第10話
七星の部屋の中。
レイアウト自体は自分の部屋ちょうど対称、水回りが右手にあり、あとは部屋。変わっていたのは、緞帳のように玄関に垂れ下がっていた水色のカーテン。
それをくぐると、まさに女の子の匂いが漂ってきそうな……とはいかなかった。割とさっぱりとした風景。白い壁紙にデコレーションしている訳でもなく、ぬいぐるみが転がっている訳でもなかった。棚と机に本を並べている程度で、あとは押し入れにでもしまっているのだろうか、なにもなかった。
……ただ、一カ所を除いては。
「私の部屋、恥ずかしいんだからあまりじろじろ見ないでよね」
少し視線を逸らしながら言う七星。
「部屋に入って、何かいうことはないの?」
「お、お邪魔します」
「祐佳里、失礼します」
「そういうことじゃなくて……私についてどういう印象を持ったとか」
頬のあたりを少し赤らめながら。
「ま、先輩方の部屋と比べると、片付いていて印象がいいよ」
先輩方の部屋は、はっきり言って非道い。金平先輩の部屋はまるで強盗被害に遭ったかのように部屋に荷物が散乱している。とりあえずそこに置いておく、を実践しすぎて、荷物、ゴミ、下着、本、スナック菓子、それらが混然一体となって金平家を形成していた。一歩一歩、歩く度、床に足を着ける前にものを取り除きながら歩かないといけない。
佐々木先輩に至っては……ありゃ、ダンジョンだよ。一度しか入ったことない、というか入ろうとして挫折したのだが、部屋の天井付近まで漫画本、映像や音楽のディスクの類いが隙間なく詰め込まれて、まさにその間を縫って行く……身体を横にしてすり抜けなければ中には入れないのに絶句した。何でも、部屋の半分がデッドスペースと化している、というのは本人の弁である。見てない以上、というか入れない以上、その言の通りなのだろう。
「本当? 本当に、いい? もっとかわいく飾った方がいいかな、なんて思っていたんだけど」
俺の言葉に、目を見開いて驚く。
「そりゃ、もちろん」
「お世辞を言っても何も出ないわよ」
「いや、本心だよ。好きだな、こういうシンプルな部屋って。あと……」
「あと、何よ?」
「いや、何でもない」
その続きの部分は胸に仕舞っておきました。
「よかった……」
七星さんがふと、漏らす。
俺たちは台所へ移動した。……といってもワンルームなので同じ部屋の一角なのだが。
台所は、部屋とは対照的であった。言葉を絶するような惨劇が……。
「ちょっと、ここを片付けていたのよ。ま、前の住人がボロボロにして出て行ったのよ。数日そこらでこんなになるわけないじゃない」
「前にいた先輩、ポットで湯沸かしてカップ麺啜るくらいしかしていないから……こうなることはないはずなのだが」
俺の指摘に、七星は血相を変えてまくし立てる。
「悪かったわね、料理が下手で。は、浩一が食べることないんだから別にいいでしょ!」
鍋の表面は黒く変色しており、所々へこんでいた。流し台には包丁が刺さったかのような大きな傷跡が。そして包丁も、先端が欠け、幾重にも刃こぼれが認められた。下手、とかいうレベルではなく、まるで戦場という名の事件現場だ、とでも言いたくなるような惨状であった。
「そうだけど……、あまり、見てくれのよいものとは言い難いな」
「お、ぉ兄ちゃん、こ、怖い……」
俺はまだしも、祐佳里は口許を抑え、言葉は震えていた。顔はすっかり青ざめ、涙目を浮かべている。
「大丈夫か、祐佳里」
「う、うん……」
しかしながら、下を向いたままその事件現場を正視できない祐佳里に、
「祐佳里、ちょっと休んでこいよ。準備は俺がしておくから、少しの間だけでも外の空気を吸ってきたらどうだ?」
「お願い……」
そう言うと、祐佳里は重い足取りでドアに辿り着くと、下を向いたまま部屋を出る。
