夢見草の約束 (タイムパラドックス、死を記憶せよ、制服の第二ボタン)
第11回使用テーマ:【タイムパラドックス】【死を記憶せよ】【制服の第二ボタン】
「竹井くん、もしよかったら、私の第二ボタンもらってくれない?」
明後日の受験が終わってからだけど、とはにかむ先輩の姿。
頷いて交わした指切り。
来月には粉雪のように花びらを散らすであろう桜の木の下。
誇らしげに見せてきた卒業証書。
僕らの髪を撫でていった優しい風。
――その三日後、全国テレビに映し出された、新幹線事故の犠牲者一覧。
十年たった今でも、僕は「死」の記憶が鮮明に埋め込まれたあの瞬間を忘れることができないでいる。
今にも雪が降りそうな空だな、というのが、鍵を回ながら頭に浮かんだ言葉だった。
国語科教員室の窓を開いた途端、よく冷えた強い風が室内を吹き抜ける。
「わ、わっ、プリントが」
「待って、そっちとプリント混ざりそう、押さえて!」
テーブルで仕事をしていた先輩たちが慌てふためく声が響き、僕は咄嗟に窓を閉めた。
「す、すみません。換気しようとしただけなんですけど、思ったより風強かったですね……」
苦笑いをしながら振り向くと、先輩たちの顔にも苦笑いが浮かんでいた。
「いや、大丈夫だよ。換気は俺もそろそろしたいなって思ってたからさ」
「そうそう。だいぶ風が強かったってだけで」
その声にほっと胸をなでおろした。この高校の国語科の教員はみんな温和で、年齢や赴任歴をほとんど気にせずに接することができるからありがたい。特に今一緒にいる二人は、僕と同時にこの高校に赴任してきた上に歳も五つほどしか変わらないので、とても話しやすかった。
ありがとうございます、と返すと、にっと笑った先輩が自分の手元を指さした。
「換気さ、今ここで混ざっちゃったプリントを分けて重しとかをしてからにしない?」
「そうだ、竹井先生」
プリント整理を終え、改めて窓を開いた僕は、先輩の声に顔だけ振り返った。
「はい?」
「そこの椅子座りなよ。あのさ、さっき二人で『今まで見た中で一番インパクトが強かった評論問題』ってテーマで話してたの。先生もなんかあったりしない?」
「……すごいテーマですね」
咄嗟に出てきたのはその言葉だけだった。それだけでも先輩たちはどこか満足そうに頷く。もしかしたらいい反応がもらえないかも、などと危惧していたのだろうか。
「でしょう?」
「そうですね……夏ごろに生徒から尋ねられた『パラダイムシフト』や『タイムパラドックス』に関する評論が、意味が分からないという方向性でのインパクトは最強でしたが……」
そこで言葉を区切った。
インパクトに残った評論は色々あるが、一つ上げるとすれば――。
「教員一年目のときに目にした生死に関しての評論が、インパクト絶大の第一文に加えて妙に内容がわかりやすかったので、未だに忘れられないです」
そっと、手のひらを握りしめた。今でもあの評論は僕の傷をえぐるトラウマものだ。
それでも口にしたのは、いい加減前に進みたいから。あの評論に対する、あの死の記憶に対する拒否反応をどうにかしたいから――。
「あ、もしかしたら私と一緒かも。第一文がいきなり『死を記憶せよ、鮮明に記憶せよ』みたいな文章から始まるやつじゃない?」
ずきり、と一瞬だけ頭に痛みが走る。
「あ、それです」
握りしめた手のひらに汗が走る。
「やっぱりあれの印象半端ないよね! 試験問題じゃなかったからよかったけど……見た瞬間背筋がヒヤッとした評論はあれくらいだよ。かじり程度だったとはいえ死に関する表記もだいぶ生々しかったし」
口の中が渇く。
「ですよね。生々しすぎて、過去を思い出しそうに……」
――駄目だ。
全身の血の気が引く感覚に、僕は口をつぐんだ。
竹井くん、と呼ぶ声が耳元で聞こえた気がして、少しだけ鳥肌が立つ。
最後に見せたはにかむような笑顔と、一覧に記されていた先輩の名前。その二つの記憶が、僕の中で唐突に混ざり合っていく。
あの当時抱いていた、初恋と言っていいのかすら分からない感情。
それを伝える前に、はっきりさせる前に、先輩は僕の前から消え去ってしまった。
事故で少しだけ欠けてしまった、第二ボタンを残して。
まだ、僕はあの過去から立ち直れていない。
「……せい、竹井先生!」
耳元でかけられた声に、はっと僕は顔を上げた。二人が心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。
「この話題やめましょう。すみません、まさか黙り込むほど過去をえぐるものだとは思わなくて……」
申し訳なさそうに頭を下げた先輩に、僕はゆるゆると首を振った。
「いえ、自分で墓穴掘ったみたいなところはありますし。それに、その過去があるから今の僕がいると思っているので」
「そう、なんですか?」
「はい。それに、口にしたのはいい加減立ち直らないと、って思ったからなので、先生は悪くないですよ」
心配をかけないように、僕は小さく微笑んだ。
いなくなった先輩の姿を少しでも追いかけたくて、僕は、彼女が目指していた教師という道を選んだ。
もし彼女が生きていたら、きっと僕は特にやりたいこともないまま、ただ無意味な時間を大学で過ごしていただけだったと思う。
だから、僕は彼女に感謝しているんだ。僕に夢と、有意義な時間と、今の僕を与えてくれて――。
ガタン、と先輩が立ち上がる音が響いた。
「うわ、もうこんな時間だ。先生たち、三限は?」
「僕はないですね」
「あっ、私、あります。そろそろ行かないと。竹井先生、鍵ここに置いておきますね。無理はなさらないで」
わかりました、と頷くと、先輩たちは慌ただしく授業に向かっていった。
その足音が聞こえなくなったところで、僕は立ち上がり、再び窓際に歩み寄った。いつの間にか、外には雪がちらつき始めている。
小さく息を吐いてから、ポケットからスマホを取り出す。ストラップの代わりに付けてある、わずかに欠けた第二ボタンが小さく輝いた。
桜の下でした指切りの約束通り、僕の手に渡った第二ボタンは、あの日から何も変わっていない。
今の僕も、あれが初恋だったかどうかなんてわからないけれど――。
「……ねえ、先輩。今の僕のことも、見守っていてくれないかな。まだ、先輩が死んでしまったって理解したあの瞬間から前に進めたとは言えないけれど、でも、先輩の目指していた教師という仕事を僕なりに精一杯頑張るから」
不意に吹き込んできた風と粉雪は、第二ボタンと僕の少し伸びてきた髪を、もてあそぶようにそっと優しく撫でていった。
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