アイリィの駆ける速度は、その状況下において人類に可能な限りの速度に際限なく近いものであったが、小規模な戦闘と、その数倍の数におよぶ生命を失った障害物に、何度も減速を余儀なくされた。それでも彼女のそうじゅつは鈍ることなくはばむ敵をぎ倒し、生命のか細い通路を切りひらき続けた。


 彼女が速度をゆるめたのは、いままでと異なる足音を、前方にとらえたからである。それはあきらかに人間の足音であって、彼女の生命を奪おうとする存在のそれとは異なっていた。アイリィの前方では通路が三差に交差しており、その足音は小柄な脱走者の当面の目的地とは異なる方向から聞こえていた。


 アイリィはふたたび槍を構えた。足音の持ち主に対して使うためではない。人間の足音とともに、いままで幾度となく聞かされた悪意の音色が混ざっていることに気付いたからである。アイリィはその場から動かなかった。正面の通路はアイリィがいる通路と垂直に交差しており、先の状況がわからない。むやみに飛び出すのは危険であった。


 息を殺して待つ小隊長の正面を、状況に相応しい速度で人間が右から左へと駆けていった。つづいてその生命を奪おうとしているであろう三頭の獣がその後を追う。人間はおそらくその持ちうる最大の力で駆けながら、背後の〝敵〟に向けて光線銃の引金を引くが、さすがに全力疾走からの背面射撃では標的に当たらない。速度差からして、ふたつの反する勢力の距離がゼロとなるのは時間の問題であった。


 アイリィは槍を左手にもちかえると、右手の掌を閉じ、中でなにか小さな物体を弄ぶような動きをした。そして彼女が腕を前方に振り向けると同時に掌を開くと、小さな火球がかなりの速度をもって、獣の方向へ飛行していった。


「惑星術(プラネット・フォース)」である。



 ……宇宙文明どころか機械文明すら十分に発展しないころ、宇宙には水・光・火・風・土の「惑星元素」が存在し、人間はその誕生と同時に定められた水星・金星・火星・木星・土星の「守護星」によって、神、もしくはそれに類する存在からから惑星元素を操る能力を与えられている、と信じられてきた。光星と風星ではなく金星と木星という名であるのは、太古に別の星系に存在したとされる地球文明の、地球と呼ばれる可住惑星とともに同星系に存在した非住惑星の固有名詞をったためとされる。


 現在は科学の進化にともなって惑星元素の存在は否定され、惑星術とは空気中の元素・分子や物質に干渉し、あくまでも化学的な事象を利用して一定の現象を発生させるものであり、守護星によって分類されてきた能力の差は、単に遺伝子の別による産物である、ということが解明されている。その場に存在する物質を利用するものであるから、たとえば水分子が乏しければ水星術を利用することは困難であるし、可燃性の物質(固体に限らない)が存在しない場所では火星術の使用は不可能である。無から有を生じさせるものではない点で幻想フアン世界タジーにおける魔術とは異なり、直接的に物質等に変化を生じさせる点で、道具や仕掛けをもちいる奇術とは異なる。


 歴史上においては、戦闘に利用されることもあったようだが、むしろ機械が発達する以前の時代に、火をおこしたり、暗所で一時的な照明を得たりと、日常生活において惑星術が用いられていた旨の記録が史料に散見される。ただし、あくまでそれに対応する道具がもとにない場合の緊急避難的な扱いであったらしい。惑星術はその性質上労力に比して効果がはなはだとぼしく、たとえば暖炉に火をともすのであれば、火星術を操る人間――当時の認識では火星の守護をけた人間――を呼んで体力と集中力を浪費させるより、マッチを一本使用した方がはるかに効率的であった。そして技術の進歩とともに有用な器具が次々と発明されると、惑星術は日常生活の脇役たる位置さえも剥奪はくだつされ、しだいに人々の意識からその存在は消えていった。


 そのようなものであるから、戦闘において惑星術は主役にはなりえない。アイリィは火星術者としても希有けうの才能を有していたが、それでも生身の人間の皮膚に軽度の火傷を負わせるのがやっとなのだ。威力でいうなら、火炎放射器や高水圧砲などの重兵器を使う方がはるかに強力である。


 ただし、対獣戦では事情が異なる。多様な進化を遂げた生物は苦手とする事象もまた千差万別であり、種々の個性に対応して惑星術をもちいることで、致命傷をあたえられないまでもその行動を効果的に制限することが可能なのだ。たとえば水に恐怖心をおぼえる生物に対して、水星術は利用価値が高い。


 無論、効果的に使用するためには、野生生物についての広範な知識、それを状況に応用しうる直感、惑星術を術者の意志どおりに操る技術、そしてなにより、惑星術をもちいて有利に運んだ戦況のもとで、敵に致命傷を与えられるだけの戦闘能力が必要である。アイリィはその四者をそなえており、いままでの経験から、人間を含むこの種の生物が、炎に対してきわめて敏感に反応することを知っていた。



 ……飛行する火球は三頭の狩猟者には当たらなかったが、その注意は今までしつように追っていた獲物から、あらたな訪問者にひきつけられた。それによって生じたかんげきは一瞬のものであったが、アイリィが両者の距離を詰めるには十分であった。


 次の瞬間、狩猟者であったうちの一頭は振り上げられた闘槍に身体を切り裂かれながら空中飛行を強制されて絶命し、別の一頭は返す一閃で胴体を串刺しにされ、床に身を投げだして動かなくなった。力によって戦場の支配者たる地位を強奪したアイリィは、小さな身体をひねりながら闘槍を振り抜いて残る一頭を仕留めようとはかったが、二名の戦友を失って復讐心にたける狩猟者の残党はわずかの間にその位置を移動して、小柄な侵略者の背後から反撃をもくろんでいた。しかし、その位置が最悪であった。


 復讐者は、もともと自分たちが目標としていたはずであった獲物の存在を完全に失念していた。窮地から脱したその人物が狙いを定めて放った光線銃の一箭は、復讐の心色に支配されて冷静さを失っていた狂獣の急所をつらぬいた。狩猟団の最後の一員は、生涯を終えてその場にたおれた。

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