誇りまみれの竜賭博 第1話 大いなる円蓋


 



 神がこの世界を去り、人の世になってからの長さを示すとされる、人定歴にして七百八十五年。ある夏の日の夜のこと。


 レティア神の慈愛溢れし満月が、大地に残った人々に月光にて慈悲の眼差しを送ろうとしても、雨降らす黒雲に隔てられた以上は、とりうる術は無い。そしてその雲上、月と大地を隔てる大空に悠然と舞う、翼持ちし驚異に対してもまた、残酷なまでに無力であった。雄大なる天空を住処とし、我が物顔に闊歩する一影こそ、世界の支配者であり人類の簒奪者、竜である。一つの街を覆うかに見える巨躯、月光を弾く翡翠のごとき鱗、世界そのものを切り裂かんと唸りをあげる翼。形作られた全てに、世を圧倒する存在感と蛮性を宿しつつ、竜は遮るもののない空を進んでいく。体長や、角の大きさなどから推定するに、およそ三千年ほどは生きている古代種であろう。

 碧玉の如き竜の瞳には、人が感じとれるような知性の輝きはない。眼差しはこの世界の、一体何を捉えているというのだろうか。海の彼方か、大地の果てか。それとも今や天へと上った神々のいる星々なのか。竜が進む先、眼前に広がる暗雲の下、豪雨に打たれるカーマキュサの首都、ベイルレンがあるのは、そこに住まう住民を虐殺し、街を破壊する意図を持ってのものなのか。竜ならざる人の身で、思惑を伺い知ることなどできはしない。ただ一つ言えることは、竜がその秘めし力を発揮したときに、いかなる存在であっても対抗しうることなどできはしない。街も、城塞も全て灰塵に帰す。人類は成す術なく、魂ごと焼き尽されるだけの存在であった。


そう、かつては。


 神の威光、そして真理を求めるべきはずのカーマキュサ大神殿。しかし竜による至近の襲来が予測されている今この時に要求されていたのは、静謐な瞑想、思索などではなく、そこに集う人間達の果断な決断と、徹底的に無駄を排除した行動であった。

「各国に伝達!五神の盟約に従って、これより竜に対し【大いなる円蓋】の発動を開始する!」

 カーマキュサの主神、欲望の神マキュスト最高司祭、エイゼンブラットの声が神殿内に響き渡ると同時に、蒼色の燐光が収束し、天井に向かって道を作り始める、燐光は神殿の最上階に設置された、一本の巨大な建造物へと導かれ、集うことで更に輝きを増していく。塔にも祭壇にも見えるそれは、神への祈りとともに、司祭達が志力を練りこんで編んだ『法力鉄』の針金で組み上げられた巨大法具である。一ミール(一メートル)作成するのに優に一か月はかかるであろう、最高級の素材をさらに片手では掴めないほど太く束ねた骨組みに、法術発動のために念を込めた宝珠を埋め込むだけでなく、至るところに自動詠唱装置を取りつけられた金属柱であった。人間の執念のごとく、威容とも異様ともいえる姿であったが、青い燐光を纏うことにより、神殿にあるべき荘厳さに満たされていくようでもある。

「意志の大海に向け、志力伝達経路を解放せよ!」

 人類の持つ唯一にして、最大の力、希望と意志の結晶である『志力』を、遥かな時をかけて集約し、維持することで生み出された、『意志の大海』。死後の人々が集うとも言われ、竜すらも届きえない遥か天空、神々の集う星々の間に展開する大海原へと法術により信号を送ることで、遥か遠い異国間ですら意識の伝達を可能にした法術、【遠話】により、各国の意志が統一され、今人間界の頂点ともいうべき、大法術が起動しようとしていた。

「【カ―マキュサの大柱】発動!各自、各国からの志力注入状況を報告せよ!」

 エイゼンブラッドの声は奇跡を行使する神官のそれではない。叩き上げの現場監督のものだ。人ならぬ妖精族の協力や、匠たちの血の滲むような苦心の末に生み出された巨大法具から貯えられた燐光が溢れだし、まさに柱のごとく天に向かってそびえ立つや、人の視界の及ばない遥か先まで伸びていく。