祐佳里が部屋を出たことを確認した俺は、七星に向き直る。美女と惨状という対比が、より彼女を引き立てる……と言いたい所だが、その惨状を引き起こしたのが彼女自身だと反芻すると、ため息が出る。
「なによ、悪いって言うの? 私の勝手でしょ」
フン、とそっぽを向く七星。しかし、目はこちらをギョッと睨み付けていた。
「別に料理が下手であっても構わないけど、この光景はさすがに引く」
「ひどいこと言うわね。じゃ……」
そういうと、七星は俺の方に向き直ったかと思うと、そのまま周りを一周、身体をなめ回すように見ながら歩く。そして、立ち止まってから、少し頬を赤らめつつ、両手を胸の前で重ね合わせて、
「夕食だけでいいから、毎日、私のために作ってくれる?」
「いいぜ。弁当も作ってやっていいぞ」
どうせ、夕食は先輩達の分が一人……いや祐佳里がいるから二人か、それくらい増えることはなんともなかった。弁当は……彼女だけのために。
「な、なに? 下心でもあるの? バカじゃないの。もしかして、睡眠薬でも入れて眠っている間に……」
「それは自意識過剰だ」
即座に俺は否定した。しかしながら、彼女の言った言葉が描く情景を考えると……そんなことを言われたら、キミを不正な手段で手に入れたくなってしまいそうな俺、……って自己嫌悪に陥る。
「ただ、料理を全部して貰うのは気が引けるわ。何でも言ってくれればするけど」
「先輩方には食材や調理器具を揃えてもらっているが……」
ちょっと顔を赤らめている七星が妙にかわいく思える。身体を触らせてほしい、キスとかしたい、匂いをかぎたい、彼女にしたい……。魅力的すぎる七星という餌が目の前に捲かれている現状に、俺は、いかがわしい興奮を禁じ得なかった。
「七星さん、俺は……」
「ぉ兄ちゃん?」
七星に下心をぶつけようともやもやしていた所に、今まで外に出ていたはずの祐佳里の声が被さり、俺はふと我に返る。
「落ち着いたか?」
「なんとか。それよりも、早く作ろうよ」
「ああ、蕎麦だね」
「違うよ、子供」
えっ……。
思わず、七星の顔を見るべく振り返ると、顔を真っ赤に染めた彼女がそこにいた。
「冗談だよ。過剰反応過ぎるよ、七星先輩も。さぁ、蕎麦だよ、蕎麦」
「脅かすなよ……」
俺は、流し台の下から最も大きな鍋を取り出すと、なみなみと水を張る。それにふたをした上でガス台の上に置くと、祐佳里が点火ノブを回して、青い炎が上がる。
湯が沸くまで、しばらくの時間。
「なんか話でもしなさいよ、花村」
「あ、ああ。そう言われても、話題が浮かばないけど」
腕組みをして、まるで調理中に女子の家で不審な行動をしていないか監視するように凝視する七村は、手持ち無沙汰故か、そう言葉を投げかけてきた。
「例えば……」
「例えば?」
「自己紹介とか」
「そんなことでいいのか?」
「趣味とか、好きな本とか、あと……」
そこで、ふと、七星の言葉が止まる。そして、血相を変えて一気にまくし立てる。
「……好きな女の子がいるとか、気になるじゃないのだよ」
「もちろん、ぉ兄ちゃんが好きなのは祐佳里だよね」
祐佳里が、さも当然の如くアピールする。しかし、さらに被さる言葉。
「好き嫌いに関係なく、あたしの主夫になる約束をしたじゃないか」
「うわっ、先輩。いつの間に!」
金平先輩が突然、俺の後ろに立っていたのであった。
「先輩、そんなこと約束してないですよ」
「では、あたしに餓死しろってことか?」
「そうは言ってないでしょ。いい人を見つけて養って貰ってください」
「いい人、っていうのは浩一、君の事だよね」
「違いますって」
鍋ぶたが揺れていくのに同期するように、話が吹き上がっていく。
「祐佳里も、ぉ兄ちゃんがいないと餓死するよ?」
「じゃ、いままでどうやって生きてきたんだよ。それより、鍋、沸いたぞ」
「あーっ、蕎麦、家に置いたままだ。とってくる!」
