トムス・フォンダさん。あなたは、高名な竜賭博師だそうですね」

「お前みたいな青二才にも名前が知れ渡っているたあ、光栄の極みだね」

 トムスの試すような目つきは一瞬で光を失う。興味はすぐに消えたようだ。

「どうやって竜の予測をしているのですか」

「馬鹿にしてんのかおまえ?飯の種を教えるわけねえだろが。配ったチラシでもよく読んで勉強しな」

 これ以上話すことはない、と言わんばかりのトムスから目を逸らすことなく、少しの間を置いてツィーガは率直な想いを口にした。

「その力を、今まで皆のために使うことは考えなかったのですか?」

 閉じられたトムスの目が、僅かに開く。

「竜がくることを本当に予測できれば、避難もできますし、賭け事なんてことに使わずに、皆を守るために使うべき力だと思います」

 ちらりとツィーガを見ながら、口元に笑みを浮かべつつひとりごちる。

「俺の言うことなんざ、誰も聞かなかったってことさ。予想なんざ一〇割の確率なんてことはあり得ねえ。そんな不確かなものに人生を賭けられるかい?もしかしたら逃げた先に竜が現れる可能性だってあるんだぜ」

 皮肉、というにしては、やや湿りがちの言葉であったように、ツィーガは聞き取る。

「それに、竜の出現場所を教えちまったら、賭け事にならねえじゃねえか。皆同じ予想になったら儲かるわけねえしな」

「であれば、何故今回は自分の主義に反して、予想を言いふらしているのですか?」

「さっきお前が言った通りさ、人助けだよ。俺も歳を取ったし、少しは天界での居場所を広くしようと思ってね」

 人の食えない顔で笑うトムスに対しツィーガは交渉技術などを使わずに、まじめに質問する。はじめから上手く情報を引き出そうという気持ちもない。トムスという男への興味のほうが優先していた。

「であれば、今回あなたに、竜が来るという噂を広げさせた人の名前を教えて下さい」

「何度も言わすな。人助けなんだ。誰に頼まれた訳でもねえ」

 再びトムスは目を閉じた。いくつかの質問をするが、反応がない。

「いつ、どこに竜がくるか正確に教えてくださいませんか?」

 自身の興味から聞いた質問を、トムスは再び鼻で笑った。

「そこまで細かいことはわかったら苦労はねえさ。俺が分かんのは、大雑把な内容だけだよ」

「では、大雑把でもいいです。知る方法を教えてください」

「何故だ?ひと山当てようってのかい?」

「何度も言わせないでください。人助けのためです」

 一点の曇りもない瞳がトムスを射抜くかのように強まる。

「何でそこまでして、人助けなんざしたがるんだい?わざわざエスパダールくんだりから来て、御苦労なこった」

「理由などありません……強いて言うなら人が幸せなら、私も幸せだから、でしょうか」

 もはや尋問の体裁をなしてはいない、ただのてらいのない意志表明であった。トムスは睨みつけるような視線を送ってきたが、睨み返すこともなく。自然体のままのツィーガに、トムスは根を上げたように舌打ちした。

「カスバロの惨劇」

「カスバロ?」

「そいつを調べてみな。俺が言えるのはそれだけだ。そいつが分かって、それでも俺に聞きたいことがあるってんなら、また来な」

 それっきり、トムスは沈黙した。


 尋問室から出てきたツィーガは、宿所に帰りながらラーガに話しかける。

「ラーガ、さっきの話聞いていたな」

『ああ』

「カスバロの惨劇、って知ってるか」

『……確か、エスパダールのフィリーズ領にあった小さな村で起きた大量殺人事件?だったはずだ。十五年ぐらい前だったかな。直接関わっていないから、詳細は覚えていない』

「殺人事件か、それが竜とどんな関係があるっていうんだ?」

 デリクスへの報告内容を頭の中でまとめながら、トムスという男の顔を思い出す。自分の領域に踏み込まれるのを拒む、頑なな意志を感じる。生きてきた歳月の重みをひしひしと感じつつ、ツィーガは確信した。全ての行動に理念と理由を持つ男である、と。であれば、今回の騒動の目的も必ずあるはずであった。

