スピカ
「スピカって知ってる?」
彼はそんな単語は聞いたことがなかった。しかし、なにか過去の名曲にそんな曲があったような気もした。
「知らないよ」
彼女は少し落胆した。彼女は彼に知っていてほしかった。
スピカという星を。
「あのね、そうだなー……あそこらへんにある星だよ」
「星はいっぱいあるから、どれかわからないや」
真夜中。二人で坂道を登りながら話していた。その坂もそろそろピークにさしかかり、そこで二人は立ち止まり、塀によじ登った。頭上にきらめく星々は粉が舞って、それが光を反射しているようで、手を伸ばせばすぐ掴めそうな気がした。
「スピカっていうのはね、あそこに光る青い星だよ。ね、女神が付けていた真珠のようにキレイでしょ?」
「なんだそれ」
彼は彼女を見ずに光る星を見ながら笑った。
「だからね、真珠星って言うんだよ」
彼女は泣いていた。しかしそれを彼が知るには周囲があまりに暗く、そして星が眩しすぎた。
それから二人は明けるまで話に没頭した。一緒に高校を卒業した友人の近況や春休みの生活。幼なじみで隣に住んでるはずなのに知らないことはたくさんあった。大学は同じところに進学するつもりだった。しかしそれは叶うことがなく、彼女は就職することが決まっていた。
「大学、いいな」
帰り道、彼女はそう言った。周囲は明るくなり、星はほとんど見えなくなっていた。
「そう気に病むなよ。これからもずっと近くにいるんだから」
それがきっかけだったのかもしれない。彼女はその道に泣き崩れた。彼にはその理由が分からなかった。ただ場違いなことに、彼女の目から流れるその涙が真珠のようで、キレイだと思っていた。
スピカのようだと。
「あのね―――」
彼女はしばらくして口を開いた。
「あのね……私の仕事、スピカに行くことなんだよ」
彼は絶句した。そんな単純な表現で伝わるようなことでもないが、文字どおり、言葉をなくしていたし、思考さえも、彼女の涙をスピカに喩えてキレイだと思っていたことさえも忘れてしまっていた。
「調査って……こと?」
「……うん」
星の調査は今の時代よく聞く話だった。しかしその調査には想像もつかないほど危険があり、普通の少女には務まる仕事じゃなかった。いや、少女どころか彼にもそれは難しい仕事で、特別な資質がなければ、めったにこない仕事だった。
「な、お、なんで」
「私にしかできないから……だから、ね?今日、出発なんだ……」
それは永遠の別れを表してもいた。
星に行って帰ってくるだけで、人の一生は十分に終わりを迎えるからだ。
「なんで、早く言わないんだ!」
彼は後悔した。これが最後だと、これが最後の会話だと分かってさえいれば……逃げずに君を見つめていたのに、逃げずに君に想いを打ち明けたのに!―――そんな思いでいっぱいで胸が痛かった。苦しかった。
「メール、送ってね」
彼女も苦しいのは同じだった。涙で顔がひどいことになっているに違いない。でも、すこしでも彼と話していたかった。笑って別れようと、格好良く何も言わずに去ってやろうと思っていたのに、この有様。でもそんなことはもはやどうでもよく、今はとにかく必死で、必死で彼とこの幸せな時間を感じていたかった。
「メールっていっても……」
メールを宇宙に送るのは可能だった。しかし送信から受信するまでに月から地球でも一ヶ月。太陽までなら一年の歳月が必要だった。スピカは地球から260光年先の星だったから、おそらく一通もやりとりできずにお互い死んでしまう。
「……わかってる。それでも、君がくれたメール、いつかは届く、から……毎日だよ?毎日送ってくれなきゃ、ヤダからね」
彼女の涙はますます量を増していた。その涙はもはや真珠のような粒ではなかった。
「そしたら、ね?一通きたら、次の日に一通、きて、また次の日には、一通くるでしょ?毎日見れるんだよ?君のメール。最初のメールが来るまで、我慢すれば、いいだけなんだよ」
彼の頬にもいつしか涙が流れていた。言葉は、もう口から出すこともできなかった。ただ俯いて彼はすすり泣いた。
後悔と決意。
彼は彼女の言うように毎日メールを送ることを心に決めた。
60年後。
彼は欠かすことなく毎日メールを送っていた。
彼女から最後にきたメールは今から冥王星を出発するんだという内容だった。それからは彼女が彼のメールを受信し、読んでいるのかも、何をしているのかも分からなかった。それでも毎日メールを送った。結婚したこと。それからの近況。共通の友人の話、地球の話。それは幼なじみでもが知ることのできない話ばかりだった。
それから数日してニュース番組で、とあるニュースが流れてきた。夜遅くの番組であった。
なんでも60年前にスピカの調査に向かった×××××という女性が45年前に事故死していたことが、ついさっき判明したらしい。
もちろん彼は悲しかった。涙を流しもした。しかしすぐに携帯電話を取り出し、メールを作成した。そして重くなった腰を持ち上げ、家を飛び出した。娘や妻が心配そうに何か言っていたが耳に入らない。それは単に自分の耳が遠くなっただけかもしれない。だけどそれは気にするほどのことでもない。
彼は息を切らして、あの日、二人で登った坂道にたどり着いた。右手には携帯電話が握られていて、汗で少しぬれていた。そうして坂を登り始める。美化しているかもしれないけど、それでも大切な二人だけの思い出を噛みしめながら。
坂もそろそろピークにさしかかり、そこで彼は立ち止まり、塀によじ登った。そうしてスピカを見つめる。彼はしばらくして思い出したかのように携帯電話を上に向けた。
そして、送信する。
それからまた50年の歳月が経ち、スピカの調査に向かった女性の遺体が地球に戻ってきた。その彼女の遺品の中に未開封のメールが山ほど入った携帯電話があった。その未開封のメールのうち、ひときわ目立ったメールがあった。
【スピカ】
君はこの地球にはいなくて、スピカにもいないけれど…
僕が見ているスピカにはまだ君が生きていて。
君が生きていた頃のスピカの光が僕を照らしています。
だから、僕と君は一緒です。
これからはずっと一緒です。
ふたりの幸せな時間は途切れていたけれど、
まだ続いています。
これからもそうして続いていきます。
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