そう言って、祐佳里は慌てて部屋を出て行く。
「で、先輩は何しに来たのですか?」
「丼鉢を持って来たんだ」
「下で注ぎ分ける予定なんで持って降りてください」
「そうなのか? まあ、いいや。じゃ、持って行っておくよ。七星がかわいいからって襲うなよ。あ、私なら襲っても構わないぞ」
先輩は俺に顔を寄せたかと思うと、ふいと部屋から出て行った。そして、残されたのは俺と七星の二人だけであつた。
「妹さんと先輩と楽しそうね、花村」
「だから、妹じゃなくて従妹だよ」
即座に否定する、俺。
「従妹、ね。分かったわ。あと……」
そう言いかけた七星が、言葉に詰まる。目を閉じた彼女の顔がみるみる紅潮したかと思うと、一気にまくし立て始めた。
「あ、あの、先輩が、ええっと、わ、私のことかわいいっていったけど、は、花村から見てどう思うのよ? わ、私ってかわいいと思うの? おっ、襲いたい……」
「お、襲いたいって……」
「襲いたいなら襲えばいいのよ。ど、どうせ隣だし、私のこと想像して悶々としているんでしょ。変な想像されるくらいならば」
そう言うと、七星は自分の胸元、ブラウスの襟元に手を掛けると、そのまま次々とボタンを外し始めた。徐々に露わになる、彼女の胸元。俺は気が動転し、とにかく止めようと声を上げる。
「な、七星さん、いきなり何してるんですか!? ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
俺は思わず、七星の腕を掴む。彼女がその腕を引く。その勢いのまま、俺の手は彼女の胸に接触すると、柔らかく生暖かい感触が伝わってくる。
「やりたいんでしょ! わ、私……」
「お待たせ、ぉ兄ちゃん。荷物の中に入れたままだったから、探すのに時間がかかっちゃって……」
部屋の中、突然脱ぎ始めた七星を見て、祐佳里が言葉に詰まる。
「ごめんなさい」
そういって、顔を伏せ、手で目隠しをする祐佳里。
その言葉に俺たち二人は我に返る。胸元を開いた七星の下着に腕を触れさせた俺。七星の指から力が抜けると、俺は腕を離す。
無言でブラウスのボタンを締める七星。
「な、なんでもないから」
「そう、なんでもない」
俺たちは互いに顔を赤らめて、上擦った声で、答えにならない言葉を無理やり口から押し出した。
「なんでもない?」
「そ、そうだよ」
「そうよ……ね」
目を細め、顔をしかめる祐佳里。手にした蕎麦のパッケージに無数の皺が走る。
「ねぇ、ぉ兄ちゃん。小さいのと大きいの、どちらが好き?」
祐佳里は、胸元に手を当てて言う。
「ちっちゃいほうが、いいよね、ねっ、ねっ」
俺は黙りこくった。視線を、祐佳里のそれに目を合わせつつも、七星のそれへ、ちらちらと移動を繰り返す。
……言えないよ。
「だってさ、ぉ兄ちゃん、いっつも『平ら』大好き、って昔言ってたから」
「言ってない! 無責任なこと言わないでよ」
七星さんが俺の方を見る目つきが険しくなっていく。
「と、取り敢えず、さ、その、その蕎麦を茹でようよ。先輩達も待っていることだしさ」
「そ、そうね。もう湯も沸いてるし。祐佳里さんも、お腹、減っているでしょ」
「ま、これ以上ぉ兄ちゃんを困らせるのは本意でないから追求しないけど……ぉ兄ちゃん、祐佳里に抜け駆けしちゃダメだからねっ!」
俺と七星に促されて鍋の前に立つも、鋭い眼光はそのまま。何度もこちらを向いて、いや監視の目を緩めようとしない。
「な、祐佳里。ちゃんと鍋のほうを見ていないと吹きこぼれるから……」
「見ている! もちろん、そっちも」
怒ってる。絶対、怒っている。
「俺、下で準備してくるからさ、出来たら持って来てくれよな」
とっさにそう言って俺は、部屋を出た。
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