第3話 流れゆく「宝」





 ツィーガは、ガリューシャが指示した目的地に辿り着く。まるで頃合いを見計らったかのように、エクイテオもやって来た。

「テオ」

「よ」

 事情を聞けば、裏通りを探索していたときに、ガリューシャのほうから接触してきたという。

「お前だけに会いたいっていうから手紙を届けさせたのさ」

「へえ……」

「ツィーガ・オルセイン。よく来てくれた」

 突如、人の気配が全くしなかった空間にガリューシャが姿を見せ、ごく自然に挨拶する。彼の実力を知った今では、驚くことでもなかったが、心臓に悪いことこの上ない。

「……はい」

「この前は手荒い真似をした。赦してくれとは言わないが、私の立場も理解してもらえれば、と思う」

 トレンガとはまた違う、押しつぶされるというよりも、切り刻まれるような緊張感を身に纏う男だった。トレンガとガリューシャ、この二人が理想という追竜者一族の過酷さ、峻厳さに思い至らずにはいられない。

「そして、礼を言う。君が間に入らなければ、私は妹を殺していたかもしれない」

 凄いことを平然というガリューシャに対し、ツィーガは呼吸を整えて話はじめた。

「当初、リーファ、さんが貴方の志力を感知できたが、途中からできなくなってしまったと言っていました。つまり、最初あなたは、わざと気配を消さなかったことになる。何故か。理由は、妹さんと接触をとるためですね」

「……ああ」

「接触の理由はまだ、はっきりとは分かりませんが、真実を伝えた中で、貴方が彼女に何かを依頼するため、そうではありませんか?」

「その通りだ。しかしリーファは君達二人と行動することを選択した。お陰で当てが外れたよ」

 ガリューシャは薄く笑う。

「ツィーガ君。リーファは君が信頼に足る人間だと話していた。だからこそ今日は、君を通じてエスパダールに対し、私の意志を表明したいと思う」

「はい」

 巻き込まれていることを知りつつ、信頼されたことに対する高揚感がツィーガの身体を奔る。若き神官戦士は、自戒と緊張のために剣の柄を強く握った。

「今回の事件は我ら【追竜者ドラグナー】の信念が起こしたもの。ドーミラ村村長、トレンガの実験によって生まれた竜……竜と言っても不完全な『器』でしかないのだが、それが暴走した結果だ」

「竜の『器』?それが秘宝という奴ですか」

「秘宝か……トレンガが言いそうだな。その通りだ」

 ガリューシャは頷く。言葉には、トレンガに対する嘲りが多分に込められていた。

「器、ということは、何かを入れるためのものなのですね?」

「ああ。人間の魂を受け入れるための器。竜を目指す妄念を閉じ込めるための檻、と言うとところか」

 ガリューシャに真っ直ぐ見詰められ、ツィーガはその視線の強さに目を逸らしてしまう。かちゃりと、剣が鳴る、【先生】の叱咤だ。

「我らの実験は二つ。魂を受け入れ、意志により変容できる『器』を作ること。もう一つは、人の身体より魂を切り離し、神との因果を断つ『解脱』だ。そして『器』に『解脱』した魂を修め、全てから開放された存在へと進化することを持って、竜とみなすというものだ」

 途方も無い考えに、茫然となった。神という父であり、母でもある大いなる存在の保護下から外れることに、何のためらいも抱くことがないのだろうか?ツィーガは問わずにはいられなかった。

「そんなことが、できるのか?そんな器を生み出すために、魂を肉体から切り離すために、貴方がたは何をしてきたんだ?」

 ガリューシャはあくまで目を逸らさない。だが彼でさえ、次の発言は声が震えた。

「人間を使い、魂を引き剥がす実験を、そして死体から志力を抜き取り、新たな肉体を創り上げる実験を行ってきたのだ」

「……!」

 あの小屋でみた惨劇が頭の中で明滅する。死臭すら漂ってきたような気がして、ツィーガは頭を振るった。

「道に外れた行為であることは、理解している。弁解するつもりは全く無い」

「あなたも、実験に関わっていたんですか?」

「実際に研究を主導したのは、トレンガではあるが、俺も止めたわけではない。同罪というやつだな」

「……そして、数多くの犠牲の上に成功例ができた」

「ああ。俺も詳しくは分からない。ただ、トレンガが着目したのは、【鬼】の存在だ。彼らは人間の魂に憑依し、自らのものとすることができる。そんな【鬼】の性質を利用し、彼は人間から魂を抜き取ることには成功した」

 恐らく、と続けながらガリューシャが話すところによると、鬼が魂を食らう際、肉体と魂が切り離される瞬間があるという。その機会を捉え、鬼だけを殺すことで、魂だけを切り取ることが可能になった、という。

「【鬼】は肉体がなくてもこの世界に居座ってるんだし、【鬼人】になることもできるってことか」

「そういうことだ。魂だけで存在することは他にも例がないわけじゃない。問題は器のほうだ。抜き取られた魂は、何もなければあっという間に昇天する。逆に肉体は、魂が抜ければただの死体として、すぐに朽ちていく」

何度も実験が繰り返され、多くの犠牲者を生み、そして、ついに一つの奇跡が起こった、ということなのだろうとガリューシャは語る。

「器をどのように完成させたか。奴は誰にも言わなかったが、実験の様子から察するに、また【鬼】を利用したようだ。【鬼】が人間の肉体を変容させうる力を、肉体である器を維持させる力に転換させたようだ」

 ガリューシャの冷静すぎる態度が、ツィーガにはもどかしい。一体何人の人間を犠牲にしたのか、その事実を認識しながら何故ここまで冷静でいられるのだろう。

「トレンガの最終目標は、自分自身の体を変容させ、彼自身が人間の転生の環から抜け出すことだったようだが、器を完成させたときから、己の魂を器に流し込むことに方針を転換した。奴の理想とする器を完成させるために、実験は果てしなく続けられた」

「そんなことのために……!」

 憤りを超えて、蒼ざめるほどの怒りがツィーガの中を暴れ回るかのようだ。

「そんなこと、と言うがな。我ら一族は竜となるために、あらゆるものを犠牲にしてきた。今回の件で失われた命、その数百、数千倍を費やしてきたのだ」

「今回の件は些末なことだと?」

「そうはいってない」

「……」

 価値観の相違について論じている場合ではないことは、お互いわかっていた。ガリューシャが幾分声を和らげる。

「話を戻そう。結局、実験は最後の段階で失敗する。完成したと見えた器にトレンガ自身の魂を移す直前、急に器が暴走し、明確な破壊衝動をもって村を焼き尽くした」

「器が、トレンガの魂が入ってくるのを拒否した?」

「推測でしかないが、幾人もの人間を使って出来上がった器には、おそらく犠牲者の魂がわずかながら残っていたのではないか。トレンガへの怖れ、怒り。そういったものが爆発した、と考えている」

 発生した膨大な志力の正体は、人間がため込んだ恐怖、或いは狂気であった、ということか。ため息すらでない沈黙は、しばらくの間続いた。

「暴走を止めたのは、あなたですか?何故、暴走が止まったのですか?」

 ガリューシャの顔に初めて動揺が浮かぶ。しばし口ごもったが、やがて決心したように声を出した。

「トレンガも、村のみんなが竜の子によって薙ぎ払われる中、私が、別の魂を植え付けたのだ、それによって暴走は止まり、彼女は、竜として生まれ変わった」

「……ちょっと待って。今彼女、といいましたか?」

「そうだ。竜の器は、少女の魂を宿している。『器』は受け入れた魂によりその姿を変えた……」

 ガリューシャの声が震えた。

「全ては、邪な企みを抱いたドーミラの民が招いた悲劇。責任は我ら【竜追者ドラグナー】が負うべきだ。私も含めてな。だが彼女は、竜となった少女は何の罪もなく生まれてきた。私は、彼女だけは助けたい」

「……」

「彼女の保護を、本来なら、リーファに頼むつもりだった。私に注意を惹きつけ、その間に逃げて貰う算段だったのだが。君のせいで計算が狂ったよ」

 ツィーガは苦笑する。

「俺なら上手く出しぬけると思ったって、そう言っていた」

「神官戦士も甘くない、ということか。妹がここまで村の人間以外を信頼するとは思わなかった」

 リーファの苦悩に満ちた顔を思い浮かべる。彼女もまた兄への想い、村の、追竜者の理想の中で苦悩していたのだろう。

「一つ、お願いがあります。竜に、会わせてくれませんか」

「……よかろう」



 三人は裏路地を更に奥に入ると、昼間にも拘わらず、灯がなければ五歩先も見通せないほどの暗がりが広がっている。

「こっちだ」

 ガリューシャが遅滞なく進んでいく。途中、障害物をいくつも乗り越えている様子からは、道を覚えているというよりは、目標が何処にいるのかをはっきり捉えているという感覚である。方向感覚が完全に狂ったころ、ようやく立ち止まった。エクイテオとツィーガが立ちつくす中、ガリューシャが声を賭ける。

「この中にいる」

 暗がりとはいえ、比較的清潔さは保たれていた。外套を頭からかぶった二人がこちらを向いた。瞳が奥で微かに光る。

「私の友人だ」

 ガリューシャが聞いたことのない言葉で呼び掛けると、二人は退く。奥には部屋があり、ためらいなくガリューシャが扉を開けた先に、『彼女』はいた。

「……」

色素の薄い、綺麗に切りそろえられた髪。目鼻立ちは整っているかもしれないが、表情は全く無い。感情がないというよりは、超越してしまったような印象を受ける。手足は華奢で、不用意に触れば折れてしまいそうだ。美しいと言うには余りにも希薄な存在感である。

