後部区画に入ったといっても、軍艦は実用性を第一に設計されているものであるから、なにか装飾に鮮烈な変化を生じたわけでもなかった。無機質な素材に四方を囲まれた廊下がその姿を整然と見せるのみであり、壁面にプリントされた、現在位置をあらわす記号のみが、かろうじてその個性を主張している。


 ふたりの脱出者にとって深刻な変化を見せたのは、人間がそのすぐれた知能と技術をもって製造した構造物ではなく、人間そのものであった。ただし、いまだその生命を体内にとどめている集団ではなく、すでに艦内において、圧倒的多数派を形成するがわに属する者たちのほうである。あきらかに、目に見えるかたちで、高熱にさらされた形跡のある遺体の割合が上昇しているのだ。


「嫌な予感しかしないわね」

「この状況では、無理もないでしょう」


 人間は、不安の色彩が心の中で一定以上の面積を占めるにいたったとき、往々にして多弁になる。宙空の墓所にへんぼうを遂げたこの艦からの脱出をはかる二名の生存者は、役割こそ違えど、数々の戦場をくぐりぬけてきた勇者といってよかったが、その勇敢さをもってしても、通説の例外とはならないようであった。だが、その緊張感を一笑に付すかのように、いっさいの異変は彼女たちの前に姿を見せず、なにごともなく脱出ポットのある部屋の扉を視界にとらえることに成功した。



 破局がおとずれたのは、そのときであった。


 ふたりが求め続けてきた生命の扉の前に鎮守するのは、視界にとらえうる限りの獲物をちくし終えて、あらたな標的に飢えてさまよう狂獣の姿であった。その体躯はいままでふたりが相対してきた小物のそれよりはるかに大きい。目測ではあるが、体高二メートルはあろうかと思われる。

 もっとも、外見自体は彼女たちがよく知る既知の生物とおなじであった。ただ一点をのぞいて。


バージエスト!?」


 双頭狼、バージェストとは、ふたつの頭部を有する狼の一種である。一説には三頭狼ケルベロスとともに、死神の住みたもう冥界に通じる門を守護する存在ともわれている。平時は生命活動を維持するため、最低限必要な獲物を探しながらゆったりとした歩調で徘徊するのみであるが、ひとたび招かれざる客の存在を認めると、動物種固有の卓越した敏捷性と、ふたつの頭部にそなわる長く鋭い牙、そして他種の狼と比して大きく優る体格を利用した圧倒的な力によって侵入者を攻撃し、その生命を我がものとする、強力な番犬である。

 ただし、その存在は、神話もしくは幻想世界のなかでのみ認められるのであって、現世に生をけたる者の前にその姿をあらわすことは、ありえないはずだった。


「…架空フィク生物ションではなかったの!?」


 つぶやいて素早い動作で銃を手にした茶髪の提督に、その数倍の速度で既に闘槍を構えていた小隊長が言った。


「提督、ここは私が」


 小柄な部下の言外に込められた厚意を、しかし、上官は拒否した。

 仮に私的な感傷を無視したとしても、艦から脱出するには、こちらに敵意をむきだしにしている空想獣の向こう側にある装置を、利用する以外にないのである。なんとかして初撃を回避したとして、これほどまでに体躯の大きな相手の追撃をかわし得ると考えるほど、若くして中将まで昇りつめた人物の思考は、愚かではなかった。体格の大きい生物は、一般に小柄なものと比較すると動きが鈍重であるが、それは移動速度が遅いことを意味しない。見かけ上の動きのかんまんさよりも、一回の動作における歩幅のアドバンテージが上回るのである。


 提言した側もそのことは承知であったから、有能な上官に重ねて後退をうながすことはしなかった。もっとも、彼女にその意思があったとしても、その時間が与えられることはなかった。


 ゆっくりと、だが確実に距離を詰める双頭の番犬にたいして、対獣戦においても専門家と称するに相応しい能力を有する小柄な小隊長は、回避と攻撃を両天秤にかけて、敵の動きに応じて対処しようとはかった。しかし、扉の門番の行動は、その敏捷性を警戒していた槍術の名手の予測を裏切った。

 現実世界に降臨した冥界の番犬は、ふたつの頭をうつむかせて悶えるように身体を揺らすと、正面を向くと同時に、ふたつの口から火球を出現させたのである。

 そしてそれは瞬く間に二本の炎の柱となって、縄張に足を踏み入れた侵入者におそいかかった。


「ちっ!」


 アイリィ・アーヴィッド・アーライルが小柄な身体を側方に翔ばして火刑をまぬがれると、数瞬の差で茶髪の提督がそれに続いた。火柱の直撃はかろうじてかわしたはずであったが、それでも、地獄の業火は、より近い距離にいた小隊長の皮膚に軽い火傷を生じさせるほどの威力であった。これほどの強力な火力は、いくら未知の生物であっても、原理的に惑星術ではおこしえない。


