第2話 発端

 2014年1月。お正月気分もすっかり抜けきった、厳しい寒さの雨の日のことだった。友人とベルギービールを楽しみ、帰路につく。雨はそれほどひどくはなかったが、傘を忘れてしまい少し濡れながら自宅に着いた。ほどよく酔った頭を揺らしながら、酒の余韻と尿意に促され、トイレに入る。


 用を足し、いつものようにドアノブに手をかけ、回転しようとすると、ガチッ、という音とともにドアノブが空転した。いつもと違う感触である。そのままドアを押すが、開かない。


 酒のせいで自宅のドアの開け方を忘れてしまったのか...。今までそんなことは無かったのに、年のせいかな...。などと思いながらドアを引いてみる、が、開かない。


 ドアノブを右に回したが、ひょっとして左に回すのだったか。ドアノブを掴んだ手を今度は逆向きに回転させ、ドアを押し引きしてみる。開かない。


 ドアを閉めたひょうしに鍵がかかってしまったのかもしれないな。とドアノブの中心にある、鍵をかけるためのつまみを左にまわし、ドアを押し引き。右に回し、ドアを押し引き。なぜ開かないんだ?


 このとき、わたしはドアではなく、自分の頭の方を疑っていた。なんてこった。たしかに自分はビールを飲んで酒に酔っている。駅の改札を抜けようとして、改札機のICカードと間違えて社員証をかざしたりしたこともある。しかしドアの開け方を忘れるなんて、どうしてしまったんだ。今まで何百回、何千回と繰り返していたはずの動作なのに、どうして再現できない。とうとう自分はおかしくなってしまったのだろうか。


 必死でドアの開け方を思い出そうと試みる。しかし、自分の動作は間違っていないはずだ。深呼吸をし、冷静になってもう一度ドアを開けるための動作を繰り返してみる。しかしドアは開かない。


 人間は日常的な動作であれば、記憶ではなく体が覚えているものである。これまでの人生で、幾度と無く繰り返してきた「トイレのドアを開ける」という動作を体に再現させるのだ。わたしはもう一度便器に向き直り、ズボンを下げ、用を足す動作をしてみる。さっきしたばかりなのだから尿が出るわけはないが、これまで無意識にやってきた動作を最初から繰り返すことで、ドアを開ける手順を正確に再現できるはずだと思った。用を足し終わったふりをして、ズボンを上げ、水を流し、体を180度回転させ、ドアノブに手をかけ、回し、押す。


 開かない。


 自分の置かれている状況を理解するのに、それからしばらくの時間が必要だった。酔った頭をフル回転させる。開かない扉。手応えのないドアノブの感触。


 ドアが壊れてしまっているのか...!?


 ドアには、ラッチと呼ばれる部品がある。ドアノブが取り付けられている面から90度の側面にある部品で、壁とドアの間を貫いてドアを閉めた状態で固定する部品だ。ドアノブを回すことで、ラッチは出たり引っ込んだりして、それによってドアを固定したり開けたりする。扉に鍵をかけると、ドアノブが回らない状態になり、それによってドアをロックする。


 わたしの家のドアは、このラッチとドアノブを接続する部品になんらかのアクシデントがおこり、連動しなくなってしまったようだった。結果、ドアノブを回しても、手応えなく空回りしてラッチが動かない。


 なんとか、ドアノブとラッチの接続を一瞬でも復旧させられないものか。わたしは念入りにドアを調べてみることにした。


 まず、ドアノブを左右に動かしてみる。なんの手応えもないが、ドアノブは左にいっぱいまで回した状態から、右にいっぱいまでまわした状態まで、およそ300度ほど回転するようだ。1回転にはわずかに満たない。

 ドアノブの中心には、平たいつまみがついていて、正常時はこれを回すことでドアに鍵がかかる。今はこれを左右に動かしてみるが、わずかに動くだけでなにも起きない。鍵をかけることで、ラッチが固定される形式のドアであるので、ドアノブの回転と鍵のつまみの組み合わせにより、なにかのひょうしにうまく咬み合って一瞬でもラッチが動かないものか。わたしは根気よく検証することにした。


 ドアノブを左にいっぱいまで回し、鍵のつまみを動かす。ドアノブをわずかに右に回し、鍵のつまみを動かす。これを少しずつ、ドアノブが右いっぱいまで回るまで繰り返すうちに、どこかでラッチとひっかからないだろうか。


 便座とドアの間の空間はそれほど広くなく、ドアにむかってしゃがみ込むと背中に便器があたるほどのスペースである。そこにしゃがみ込み、ドアに耳をあててドアノブを動かし続ける30半ばの男性。なんという滑稽な姿であろう。


 目を閉じて、映画のワンシーンでスパイが鍵をあけるシーンを思い浮かべる。薄暗がりの秘密の部屋の前で、慎重に鍵と向かい合う凄腕のスパイ。かたわらには美しいヒロインが息を殺しつつ自分の様子をみている。このミッションが成功すれば、このヒロインと外国に行ってしばらくゆっくり暮らそう、などと考えながら、密かに微笑むスパイ。しかし、ドアは一向に開く気配がない。焦りを募らせるスパイ。ヒロインの表情がだんだん怪訝になり、やがて軽蔑の色を帯びる。そんな顔をするなヒロインよ。オレは凄腕のスパイ。こんなドアなど朝飯前に開錠できるのさ。


 ガチッ!


 ドアノブが右いっぱいに回りきった感覚で現実に引き戻される。目を開けると目の前にトイレットペーパーを備え付けている器具が見えた。美しきヒロインなどどこにもいない。そして、ドアも相変わらず開きはしない。現実はかくも残酷なものである。


 さて。これからどうするか。長い戦いはまだはじまった直後であることを、この時のわたしは知るよしもない。

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