「こいつが、竜の器ねえ」

 無遠慮なエクイテオを睨みつけると、ツィーガは腰を落として少女と視線を合わせた。笑顔で呼びかける。

「こんにちは」

「……」

 返事がない。こちらを見ているかどうかも分からないほどに透きとおった瞳は、何も映しはしないようだ。まさに、器と呼ぶに相応しい空虚さだった。

「あの時以来、ずっとこのままなんだ」

 ガリューシャの声に揺れが生じていた。強く張りつめていた緊張が何かの拍子で切れてしまったかのような脆さが浮き出している。

「名前は?」

「……」

 応えない少女に代わり、ガリューシャが応えた。

「メイシン」

「メイシン、言葉は分かるかい?」

 反応はない。だがガリューシャが近づくと、ほんの少しだけ首を動かし、男の顔を見やるのだった。

「あなたのことは、認識しているんですね」

 ツィーガの言葉には直接答えず、ガリューシャの独白は続いた。

「……実験において、トレンガは何度も『器』を外部から操作し、安定させようと試みたが、成功しなかった」

「では、どうやって?」

「唐突に閃いたのだ。器より溢れる志力を抑えるには、外からではなく内側から。荒ぶる力を御するための核が必要なのではないか、そしてそれは、意思持つ魂なのではないか、とな。器の生成と、魂の挿入、それぞれを段階的に行うのではなく、同時に行うべきなのだ、と。本来、人間の肉体と魂が不可分であるが如く」

 ガリューシャは瞑目し、そして目の前の少女の髪を撫でる。少女はされるがままになっていた。彼らの様子、ガリューシャが向ける眼差しから、ツィーガはある結論に達せざるを得なかった。

「植え付けた魂とは、あなたの、娘さんなんですね」

 ガリューシは頷いた。

「死の直前、私はひそかに娘の魂を分離していた。私は暴走を止めるために……いや、もう一度娘を生かすために、器に娘の魂を込めた」

 声には何とも言えない揺らぎが、悲しみが宿っている。

「あなたの狙いは最初から……」

「……君の思っている通りだよ。私は器に、病で余命いくばくもない娘の魂を入れる機会をずっと伺っていた。まさかこんなことになるとは思わなかったがね」

「どんな理由があろうと、あんた達が行ったことは、許されることじゃない。どんなに、娘さんのことを思っていたとしても、だ」

 エクイテオの言葉を、ガリューシャは否定しなかった。

「私のしていることは、人の道にも、【追竜者ドラグナー】の道にも外れていることは、理解している。だが娘が死にかけている中で、万が一にも救われるかもしれないという希望に縋るしか、あの時の私に選ぶ道はなかった」

ガリューシャはしばし絶句した。

「……にしても、こんな姿になるとは……」

 ツィーガも、エクイテオも言葉を失っている。目の前の男はすでに全てを受け入れていた。自身の罪も、醜さも。追及も、断罪も必要なかった。

「死んだはずの魂は、まだ自分の在り様を覚えていたのだ。そしてあの日。彼女は、娘は俺を見て一度だけ、笑ったんだ」

 ガリューシャは天を仰いだ。死者を蘇らせる、それだけでも恐れ多い蛮行とも言える、のだろうか。ツィーガもエクイテオも、まだ子はいない。もし、自分に子供がいたら、そして万が一でも、命永らえる可能性があるとしたら、どのような選択をするものなのだろうか。

「自分の行っていることが、神なるものを冒涜し、破滅へと至る道だと分かっていても、俺にはもう止めることは出来ない。彼女は、彼女自身の生を全うしてほしい、人なのか、竜なのかは分からないが」

 ガリューシャは苦笑する。ツィーガ達が初めて見る真情のこもった笑顔だった。もはや、彼自身、何が正しいのか判断がつかないのであろう。だからこそ、自分達と接触したのだと今更ながらに気づく。

「これからどうするつもりですか?」

「娘……いや竜の子が世俗から離れて安全に生活できる場所が確保できれば、私自身は潔く罪を償うつもりだ。どうする神官戦士。私を逮捕してくれるか?」

「あなたが、逃げ出さなかったのは、この子の行く末を案じてのことだったんですね」

「できれば、この子を逃亡者にはしたくない。一部の人間には極めて価値のある存在であることも理解している。適切な保護が受けられる環境がもしエスパダールにあるのなら……」

「難しいだろうな。皆この子の秘密を狙って、目が血走ってたからよ。なあ、ツィーガ?」

「……」

 嘘はつけなかった。もし今この子を保護したとしたら、処分されるか、実験台にされるか、どちらかであろう。

「……やはり、そうか」

無言の時間が、少女の上を滑っていく。ようやくに声を出したのは、ツィーガだった。

「あなたは、やはり一緒に逃げるべきだ」

 エクイテオがうんうん、と頷きかけて、驚きに顔を上げる。

「何だって?」

「その子、貴方の子供なんでしょう?子には、親が必要です」

「……それでいいのか?君は」

 戸惑いを見せるガリューシャに、ツィーガは頷く。迷いのない表情は、決して思いつきで発した言葉ではない、とガリューシャに思わせた。

「娘さんが、自分一人の力で生きられるようになったら、ガリューシャ・ラン、貴方が罪を償う時だと思います。それからでも遅くはない」

「そんなことをして、君に何の得がある?」

「親が子を守ることは、スパッダの教えに背くとは思えない。それだけです。それに、その子は危険だ。各国から狙われ、新たな破壊を引き起こす可能性がある。だがあなたなら、父親なら、娘を利用しようとは思わないだろうから」

 エクイテオは首を横に振る。三回目にはいつものにこやかな表情になっていた。

「まあ、確かにきちんとした保護者がいないと、この子がまたどこぞの奴に利用されないとも限らない……よな」

「……」

 エクイテオの指摘にガリューシャはほんの微かに瞳を震わせた。

「んで、どうすんだよ。ツィーガ?」

「簡単なことだ。このまま逃げてもらう。見つからなければ何もしようがない。そうだろ?」

 ツィーガは自身の選択が間違っていないか、自分の中にいる神に問いかける。竜の秘密を独占したいと思う人間は大勢いるだろう。知識が正しく使う者だけにでなく、悪用する人にまで広まってしまっては元も子もない。それに、誰が、彼女を守れるか。最後まで守ってやれるのは、結局、親しかいないではないか。混乱を招かず、親子が親子として生きていくためにも、この選択しかないはずだ。

「だが、国境には私を見張っている人間がいるんだろう?私の逃亡に手を貸すというのか?」

「いえ。あなた一人ならいかようにもなるはず。問題はこの子をどうするか、ですが」

 エクイテオがツィーガの意図を察して、同調する。

「そうか、俺たちがこの子を連れて出りゃいいんだ。この女の子が竜の子であることは誰もしらないんだから」

「ただ、この子を俺達に預けることを、貴方が認めてくれるなら、ですが」

「君達を信頼しろ、そういうことか」

「はい」

 ガリューシャが口を開くまで、さほど時間はかからなかった。

「分かった。君にまかせよう」



 ガリューシャと別れて二人で夜道を歩く。エクイテオは頭の後ろで腕を組み、勤めて陽気な声を出した。

「スパッダなら、間違いは犯さない、か。神様ってのは竜と戦うために俺達を作ったんだろ?だったら竜を人間が手に入れたとしたら、どんな気持ちになるんだろうな」

「んなもん、分かるわけないだろ」

 ツィーガは緊張から苛立っていたが、言葉を発したことで、我に返ったようだ。

「なあ、テオ。お前まで付き合う必要はないんだぜ?」

「ま、いいじゃない。俺は別に宮仕えじゃないし」

 バレなきゃ犯罪じゃないさ、エクイテオはあっけらかんと言い切る。ツィーガは苦笑した。

「国境破りは犯罪だろ」

「そうなの?俺よくやってたぜ」

 口数が少なくなっていたのは【先生】である。ガリューシャとのやり取りの間、全く喋らない。ツィーガはふと不安になった。

「先生、俺のやっていることは間違っていますか?」

 ついに、発した言葉を、【先生】は淡々と呟いた。

『いや、それがお前の信じる神の教えに背かないのであればやり遂げるべきだ』

「……ありがとうございます!」

 【先生】の言葉は、天啓かのようにツィーガの胸を打った。





 同じころ、エスパダールの郊外、人里離れた場所において、トレンガとガルナ達【追竜者ドラグナー】及び襲撃者の尋問は続いている。トレンガは雄弁であった。竜を生み出したのは自分である、という自負が一語一語に満ちている。

「我らはまず竜に至るために肉体を鍛えた。強さだけであれば、我々ドラグナーは神を信奉するお前ら常人の域を遥かに超えている。だがそれだけでは竜とは呼べない。なぜなら我らは老い、朽ち果てる存在であるからだ」

 熱にうかされたように、喋り続けるトレンガは、目の前にいる尋問官をすでに見据えてはいなかった。

「手に入れた力を失い、神の元へと還るしかない存在である人間の定められし理を、どうすれば超えることができるのか?」

「続けろ」

 尋問を担当するのは審問官にして捜査官の一人、マリオ・バークレー。審問官きっての強面は、トレンガの威圧感に、表面上は平然としている。

「簡単だ。還るべき魂を閉じ籠める器を作ればよいのだ。器が壊れぬ限り魂は円環の理を超え、この世界に留まり、一にして全なる竜へと至ることが可能になる」

「……どうやって、器を作った?」

「まずは、人の死体を使ったが、それだけでは上手くいかなかった。肉体と魂と不可分であり、他の魂を受け入れることはできなかった」

「……」

「そこで注目したのが、【鬼】の存在だ。【鬼】は人間にとりつき、自在に変容する。ある意味人間よりも、竜に近い。俺は【鬼】を制御し、人間の肉体を変容する術を発見したのだ!」

 マリオのひげがもごもごと動く。

「器の材料は【鬼】と、人間なのか」

「ああ、そうだ。かき集めた人間から【鬼】を使って志力を絞り出し、【鬼】の力で死体を変容させ、新たな肉体として生成する。あとは、抜きだした魂を新たな肉体に注ぎ込めばよい。俺は新しい生命を創造した!俺自らが神になったのだ!」

