the flag

乳母車の中で手足をバタつかせている赤ん坊と、命が消えゆく蜘蛛の姿が重なった時から何かが変わった。生が死を連想させたのか、それともその逆なのか。どちらにしてもその光景はひどくアイロニーに満ちている。僕は横断歩道の前で立ち尽くした。信号機の青は点滅している。この歩道を渡ることに躊躇いがあった。ふと僕が隣を一瞥すると、同じように固まった少女がいる。僕らは互いに互いを注意深く観察した。


 気がつくと僕らがいるのは信号機の前でも大都会の前でもなくなっている。乳母車も蜘蛛の死体もそこにはない。僕と少女は海岸に手を繋いで立ち尽くしている。足元には多くのゴミが散らかっていて、たまにクラゲの死体も落ちていた。海岸の果てに見える赤い旗が風になびいている。僕は少女に言った。


 「行こうか」

 「いいの? 一緒に」

 「いいさ」


 僕らは歩き出した。時が僕の頬をかすめていく。あの赤い旗も時の風に吹かれているのだろうか。僕は足元に落ちているガラスやタバコに細心の注意を払ったが、歩みを止めぬように足を常に出す。僕の靴はいくらか新品だったし、なにしろこの道はあの旗まで一直線だ。後ろからは赤ん坊の僕が道をそらさぬように、声を掛けてくれる。時には僕を励ますように、時には僕を叱るように。あぁ、それは素晴らしいことかもしれない。僕は学校に行って、僕はいい点数を取って、僕は卒業して、大学に行くんだ。周囲が僕に期待して、それに応える。それは素晴らしいことかもしれない。だけどなんだろうか、この不安は。


 時には雨が降ることもあった。そんなとき僕は上を見た。神の恵みが降っているのかもしれない。両手を広げてできるだけの雨を浴びる。そうすれば、少しは満たされるかもしれないと思ったからだ。でもそんな時は足元がおろそかになった。雨があがってからよく後悔した。僕はなにか大切なものを踏み潰してはいなかったかと。


 ふと、左手をみると、少女の小さな手はそこにはもうなかった。僕は周りを見た。同じような境遇の、同じような人間が集まっていた。僕はそれに嘔吐した。


 僕は立ち止まって。少女を探した。どこかにいるのではないか。そういう希望をまだ失ってはいなかった。でも靴もいつのまにか擦り減って、足元の刺や足元の宝石を踏まぬようにするだけでいつの間にか手一杯だった。海がいろんな色を放ったり、時には荒れたけれど、僕はそれを解釈するのも、ここから見えることしか解釈できない。


 少女はどこへ行ってしまったのだろうか。僕は旗まであと数歩のところでふと思い起こす。そこにあったクラゲの死体。まるで宝石と見間違いそうな輝き。僕はふと足を止める。隣を一瞥するとそこに少女がいた。足は素足で生傷だらけだった。あの少女が僕を覗いていた少女の歩んだ足跡はくねくねと曲がっている。少女のやせ細った身体とこけた頬、傷だらけの身体、ぼろぼろの衣服すべてが少女の苦労を語っている。


 僕は少女になんて声を掛ければいいのだろう。今度は必ず一緒に行こう、なんて言えるのだろうか。少女は僕を見て笑う。あんなに痛々しげな少女が、僕を見て笑った。それは悲痛に満ちた笑顔だったかもしれない。だけど僕には、どうしてもそれを偽りだと切り捨てることができなかった。


 「また一緒に行けるかな」

 もちろんだと笑って言ってやりたかった。でもそんな言葉で終わりたくはなかった。

 「大丈夫。君はすこし遠回りしただけだよ。すこし環境が違っただけさ」

 そうだねと少女は言った。少し俯き、少しだけ笑って。


 そして手を取り合う僕と少女。何度も少女の手を握り締めたり緩めたりして確かる。その手はきっと死ぬ間際の蜘蛛の所作にも似通っていたに違いない。


 「きっと君は僕とは違う景色を見てきたんだね」

 「うん」

 「綺麗だった?」

 「わかんないや。ね、この旗はあと幾つあるのかな?」

 さあ、僕は目をつぶった。「死も旗の一つにすぎないね、きっと」

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