 いつのまにか宿所に戻ってきたものの、エスパダールの事件を調べようもない。腕を組みつつ考ええいると、リーファが顔を見せた。

「ツィーガ、何か考え事?」

 小首をかしげる姿が妙にあどけなく、愛らしい。再会してからというもの、何となく仕草や声音も柔らかくなっており、ツィーガはわけなくどぎまぎした。 

「いや、エスパダールで起きた過去の事件を調べたいんだけどさ、どうすればいいかなって」

「どんな事件?」

「カスバロの惨劇っていう、十五年くらい前の事件。トムス・フォンダが言っていたんだ」

「ふうん。ひょっとして、竜に関係すること?こんなときに師匠がいれば、聞くことができるのに」

「本当?」

「ええ。何せ『追竜者ドラグナー』の中でも最長老の一人だし、竜に関する事件は全て追いかけているはず……ああ、何でこんなことになったのかなあ」

 今度は自分のほうが悩みだすリーファを、苦笑しつつなだめる側にまわるツィーガだったが、頭の中では、トムス・フォンダの顔と言葉がぐるぐると回っていた。


 同時刻、デリクスは差出人不明の手紙を受け取る。中身を読んだ中年男は、静かにエスパダールに向けての通信を指示した。





 トムス・フォンダ騒動の翌日、スタン・ニルグは上機嫌で帰って来た。愛犬たちは巧みに狩りを行い、何より無限の情愛と親愛を向けてくる。信じるもののない男にとって、唯一安らげる瞬間であった。

「陛下、シールズ様にご挨拶なされますか?」

「いや、いい。それより汗を流したい。ポーチたちにもたっぷり餌を与えてやれ。今回もよく働いてくれたからな」

「……畏まりました」

 犬たちを見送りつつ、スタンはほくそ笑む。あの男、シールズを襲うだなんて、誰だか知らないが奇特な人もあったものだ。スタンは感謝をささげると、ゆっくりと自室にてくつろぐ。ジグハルトとエスパダールのお蔭で、自分にもようやく運が巡ってきたようである。シールズがどんな顔をして自分を見るか、楽しみであった。

「陛下、ジグハルト様がお目通りを願っております」

「かまわん、通せ」

 ジグハルトが端正な姿で現れる。国中の女性が騒ぐ、役者のような顔に不快感はあったが、シールズから自分を救ってくれた人間である。無下にはできなかった。

「狩りの成果は見事なものだったそうですね」

「ああ。いよいよ余の犬たちも、熟練の域に達してきたというところだ。こんな物騒なご時世、いっそのこと余の警備も任せたいくらいだ」

「……シールズ閣下の件は既にご存知のようですね。是非お見舞いをなさるべきだと思われますが」

「構わん。もうあいつの顔は見たくない」

「しかし、まだ趨勢は定まっておりません。今はまだ慎重に事を運びませんと、思わぬところで足をすくわれます」

「もう誰かの顔色を窺って過ごすのは沢山だ!俺がこれまでどれだけの仕打ちを受けてきたと思っている!」

 スタンの激昂に、ジグハルトは頭を下げ、失望の表情を隠した。やはり、自分が仰ぐに足る人間とは言えぬ。この目の前の憐れな王は、今何が起こっているのか、認識することはないのだろう。現実に目を閉じ、耳を塞ぐものには、世界を築く資格はない。

「へ、陛下!?」

侍従長が慌てて飛び出してきた。

「騒々しいぞ、何があった?宰相がついにくたばったか?」

「ポーチが……陛下の猟犬が……!」

 スタンは皆まで聞かずに飛び出した。庭に出るが、いつものように愛犬達が飛びついてこない。厩舎にいくと、まず血の匂いが鼻に飛び込んでくる。

「ポーチ!……アルテも!ロウビルまでが!」

 動く犬は一匹もいなかった。抱きかかえてみると、どの犬も鋭利な刺し傷がある。息のあるものは、1匹もいなかった。遅れて辿り着いたジグハルトも、言うべき言葉が見つからないような惨状である。

「何があった」

「分かりません……飼育係のものが、一瞬目を離した隙のことです。警戒の吠え声をあげる暇さえなかったようで」

「見せしめか……だからといって、許されるものではない!」

 自分が一番、地位よりも、女よりも一番大事していたものが、無残に壊されていたのである。心の一番柔らかい箇所を預けていた場所を徹底的に破壊された男の脳裏に、シールズの顔が浮かぶ、これほどまでに恨めしく思ったことはない。

「ジグハルト!これは命令だ!あいつを……」

「陛下、証拠もないままに、宰相閣下を糾弾することなどできません」

 皆まで言わせぬジグハルトの醒めた声は、スタンの怒りを刺激こそすれ、宥めはしなかった。

「ううう……ぐうううう!」

 声にならないうめき声をとっさに押し殺したとき、スタンは愕然とした。誰かに聞かれているかもしれない、シールズに聞かれるかもしれない、と無意識に行った動作であったからだ。シールズには逆らえない。スタンは本能から彼に屈服していることに気づかされ、絶望する。立ち上がる気力など、無かった。

「もう、何も自分には残っていないはずなのに……」

 怒りは、淀むことしかできずに、憐れな男の顔を赤黒く染める。この時、スタン・ニルグの中で、何かが砕け散った。取り返しのつかないまでに。


 ジグハルトは、ただ黙然と、目の前の男を見やるだけであった。


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