失った声
僕はあの日から聴覚を失った。僕は言葉に頼ってばかりいたからかもしれない。僕はとても饒舌で、言葉で人になんでも伝えられる気がしていた。音楽も好きだった。音楽ほど人間の情操に働く言葉の群れはない。僕はエッセーも書くし、果てはラブレターだって書く。
僕には恋人がいる。彼女はすぐに僕に愛してると言うし、僕もすぐに愛していると返した。しかしそれも、もう聞くことはない。僕はあの日から聴覚を失った。自分が何を言っているのかわからないし、相手が何を言っても聞こえない。妄想だけが膨らんで、相手の口の動きがすべて悪口にすら聞こえた。しかしそんな時にも彼女の口だけは、疑いようもなく、愛の言葉を発しているのだということに気がつくことはできた。彼女の顔がとても優しかったから。僕はよく彼女に愛してると言うように要求した。その表情を見たかった。僕は頭の中で自分の声を想像し、発する言葉を考え、口にした。ねえ、僕のこと好き?彼女はうなずいた。
じきに彼女は愛しているとも言わなくなった。その代り必要なことは文章にして僕に伝えた。文面にしてくれるのはありがたかったが、彼女の顔を見る必要は、僕になくなった。
僕らには互いに好きな音楽があった。いや、それがなくとも互いに音楽が好きで、よく二人で音楽を聴きながら話をした。その時、その瞬間に同じ音を聞いて、同じ言葉を共有して、体を刻む。僕はそんな時間が一番好きだった。幸せに思う瞬間だった。だけど僕らはその瞬間すら失った。せっかく盛り上がった話も、彼女の書く腕が疲れると、もうどうしようもなかった。
いずれ僕と彼女の距離も大きく広がった。彼女と体を重ねようと試みたが、彼女の声が聞こえないと、僕は一切興奮しなかった。何食わぬ顔をして、毎日を過ごし、互いに距離が広がっていることに触れはしなかった。
そして数カ月たった。外に散歩に出る。イヤホンをしたが何も聞こえなかった。しかし音楽は心中で流れ始める。記憶が曖昧な部分は心の穴となって、僕の胸を締め付ける。もう一度聞きたいと願っても、曲を思い出して、僕の壊れたレコーダーを直したいと願っても、無駄でしかない。僕の頬に涙が流れた。その時、彼女から別れのメールが届く。僕はまた泣いた。今度は声を出して泣いたが、鳴き声は聞こえなかった。走り出す。風を切る音さえ聞こえない。町へ出て、町の真ん中で叫んでみた。「あー!」と、喉が痛くなるほどに。でもやはりなにも聞こえない。人々は冷たい目で僕を見る。
僕の中でまた音楽が流れ出す。彼女とよく聞いた、二人の一番好きな曲。メロディーも歌詞もしっかりと覚えている。何もかも完璧に。僕は心の中に流れる音楽に乗って体を刻み、歌いだす。二人の音楽、二人だけの時間。僕はまた走り出して、願うんだ。こんな不安な気持ちの時は二人でこの音楽を聴いて過ごした。愛は言葉でもなければ、愛は耳で受け取るものでもない。僕や彼女は、そう言葉に固執し、言葉で愛し合った。
だから願おう。僕は永遠に耳が聞こえませんようにと。そして耳を立ててよく聞くんだ。彼女と僕だけにしかない愛のささやきを。
彼女に家について、彼女を呼び出す。彼女が出てくる。僕は何も言葉にしない。ただイヤホンの片方を差し出し、音楽を再生する。彼女にはこの音楽が聞こえる。僕も心に聞こえる。だから今、二人はしっかりと音楽と言葉を共有し、一つになる幸せを感じている。
僕は感じている。彼女も感じている。それは確かにわかる。
僕はにっこり笑って、彼女に告げる。僕はあの日、君の愛してるに重みが無くなったあの日から聴覚を失った。
彼女は笑って言った。
「それでも愛している」
その言葉は聞こえる。僕の聴覚が戻った。願いは届かなかった。音楽が流れ始める。
僕はまた不安になった。この言葉の重みはまたいつかなくなってしまう。
だけど僕はとりあえず彼女のその「愛している」と聴覚を失ったことで知ることのできた優しい笑顔に浸ることにした。
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