 同時刻、天より光の道が他の四つの国に向かって差し伸べられ、カ―マキュサと同じ構造である巨大法具に接続された。もし空から光景を見下ろせるものがいたとすれば、とてつもなく大きな柱が五本、大陸全土に突き立ったかのような壮観であったろう。カーマキュサ以外の四つの国とは、慈愛の神、レティアを主神とするフェンレティ。力の神、デュモンを主神とする共和国家デュミエンド。知識の神、タルタを主神とするタントレッタ、そして正義と真実の神、スパッダを主神と崇めるエスパダール。カーマキュサを含め、いわゆる五大国と呼ばれる国々である。人類の中枢たる各国の首脳部では、カーマキュサへの竜接近の報、そして【円蓋】発動の依頼を受け、今まさに緊急の会議と決議が行われている、はずである。エイゼンブラッドは信じるしかない。

「フェンレティより、経路解放あり!」

 まずもって報告が入ったのが、慈愛の国フェンレティであることはいかにも象徴的である。光の経路、そして『意志の大海』を通じて、フェンレティ国民全体の志力がカーマキュサの巨大法具へと注入され、輝きが更に増幅される。送られた桁違いの志力量に、大神殿全体が鳴動をはじめた。竜に対抗するべく生み出された究極の法術、【大いなる円蓋】に消費される志力は、一国だけでは維持することができない。五大国が結集して、はじめて可能になるという規格外の代物であった。

「よっしゃあ!どんどんこい!」

 エイゼンブラットが吠えた。竜が到来しようとする、まさにこの瞬間においてのみ、全人類は結集することができる。その光景を、美しいものとみるか、おぞましいものとみるかで、人となりは分かれるだろう。自分はまさしく後者だが。エイゼンブラットの脳裏を戯言が流れて消えていく。

「デュミエンドより、志力流入確認しました!」

「タントレッタ経路、問題ありません!」

 きびきびとした報告が届く。【円蓋】発動のために必要な志力量を図る計測器の数値がみるみる伸びるのとあわせて、室内の興奮もまた限界を超えて高まっていく。だが、円蓋発動に必要とされる志力量の寸前で伸びが止まってしまった。原因は明らかである。

「エスパダールはどうした?相変わらずのお役所仕事か!」

 エスパダール方面担当司祭は、いらつくエイゼンブラッドの威圧感に汗を滲ませながら、目の前の法具計測器を見つめる。エスパダールとカーマキュサは信奉する神の信条も、街の成り立ちとしても正反対、歴史的な対立は今も続いていた。両国民からすれば、むしろ共闘しようという今この瞬間のほうが理解しがたいものであったのは、まぎれもない事実である。だが、今はそんな不倶戴天の敵、にっくき正義の国を信じるしかない。

「竜、至近に到達!時間がありません!」

 警告が緊迫の度合いをいや増す。誰しもが歴史を思い返し、心と身体双方に冷や汗をかいた。竜とエイゼンブラッド、二つの脅威に挟まれた担当の、世界の誰よりも必死な祈りが通じたのだろうか、エスパダールよりの経路解放を示す光がようやくに灯っていた。

「助かった!」

神官の本音を誰も咎めない。志力数値が再び伸びを取り戻し、そして一気に必要数値を超えていった。法具発動の志力量は、国力、人口に比例する。大陸最大規模の国家であるエスパダールはこんな場面でも要となっていた。

「エスパダールより、志力来ました!」

「遅せえ!あとで元首名で抗議出しとけ!」

 エイゼンブラッドの口調には、ほんの僅かであるが、普段にはない安堵の響きがある。壮大にみえるこの五大国の盟約は、竜に対する人類の恐怖と対抗心だけが頼りである。いまだ国家間の紛争は絶えず、小競り合いは終わる気配を見せない。いつ、誰が意趣返しをするか。常に緊張感を持ちながらの運用は、関わる全ての人間に余計な、重すぎる負荷をかけ続ける。竜に対抗するために集められたはずの、莫大な志力を何らかの方法で逆流させたとしたら、一国の都そのものを破壊することも容易であろう。それぞれの国で人知れず対抗策を考えてはいるのかもしれないが、勿論他国に話すことではない。

結局のところ、最終的には他の四国を信じるという前提を崩すことはできない現状は何ともむず痒い不快感を伴うものである。信頼などという言葉は、生き馬の目を抜くと言われたカーマキュサの国家信条とはかけ離れており、気持ち悪いことおびただしいのだった。

だがひとまずは、人類への、他国への信頼は報われたということか、エイゼンブラッドは腹の中で唸る。このような状況は、いつまで続くのだろうか。五大国の均衡が破れたとき、もしくは戦争状態となったとき、この仮初めの連帯は維持されるのだろうか?