 マリオは咳払いをして、陶酔するトレンガを、自分の調子に会話を引き寄せようとした。

「神より生まれ、神から離れるか。そしてそのために、罪なき人間を犠牲にした、ということだな」

「いずれ竜に至るための必要な犠牲だ」

「しかし、よく喋るな。それほどに誇りたいか。貴様の行ったことは、単なる殺人だ」

「お前らは世界の証人だ。人類史上初めて竜に辿り着いた者が人として最後に殺した連中、としてな」

「何?」

 トレンガの身体が急激に膨れ上がり、視界を覆う。それがマリオにとっての最後の記憶だった。



 一方、カルドヴァでは、ようやく救護作業も落ち着き、ガリューシャ探しに本格的に加わったファナに、ツィーガが報告した。

「先輩!」

「ガリューシャが見つかったの?」

「いえ。見つかったのは迷子です!」

「……」

 作戦が決行されたのは翌日のことである。内容はいたって単純、竜の子であるメイシンを迷子に見たて、国境を超えたところでガリューシャに引き渡すだけである。竜の一件を他国に秘密にしているのであれば、他国にさえ出てしまえば追及も緩むであろう、という判断である。

「この子が迷子?可愛い子。お名前は?」

 この瞬間が、作戦最大の危機である。竜の器を目の前にしているということを、気付かずに済ませることができるか。ツィーガは額に汗を滲ませていた。

「……」

 無言。あまりの無言ぶりに、ファナの笑顔が凍り付くほどであった。

「ツィーガ!分かったぜ!」

 空気が悪くなりかけた絶妙の間に、エクイテオがいかにもな顔をして駆けこんできた。演技においては、ツィーガなど足下にも及ばない達者である。話が決まってからはむしろエクイテオのほうが乗り気であった。

「少し前に出た隊商の一団の子供らしい。どうやらこの子を探しに街を出たらしい。今からなら国境出て少しで追いつくかもしれないから、急がないと!」

「申し訳ありません。ファナ先輩。少しだけいいですか?」

「まあ、仕方ないわね。通行証を渡すから、早くいってきなさいな」

 ファナは苦笑する。

「それにしても、ツィーガ。あなた迷子探しとかのほうが活き活きしてるわね」

 通行許可証を三人分発行してもらうと、急いで飛び出す。

「ガリューシャの件もあるし、あまり遠出はしないこと、いいわね?」

 まるで子供に言い聞かせるようにファナは二人を送り出した。



 自然と早くなる足。急かされるように街を歩きながら、ツィーガはガリューシャとの別れ際の会話を思い出す。

「メイシンはともかく、私はどうすればいい?」

「あなたの力であれば、どんな所でも通れるはずです。例えば、あの断崖であっても」

「……」

 ツィーガが示したのは、国境線を深く切り割ったように流れる急流、トルナ川であった。最も警備が薄い、というより人間には踏破不可能な崖である。

「……成程」

 そう、ガリューシャですら躊躇うほどの。だが決意を込めた顔を引き締めると、再度質問をした。

「リーファは?」

「手を貸してもらうことも考えましたが、止めました。まだ監視中ですし、自分達が失敗した後に誰かがいてくれたほうがいい」

「そうか……それがいいかもしれんな」

 叶うことなら、もう一度会いたかった。言葉にならない声を、二人は聞いた気がした。



 通行証の威力か、すんなりと国境を越える。メイシンはここまで、何の抵抗もなくツィーガに手を引かれてついて来ている。二人とも、この少女が、ドーミラを破壊しつくしたとはどうしても思えなかった。

 ガリューシャからはツィーガら二人を信頼するという言葉があったが、実際問題、メイシンが暴れだしたら止めようがない。どちらかといえば、本当にメイシンを信頼していいのかと聞きたいのはこちらのほうであった。エクイテオの心配をよそに、ツィーガはごくごく自然体である。

「疲れたかい?」

「……」

 空気が重くならないのは、ツィーガの言葉に秘められた優しさと、メイシンの存在の圧倒的な薄さなのだろう。エクイテオは二人を見ながら不思議な穏やかさを感じていた。仲の良い、歳の離れた兄妹のような二人に、不気味さのようなものは何も感じられない。空は既に闇を迎え、世界は至って平穏無事、なのかもしれないとさえ思えるほどだった。



 集合地点である交差路に、ガリューシャは予定した時間通りに現れた。いささか汚れているが、断崖を超えてきたとは思えない。

「ここまでくれば、大丈夫だろう」

「すまない、礼を言う」

 ガリューシャの感謝に頷きながら、ツィーガは問いかける。

「これから貴方はどうするんですか」

「フェンレティに行く。あそこなら、きっと受け入れてくれるはずだ」

 慈愛の神レティアを信奉するフェンレティは、政治的な紛争や対立が発生すると、中立的な立場で対応することが多い。地理的には全ての国家と国境を接し、また亡命も拒むことはない。もっとも犯罪者であれば、カーマキュサに逃げ込むことになるのだが。

「カーマキュサも考えたが、この子のことを考えると、むしろ危険が多い。竜の秘密を握るということになれば金も人も動く、悪用されることになる。フェンレティで保護を受けつつ、皆で竜に至る道を共有できることになれば、これからの人類の発展につながるはずだ」

 あまりに楽観にすぎるな、とエクイテオは思ったが、無言を貫く。そこまで巻き込まれる義理はない、というのは言いすぎだが、自分の力が及ぶ範囲を超えている。

「……お前達はどうするのだ?」

「俺はエスパダールに戻るよ。正しい事をしたと思うけど、命令違反には違いない」

「落ち着いたら、必ず私は戻るつもりだ。それまで何とか待っていてくれ」

 空気が和んだ瞬間を狙ったかのように、突如警笛が鳴り響く。あまりに唐突だった。

「そこまでだ!」

 一斉に重武装の神官戦士が出現した。

「【気配遮断】の法術か……!」

ツィーガも、メイシンを抱えたガリューシャもとっさには動けない。五〇名を超える一団が殺到し、周囲を完全に固められる。

「ファナ先輩……」

 夜空のせいか、凄艶な様子を見せるファナ。咎めるようでいて、慰めるようでもある。何とも言えない複雑な顔で、こちらを見やっていた。

「これは、一体……」

「ツィーガ。君のお陰でガリューシャを確保することができた。お手柄だったね」

 皆までいわせず、隊長レベリはかぶせるように断言した。何をいっているのか、ツィーガにはとっさに認識できない。ガリューシャは表情もなく、周囲に目を配っている。

「何で、こんなことに……」

 情報が漏れていた?誰が、そんなことを?ツィーガはそこで、あることに気付いた。誰にも気付かれず、情報を流すことができる存在がいた。一人、いや一振りだけ。

「【先生】、もしかして、貴方が……」

『その通りだ。私が報告をしていた。私のもう一つの仕事。それは、君の仕事を採点することだ』

「……!」

『私はそうやって、今までの使い手を採点し、知識を蓄えてきた。そうすることで、危険を察知し、使い手の安全を可能な限り確保するのだ』

 厳かに、【先生】は宣言する。

『今回の君の行動は、明らかに逸脱行為である。速やかに職務に戻ることが、君のためだ』

 ツィーガは【先生】の言葉に反論しようとして、上手く声がでない。レベリはその間にガリューシャに問いかけた。

「ガリューシャ・ラン。君にはドーミラの村で起きたことについて聞きたいことがある」

「……」

 ガリューシャからは、凄絶な気配は全く感じられない。一度だけ、ツィーガを見やるが、殺気もない、ただの一瞥であった。それが、ツィーガはいたたまれなかった。

「トレンガはどうしている?」

「尋問施設を破壊して逃走中と言う情報が入ったところだ」

「何だって?あんなやばそうな奴が?」

 エクイテオがつい驚きの声を上げた。

「ドーミラでの生き残り、共犯のガルナ・ティエンは建物の倒壊に巻き込まれた。遺体はまだ瓦礫の中だ。捜索隊は次々と討ち取られている」

「……そうか。やはり逃げ切ることはできないな」 

「一つ、提案がある。もし君が、トレンガ逮捕に協力してくれるのであれば、君と、そして連れている『竜』について、救済措置を取ることが可能となるかもしれない」

 レベリは無機的に条件を告げる。

「断ったら?」

「ここで、君が逃亡するということになれば、全国家間指名手配を実行する。逃げ続けることはできないぞ」

「……もし、この子に勝手に触れたら、約束など無意味だ。それだけは言っておくぞ」

 ガリューシャの言葉に込められた気迫は、歴戦の勇士である隊長すら怯ませるものだった。一つ咳払いをいれてようやく体勢を立て直す。逃げるように、ツィーガに向き直った。

「ツィーガ・オルセイン、君は次の命令があるまでは待機しているように、少し、頭を冷やすといい」

 ツィーガは恨みを込めるように、【先生】の柄を思い切り握る。だがそれも力無く垂れ下がった。腕と鞘の擦れた音が、やけに乾いて響いたようだった。





 国境から戻ってきた一団は、トレンガに対抗する準備を開始した。ツィーガは謹慎として一室に待機。エクイテオも同じく外出禁止となった。ガリューシャと会えたことでリーファは逆に自由となっていた。ツィーガに会おうとして、扉を叩く。

「ツィーガ」

「待ってくれよ、リーファ」

 扉の先にいるツィーガに声をかけようとして、エクイテオから止められる。

「ツィーガに伝えたいんだ。私の気持ちを」

 ツィーガが真に自分達兄妹、そして兄の娘である竜の子を思いやっていたこと。そして、そのツィーガを思いやったが故の【先生】の行動であること。彼らの気持ちに、リーファは深く感じいっていた。兄が逃げ切れない中で、交換条件を提示してくれたのも、恐らく【先生】の知恵であろうことも含めて。だが、テオは首を横に振る。

