Little tales~にごたん作品集~
杠葉結夜
にごたん企画参加作(第10回〜)
葉月より、夢咲く月へ (パラダイムシフト、命運は君の手に、夢見草)
第10回使用テーマ:【パラダイムシフト】【命運は君の手に】【夢見草】
採点が終わって伸ばした背筋を、クーラーの風がひやりと撫でた。
思わず肩をすくめた私は、ふと周りに視線を巡らせる。いつの間にか教室には私しか残っておらず、陽もだいぶ落ちてきていた。さっき時計を見たのはいつだっただろう。国語のテキストを開く前だった気がするが……いつの間にか、相当な時間が経っていたらしい。夏休みという環境を利用して朝からずっと引きこもっていた学校だが、もう一時間後にまで下校時刻が迫っていた。
背筋を撫でた冷たさがどこか気持ち悪くて、私は立ち上がった。首を回しながら廊下へと出る。人気のない廊下は少し息苦しくて、私は思いっきり正面にあった窓を開いた。
生暖かい風が私の体を包んだけれど、今はそれがどこか気持ちよかった。
「――おや、立花さん。まだ残っていたのかい」
穏やかにかけられた声に、私は動きを止めた。
どこか清涼感の漂う、聞いていて嫌にならない声。いつも聞きなれた声。
顔を向けて、わたしはそっと微笑んだ。
「先生。いたんですか」
「いたんですか、とは何だい。これでも僕は君の担任なんだけどな」
わざとらしく眉毛をハの字にした先生が、私の横に並んだ。黒ぶち眼鏡に、軽く結べそうなほど伸びているさらさらした黒髪。白衣が似合いそうなルックスなのに担当は国語、特に古典。私たちと十も変わらない、まだ若いこの先生と話すのが私は大好きだった。
それは恋愛対象としてではなく、あくまで先生と生徒として、少しだけ「気の合う友達」に近い関係として、だけど。
「いや、まさかこのタイミングで会うとは思ってなくて」
「そうだね、僕も立花さんがまだ残っているとは思ってなかったよ。受験勉強、順調かい?」
軽やかに尋ねてくるその声に、ためらいがちに頷いた。
いつも通りに勉強を進めているだけだから、順調も不調もない。それが本音だが、そう口にするのが少し憚られて、私は言葉を選びながらゆっくりと返した。
「多分。今はちょっと集中力切れちゃったんで、休憩中です」
背筋の気持ち悪さで集中力が切れ、休憩に入ったので、一応この答えは間違っているわけではない。
そんなことを微塵も気にする様子もなく、先生は爽やかに笑った。
「そうか。休憩も大事だからね。ちなみにさっきは何をやっていたんだい?」
「現代文ですよ。……あ、そうだ、先生」
ふと、先ほどまで開いていたワークの内容を思い出して、私は言葉を続けた。
「ちょっと聞きたいことあるんですけど、今時間ありますか?」
国語で? と尋ねてくる先生に、頷き返す。
「うーん、五分十分程度なら。このあと部活に顔出さないといけないからね」
「大丈夫です。軽く先生の考えを聞きたいというか、そのくらいのものなので」
私はそっと、先生の顔を見上げた。
「先生、パラダイムシフトって結局何なのかわかりますか?」
ぱちり、と先生は驚いたように目を瞬かせた。
「パラダイムシフト? これはまた難しい言葉を」
ええと、と戸惑っている先生に、慌てて私は説明する。
「いや、さっき読んでいた評論に出てきたんですけど、何が言いたいのかよくわからなくて。マークで解答自体はあっていたので、そこまで問題じゃないんですが」
「ああ、なるほど。……うーん。実は僕もそういう考え自体は得意じゃないんだよな」
安心したように息を吐いた先生は、軽く天井を仰いだ。おもむろに目を閉じる。
その姿勢のまましばらく口の中でもごもごしていたが、ややあって、何かを諦めたような表情で口を開いた。
「とりあえず僕は発想の転換、として捉えているよ」
「発想の転換、ですか」
思っていたよりはっきりとした口調に、こっちが戸惑ってしまう。
そう、と頷いて、先生は私に視線を戻した。開いた目はどこか穏やかだ。