「御指示を!早く!」

 無駄な考えは半瞬で過ぎ去る。指示に遅滞は許されないのだ、彼の言葉を皆が待っていた。

「天よ、大いなる神々よ、恩寵を賜りて今、大いなる栄光の半球を築かせたまえ!」

 エイゼンブラッドは手早く印を切ると、巨大法具発動の言葉を紡ぐ。

「【大いなる円蓋】よ、発現せよ!」


 雨雲を抜け、いまやベイルレンまであと一羽ばたき、というところまで来ていた竜の眼前に、突如、青き柱が顕現した。当初は大地より伸びた一本の柱であったものが、天より降り注ぐ四本の光によって次第にその太さと輝きを増していく。

 竜が羽ばたきながら宙に留まった瞬間、ちょうど自身が飛んでいる高さより、柱から青き光が放射状に降り注がれはじめる。光はその軌跡を残しながら、たちまちに半球状の障壁を構築せしめ、瞬く間にベイルレンの街全体を覆いつくしたのだった。竜は、突如自分の行き先を塞いだ円蓋の、その青い輝きと大きさに刺激されたのか、羽ばたきを強めて近づいていく。

『‼』

 身体の一端が触れたとき、竜に嘗てない衝撃が奔り、信じられないことに巨体が弾かれていた。溶岩にも、極寒の風雪にも、あらゆる自然の驚異にも負けることの無い無敵の肉体。人類のあらゆる法術、武具にも傷つくことのないはずの身体に起きた衝撃を、竜はどう認識してよいのか判断がつかなかった。長い長い生命活動の中で、初めての刺激であり感覚である。ただ分かることは、体に残った余韻は極めて不愉快なものであるということだった。数瞬の思考の末、かつてないこの感覚が、『痛み』というものであるとようやく認識した竜は、その事実に激怒した。人間が生み出したのであろう、この円蓋という存在自体を粉砕すべくいきり立つ。

 聞いただけで魂が砕かれるとも言われる咆哮をあげ、鋭い爪で光の円蓋を切り裂こうと振り下ろすが、またしても強い衝撃とともに弾き返される。業を煮やした竜は、今度は天と地を繋ぐ柱にむけて、全てを燃やし尽くす息吹を浴びせかけた。轟音と、光の乱舞が巻き起こり、空間そのものが粉々になるかに思えるほどの爆発が生じる。だが、爆煙が流れ去った後、竜が見た者は、輝きを失うことなく屹立する光の大柱と円蓋であった。

 嘗てない屈辱に、怒りに大気を再び震わせる。蹂躙するべき相手に向け大きく口を開き、先程とは比較にならない勢いで息吹を叩きつけた。魂すらも焼き尽す熱が半球に降り注ぐが、それすらも青く輝く壁を通り抜けることはできなかった。街は無関心を装うかのように平然と、竜を下から見上げるのみである。


 竜は再び雄叫びを上げた。何度も、そして長く、長く、長く……





ベイルレンの外れにある宿屋兼居酒屋『ヴェルコの憩い』亭の窓からは、周囲を圧倒してそそり立つ光の柱と、国全体を覆うように広げられた、青い円蓋の全景を見ることができた。遠くかすかに、街角の彼方此方から歓声が沸きあがっている。今回も、竜の守り手、人類全ての志力を結集して生み出される【大いなる円蓋】の発動成功に、人々が歓喜の声を上げているのであろう。竜の息吹も、咆哮も退け、街を凄惨な破壊から救い出す人類の英知、神々の奇跡の結晶。至高の法術が静かに展開した空間において、時折起こる振動は今まさに竜と人類が死力を尽くして争っている証左である。国を覆う光の密度が高まるにつれ、降っていたはずの雨はいつのまにか止んでいた。

「竜なんざに負けるか!」

「ざまあみろ!」

 街頭に飛び出してきた人間が発する叫びに込められた怒りや、悲しみは軽いものではない。神が去ったこの世界において、人間が生存するための最大の脅威は竜であり続けた。人の身体に宿された志力を使い、神の力を借りてこの世に奇跡を生みだす【法術】を持ってしても、竜に対抗するのは簡単なことではなかった。幾度となく跳ね返され、人類という種族そのものが絶滅寸前まで追い詰められることもあった。苦難と辛酸の歴史が続くこと数百年、力の天秤がほんのわずかだが人間側に傾くことになったのは、今から月日をさかのぼること僅か五〇年前のことである。

