ep1:青い青い空の、向こうに約束<2>
会話が嫌いだ。
会話が苦手だ。
昔はよく喋った。
そのせいで何度も友達を不快にさせたし傷つけた。その度自分自身も傷ついた。自分に口が、声がなければよかったと思い続けていつしか無口になった。
小学校の高学年だった。決定的に俺は会話を拒むようになった。当然周囲から人が減ったが、嫌われないための努力を放棄した後はとても身軽だった。
会話が嫌いだ。
中身の無い言葉の投げあい。本人が居ない場での陰口。他人の不幸を言い伝える言葉たち。無意味。無価値。くだらない。馬鹿らしい。不必要に他人を傷つけるだけ。言葉なんてなければいい。
次第に会話をしなくなった。
代わりに以前見向きもしなかった本を読むようになった。
物語は心地いい。会話の全てに役割がある。物語を進行させる役割。意味のある、中身のある、含蓄のある言葉たち。けれどそれはどこか薄ら寒くて血が通っていない。何故ならただの造り物だからだ。
会話を嫌う俺のまわりに人は自然と近寄らない。だけどみらいと青葉は違った。会話を強要しない。反応がないからといって悪態をつかない。言葉の数の多さを相手への好意の大きさだと思わない友人たち。かといって確実に等しく意図を汲んでくれるわけではないし、だとしても不満はない。
五日前、青葉が失踪した。
気まぐれな青葉のことだ、すぐに帰ってくるだろう――。
そんな思いは二日三日たって焦りに変わっていった。
確信が生まれた。青葉に帰ってくる気はない、と。
俺とみらいは青葉をよく知っている。青葉の影響は俺たちに大きい。
『遥、世界が終わりに向かっているの、知ってた?』
長い髪。涼しげに整った顔。
みらいと同い年とは思えない大人びた雰囲気。その雰囲気に不釣合いな言動。
みらいが子供っぽいっていうのもあるけど、一番身近な異性がみらいだったから、衝撃的だった。
青葉世々璃。自分と同じ年齢で、こんな奴がいるのか、と。
「遥。ね、終わりを感じるでしょ? わかるかなあ。
みらいはね、なんとなくって言ってた。
遥はもっと、私に近い気がするんだけどなあ」
世界はほとんど終わりかけているんだ。
今は残りかすに必死につかまって生きてるだけ。
そんなことを、いつか夏の日、秘密基地で蜂蜜色に染まりながら言葉を交わした。
青葉は嬉しそうに笑みを浮かべて、頷く。
チョコレートアイスに舌を這わせて、言った。
「遥は心地いいねえ。みらいと同じくらい心地いいよ」
年上がとるみたいな余裕のある態度だった。青葉ってそういう奴だ。
俺たちの知らない何かを知っていて、俺たちの疑問の答えを全て知っていて、だというのに教えない。意地悪クイズの出題者。余裕のある変な奴。その態度にむかつくことは、不思議とない。
「心地いいなぁ」
そう言われると嬉しかった。誇らしかった。
青葉に隣を許される、それはとても心地いい。
だけど青葉は居なくなった。
世界の終わりへ行ってしまった。
みらいはあまり気付いてないみたいだけど、思う。
青葉は一足先に世界の終わりを見に行ったんだ。
追いつくだろうか。そしてもう一度、青葉の隣へ行けるだろうか。
「あ」
雑誌から顔を上げてふいにみらいが言った。
青葉を真似て伸ばし始めた髪が揺れる。
「次だね、終点。乗り換え?」
答える代わりに頷く。
「ひいおじいちゃんち、遠い?」
首肯。
「ま、今日は一晩そこに泊まろっか」
地元を発って数時間が経った。外は夕暮れ。知らない町の空は、俺たちの住む地元の夕焼けより少し色が濃い。
「ね、遥君宿題もってきた?」
唐突な問いに首を横に軽く振って否定を表す。
「そっか。ま、やる余裕もなさそうだけど……わたしも置いてくればよかったかな」
