第二章 白都の潮風

 人類が果てなき宇宙の大空にその翼をひろげたあとであっても、碧い海と豊かな緑は、なお人間の心を掴んで離さないようであった。恋人同士の甘い交流にも、家族の絆を確認するのも、仲間とのちゅうたいを深めるときも、自然公園は、仲介人としての役割をはたしつづけてきた。可能なかぎりのすべてが合理化され、自動機械化オートメーションがおしすすめられた宇宙時代において、自然は、人間の深層部が求める貴重な心の治癒源としての存在価値を、逆に高めてきたのである。

 少女が親友との交流の場として自然公園を選んだのは、そういった歴史哲学的背景を考慮したものではまったくなかったが、人として生まれもった本能的な部分で、その普遍的な魅力にひかれたからかもしれない。


 シュティ・ルナス・ダンデライオンは、すでに、宇宙に生をけてから二十三度の誕生日を通過している。それでも少女と呼ばれるのに違和感がないのは、初々しい若さをいまだ失わない可憐な外見と、空中で身を翻すつばめのような身のこなしの軽さに起因しているようであった。だが、表面にいかに幼さを残していようとも、それは内面が未熟であることを意味しない。彼女は、我星ガイア政府軍の生物科学部門に片手の指の数しかいない、二〇代前半にして生物化学少佐の階級を有する者のうちのひとりなのである。



 軍の生物化学部門は、その名の通り、生物を専門に扱う部署である。

 人類が宇宙にその歩みをすすめ、他星系の可住惑星に定住することを計画したとき、問題となったのが食糧の確保であった。可住惑星とはいっても、人類にとっての可食生物が先住民としてばつしていることは稀であったし、多細胞生物が未発達であったり、そもそも、生命がいまだ誕生していない惑星も多数存在したのである。


 だが、一度運んで組み立ててしまえば長きにわたってその役割を維持し続ける建築資材などとは異なり、食糧というのは、そこに人間が生活の根拠を有する限り、補給され続ける必要がある。それを星系間航宙船による輸送でまかなうとなると、費用がばかにならない。家畜や農作物を現地で生産するとしても、かれらは人間のように、衣服や住居などで、ことなる環境に対応するわけにはいかない。


 そこで、遺伝子操作の技術を応用して農業生産や漁業生産を可能にするべく、専門機関を発足させたのが、生物化学部門のはじまりであった。

 当時は食糧研究科と呼ばれていたが、やがて観賞用の植物や愛玩動物の環境適応化、さらに未開惑星の生態系の調整にまでその担当分野をひろげると、名称もその任務の拡張にふさわしく〝生物科学〟の名を冠し、部署としての規模も「科」からさらに総合的な指揮権限を有する「部門」に昇格した。そして現在では、非生命惑星における生態系の構築や、未開惑星探査における新種生物の精査などもふくめ、星系を越えた生物化学事象を幅広く扱う非戦闘系部門の重要部門のひとつとして、その地位を確固たるものにしていた。いわゆるエリート部門である。


 そのような部門での仕事は、なまやさしいものであるはずがない。とくに生物化学実験を統括するほどの職責になると、相応の専門的知識と、実戦でのそれとはまた種類が異なる的確な組織統率能力がもとめられる。それほどの地位でなかったとしても、実験や検証の多くは宇宙空間でおこなわれ、長期間にわたるものも少なくないから、実戦部隊の人間ほどではないにしても、惑星の地表に腰を落ち着けることができる期間は、他の職業に比べてはるかに短いのである。しかも、その翼を休めている貴重な時間でさえ、実験の報告や地上業務、次の宇宙への出立のための準備に追われることになるのだ。


 シュティ・ルナス・ダンデライオンが若くして生物科学少佐の地位をあたえられたのは、突発的な外的要因も存在したのだが、その能力が高度な激務をこなしうると、たしかに評価されていたからでもある。その辞令を受けた本人は、あまりの想定外な出世に困惑し、つづいて与えられた職責の重大さにたじろぎつつも、その才覚をいかんなく発揮して、一定の信頼をえることに成功していた。



 もっとも、今このときの若き生物科学少佐は、その出世物語と比較して、はなはだ散文的な事情で、時間に追われる身分であった。


「やばっ、遅刻だこりゃ……」


 彼女は、正確に親友と約束した時刻ちょうどに、シルバーブレイト国立公園の入口に到着していた。だが、それは同時に、親友が指定した時刻に大幅に遅れることが確実になったことを意味していた。かつてこの地をようする西方大陸を支配した王朝の名を冠するこの公園は、我星地上最大の自然公園であり、我星地上有数のそうじゆつの名手たる友人が首を長くして待っているはずの臨海区域シーサイド・エリアまでは、さらに三キロメートルの道のりをたどらなければならなかったのである。


 シュティは、自分の親友が、数十分の遅刻ぐらいで機嫌を損ねるような器の小さい人間ではないことは承知していたが、そのことは、シュティの罪悪感を軽減することに、わずかの貢献もなしてはいなかった。シュティは自分の身体能力のすべてを注ぎ込んで、すこしでも親友の貴重な時間の損失を減らす義務があると、自然に感じていた。

 彼女の友人にも劣らない小柄な身体は、空中を疾走する燕となって、海岸線の方角へと消えていった。

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