第六章 転生篇Ⅳ

第32話 失われさえしなかったときを求めて



 ここにいてはいけない。

 そんな漠たる想いだけがあった。


 明け方の夢から醒めたときに似たふわふわとした心地がずっと続いていた。

 例えるならばそう、遠ざかる夢を見たあとの覚醒までのわずかな猶予期間――。

 とても長い長い夢から目覚めたばかりで、夢と現実の時間経過のギャップにまだ慣れ切っていないあいだの、何とも言えない境界的な心象。


 夢の内容は曖昧にしか思い出すことができない。

 すべての記憶ビジョンが淡く、霞んでいる。

 夢のなかで出会ったひとも、交わした会話も、誓い合った約束さえも。


 ただ自分だけが世界に取り残されていくような。

 否。

 ただ自分だけが世界を取り残していくような。

 そういう違和感がわだかまりとなって、いつまでも胸の内に残っていた。




 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇




 光が見えた。


「んん……あれ……」


 遠くで風が流れる音がするのを聴覚がとらえた。

 暗幕が上がるようにして視界が明るくなる。

 浮遊していた肉体が重力に支配され、四肢の感覚が充足していく。


「あ、やっと起きましたね」


 その声で我に返った。

 声の主は制服姿の真面目そうな少女だった。

 肩までかかる髪をふたつ結びのおさげにきっちりと分けている。

 彼女は机に積みあがったプリントの束を片付けている最中のようであった。


「えっと、お前は……」

「む。お前じゃないです。ヨリコです。再藤サイトウ頼子ヨリコです」


 彼女の名を聞いた瞬間、頭のなかで何かがつながった実感があった。


「……ああ、そうか」

「……? 大丈夫ですか、ショウヤ君?」

「ショウヤ……」

「ショウヤ君?」

「ああ、うん。そうだった……そうだったよな……」

「もうっ、しっかりしてくださいよー」

「いや、ごめん……」

 

 何気ない会話とともに、次第に意識が呼び戻されされていく。

 俺の名前は騎士田キシダ翔也ショウヤ浮遊山ふゆうざん学園高校一年所属の男子生徒——。

 いま俺がいるのは浮遊山学園高校旧棟の空き教室。

 ときは放課後。

 俺は同じ部活の仲間たちと部室に集まっていたのだ。

 でも何故だろう、こんなチープなキャラクターメイキングみたいな述懐を、俺は過去に幾度も繰り返してきているような気がする。それも一度や二度ではなく何回も何回も、それこそ記憶のディスクが擦り切れるほどに。

 そんなおかしな既視感があった。


「大丈夫ですかセンパイ? お身体の具合がよろしくないのですか?」


 横にいた聖宮セイミヤなどかが心配そうに訊いてきた。

 背の低いショートカットの少女。

 制服のブレザーの下に白いパーカーを着た彼女は、俺のことを心底気遣ってくれているように見えた。


「ああいや。大丈夫、大丈夫だよ聖宮」

「それならよろしいのですが……」


 俺の言葉を聞いても聖宮はなお不安げであった。

 いつものことだが、どうも彼女は俺への接し方が過保護である。


「それより聖宮、俺はもう先輩じゃないんだからその呼び方はおかしいって。何度も言ってるだろ」

「はい、承知しておりますっ」

「だったら……」

「それでもわたくしのセンパイはセンパイだけですからっ」


 俺の気恥ずかしさなど意に介する様子もなく、聖宮は無邪気に笑った。



 そうなのだ。俺は一年次に学力的な成績不振に加えて度重なる家庭の事情等の欠席による出席日数不足で落第し、他のみんなが二年生に進級するなかでただひとり、もういちど一年生をやり直しているのだった。