 新時代の幕開けとも呼ばれた年。人間単独で行いうる法術中、最大の奇跡である神の人体への降臨という困難事を行使できる実力者が五大国すべてに揃ったとき、かねてから想像世界の出来事とされた世紀の大事業が実施されたのである。


 五大神同時降臨という、大いなる奇跡。


 いまや伝説となった五人の聖人の肉体と魂を燃やし尽くして得たわずかな時間に、五神は束の間意志を交換しあう。そして、地上の人間のために竜を含むあらゆる災厄を退ける奇跡、志力によって構成された光の障壁について神々が協力することを人類に示すとともに、魂の在り処たる『意志の大海』の存在を知らしめたのである。以降、人類は更なる苦心の末に巨大法具『神の大柱』を開発、五大国が竜襲来時においては結束するという協定の下、各国がそれぞれ信奉する主神に対し志力を捧げることで、竜が襲来する国において【円蓋】を発現させるという態勢を構築したのである。その瞬間、五大国の立場は人類において決定的なものとなった。近隣の小国はこぞって傘下に入ることを求め、結果として信仰の途絶えた神々もかなりの数にのぼるという事態まで生じさせすらした。

 近年の五大国、ひいては人類の急速な発展は、まさにこの円蓋あってのものだといっても過言ではない。とはいうものの、奇跡はあくまでも奇跡であり、神より告げられた【円蓋】を再現するために捧げられた犠牲は計り知れない。成功と挫折、不運と悲運と幸運を飲み込んだ歴史の大部分は語られることなく闇に葬り去られた。

 すべては五大国の結束のため。あらゆる困難、不信を乗り越え、円蓋を確実にかつ効率的に発動し、運用されるようになったのはつい十年ほど前である。いまや、円蓋の中においてであるが、竜の到来は人々において、娯楽に近いものにすら変わりつつあった。


 祈りを捧げるべき人間達の中にも、まずは自身の憩いとうるおいが必要な者達もいる、といっていいものか。竜がまさに国に襲来しているこんな時にまで酒を飲んでいるのは、やはりカーマキュサという国柄であろうか。彼等は内心の動揺を押し殺すため、恐怖から逃げるため、もしくは虚勢を張るために酒場に集っていた。誰もが自分を含めて愚かしいことをしているのは自覚していたが、他人に、それ以上に自分自身に対して意見をするようなことはしなかった。

「今日は、竜が来るってのは本当かい?」

「ああ、三日前に伝達が来ているよ」

 お互い、竜が来る事なぞ先刻承知でありながら、まるで竜が来るなんて知らないとでも言いたげに話をする。滑稽極まる光景ではあるが、当人達は真剣だった。

「いやあ、竜ってのは何度みても大したもんだな!」

「しっかし、まさか、竜が来るその日に酒を飲める日がこようとは思わなかったなあ」

「まったくだ。」

「また円蓋が作られたんだな、今日はどこが担当なんだ?」

「今頃神殿は大わらわだろうさ」

「円蓋維持費にどんだけ大金を搾り取ってると思う?お互い様だよ。こういう時ぐらい働けっての」

 俺は竜なんて怖くないぜ、と様々な言葉で主張する。昔は竜が襲来するときに、酒を飲むことが度胸の証だったが、【円蓋】ができた今では虚勢の意味すらなくなり、形骸化した単なる馬鹿騒ぎとなっていた。誰もが、自分の滑稽な役割を認識した上でのやり取りである。

 店内に溢れる声にも、安堵の響きが満ちているような、穏やかで愚かな時間になるはずだった一夜。『ヴェルコの憩い』亭の店主モーリスに浮かんだのは別の感情だった。それは先刻まで街を覆っていた嵐のせいだったからかもしれない。嵐は、何かを運んでくるものだ。新しい季節や、役立たずの瓦礫、そして人間。降っていないはずの風雨に突き飛ばされるように飛び込んできた男女を見た時に感じたのは、そんな胸騒ぎだった。

「いらっしゃい」

 声をかけてから改めて客の姿を見た際、モーリスは自分の胸騒ぎが的中したことを知る。外套を頭まで被った二人は、モーリスの愛想に答えもせずに店内を見回す。視線はやがて一点を刺し貫くと、無言のまま、一番奥の卓へと歩き出した。いかにも不審な二人組に対して向けていたまなざしが一瞬で外される。モーリス自身も目を反らしながら、誰にも聞こえない大きさで舌打ちした。そこにいるのは、疫病神だったからだ。