「まあ、リーファの気持ちはあいつにとっちゃありがたいことだけど、その前に解決すべきことがあるからな」

「解決すべきこと?」

「ああ。信頼すべき相棒との話し合いさ」

 エクイテオはつまらなそうに鼻を鳴らす。扉の奥を見通そうとするかのように凝視しながら。


 ツィーガは外から鍵がかかる部屋に押し込められたが、何故かそこに【先生】こと法具【忠実なる友】がおいてあった。実質の謹慎扱いであるのに、武器の所持が許されたのは意外であったが、本人にとっては嬉しくも何ともない。目に入らないように遠くに立てかけておく。へし折ってやりたい気持ちを必死に抑えることで、自分の情けなさから顔を背けていた。自分の中に、止めてもらったことに対する感謝がほんの少しだけ潜んでいる、という事実が、一層若き神官戦士を苦しめる。

「……」

『……』

 互いに無言。無言のままに時間だけが過ぎていく。葛藤を言葉にできない。ツィーガはあくまで真摯であろうとした。ただ怒りの感情をぶつけることは、今必要なこととは思えなかった。意味のある言葉を使いたかった。時間の感覚が狂う程の時が経過した後で、口火を切ったのは【先生】だった。

『話しあう必要がある。私の行為に、納得していないようだな』

「……」

『お前の上司達は、お前の命令違反については目を瞑ってくれるようだ』

「……」

『あのまま、ガリューシャと一緒にいれば、彼はお前たちを殺した可能性が高い。お前を助けるために必要な行為だった』

「そんなこと、聞きたい訳じゃない」

『では、どうすればよかった?』

「だったら、危ないから気を付けろって、最初にそう言えばよかったじゃないか!」

 初めて【先生】に対して、ツィーガの口調が変わった。

「あんたは、俺の行動を理解してくれたんだと思っていた。なのに!」

『なのに、何だ?』

「俺はあなたを信じていたんだ。俺の行動を、あなたが認めてくれたと思っていたんだ!何故黙って、ガリューシャさんを騙すようなことをさせたんだ!」

『行動する前に窘めたとして、お前は止まったか?経験をしなければ分からないこともある。取り戻しのつかない失敗してからでは遅いのだ』

【先生】の語る全てが、正しいことをツィーガは頭では理解していた。だが、感情が追い付かない。

「……それでも、話してくれなきゃ分からないよ。あんたは、俺の先生なんだろ?こうやって人を騙すことまで教える必要があるのかよ。何の目的があってこんなことするんだよ」

『何とでも言うがいい。私は自分が間違ったとは思っていない』

「……俺、もうあんたと、一緒に戦えないよ!」

 ツィーガの声に、今度は【先生】が語気を強めた。

『私は、もう持主を殺したくないだけだ!もう、嫌なのだ。死ぬと分かっている人間に使われるのは、私を使いこなすことなく!俺自身で戦うことができれば、何度そう思ったことか!分かるか!戦えない者の気持ちが、置いていかれる者の気持ちが!』

「……先生」

『大したこともできないくせに、理想ばかりでかい。自分の命などいらないなどと言って本当に死んでいく。命令を無視し、救援を受けることを拒み、自分の責任だなどといって格好つけて死んでいく!もう沢山なんだ!そんな奴らの後に残される身にもなってみろ!?考えたことがあるのか、未熟な奴の戦死を報告する、俺の気持ちを!』

 【先生】はついに激昂した。一言一言がツィーガの胸に突き刺さる。どれぐらいの時間が経過した後だろうか、とある疑問を口にした。

「……あなたは、もしかして、最初から法具ではなく、人間として生れたのではないですか?」

『なぜ、そう思った?』

「何となく。ただ余りにも、言葉に感情がこもっていたから」

 かちゃり、と音を立てる。

『剣は不便でな、溜息をつくことが出来ない。そういうときは音を鳴らすことにしている』

 次の言葉が出るまでに、沈黙が続く。

『その通りだ。元々、私は最初から剣として生まれた訳ではない。私は、人間だったのだ』

『私は神官戦士として、多くの戦いに参加した。私には剣士としての天分があった。当時は、人間の間での争いが多くてな、それでも私は、どんな激戦でも死ぬことはなかった』

「……」

『私には部下が、仲間がいた。どいつも優秀な奴で、互いを信頼し、数多くの戦いを勝ち抜いて来た。それなのに、最後の戦いで、私一人を置いて皆天に還ってしまったのだ』

「負けたのですか」

『ああ。敗戦は決まっていた、これ以上の交戦は無用なことは知っていたが、俺は降伏するつもりはなかった。幾人もの仲間が殺された中で、今更相手と握手なんて、まっぴらだった。一人で戦いに出た俺に、だが部下達はついて来てしまった。最後まで共に戦いたいと』

 【先生】の声に自嘲めいた響きが宿る。

『仲間を追い返す前に敵が来た。俺は深追いしてきた敵将の首を上げる武勲を上げた。部下全て犠牲にしてな。あいつらは最後まで優秀で、勇敢だった』

 凱旋した男を待っていたのは、国民からの称賛、そして遺族からの非難、怒号、罵倒の嵐だった。何故戦った。もう戦は終わっていたはずだ、お前が息子を、恋人を、夫を殺したのだ。

『非難にも、怒号にも耐えることができた。だが、力を理解し合い、共に闘う人間がもういないことが耐えられなかった』

 それからは、全ての力を注いで、後進を育成した。優秀な人材を何人も生み出す中で、自分が死を迎えることを知った。

『私は天に召されることを拒否した。私は一人だけ生き残ったからだ。皆に合わせる顔などない。だからこそ、神に祈りをささげ、剣としてこの世界に留まることを選んだのだ。もう俺の仲間たちのような悲劇を二度と繰り返さないために』

 【先生】の独白は終わった。

『お前には、これからがある。努力もできる。だが、時間が必要だ。一時の激情で全てを壊すようなことは絶対にさせられん。ここは譲れないぞ』

 あまりにも強い、【先生】の決意に、ツィーガの気持ちの熱が引いていく。後に残ったのは、みじめな嫌悪感と、泣きたくなるような口惜しさだった。

『ツィーガ、お前はこれからどうしたいのだ?』

「俺に、何ができる?力も経験もない。誰の為にもなれず、信頼してくれた人を裏切った」

 ツィーガは叫んだ。誰にも届かない場所で叫んだ。

『未熟なことは悪いことではない。お前は常に精進している。いつかは必ず一人前の神官戦士になれる』

「いつかじゃない、今なんだ。俺を信じてくれた人の力になれるのは。今やらなきゃ、後悔しか残らないときがあるのは、あんたが一番よく知っているじゃないか!」

『……すまない』

 珍しく謝罪する【先生】だったが、別にやり込めたいわけではない。

「今を積み重ねていかなければ、先になんか進んで行けない。今から逃げたら、結局全てから逃げてしまう。戦うのは、今なんだ。それなのに俺は今、未熟なんだ」

 自分をこれほど呪ったことはない。誰かを守るということは、なぜこれほどまでに難しいのだろうか。

「【先生】、俺を評価してくれてありがとう。でもおれは先に進みたい。そのために死んでもいい。そういう、『今』を積み重ねていくしかないんだ」

 人間であるとき、きっとあんたもそう考えたはずだ。言葉にならない言葉を、【先生】は感じ取ったのであろう。かちゃり、と音が鳴った。

『人間はただそこに在る、だけではない。何がしたいのか、この世界に何を刻むのか……意志を持ち、先に進む営みこそが、人間であるということか』

 ツィーガは微笑んだ。

「それじゃあ、先生。あなたも、あんたも人間なんだな」

『何故だ?』

「あんたは、まだ生きようとしているからだ。あんたは法具なんかじゃない。あんた自身がこの世に成したいことを、今でも追い続けている」

『その通りだ……私はそのために法具になったんだから。そうか、私はまだ人間か……』

「先生、一つ教えてくれ」

『何だ?』

「名前。生きていた時、人間としての名前」

『……ラーガ・シュタイエル。エスパダール神官戦士だ』

「じゃあ、これからはラーガと呼ぶ。いいだろ?」

『……そうだな。そうしてもらおうか、ツィーガ。もう一度問う。お前は、何がしたい?何をもって人間であることを示す?』

「竜の子メイシンの、ガリューシャの力になりたい」

 エスパダールの国家としての思惑ははっきりしている。暴走するトレンガを倒すためにガリューシャを利用し、上手く処理が終わればガリューシャを逮捕する。そしてメイシンは、保護と言う名のもとに研究対象として扱われるだろう。何が出来るかは分からないが、彼らを守ることこそ、自分が神官戦士となった意味のある行為だと、信じた。

『それが、お前が信じる神の導きだというのか』

「ああ。ラーガ、あんたはどうしたいんだ?」

『私か』

 自分を法具として使いこなして貰いたい、そう信じていた。だが、そうではなかった。自分は法具として存在したかったわけではないのだ。

『私は、私を使う人間を守りたい。そして私を使って誰かを助けてもらいたい、いや助けたいんだ』

「そうか、じゃあ決まりだな」

『そのとおりだ。まずはここからでること』

「そのためには、この扉を打ち壊す!」

『私に付与されている法術は【破鬼】のみ、それではこの扉は破れぬ。対物、対人用戦闘法術【強化】が必要だ』

 ツィーガが立ちあがった。手にラーガを握りしめて。

「やってみるぞ、法術の第二段階、法具の容量の範囲での自身の志力を開放する、だ!」

『おう!やってみせろ!』

 ラーガの声も、口調もがらりと変わる。その猛々しさを掬い取るかのように、ツィーガは剣を握った。



「リーファ」

 ツィーガの部屋の前にいたリーファに声をかけたのは、ガリューシャだった。エスパダールの人員も、彼を拘束することは不可能と感じ、行動の制限をしていなかった。

「なぜ、逃げなかったんですか?竜……メイシンを連れて」

「決着をつけておくべきと思ったのだ。それに……」

「それに?」

 今ではリーファにもトレンガの気配をハッキリと知覚することができた。ガリューシャは無言で妹を促す。ついていった先には、メイシンが静かに座っている。額に汗が滲んでいたが、表情は変わらない。