 中等部からの後輩である聖宮は変わらず慕ってくれるが、それでもどことない無力感、やるせない疎外感が常につきまとっていた。



「なんだショウヤ、ぼーっとしてんな」


 と言って俺の肩に腕を回してきたのは鎧津ヨロヅ愛吾アイゴだった。


「ああ、わるい。ちょっと寝ぼけてたみたいだ」

「まったく、しゃんとしろよな、相棒」


 アイゴは呆れ顔で俺を小突いた。

 冗談みたいにひょろ長い高身長に赤毛のオールバック。

 一見強面でしばしば不良に間違えられるが、その実ひじょうに面倒見が好く勉強もできる男であることを俺は知っていた。

 去年までは同級生だったアイゴもいまではひとつ上の先輩になってしまった。

 ちなみに彼とヨリコとはいまも同じクラスで、彼女以外のクラスメイトともうまくやっていると聞いている。



 風の音がする。

 強く吹き抜けるような音が断続的に響いてくる。

 ただの風というよりも飛行機のジェット音に近いかもしれない。

 耳鳴りがいつまでも続いているようで気分が不安定になってくる。

 なんとなしに教室の窓を見た。

 空はすでに夕暮れだった。

 これだけ風が吹く音が聞こえているというのに、ガラス窓が少しも揺れていないのが不思議と言えば不思議だった。



 窓の外に気を取られていると、急に教室のドアがガラッと開け放たれた。


「あっ、ここにいた! ヤッホー、ヨリコ!! おっひさーッ!!!!」


 ヨリコの名を叫んで少女が飛び込んできた。

 容姿端麗、明朗快活。

 長い黒髪を掻き上げた彼女は、絵に描いたような美少女だった。


「ええ!!?? シロリ!? 帰国は明日だったんじゃ……!?」

「えへへっ、そのはずだったんだけど予定を切り上げてきちゃった」

「ええええッ!?」

「ヨリコに少しでも早く会いたくて……。迷惑だったかな……?」

「そ、そんなことは……ないですけど……」

「そっか! よかった!!」


 シロリと呼ばれた少女はヨリコにぎゅっと抱き着いた。ヨリコは驚きのあまりまだ目を白黒させている。突然抱きしめられて顔を赤らめていたヨリコだったが、それを嫌がっている様子はなかった。


 叶野木カノキ白璃シロリは中学以来のヨリコの親友だった。

 元来ひと見知りのヨリコと社交的で人気者のシロリは対照的な関係だったが、同時にたいそう仲がよく、その友情は周囲も認めるところだった。

 シロリは高校一年のときに海外に留学していた。

 一年間の留学を終えてもうすぐ帰ってくるという話は聞いていたが――。


「アイゴとショウヤも久しぶり! などかちゃんも!」


 シロリはヨリコに抱き着いたままで俺たちに手を振る。


「お、おう」

「ご無沙汰しておりますっ、叶野木先輩っ」


 アイゴと聖宮が予期せぬシロリの登場に意表を突かれつつも挨拶を返す。

 当のシロリは聖宮の制服を見て「あ、そっか。などかちゃんはもう高校生だったけ。時が経つのははやいなぁ~」などとひとり感慨に耽っている。

 実にマイペースなことである。


「あ、あのっ、シロリ、私、そろそろ苦しくなってきたんですけど……」

「え、ああ、ごめんごめん!」


 そう言ってシロリが離れたことで、ヨリコはようやく解放された。


「もうー、シロリはいつも強引なんですからー」

「あははっ、ごめんって」


 シロリは笑って誤魔化していた。


「あ、あの、シロリ……」

「ん? なに?」


 ヨリコがもじもじと口ごもる。


「あの、おかえりなさい……」

「……うん。ただいま」


 ヨリコとシロリはそうしてしばらくじっと見つめ合っていた。

 それは親友と親友のおよそ一年ぶりの再会だった。

 しんみりとした空気がふたりの間に流れていた。


「な、なあ。いい感じな雰囲気に水を差すようで悪いんだけどよ、あんまし俺たちを置いてけぼりにしないでほしいかなぁ、なんて……」


 アイゴが恐る恐る口を開いた。


「んんー。なんだいアイゴ、カノジョをわたしに奪われてご不満かい? そんなに独占欲の強い男だったのかい、君は? んんんっ?」


 シロリが意地悪そうな目つきをアイゴに向けた。


「い、いや、俺はそんなつもりじゃあ……っ」

「そ、そうですよシロリっ、な、なに言ってるんですか!」


 途端にあわあわとするヨリコとアイゴ。


「あははっ、冗談だよ! 仲がよさそうでけっこう!!」

「も、もうーっ」

「あはははははっ」


 シロリは快活に笑った。

 美人なのにときどき妙におっさん臭いところも変わっていないようだった。



 ヨリコとアイゴは恋人同士だった。

 成績学年トップで秀才のヨリコと剣道部主将にして大学は推薦合格確実といわれているアイゴ。

 二人は浮遊山学園高校の優等生カップルとして有名だった。

 付き合いの長い友人ふたりが恋人同士というのは、日常的に行動をともにしていて居づらさを感じる場面がないではなかったが、当人らはそんなことを気にしてはいなかったし、何より俺の大事なひとたちが幸せであるならば俺はそれでよかった。