「まあ、こんな言葉が入試に出ることはそうそうないと思うし、これ以上突っ込むとそれこそ大変になると思うよ?」
そうやってはにかむ先生に、私は何も言えなかった。
うまく受け流されてしまった気がするが、まあ、こういう対応も承知の上で投げた質問だ。先生の得意分野は古典なんだし、仕方のないことだ。
「わかりました、ありがとうございます」
じゃあ、と戻ろうとした私を先生が呼び止めた。
「せっかくの機会だ、そんな固いカタカナ語に向かい合っていた君に、僕の好きな言葉を教えてあげよう。これも役立つかどうかと言われると微妙だけど、軽い頭のマッサージ程度の雑学だと思ってくれれば」
先生の好きな言葉。純粋に、その響きに惹かれた。
「何ですか?」
食いつくように反応した私に対し、先生は優しく、その言葉を発した。
「夢見月」
「――夢見月?」
初めて耳にする響きだ。
首を傾げた私に、ゆっくりと先生が尋ねてきた。
「立花さん、陰暦、って知ってるよね」
「はい。睦月、如月、弥生……ってやつですよね、旧暦とも言う」
「そうそう。でも呼び方はそれだけじゃなくてね。月ごとに様々な異名があるんだ。夢見月もその一つ」
「へえ……何月なんですか?」
尋ねた私に、先生は目を細め微笑んだ。
まるで無邪気ないたずらっ子のように。
「何月だと思う?」
たまに授業でこの目をすることがあるが、この時は必ず誰かしらが答えないと解答を教えてくれない。今、生徒は私しかいないのだから、勘でもなんでも私が答えなくてはいけなかった。
夢を見る月。想像がつかないが――。
「一月、とかですか?」
初夢。そう考えて口にした答えに、ぶー、と愉快そうな不正解音が渡された。
「残念。正解はね、三月」
「三月?」
どうして、という思いが顔に出ていたのだろう。楽しそうに、先生は言葉を紡ぎ始めた。
「夢見草って言葉があるんだ。これは、桜の異名。三月を桜月とも呼ぶんだけど、弥生の時期はちょうど桜の花の咲く頃なんだ。だからだろうね」
先生が窓の外に目をやる。その視線を追うと、そこには青々とした葉を茂らせている一本の桜の大樹があった。この高校に昔からある、樹齢百年以上の立派なものだ。
「知った時からこの言葉の響きは好きだったんだけど、高校教師になってからさらに好きになったんだ。三月が一年で一番夢を見る月になったから」
優しい笑みを浮かべた先生は、そっと、私の顔を覗き込んだ。その瞳の奥には温かな光が見える。
「立花さんにとっても、今度の三月はそうなるんじゃないかな。国立志望、変えていないよね?」
私は頷いた。国立大の合格発表は、早くて三月七日。私の大学生活がどうなるかが決まるのは、三月――夢を見る月だ。
「大丈夫、今の立花さんなら受かるよ。この先スランプとかがあっても、君なら乗り越えられると思う。夢見た草を――桜を咲かせられるって、僕は信じてる」
――信じてる。
さらりと渡されたその言葉が嬉しくて、思わず笑みがこぼれた。
先生の光が三月の日差しのような、一層柔らかなものになった気がした。
「真夏にする話じゃなかったな、ごめんね。そろそろ行かないと」
窓辺から一歩離れた先生に、私は頭を下げた。いつもよりも少し深めに、感謝の気持ちを込めて。
「いえ。先生、ありがとうございました。なんだか受験まで頑張れそうな気がします」
「それならよかった。僕は教師として、担任として、いろいろとフォローしたり手伝ったりすることはできるけど、結局のところ命運は君の手にゆだねられてるからさ」
じゃあ、また何かあったら職員室においで。
そう言って、先生は私に背中を向けた。スリッパの音を鳴らしながら廊下を進んでいき、そして姿が見えなくなる。
よし、と息を吐き、私は目の前の窓を閉める。そしてためらいなく、振り返った先の教室のドアを開いた。
三月、先生に夢を見させてあげるために。今日、もう少しだけ頑張ろう。
背筋の気持ち悪さは完全に消え去っていた。
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