「具合でも悪いの?」

「分からない。最近急におかしくなった」

追竜者であるリーファには、彼女の異常さがハッキリと分かる。メイシンの体内にはいくつもの志力が混在となっており、実験によって奪われた魂が天に昇ることもできずに彷徨っているのである。禁忌と狂気の産物であることは疑いようもなかった。

「トレンガは最早人間ではない、人であることを止め、全てを捨てた。己の為だけに……彼こそが竜なのかもしれないな」

 リーファは声をあげずにはいられなかった。

「竜とは、そんなものなのですか?彼のようになることが今まで全てを賭けてきたものの答えなんですか?」

 リーファの問いは、ガリューシャの目を閉じさせた。もどかしさが、腕を無意識に触る指に宿っているようだ。

「メイシンは病弱だった。追竜者として生きるには、余りに弱すぎた。だからこそ、誰よりも愛していた」

「兄さん……」

「トレンガに実験を見逃す代わりに、メイシンの魂の保管を持ち掛けられたとき、俺には拒むことができなかったのだ」

 リーファは唇を噛む。こんな兄を見たい訳ではなかった。真っ直ぐで、一途な兄の背中を、何も考えずに追いかけていたかった。

「……奴を止めない限り、あの子に安息は訪れないだろう。私が、一人で戦う。敗れたときは、この子を頼む」

 それは追竜者としての矜持、父としての希望であった。

「御武運を」

 リーファがかけられる言葉は、それしかなかった。






 次の朝、カルドヴァの市街から離れた場所に陣取り、ガリューシャは目を閉じて微動だにしない。戦いの前に集中力を極限まで高めるための儀式である。風が肌に触れる感覚だけに意識を向ける。

「ガリューシャ、生きていたか」

「トレンガ……」

 どれくらい時間が経過していたのか、ガリューシャに感覚はなく、ただ呼び掛けに目を開けた。凶悪な、凄愴な人相になったトレンガの顔を見ても動じることはない。

「ガリューシャ。竜は、遠いな。あまりにもだ。我ら個々人での努力を嘲笑するほどにな。人が一人で立ち向かうことが出来なければ、力を合わせるしかないではないか」

「人を殺し、魂を奪うことを、力を合わせるとはいわん」

「人が竜になるのだ。人類最大の敵を超克することは我らの大目標ではないか。そのために使われた命は尊い犠牲と呼ぶべきだ」

「トレンガよ、やり方が間違っていたのだ。我らは竜を目指す者であったが、それはあくまで人として竜に追いすがるものだ。人を喰らわねば竜になれぬとあらば、もはや追竜者にあらず。亡者にすぎん」

「竜と化したのなら、人を喰らうのが道理。何もおかしくはない。ふん、我が子可愛さに、他人を犠牲にした人間が言う言葉ではないな」

「……ならば、俺は人として、お前を倒そう。それもまた竜を目指すものが歩む道」

互いが身体から発する志力が周囲の空気を歪め、人間達を圧倒する。

「一つ、教えてやろう。お前の娘、メイシンの死は病のせいではない。私が毒を盛ったのだ」

「……!貴様」

「お前が実験を知れば、反対することは分かっていた。だからこそ、お前の娘を死に追いやり、追い詰めることで、貴様が親の情にほだされると思ったからな。案の定、お前は実験に加担し、非道に手を染めた」

「……」

「だが、結果として私が入るべき器には、お前の娘がいる。さっさと器から引きはがして、俺が竜となる!」

「お前の言ったとおりだ。お前には竜は遠すぎる。人を欺き、利用しかできぬお前には」

 あくまで冷静に声を絞り出す。が、瞳は怒りの青に染まり切っていた。

「離れて!危険です!」

 リーファが周囲に向かって叫ぶ。こうなった以上、誰も止めることなどできはしない。彼らは、人間の中で「最も竜に近い」二人なのだ。

「二人ともやめろ!」

 神官戦士達が数名、使命感からか、功名心からなのか、リーファの警告にも従わず、二人を抑えようと近づいていく。だが、二人は取り囲む人間を完全に無視し、睨み合う。いきりたった一人が手をトレンガの肩にかけた瞬間、肘から先が爆発して消えた。

「ぎぃやぁあ!」

 男が血をまき散らしながらのたうちまわる。

「トレンガ。大望に執着するがゆえに、魔に魅入られた者よ。一族に代わり、お前を成敗する」

「ガリューシャよ。私こそが、一族の掟、追竜者そのものなのだ。お前如きに邪魔されるわけにはいかん!」

「俺独りに邪魔される程度の悲願など消えてしまえ」

 対照的な両者の態度。業火のように周囲を薙ぎ払うトレンガに対し、冷気のように周囲を凍りつかせ、切り裂くようなガリューシャ。互いの圧力が臨界点に達した瞬間、衝撃が奔る。人の目に写らないほどの速度で、両者が激突したからだ。それだけで大気が揺れ、立っていた人間が吹き飛ぶほどの風圧である。法術で身体能力を強化しているはずの神官戦士ですら目で動きを追うことはできない。辛うじてリーファのみがついていっているようであった。

 拳撃を防ぐ、反撃の蹴りを掻い潜る。流れるような一つ一つの攻撃に、鋼鉄を裂き、岩石を砕く威力を秘めている。トレンガの猛攻をガリューシャが飛びすさってかわす。着地地点にいた二人の神官戦士が、トレンガの追撃にまきこまれて吹き飛んだ。

「ぬうっ!」

「かぁっ!」

 二人は真っ向から衝突し、秘めた激情をぶつけんばかりに相手を叩きつけていた。めくるめく攻防の交差が、周囲を巻き込んで滅砕する。一撃一撃が巨岩を砕き、大河を割る威力を秘めている。無限に続くかと思われた技の応酬が途切れ、二人は申し合わせたように距離を取る。周囲は竜巻が通り過ぎた後のような惨状である。

「埒が明かないな」

「そうだな」

 一転して、静寂が訪れる。あれ程動いた後でも、二人はまったく息切れをしていなかった。

「これほどまでとは……」

 戦士としても一流である神官戦士達が呆然と立ちすくみ。同じ【追竜者ドラグナー】であるリーファにしても介入の機会が全く無い。息を飲んで見守るばかりであった。彼女は二人の志力が集中し、練り上げられていくのを強く感じている。互いの全精力を込めた一撃を放つための異常な力感に満ちた緊迫であった。波頭となるべく岩へと流れる清流であり、一矢を放たつため撓められた弓弦のような静寂でもあった。 

「はっ!」

「ぬん!」

 一瞬の気合。続いて起こる爆発。互いに向いていた力が衝突し、閃光と暴風になって世界を白く染め上げた。

「……兄さん!」

リーファが、第一に声を上げる。

 互いの一撃を放ちあった後、立っていたのは、ガリューシャだった。トレンガは血を吐きながら膝をつく。上から見下ろすガリューシャも胸から肩にかけて大きな怪我を負っていた。

「これが、道を歩み続けたものと、外れた者の差だ」

 静かに宣告するガリュ―シャの瞳は、冷たく澄んでいる。

「終わりだ。報いを受ける時が来た」

「許さんぞ……竜は、竜は!」


「私のものだ!」


 どくん、とトレンガの身体が揺れ、尋常ならざる鬼気を発する。ガリューシャは距離を取った。

「何だと……?」

「まさか……鬼が憑いた……そんな」

「いや、違う。奴は、鬼を支配している」

 底しれぬ悪意と、欲望に轢かれて、無数の鬼が憑依していた。ガリューシャはそれでも表情を崩すことなく対峙する。

 その姿は、トレンガという男の欲望を具現化したかのごとく竜に似て、それでいて歪なものだった。収まりきらない悪意が腐臭となって吐き出される。狂熱的な光が無機質な瞳に宿り、周囲をねめつける。

「これも、実験とやらの成果か……」

「兄さん」

 近寄ってきたリーファに対し、ガリューシャは振り向かずに声を発した。昔の記憶が蘇り、リーファの心は揺れていた。

「リーファ。手を貸せ。私一人では難しい相手だ。竜の一族の不始末を、正さねばならぬ」

「はい」

 ガリューシャの呼びかけに応じる。こうなっては決闘どころの騒ぎではない。隊長も状況を察知して命令を発した。

「戦闘準備!」

 神官戦士達も、改めて法具の発動を始めるが、動揺は禁じ得ない。ただでさえ圧倒的な実力を持つトレンガが鬼と化したとき、その戦力は想像だにできないものである。それこそ竜に匹敵する脅威となろう。

 迎え撃つ兄妹に対し、咆哮を上げてトレンガが突進した。



 自身の意思を意識し、知覚し、認識する。ツィーガは内なる力を痛みとして感じ取る。部屋に閉じ込められてから、一睡もせずにツィーガとラーガは特訓を続けていた。

『そうだ。自身の志力を感じとったか、今度はそれを意思のもとに操るのだ』

 痛みを刃に移動する意識を持つ。指先から刃に少しづつ意識を動かしていく。ほう、と言う声が聞こえた気がする。

『今だ!』

「やぁっ!」

 無我夢中の一振りの後に、重い何かが倒れる音が響く、目を開けると、分厚い扉が両断され、倒れていく光景が広がった。

「できた、のか?」

『よくやった。それが法具の解放だ。これでお前はただ単に私に付与された法術を再生するだけでなく、自らの志力を制御する方法を会得したのだ』

 法具を利用し、自らの意思を実現し、志力を操作する。思う強さが奇跡の大きさを変えていくことを、ツィーガはようやく身を持って体験することができたのだ。虚脱感と達成感が一緒に襲ってきて、へたり込みそうになる。