「でも、叶野木先輩をお迎えしようと部室を片付けていたのに、間に合いませんでしたね……」


 聖宮が教室を見まわしてつぶやいた。

 そういえば、俺が目覚めたときもヨリコが大量のプリントを抱えていたっけ……。


 教室のなかは雑然としていた。

 無秩序に並べられた机の上には紙の束がうず高く積まれ、床はいちめん大小さまざまな精密機械とそれらを中継するゴムコードに席巻されている。

 部屋の隅には白い布、麻縄、鉄パイプなどがまとめて置いてある。

 見れば黒板にも複雑な数式や奇妙な模様が書き込まれていて、この部屋の意味不明さを増幅させていた。

 何かの作業の途中なのか常態でこうなのか、どちらにしろあまり学校の教室らしくはないなと思った。


 あれ? どうしてこんな状態になっているんだっけ?

 これらは何に使うためにここに置かれているんだっけ??

 いつも集まっている部室のはずなのに、俺はそれを思い出せなかった。

 そもそも俺たちは何の活動をする集まりだったか――。



「まあいいさ。片付けはまた次にして、今日はこれからシロリちゃんの帰国歓迎会ということにしようぜ。それでいいよな?」


 気を取り直してアイゴが提案した。


「それだとこの部室はちょっとあれですね……。どこか別の場所のほうが……」

「あ、それならわたくしの家でよろしければちょうど空いておりますけどもっ」

「おおっ。そーいや、などかちゃんちって広いんだっけ」

「いやいやぁ、わたしのためになんか悪いねえ」


 わいわいと盛り上がる部活メンバーたち。

 かけがえのない仲間、楽しい日常。

 その賑やかな光景が俺にはひどく哀しいものに見えて仕方がなかった。



 俺たちは全員下校の準備を整えると、片付けもそこそこに部室をあとにしようとしていた。


「さあ、行こうぜ」

「ええ、行きましょう、アイゴ君」

「よーしっ、しゅっぱーつ!」

「あっ、待ってくださいっ。センパイもほらっ」

「あ、ああ」


 促されて俺もみんなに続く。


 教室を出るとき、ヨリコが片付けていたプリントの一枚が目に留まった。

 俺はたまたま床に落ちていたそれを拾い上げる。

 プリントには確かに何かの文字列が印刷されていたが、どういうわけか俺の目にはそのどれもが滲んではっきりと読み取れなかった。




 外は夕焼けだった。

 空が真っ赤に燃えている。

 上空から太い轟音が響いて思わず体がすくんだ。

 細くたなびく雲を焦がして、火球が西の地平線に向かって飛ぶのが見えた。

 ごうごうと音を立てながら、無数の火焔が彗星の如く尾を引いて暮れの空を引き裂いていく。


 ああ、聞こえてきていたのはこの音だったのだなと俺は漫然と空を見上げた。

 ときおり炎のかたまりが地上に降り注ぎ、火柱を生んではたちまち弾けて消えていった。

 頭上を火の粉がかすめていって、俺は「自分に燃え移ったらいやだな」などということをぼんやりと思ったが、「センパイ、行きますよっ」と聖宮に手を引かれているうちにそれもどうでもよくなってしまった。


 違和感はずっと拭えなかったけども、友人たちが幸福そうに笑い合っているのを前にすると、すべて些細なことに思えた。


 間違っているのは自分か、世界か。

 それともどちらも間違っているのか。

 俺には分からなかった。


 そんな俺の疑問も戸惑いも、俺以外のひとたちの平穏のためなら無視してしまっても構わないと思った。




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