嘆くように言うみらいは、俺のことをよく知ってるから深く追求しない。会話を拒んでいるのを知っている。だから俺は話さない。夏休みに終わらせるべき課題を全て置いてきたのは、俺も青葉と同様だからだ。
帰る気がない。世界の終わりへ行くために。
俺はみらいに比べれば少し青葉と近い感覚で生きているのだと思う。だからこそ気付くこともあった。
青葉は世界の終わりへ向かっている。みらいも薄々気付いているだろう。
青葉は世界の終わりを待っている。それは、俺も、同様に。
みらいはどうだろう。そう思っても俺は尋ねない。言葉が必要になるからだ。
みらいを覗き見る。手にしたファッション誌は青葉の影響だ。青葉に出会ってみらいは服装やらに気を遣い出した。
幼馴染の俺から見ればそれは少し寂しかった。昔は同じ雑誌を、顔を突き合わせて読んでいた。ページをめくろうとすると、読むのが遅いみらいが怒った。時々そのせいで喧嘩してページがやぶけた。男とか女とか、まだ意識しなかった頃の話。
「なに、遥君」
視線に気付いてみらいが問う。不意打ちに内心焦って、俺は表情を取り繕う。
口を開きかけたとき、終点につくアナウンスが入って俺は会話をまぬがれた。
** **
何度か乗り換えて、わたしたちは辿りついた。
片田舎。
単線の電車に乗って、着いた無人駅のすぐ隣が遥君のひいおじいちゃんち。
庭が広かった。
柵がなくて、隣との境がわからない。
隣の家って言っても、一戸建て三軒分くらい離れている。
広い庭に、小さな畑。
ひいおじいちゃんちは、外は古ぼけてるけど中はそうでもなかった。
破れた障子とふすま、埃っぽい畳。
板張りの廊下を歩くと、靴下が黒くなった。
あたりはすっかり日が落ちている。
今日はもうこの先へ行けそうにない。
「明日になったら、もっと遠くに行ってみよう」
わたしの提案に、遥君はうなずいた。
畳の部屋に縦長の木の机を出して、途中で買ったお弁当を広げる。
佐名木というこの駅の周辺にはコンビニはおろか店自体見当たらない。
わたしたちの住む町よりずっとずっと田舎。
ここに、世々璃は居るだろうか。
終わりの気配っていうものを、わたしたちは確かに感じていた。
なんだろうな。
さびた標識とか。
転がる空き缶とか。
熱さに枯れたホトケノザとか。
錆だらけの歩道橋とか。
広すぎる空とか。
蜂蜜色の夕暮れとか。
よくわからないけど、ふとしたときに確かに感じる。
胸がきゅうっとなる、あの感じ。
不安みたいで。
切なさみたいで。
だけど、心地の良い。
そういう、終わりの気配を世々璃は好む。
「あ、遥君携帯もってきた?」
遥君が小さく首を横にふる。
「そっか。わたしも置いてくればよかったかな」
呟いて、ディスプレイを見る。
パパやママ、友達からの心配やお叱りのメール。
申し訳なく思うけど、返信はしない。
宿題も、一応持ってきたけど、たぶん手はつけないだろうなあ。
わたしには、思い切りが足りない。
遥君は宿題とか携帯とか、そういう、繋がる手段を全部置いてきたみたいだった。
繋がる手段っていうのは、えっと。
宿題は、二学期へ繋がる手段。
携帯電話は、みんなと繋がる手段。
元に戻るための道しるべ。
日常へ帰るための方法。
わたしは、それを捨てきれない。遥君は、全部捨ててきた。
もしかしたら、遥君も世々璃と同じなのかもしれない。
ちょっとだけ、そんなことを思う。
遥君、行っちゃうのかな。
わたしは、どうしようかな。
世界の終わりを目の前に感じて、わたしは迷ってしまう。
ホコリっぽい布団を敷いて、わたしたちは眠りについた。
お風呂もちゃんと入った。
脱衣所に蜘蛛が居て怯えてたら遥君が外へ逃がしてくれた。