『まあ、もっとも法具が【剣】であるという制約は受けるがな。それでも自由度はかなり高まったはずだ』

「ツィーガ!」

 部屋の前にいたエクイテオが驚きの声を上げる。

「お前なら何とかすると思っていたぜ!実は、大変なことになった」

「どうした?」

「ガリューシャとトレンガがやり合っている。勝負は今のところ互角だ」

「そうか……ラーガ。今度はあんたの願いをかなえる時だ」

『何だと?俺の願い?』

「戦いたいっていったじゃないか。自分で戦うことができればって。そうすれば負けることなんかないんだろ?」

『確かに言った。だがそんなことは不可能だ』

「いや、できる。さっき俺が法具を解放できただろ。だったら俺の裁量であんたの意志を移動することだってできるはずだ。俺の身体に」

 ツィーガはニヤリと笑うと、エクイテオを見やる。

「テオから聞いた。身体を精霊に預けて、自分の体内に精霊を取り込ことができるって。だったら、あんたと俺だってそう言うことができるんじゃないか?」

「何だって?」

「テオ、できるんだろ?」

「できない、わけじゃない。ただし精霊ならだけど」

 実際、精霊を他人に憑依させるという技術は存在しており、エクイエオはその方法も学んではいる。が、人間の魂を他人に憑依させるなどとは、前代未聞であった。

『馬鹿な、そんなことが出来る訳ないだろう!?』

「原理は同じだろ?テオは精霊に身体を貸し、志力を捧げることで精霊の力を行使する。だったら俺も、ラーガに身体を貸す。そうすれば、思いっきり戦うことが出来るじゃないか」

「危険だ。意識がすっ飛んじまって、二度と戻らないかもしれないぞ!」

『何の訓練もなしに、また自らの命を危険にさらすというのか?』

「俺がこのまま戦いに行くのと、ラーガに身体を貸すのとどっちが危険だと思う?ラーガ、あんたを信じる。俺の身体を、志力を使ってくれ。俺達で、やるんだ」

 ツィーガの瞳には何の迷いもない。ツィーガは、ラーガの思いに応えた、今度はラーガが「生徒」の思いに応える時なのではないか。ラーガは絞り出すような声をだす。

『……わかった、やってみるか』

「おいテオ!教えてくれ!」

 こうなったら絶対に引かないのがツィーガである。観念したエクイテオは、盛大な溜息で気合を入れ直した。

「知るか!……といいたいが、お前は目を閉じて何も考えるな。いいな」

「分かった。手早く頼むぞ」

『おい。テオ……』

「あんたの核と、ツィーガの魂を結びつける。あとはお前ら次第だ。大事なのは、自我を保つこと、自分自身を強く思うこと、以上だ」

『分かった』

 互いの精神が対立し、場合によっては双方とも精神が崩壊することもある。エクイテオは敢えて笑顔を浮かべた。ツィーガの魂にむけて、ラーガを突きつける。

「交信、開始だ」



 トレンガの剛腕をガリューシャが弾き、余波をリーファが受け流す。生じた隙をついて放たれる兄妹の連携攻撃を真っ向から受け止める。追竜者同士の闘いは竜巻の如く荒れ狂い、暴風の余波が周囲を跡形も無く破壊していく。天災のような戦闘に、神官戦士達も介入の機会を測りかねていた。

「まずいな」

「ええ、兄さん」

 ガリューシャとリーファ。二人の意識が戦闘の中で研ぎ澄まされ、純化していく。激闘の最中でありながら互いに意識を通じあい、状況を分析する余地すら生んでいた。

 だが、現状は劣勢といっていい。保っている均衡は少しずつ崩壊へと進んでいる。この二人だからこそ感じ取れる流れであったが、今は崩壊を食い止め、反転攻勢に向けた変化を掴むしかない。今や醜く歪みきった怪物と化したトレンガの咆哮に舌打ちしつつ、二人が持久戦を覚悟したその時だった。

「待て!」

 駆け寄ってくる人影が発した思いがけない声に驚きつつ、リーファは無意識に警告する。

「ツィーガ?下がって!危険だ!」

 リーファの警告は間に合わないかに見えた。トレンガが先手を取り、既にツィーガの背後に回り込み、必殺の一撃を放ったからだ。

「ツィーガ!」

 誰もが、ツィーガの頭部が吹き飛び、四散する光景を想像した。

「?」

 しかし、リーファ達の予想を超え、ツィーガは刃を絶妙な角度で差し出すことで見えない巨大な爪を受け流し、あまつさえ勢いを利用して手首のひねりのみでトレンガの指に傷を作っていた。

「ほう」

 戦闘中のガリューシャですら思わず感心するほどの水際立った技、かつて自分と戦った時の動きとは別人といっていい。

「リーファ!続け!」

 ツイーガは振り向きざまの一刀でトレンガの胸部を切り裂く、懐の死角に飛び込みながら最小限の動きで、トレンガの動きを阻害する。熟練だけでは辿りつけない領域、天賦の剣才を持つ者の身ごなしだった。

「何が、あった?」

 動揺しているリーファを余所に、現状を認識したガリューシャはツィーガの動きに合わせてトレンガに詰め寄った。二人の猛攻にさしもの鬼人が守りあぐね、無数の小さな傷を作って大きく跳躍し、距離を取る。

「リーファ、ぼーっとするなよ!」

「あなた……本当にツィーガなの?」

 別人じゃないか。ツィーガはトレンガを警戒しつつも、笑って答える。

『改めて御挨拶を、お嬢さん。私はラーガ・シュタイエル。第十三代エスパダール神官戦士長だ』

「⁉」

 渋い男性の声が、【先生】のものであると気付き、おぼろげながらも状況を把握した。

『ツィーガ、気分はどうだ?』

「最高で最悪だ!こんなに凄いことができんのに、頭と体が割れそうに痛い!」

 ひどい二日酔いと、暴風吹き荒れる崖に片足で立っているような不安がツィーガの体中を這い回っている。目を塞ぎ、何もかもから逃げ出したくなるような絶望を、歯を食いしばって飲みこむ。

『あまり遊んでる時間はないようだな』

「……法具の核を憑依させるとはな、よく意識が持っている。余程波長があうのか、意志が強いのか。多分両方だろうが」

 トレンガの実験などよりも、余程気高く、誇り高い行動である。同じく魂の転移を試みているというのに、こうまで違うのか、ガリューシャは一人嘆息した。

「話の通り時間がない。ガリューシャさん。あんたに合わせる」

『ガリューシャ・ラン。一言だけ言わせてくれ。この前のツィーガの行動は全て私の独断によるものだ。騙すようなことになって済まなかった。謝罪する』

「お互い事情も立場あることだ。もう気にはしていない。こちらこそエスパダール全土に冠絶する剣士と称された男とともに戦えるのは願っても無いこと」

「ラーガ、あんた有名人なのか?」

 ガリューシャの言葉に、ツィーガが問いただす。

『五〇年前は、な。もうすこし歴史を勉強しろ』

「……この戦いに生き残ったらそうするよ」

 トレンガが体勢を整えたようだ、三人もまた構え、双方同時に突進した。ツィーガが鬼の外皮を切り裂き、出来た傷口にガリューシャが拳撃を叩きこむ。相手の攻撃はツィーガが飛び込んでかわし、回り込んだリーファがうなじに回し蹴りを叩きこんだ。初めての連携ながら、流れるような連続動作に、周囲から感嘆のため息が漏れる。

 レベリの元に、エクイテオが寄っていく。

「おい、隊長さんよ。ぼーっとしてないで手を貸してくれ」

「……何だ?」

 説明に同意した隊長は、号令をかける。一方テオは、精霊に向けて語りかけ始めた。

「精霊さん。『即決契約』だ。頼むぜ」

『ワカッタ』

 ずん、と響くように身体が重くなる。 

「ツイーガ。リーファ。ガリューシャ」

 三人の耳元に囁くような声が聞こえる。

「テオか?」

「今、風の精霊に頼んで、あんた等にだけ聞こえるように声を送っている。俺の指示通りにトレンガから飛び離れてくれ。いいな」

「分かった!」

 絶えず攻撃を繰り返しながら、機会を測る。

「射撃、用意!」

 隊長の号令の元、およそ五〇名の弓兵がやや距離のある位置から、トレンガに向かって矢をつがえる。対【鬼】用に、法術を付与させた特別制だ。

「まだよーまだまだ」

 三人の同時攻撃により、僅かにトレンガが怯んだ瞬間、隊長とテオは同時に指示を出した。

「放て!」

『離れろ!』

 三人が一斉に飛び離れた瞬間に、五〇本の矢が殺到する。エクイテオがさらに突風を集中させ、矢が途中から更に加速した!