「体内に可燃ガスでも蓄えているかな」


 天性の運動能力のみならず知識と観察眼までも高い水準をもつ槍術の名手は、そう洞察した。そしてそれは、先刻上官に述べた仮説と違える点はなかった。


 自然界の生物には、自衛のため、場合によっては捕食の目的で、毒性を有する物質や高温ガスなど、人間の手による兵器群さえも一目置かざるをえないような強力な武器を有するものが多数存在する。これらは原料を使用する点で学術上惑星術とは明確に区別されており、目的に特化された物質をもちいるため、普遍的な元素・分子を利用する惑星術と比較して、より脅威となりうる。


 もし、前もってそういった攻撃手段を相手がそなえている可能性を思考していなければ、対処が遅れ、墓標に二輪の花を添えることになっていたかもしれない。後部区画との境目付近でおそらく同じ火柱に焼かれたと思われるあの若い兵士は、間接的にではあったが、みずからの身体に遺した伝言をもって、二名の生存者の生命を救ったのである。アイリィは彼に感謝するとともに、情報を可能な限り収集することの重要性を、あらためて確認させられることになった。しかし、それにしても、ここまでの速度と威力を有するとは!


 だが、守勢に徹しているのみでは、ただ座して死を待つのと同義である。出口がない以上、後退しても意味がなく、実力をもって門の守護者を排除しなければならない。それはこの分野においててんの才を有する小隊長にとっても、なかなか骨の折れる作業のように思われた。


 アイリィ・アーヴィッド・アーライルは、同様の職業を営む者たちのなかでも最速の部類に属する俊敏さでたおれた身を起こすと、あえて正面から距離を詰めて反撃をはかった。これは背後の人物に無言のうちに連携をもとめたものであって、この茶髪の上官にたいしては、短い時間ながら行動をともにした経験から、艦隊司令官としての指揮統率のみならず、戦闘面においても高いレベルの期待をよせて問題ないことを把握していた。それに、援護なしで単独で相手をして勝利しうるほど、敵は柔弱ではなさそうなのである。


 行動によって言外のうちに示された要求を受けて、美形の提督が手にする光線銃から、光のが一条、二条と放たれた。味方が前方にいて狙いを定めるのが難しい状況の中で、光条はそのふたつともが双頭の門番の脚部に命中した。小さい血しぶきが吹き出すのと前後して、小柄な小隊長から繰り出された闘槍の一閃は、しかし敵の負傷をおした後方への跳躍によってかわされ、大きく空を貫いた。


 だがそのことは、攻撃するがわの予定表に、すでに組み込まれていた。あえて前進する勢いに余力を残しておいた槍術の名手は、最後の一歩で相手の懐ちかくまで踏み込むと、渾身の力で闘槍を振り上げた。回避し得ない刃部の旋撃が双頭獣の胴体を切り裂いて、脚部からのそれとは比較にならない量の緋血が、強風にみまわれた赤花のごとく飛沫しぶきとなって空中に舞い散った。


 アイリィは確かな手応えを感じたはずであったが、それは地獄の番犬にとって、致命傷とはなっていなかった。銃創と裂傷を負わされた双頭の狼は、傷口から血を流し続けながらも四本の脚で相当な重量のある体を跳躍させると、負傷による影響をじんも感じさせない動きで、体重のすべてを天上よりの侵略者に衝突させた。攻撃の余勢を消せないまま攻守交代を強制された天界の戦徒はとびかかる番犬の体当たりを回避しえず、一五〇センチをかろうじて越えようかという小柄な身体は優に数十フィートをはじきとばされ、廊下の壁に激しく衝突して床に落下した。


 さらなる追撃を受けなかったのは、アイリィの後方から断続的に放たれる光の箭が、双頭の狂獣の進路をたくみに妨害して、それ以上の前進を許さなかったからである。直接敵に命中させようとするのではなく、前方に光をはしらせて行動を躊躇ためらわせるあたりが、射撃手のセンスの良さをうかがわせた。


 すばやく体勢を立て直してそれ以上の隙を見せなかった小柄な槍術家は、後方の茶髪の射撃手とその技量に感謝しながらも、その全身から消えない痛みに、ある感情を湧出させていた。それは戦いという特殊な分野において天から圧倒的な才を与えられた者に共通する、救いがたいさがによる産物であった。


「なるほど、相手にとって不足なしってことだね」

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