そういうところ見ると、普段大人しくてもちゃんと男の子なんだなって思う。
暗い、古い天井を見上げて、わたしは外の静けさにびっくりしていた。
地元だと、よく救急車の音がするし、
お隣さんちのお兄さんが夜遅く帰ってくる音とか、
車の排気の音とか、サイレン。
そういうものが、夜の中に混じっている。
夜の騒がしさが、この場所にはない。
虫の鳴く音とかは、あるけど、それは自然の音だから違う。
人の生きる騒がしさが、ない。
寂しい、と感じるのは、わたしが人だからなのかな。
ぼんやりと考えながら、いつのまにかわたしは、世々璃に会っていた。
** **
「このピアノ、まだ音出るのよね。ちぐはぐなかんじだけど」
古ぼけたグランドピアノをうらやましいほど綺麗な指で撫でる。
とびきりきれいな女の子。
中学に入るって、すごいなあ。
こんなに綺麗な子を、見つけられるんだもん。
「そうなんだ? じゃあ、もったいないね」
「そうね。……ねえ、どうしてここに居るの?」
咎めるとか怪しむって感じじゃなくて、女の子は尋ねた。
「えっと」
答えを躊躇ったのは、なんでだっけ。
「興味があったから、探検」
笑われないか、不安だったんだ。
世々璃は、笑った。
馬鹿にするんじゃなくて、嬉しそうな微笑み。
「そっか、じゃあ、私と一緒ね。名前は? クラスは?」
「みらい! 佐崎みらい。一年。四組。」
「隣同士ね。私は三組」
「いっ、一年生?」
「うん、変かな?」
ぶるぶるとわたしは首を横に振った。
変、っていうか、びっくりした。
大人っぽいんだもん、この子。
長い髪とか。
綺麗な並びの歯。
整った睫。
ちょっと揃えてある眉とか、さりげないところに気を使っているような顔立ち。
肌なんてそばかすもニキビもない。
奇跡みたい。
それは、大げさかな。
だけどわたしにとって、今まで見た誰よりも綺麗だったんだもん。
「私、青葉世々璃。あおばせせり、って、蝶の名前よ。同じなの」
えへへ、っていうふうに笑って、
「仲良くしてね、みらい」
わたしは世々璃と友達になった。
それから、その旧校舎が取り壊されるまでの間、そこはわたしたちの一番の遊び場だった。
ぎいぎい鳴る床。
てかてかになった手すり。
埃っぽい教卓。
曇った窓。
まばらに並ぶ机や椅子。
チョークをこっそり持ち出して、黒板に好き勝手落書きした。
黒板消しはボロボロで、スポンジがこぼれている。
世々璃と遊んだ旧校舎は、中学三年の夏休みに取り壊された。
無骨なショベル・ローダーたちは、だけどわたしたちの思い出までは壊せない。
世々璃が言ったんだ。
とびきりの絵が書けて、消すのがもったいないねって言った時。
壊れていく旧校舎を見て悔しさにも似た感情を覚えた時。
「ね、みらい。私たちの思い出まで、消えたりしないよ」
安心させるように、世々璃はわたしの手を握った。
細くて白い、か弱そうな指は、とてもあったかい。
世々璃は、わたしの大切な親友。
いつか、旧校舎の屋上でわたしたちは空へ手を伸ばした。
最初は、背比べをしてたんだ。
似通った身長のわたしたちは、実際どちらの背が高いのか。
結果はわたしの勝ちだったけど。
世々璃が最初にずるをして、つま先で立った。
「あ、ずるいっ」
わたしもつま先で立つ。
今度は世々璃が腕を伸ばした。
わたしも真似して手を伸ばす。
うんと、うんと、うんと高くまで。
爪先立ちになって、両手を天に掲げて。
もしかしたら、届くかも。
わたしたちは、思った。
青い青い空の向こうまで、この手は届くかも、って。
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