「オオオォォォーッッ!」

 獣のような咆哮が轟き苦痛にのたうちまわる。風は的確に矢を誘いトレンガの体中を貫いた。

「今だ!」

 三人がここぞとばかりに、追いうちをかける。それぞれの攻撃が、深々とトレンガをえぐった。

「やった!」

 テオも、周囲の神官戦士もどよめく、トレンガがついに、よろめき、倒れるかに見えた。





 ……トレンガとの激闘が施設の奥にまで響いてくる。ファナはメイシンを見守りながら、神に祈っていた。ここにきて、メイシンの体調が急激に悪化している。ファナの法術も効果を示さない。恐るべき竜という印象は全くない。ただの病弱な少女であった。

「どうしたのかしら」

「器の蓋が、開こうとしているんですよ」

「貴方は……ガルナ?死んだはずじゃなかったの!?」

 突如、ファナに話しかけたのは、トレンガに暴発に巻き込まれたはずのガルナ・ティエンだった。

「生きていたんですよ。いや、生き残るために建物の倒壊に巻き込まれたふりをした、というのが正確ですね」

 以前の顔は同じはずなのに、別人のような印象を受ける。何かが取りついたのか、それとも逆か。

「何しに来たの?」

「勿論、竜をいただきに来ました」

 眼には好色そうな光が宿る。

「な!?なに……を言って、いる……の」

 立ち上がろうとして果たせず、崩れ落ちるファナ。ガルナはその上からのしかかり、下卑た表情を作る。

「実に美しい。美しいだけでなく気品がある。始めに見た時から気に入っていました」

「あな……た。いった……い?」

「私の新しい人形になってもらおうと思ってね。トレンガは趣味に合いません」

「もしかして、あなたが、今回の……」

「そう。竜を作るという提案も、トレンガを狂わせたのも、私が仕向けたことだ。狂気に近い執念を持つ者を、【鬼】に引き付けるのはたやすいことだ」

「鬼、ですって?」

「私の、法術ですよ。鬼を使役し、魂に注入することで、人を操作する。今回ドーミラで行われた魂を抜く実験も、私の技術の応用だからね」

 身動きできないファナをそのままに、寝込んでいるメイシンに近づいた。人を扱う手付きではない。

「ふむ、まだ持ちそうだ。このまま転移することも可能でしょう」

 淀みなく術式を部屋に施していく。ファナは声をあげようとするが、ガルナは笑ってみているだけだった。

「誰か……来て……!」

「外には兵士がいる。身動きはとれないがね」

 下卑た表情を浮かべると、端正な顔立ちだけにことさら性根の醜悪さが目立つ。

「この建物に私に抵抗できる人間は誰もいない。【鬼】と化したトレンガを止められる者などいない。全ては私の思いのままだ」

「いや……やめて」

 横たわったままのファナに再びのしかかり、衣服をはぎ取った。豊かな胸が露わになり、おもわずガルナは生唾を飲み込んだ。

「泣くがいい、乱れた感情は鬼を惹きつけ、より私の法術に縛られることになるからな」

 抵抗できないまま唇を塞がれる。甘い香りが男の口の中に広がったその時、異変は起こった。突如弛緩し、自由が奪われた身体を、動けないはずのファナが思い切り突き飛ばす。

「何だと……?身体が……!?」

「やれやれ、ようやく効いて来たみたいね」

 ファナは唾を床に吐く。いつもの上品さは欠片もない。

「まったく、男って本当に間抜けよねえ。見た目だけでコロッとだまされるんだから」

「貴様……私の術が利かないのか?」

「ああ?これでしょ?もう解除しておいたの」

 ガルナは驚愕する。ファナの指には一本の針があった。まさに、彼の法具【影縫い】であった。

 破かれた服を身体に巻き付け、髪を掻き上げる。清楚な顔に、やけに好戦的な表情が浮かぶ。ツィーガなどが見れば面食らうだろう。

「あんたが一連の騒動の原因よね、ガルナ・ティエン。またの名をガードナ・ホルトン」

「!」

「あんたがタントレッタの技術神官だってことはとっくにお見通しなのよ。自身の研究を進めるために、トレンガ・シンを法術で支配し鬼道に陥れたこと。思うさま実験した後は証拠隠滅のために竜の器を暴走させて、村ごと滅ぼそうとしたってことはね。ドラグナーだけの知識で、こんな大それたこと出来るわけないことぐらい、エスパダールだってとっくに承知しているわ」

 ガルナことガードナは反撃を試みるものの、身体を動かすことができない。力を入れることができずにいる。法具を使うために意識を集中することもできない。甘い香りが、まるで真綿のようにまとわりつき離れない。

「香り……か?」

「御明察、今更気付いても遅いけどね。私の法具【女神の息吹】は傷を癒すだけじゃないのよ。あなたが私に目をつけるように仕向けたのも、ね。操り人形になったのは残念ながらあんたのほうだった、ってわけ」

 ファナが片目をつぶって見せる。

「いつ、俺が敵だと気付いた?」

「初対面の時。あなた私の治療を拒否したでしょ?そのときピンときたのよ。もしかしたらスパッダの法術が利かないような悪事をしてるんじゃないかってね。それともう一つ、人体実験についての証拠隠滅が『遅かった』こと。自身の怪我が思った以上にひどかったからしようにも出来なかった。できたのは同行していた仲間の口封じだけ」

 図星を指され、ガルナことガードナの額に汗が滲む。同じような種類の人間相手だけに、敗北感の大きさがのしかかる。

「負傷者を村に移送するとき、一人が鬼に取り憑かれたじゃない。遺体を埋める前に念入りに調査したら、この針と同じものが見つかったわ」

 ファナは思う。期せずしてあのツィーガという新人は、ガードナという男を利する動きを取ってしまっていたが、ガードナもまた慎重さを失ってしまったのだろう。

「あなたの誤算は、トレンガを制御しきれなかったことね。竜に対する執念を甘く見ていたのかしら」

「この性悪女め……!」

「性悪女が、神官がやってられますかっての。法術を使えるってことは、神様も御承知ってことよ。スパッダって結構話のわかる、いい男なんじゃないの?」

 思い切り上から見下ろし勝ち誇る。

「さて、この子のことも聞きたいわ。竜の器とやらの秘密も教えてくれる?」

「竜?こんなもの竜でもなんでもない。魂と器である肉体が完全な融合を果たしていないから、志力を自ら生み出すことができない欠陥品さ。追竜者の奴らも、こんなものをありがたがるなんんて、お笑い種もいいところだ」

「欠陥品、ですって?」

「魂を肉体から外し、別の何かに封じ込めることも、志力から物質を生成することも、今までの技術でできないわけじゃない。ただ人間のように、自分で志力を生み出し、肉体と魂を維持、更には進化、成長までする仕組みはどうしても成功できていない」

「そんなことは、神様でなければ無理よ」

 ファナの言葉の意味を、ガードナという男は気付きえたのだろうか。自分のことを話すことで精一杯に見えた。

「竜に至るのは何もドラグナーだけの夢ではないからな。だが、そこにあるのは偶然の産物とはいえ、志力から構成され、受け入れた魂によって変容する器。調べる価値はある」

 タルタは知恵をつかさどる神。知的な探求において時に人は袋小路に迷い込むが、タルタはそれすらも否定していない。タントレッタという国で何が行われているのか。想像しようとして、ファナはやめた。

「……じゃあこの子はどうやって肉体を維持しているのよ。志力でできているんでしょ?」

「簡単だ。他の人間を喰らうんだよ。今大人しくしているのは、あのガリューシャの娘とやらの魂が暴走を抑えているからだろうよ。餓鬼ながら、大した心がけだ。だがそれもどこまで持つか。今は空腹で死にそうなんだろうよ」

 だからこんなに苦しんでいたのか、ファナは納得し、ガードナに失望し、メイシンに対し深い敬意を抱いた。膨大な志力が観測されなくなったのは、最初の暴発で使い切ったということなのだろう。竜は未だならず、ということであろう。怒りが湧いてくる。子供に対し、何と重い荷物を、苦行を背負わせたのか。

「残念ね。もう少しいいものだと思ってたわ」

 怒りを押し殺したファナはしかし、最後の最後で相手に隙を見せた。瞬間、ガードナは自身の雄弁の間に蓄えていた最後の志力を放つ。一時的にせよ、トレンガを操っていた男である。ファナは舌打ちした。

「神よ、この者を、我が意あるところへ運ばせたまえ!」

 法術が発動し、メイシンの姿が消えた。

「ガードナ!どこにやったの!」

「……不完全な転送だが、短距離ならできるさ。トレンガの元へな。トレンガがあの器に入れば、永遠に人間の魂を追い求める怪物の完成だ。確実に、エスパダールは終わるな」

 ガードナの高笑いが響いた。



「とどめだ」

 ガリューシャとリーファが同時に【竜破】の構えを取る。もがくトレンガにむけて、今まさに放たれようとしたとき、空間に光が弾けた。

「何だ?ってあれは!?」

「メイシン?」

 メイシンが突如出現したのだ。トレンガからも、ガリューシャからもすぐに手の届く位置に。ただし、ガリューシャの視界には入っていなかったが。

「ガリューシャ!竜が!メイシンが!」

 ツィーガの叫びが引き金となって、トレンガの肥大した腕が、一瞬遅れてガリューシャの手が同時に伸びる。

「いやぁっ!!」

 リーファの悲鳴が上がった。トレンガの鋭利な爪は、ギリギリのところで届かなかった。ガリューシャの身体に阻まれたからだ。爪は大きく3本の赤い線を肩から下腹部まで走らせ、深々と突き立ち止まった。ガリューシャは一瞬で鮮血にまみれ、口からも吐血しながら、最後の力で、爪に向かって【竜破】を放つ。

「ぐうっ!」

 へし折れた爪の支えを失って、ガリューシャは倒れ込んだ。少女は、あくまで何の感情も見せずに、倒れ込んだ男を見下ろしていた。

「兄さん!」

「ガリューシャ」

 ツィーガとリーファ、二人をトレンガが阻む。腕を失いながらも、口から閃光を放ち、周囲を無差別に破壊して回る。もはや最後の理性まで吹き飛んだようだ。更に放たれた矢に身体を貫かれながら、反射的に【竜破】を矢の来た方向に放つ。大爆発に巻き込まれ、数人の神官戦士が吹き飛んでいく。腕や足だけが飛散し、見る者に吐き気をもよおすような惨状が瞬時にでき上がった。

「メイシン……お前は……お前が行くべき道を進めばよい。俺の意志など関係ない。行くんだ……恐れることはない」

 悪夢のような光景の中で、ガリューシャと【竜】だけが、奇妙な静けさに包まれている。

「すまない、ずっと守ってやりたかったが……生きろ、生きるんだ。お前の感じるままに」

 瞳に写る自分の姿に、ガリューシャは落胆した。竜とは、程遠い。父にしても、随分と情けない顔をしていた。決意を込めて、メイシンに語りかけた。

「俺を食え、メイシン。心配するな。俺の魂が、お前を守る」

「兄さん!」

ようやく近づいてきたリーファがガリューシャを抱きかかえる。死相が浮いた顔は安らかであった。

「我、竜に届かず」

「兄さん……!」

 ガリューシャはこと切れた。最後に薄く微笑んで。

「うおおっ!」

 ツィーガが捨て身の攻撃を仕掛ける。ガリューシャが欠け、有利だった戦力の均衡が一気に崩れる。速攻でこの戦いを終わらせるしかないとの判断だった。全力を振り絞った攻撃に、トレンガの身体が崩壊していくかに見えた。だが、深く剣を突き立てた傷口から、閃光が吹き出し、刃を叩き折った。