「あ、そこは……」

「知っている」

 仕方なしに、店主の言葉を遮る二人組の片割れから聞こえた声には、隠しきれない憤怒が宿っており、モーリスは沈黙を守るべきであることを瞬時に悟った。

「おい!こいつに挨拶たあ、気は確かかい?」

 ふらりと立ち塞がる酔漢を視線だけで退かせ、ようやくに開けた視界の先に鎮座する男と対峙する。酒瓶が林立する卓に埋もれるように、足をテーブルにのせ、上を向いて目を閉じている男、齢にして五〇は過ぎていよう。無精髭に包まれた顔は、粗野な中にも匂うような魅力を放っている。服装にはほつれが目立つが、垢じみてはいなかった。胸に鈍く光る歪な首飾りが、輪をかけて怪しさを醸し出す。モーリスが逡巡している間に、二人は既に男の前に立っていた。

「自分の予想が的中していることを示すため、何より自分の運を試すため、敢えて竜が来る街、出来るだけ竜の進行経路に近い場所で泥酔する、か。このご時世でやる意味がどこにある?くだらない」

「……俺に用か?」

 言葉が出る前の沈黙は、深く重い。普通の人間であれば、それだけで場を離れたくなるような沈黙だ。だが、二人は何事もなかったように、男の名を呼んだ。

「トムス・フォンダ」

「俺の名前を知っていて声をかけたってことは、馬鹿か?それとも身売りかい?」

 錆のある声に込められた威圧感は、男の歩んできた人生を物語っているかのようであった。並みの人間なら、話しかけたことを後悔するだろう圧力を、表面上、二人はなんなく受け止めていた。トムスはそれでも姿勢を変えることなく、目を閉じたまま声をあげる。

「顔を見せな」

 その言葉に、一人だけが反応した。フードを外し、男にさらに近づく。気配を察し、トムスは薄目を開け、目の前の顔を確認した。青年といっていい男の顔には複数の刀痕が生々しく刻まれている。安穏とした人生とは縁遠いものだったのだろう。黒髪を後ろで束ね、彫の深い顔の中で眼光だけが炯々と輝きを放っている。

「知らねえな。名は?」

「お前とは初対面ではないのだが、忘れてしまったようだな」

「いつ会った?お前みたいな餓鬼と?」

 トムスは半ば興味を失った体で、目の前の酒に手を伸ばす。

「忘れたとは言わせない。十二年前、エスパダール、フィリーズ領カスバロ。俺はお前に会っている」

「……」

 酒杯を卓に戻し、トムスは男に向き直った。沈黙の中、遠く、腹に響く音がするのは、竜と【円蓋】が衝突する音だろうか。

「何の用だ、今更?見ての通り、金はねえ」

「どうせ、今回も的中させたんだろ?お前にやってもらいたいことがある。嫌だとは言わせない」

「俺にできることなんざ、何もないぜ」

 男は誰よりも素早く動いた。トムスの襟首を締めあげ、無理やりに立たせる。周囲が騒ぎたてようとするのを、トムス自身が止めた。

「お前ならできる。『竜相場師』のトムス、お前にしかできないことだ」

 無言のまま、対峙が続く。深く淀み、本質を隠すようなトムスの瞳を、燃え盛る炎が束ねられたかのような鋭いまなざしが射貫く。いつの間にか、沈黙は店全体に広がっている。店を静かに離れる客が続々と現れ、モーリスは、今晩得られるはずだった利益、竜到来を見込んで買い込んだ材料の処分について頭を巡らせるほかはなかった。

「話を、聞こうか」

 男は手を離した。トムスは中背であったが、見下ろされるような高さに相手の頭の位置がある。頑丈そうな男の顎が、控えていた連れを指し示した。

「こいつをあんたに預ける、あんたには、その責任があるからな」

 気の遠くなるほどの沈黙は、トムスのほうから破られ、誰もいなくなった店内で会話が始まり、再び時間が流れ始める。男二人が話す間、もう一人は姿勢も変えず、無言を貫き通していた。


 店の外では、未だ竜が街へと突入を繰り返すも、蒼い光に弾かれる、という光景が展開されていた。最初は恐る恐るといった様子で、竜を見ていた人間たちは、次第に歓声を上げ始める。

「どうだ、竜め!思い知ったか!」

「お前らなんかに、もう誰も殺させないぞ!」

 人間たちの歓喜の声は、渦となって空へと昇っていくようである。その熱狂は、竜が明け方近くまで【円蓋】に挑み、そして彼方へと飛び去った後も続き、盛大な宴へと変化していくのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る