蝶と努力と愛と死と
空を見ることはあるだろうか?
私たち人間は陸上に束縛されているせいか空を仰ぐことが少ない。でも地上を這っていることがその理由になっているというのは、考えてみると違うような気がする。
私はアスファルトにある一つの模様を見つけた。普段なら気にすることもないようなその小さな模様。私はそれに近づいて覗いてみた。
それは蝶だった。
黄色い羽をした……。
モンキチョウという種類のそれかもしれない。
そのなめらかな黄色をアスファルトのごつごつとした黒が際立たせていたんだ。
更に寄って観察してみる。
モンキチョウはその四枚の羽をアスファルトに張り付けられ、よく見るとアスファルトの小石が羽を突き破って顔を出していた。こうして近くで見てみるとそのなめらかで鮮やかに見えたその黄色も汚れて黒くくすみきっている。イエスキリストが十字架に架けられて、死に絶えた姿をなんとなしに頭に浮かぶ。それが何と言うか滑稽で、バカらしくて、私は声に出さずに笑った。
そして私はその場を離れた。
一度はそうして興味を失ったモンキチョウのことは忘れていたが、それは突然その日の夜に思い出すことになった。
雨が降り出したから洗濯物を取り込む時の事だ。私はその雨を鬱陶しく思いながらも洗濯物についている洗濯ばさみを外していった。見上げてみてもそこに無数の星や月が見えることはない。今日はおそらく満月だったろうに。そんなことを考えているとふとモンキチョウのことを思い出した。
そのあとは本当に連鎖的に、本当に単純なことでモンキチョウが私の頭をよぎった。その起爆剤となった満月やそのあと想像した星がすべてあの蝶に見えたのだ。
黒い空に浮かぶ光。
それはまったくあの時のモンキチョウだった。
気になったのは、あの蝶の死んだ原因だった。何故ああも無惨に地面に叩きつけられて死んでいたのか。私は雨の中モンキチョウの死んでいるあのアスファルトに行くことにした。雨に濡れて洗濯物が増えるかも知れないけれど気にもしなかった。雨もますますひどくなってきた。モンキチョウはこの雨で流れたかもしれない。私は足を速めた。
私の不安の半分を担っていたものは解消することができた。モンキチョウはその場にまだ残っていたからだ。そう言っても近くで見ると羽は幾分か流れていたけど、私が観察したいのは羽ではない。
モンキチョウの体(つまりは昆虫の頭・胸・腹)はもうそれが何であったのかわからないほどグチャグチャだった。触覚はへし曲がって絡みつき。顔は潰れ、首は回って血かどうかもわからぬ何かを吐いている。胸と腹の違いはわからない。というか内臓が飛び出ていてよく見えない。
「ふう、なによこれ」
これではどうしてこのモンキチョウが死んだのかわからないじゃない。
「そもそもこれが完全な状態だとしてもわからないけどね」
死んでるモンキチョウなんか見て……。
私は何がしたかったんだろう。
死んだ蝶なんて美しいとも思えない。死ねば腐るだけ。みんな汚物と化すのよ。
「何してるの?濡れるよ」
と、そこに男が現れた。
私の知っている人。
それ以上。
でも他人。
恋人って奴だ。
「ん?ああ。バイトの帰り?」
「そうだよ」
私は顔を上げてモンキチョウの事など話のネタにもせずに男と話した。顔が整っていてカッコいいと思う。
でもこの男も死ねば腐る。
ただの汚物。
「最近すれ違いだったね」
「そうね……」
私は彼から目を逸らして言った。
面倒だ。ここで仲直りでもする気?思い出ははいつも雨なんて歌の中だけの文句よ。
「僕はいまでも君が好きなんだ。浮気はもうしない。これからは君の目を見て、君だけを見るよ」
「………」
私の目を……見る?
「好きだ!」
「……あ」
抱きしめられた。
キスされた。
これももう何度目になるんだろう?飽きたとは言わない。それを飽きない努力もしてきた。
そう、人を好きになって付き合って、男と女はそれで終わりじゃない。好きでい続ける『努力』も必要なもの。いや、怠ってはいけない大切なものだ。
傘も投げ捨てられ、雨に濡れる。洗濯物が増えてしまう。
「………」
「………」
私はふと地面を見た。
モンキチョウの姿は見えない。流れたのかもしれない…………いや!!
「離せ!!!」
私は叫んだ!
「離れろ!その足をどけろ!」
男は一歩、後ろに引いた。私はすぐに地面に這う。モンキチョウはそこにあった。触覚はついに取れてしまい、さっきよりも無残な姿になっている。
「私を見る?つまらないことを言うなよ!空さえろくに見ないくせに。地面だって見ているフリして、何にも見ていないクセに!」
わかった。
このモンキチョウはこういう風に踏み潰されて死んだんだ。
空を飛ぶのは自由を手に入れる為じゃない。
「空から降るのが雨や雪だけだと思うなよ!死だって降ってくるんだ。この子達はいつもそれから逃げてるんだ」
死から逃れるためにあるんだ。
人間も羽があったいいのに?
馬鹿を言わないで。空さえろくに見もしない人間にそんなものがあっていいわけない。
「あなたも一緒よ!あなたにはなにもないわ。あるのはその顔だけね」
それは蝶の羽模様にも似ている。飾りだけの羽模様。流れてしまってもうそれはない。
「その羽を使って多くの花を飛び回って来たのね。でももうその羽もなくなってしまったようね。地面に落ちたみたい。私はあなたに見られたくはないわ。だって……」
だって私はいつも空を見てきた。
いつも月を見てきた。
いつも星を見てきた。
いつも努力をしてきた。
いつもあなたを好きでいた。
いつもあなたに好かれていた。
「私は空を飛びたいもの」
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