「ラーガ!」

『大丈夫だ。だが、そろそろ限界だな……お互い』

 トレンガの身体の傷はまだ再生能力を失っていない。周囲の死体から志力を奪い取り、新たな変化を開始している。これでメイシンまで吸収したとすれば。目の前が一気に暗くなる。

「嘘だろ……」

 あれだけ痛めつけた身体がまた大きくなろうとしている。開いた傷からは触手が突き立ち、周囲を薙ぎ払い始めた。絶望が周囲を覆い始める中、ツィーガは再度攻撃を仕掛けた。

「みんな!今しかない!諦めるな!」

 ツィーガの声に、エクイテオも、なけなしの体力を振り絞る。死んだ神官戦士の手から剣をひったくると、光を掲げるように構える。

「やれやれ、柄じゃないねえ……でいやぁ!」

風を纏うと一気に浮上し、天空からトレンガめがけて突進する。

「二人に続け!」

 隊長が抜剣し、残った神官戦士たちもしたがって最後の突撃を敢行した。


 血みどろの戦いが繰り広げられる中、リーファは呆然とガリューシャの亡骸を抱きかかえている。

「どうして……こんなことに……」

 自然と呟く。誰もかもが竜に恋焦がれ、自滅していく。竜の為に生れ、竜に狂わされていく。人の営みはここまで空しいものなのか。掟のために兄を殺そうとした自分の、何と恐ろしいことか。自分もまた、狂っていたのだ。

「皆、狂っている!」

 リーファの叫び声は、誰にも届かない。奇妙に静かな、沈黙を破ったのは、メイシンだった。

「何?」

 リーファではなく、ガリューシャの亡骸に向かうと。そのまま顔を近づけ、首筋に歯を立てた。

「!」

 首筋を引き千切る。飲みこんだ瞬間、全ての世界が光に包まれた。


「今度は、何だ!?」

 反応する間もない、不可視の力がツィーガを、テオを、傷ついた神官戦士達を吹き飛ばした。醜い肉の塊となったトレンガだけが取り残される。もう何も写していない瞳が、最後の輝きとばかりに光源を捉えた。

「……!」


 視線の先には、大きく翼を広げ、雄大な姿を持つ輝く竜の姿があった。

「メイシン……なのか?」

開かれた口に、光の粒子が収束していく。トレンガはまるで見とれてしまったかのように、動かない。我が身の醜さを恥じるように身体を震わせたのが、最後だった。竜の息吹が放たれ、トレンガの身体が音も無く消えていく。流れ行く光の粒が乱反射して、美しいとさえいえる光景だった。

「……あれが竜の本当の姿か」

 改めて、ツィーガはかつて、メイシンの姿をしていた【竜】を見る。翼はあるが羽ばたく様子もなく宙に留まっている。蜥蜴のようでいて、言いようのない気品に満ち、瞳には理性と知性が秘められているようであり、また深い悲しみに似た輝きを持っているようにも感じる。


 呆然と、虚脱の時間を過ごす人間達。だが異変はそれだけではなかった。風の唸りが次第に大きくなってくるのを誰ともなく感じる。何かが近づいてくる。


「おい……こんなことってあるのかよ」


 天空より舞い降りたのは、もう一体の竜だった。輝く竜よりさらに三周りほど身体が大きい。威に撃たれ、畏れを発し、人間は成すすべなく世界の審判を待つ身となった。竜麟は、人間達の表現できる限界を超えてなお白い。獰猛な鉤爪も、研ぎ澄まされた牙も持ってはいなかったが、瞳に宿った神威は人間達をたやすく屈服せしめた。戦うことなど考えようもない。考えることすらおこがましい。感情全てが蒸発してしまったかのようだ。


『白帝竜、イングレイス……』


 ツィーガの持つ剣の柄の宝玉に光が戻っている。既に、同調は解けていたラーガが呻くように呟いた。

「イングレイスって、五大帝竜だぞ!……まさかこの目で見る日がくるなんて……!なんで知っているんだよ」

『あの姿、あの威厳。間違いはない。それにしても、まさか再び、人類と相まみえるとは……』

 ラーガは沈黙した。つい先刻竜を呪ったリーファでさえ、もはや恍惚に近い表情で純白の竜を凝視する。全ての惨状を瞬時にして洗い流すかの如き荘厳な美は、人間の感覚と理性を二度と戻れないところまで狂わせるかのように眩い。数ある竜の中でも、最も有名で、強大な力を持つ五大竜の一体が姿を見せたのだ。



『新たな竜よ、迎えに来ました』

 人間の存在など意に介さず、輝きを放つ竜となったメイシンに語りかける。否、思考の波が世界全体に満ちた、という感覚。イングレイスの意識それだけで人間達の肉体は押しつぶされるように軋む。

『……』

メイシンは答えず、ガリューシャの死骸を見つめている。

『人間などに構うことはありません。あなたが住むべき場所に行きましょう』

『……』

 促されて、メイシンは空の彼方を見やるようであった。全ては、幻想世界、神話の中の出来事でしかありえない、はずだった。

「待ってくれ!」

 世界が凍りついた。世界の頂点たる竜同士の会話に、まさか人が口を差し挟むとは!断罪を免れ得ない、不遜の極みともいうべき行為を為したのは、ツィーガだった。ラーガですら余りの事態に言葉も無い。

「その子は、メイシンは、ガリューシャの子供なんだ!気になって当然だろ!」

『人間よ。竜は誰の子でもない』

「何だって?」

『竜は、【流】である。世界の時流こそが竜を産む。人間の努力など、営みなど、世界の流れの内、ほんの僅かな切っ掛けに過ぎない』

 イングレイスの言葉だけで雷に打たれたような衝撃を受ける。気死の恐れすらある中で、それでも、ツィーガは語り続ける。

「たとえ切っ掛けだけだとしても、彼は、最後まで親として生き、死んだ!子として親を悼むことぐらいさせてやってくれ!」

『不遜なり。我らに悼むなどという行為は無意味』

「それは、正しいことなのか?生が終わることに敬意を払わないのか?」

 竜は泰然としている。

『いと小さきものよ。善悪などという概念なぞ、所詮は人間という存在の元に生み出された価値観でしかない。我ら竜の前では、功徳も罪悪も、志力の発露であって、その熱量に違いなどない』

「……」

 世界は人間が生み出したものではない。人間の理など、感情など雑音でしかないのだろう。ただ、それでも。

「なあ、メイシン!ガリューシャを連れて行ってやってくれ。彼が人生を賭けて挑んだ竜の世界へ!」

 それでもツィーガは声を上げるのを止める訳にはいかなかった。

「君の中に、ガリューシャが生きているなら!今も君を守ってくれているなら!」

 変化はその時起こった。浮上していたメイシンが地上に降り立ち、ガリューシャの亡骸を口に咥えたのだ。途端に、光を放ち始める。

「兄さん……」

 光に包まれた肉体はその形を失っていく。全てが無くなったとき、竜を包む光の胞子となって消えていった。

「メイシン。ありがとう」

 様子を眺めていたイングレイスはツィーガに向き直る。

『人間よ。そなたの願いを聞き届けた訳ではない。竜が望んだからだ』

「何でもいいよ、別に」

 イングレイスの声に微かな讃嘆を感じ取ったのは、リーファだけであろうか。ツィーガは今度こそ心身ともに限界を迎え、腰から砕けていた。

『人間よ。希望こそが汝らの武器であることは認めよう。希望だけは消すことができぬ。我らが竜にとって、意志とはそれほどまでに恐るべきものよ。今もこうして見せてもらった』

 世界を変容しようとする力。生きることを超えて輝く力。そしてそれは美しいだけのものではないということだ。人間はそれほど恐るべき、厄介な物を抱えて生きていかねばならないのだ。

『褒美として一つ、忠告をしておく。竜が生まれたということは、世界を動かすに足る熱量が人の世界に宿り始めたということだ』

「……つまり、人の世に、何か起こるというのか?」

『世界という円環において、命は天に集う星々の如く、微かな光は時として集い、流れる。人の世もまた同じことよ。強き光が満ちれば、或いはその身を飲みこまれ、或いは燃え尽きて落ちるだろう』

 竜は流。イングレイスの言葉がそこにいる全ての人間の魂に響き渡る。

「激流が世界を覆うなら、泳げない人を助けてみせる。それが、俺の仕事だ」

 ツィーガはハッキリとイングレイスに向けて宣言した。決意の籠った眼差しを一瞥し、白き竜は今度こそ彼方を見やった。


『いずれまた、相見えることもあろう。さらば』


 イングレイス、そしてメイシンは並んで飛び立っていく。振り返ることなど勿論ない。その姿を謳う言葉も呪う術もなく、人間達は見送ることしかできなかった。



「やれやれ、どうなる事かと思ったわ」

 外からの音が静まり、平穏が戻ったことを確認して、ファナは安堵の息をつく。

「さて、あなたにはこれから、タントレッタの技術を教えて貰うことになるわ。楽しみね、私達の拷問にどこまで耐えられるのかしら?」

 スパッダの神官にあるまじき言葉に、ガードナは思わず口走った。

「……法の保護を!」

「あ、タントレッタからはもう回答を貰ってる。『今回の件について、我が国は一切関与しない』って」

 恐怖と混乱で、ガードナの顔が奇妙に引きつる。自らに針を打ち込もうとしても、力が入らない。震える指からファナが針を抜き取ると、興味深げに笑った。指を鳴らすと、別の部屋から屈強な男達が乗り込んでくる。

「さあ、行きましょうか」


 微笑んだ顔は、いつもの楚々とした淑女のものだった。




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