Episode01

ep1:青い青い空の、向こうに約束<1>

 世界は。

 終わりに向かっている。

 とてもとても緩慢に。

 ――だけど、確実に。


「なぜ」

 少女が呟いた。

 誰も居ない、寂れた駅のホーム。

 その最果てに立つのは一人。

 深い藍色の制服を着た、長い黒髪が綺麗な女の子。

 線路の先は見えない。

 電車が来る気配はない。

 行き止まりのようなその駅で、

 少女は終わりを待っていた。



 ノストラダムスを信じていた子供は、少なくないと思う。

 口で否定しながら心で肯定していた人や、TVの特番に怯えていた子。

 わたしも、そのなかの一人だった。

 小学校四年生のとき。

 恐怖の大王が何を示しているのか、延々と想像していた。

 隕石で地球がこなごなになっちゃうんだとも思ったし、

 宇宙人に侵略されて人間は奴隷になるのだと思った。

 それとも世界中が戦争を始めるのかと怖くなった。

 幼いなりにわたしは、世界が失われることを恐怖していた。

 結局のところまだ地球は、不健康ながらも無事でいる。



 夏の、まとわりつくような空気の中。

 ローファーに痛めつけられる足を、わたしは蛙乃の川へ向かわせる。

 蛙乃あのの川はコンクリートで周囲を固められた川だ。

 斜面に並ぶブロックの上にわたしたちはいつも集まっていた。

「あ、」

 もう来てる。

 蛙乃西高校の制服を着た男子。

 川を泳ぐ鴨を眺めてぼーっと缶ジュースに口をつけている。

 粒入りオレンジジュース。

 川橋よう

 遥君はわたしの友達。

 世界の終わりを知る仲間。

 とても無口な少年だ。

「遥君、世々璃せせり見た?」

 ガードレールを乗り越えて、斜面のコンクリートに足をつける。

 コンビニのビニール袋をがさがさ言わせて、夕暮れに赤く染まる遥君の隣に腰を下ろした。

 返事の代わりに遥君は首を横に振ってみせた。

 遥君は、ほんとに無口だ。

 口を開いても、普段、一日に一単語くらいしか喋らない。

「そっか。三日、だね」

 三日前、突然、友達が姿を消した。

 青葉世々璃あおばせせり。わたしの親友。

 世界の終わりを教えてくれた人。

 三日前、といえば。

 七月二十六日。

 その日は、七年前、わたしが恐れたノストラダムスの予言の日だった。

 わたしがやっと十歳だった、あの頃のある朝。

 たまたまつけたテレビの朝のニュースでやっていた。

 七月二十六日に地球に隕石が大接近する、っていう報道。

 十歳のわたしにとって、ニュースがそんなことを言うのは、大きな驚きだった。

 天気予報のキャスターにこう言われたも同然だ。

『明日は隕石が降るでしょう。みなさん、心の準備をお忘れなく』

 日にちを知っちゃって、すごく怖くて、当日はずっと寝ていた。

 寝たまま死ぬなら怖くないかもしれない。

 でも、目覚めてみたら、世界はまだ、ちゃんとしていた。

「世々璃、どこ行ったんだろうね」

 わたしの言葉に、遥君は黙って川の水面を見つめるばかり。

 ――わたしが世々璃に出会ったのは中学に入ってから。

『世界が、終わりに向かっているの、知ってた?』

 下駄箱で靴を履いていた。

 こがね色に満ちた学校。

 世々璃はわたしを振り返る。

 とびきりの秘密を教えるように、微笑んだ。

「みらい」

 川を眺めてぼんやりしていると、遥君がわたしを呼んだ。

 佐崎みらい。

 この夏、十七歳になった。

「行こう」

 幼馴染のその言葉が、わたしを導いた。


** **


 思うのだけど、七年前のあの日、実は世界は終わってしまったのかもしれない。

 わたしは眠っていたせいで、その境を目にすることはなかったけれど。

 そう思えば、いろいろとつじつまが合うんじゃないかな。

 終わり始めた世界について。


「あー」

 補習が終わった。

 期末テストの赤点のツケだ。

 眠い目をこすってロッカー室へ向かう。

 賢い遥君は補習とは縁が無い。補講にも興味ないみたい。

 扉の向こうの蒸した空気を肌に感じながら、靴を履き替えた。

「あ……」

 他の補習生徒で賑わう中。

 ふと世々璃のロッカーに鍵がかかってないことに気付く。

 世々璃がいなくなって、四日目。

 まだ帰ってきていない。

 何の連絡もない。

 昨日、世々璃の母親から電話がかかってきた。

 本当に何も知らないの、と問われ、わたしは答えなかった。

 何も、知らない。

 世々璃は何も言わずに消えてしまった。

 何の前触れも、なかった。

 ともすれば、多分、前触れなんていつでもあったんだ。

 世々璃は、終わりの世界へ行きたがっていたから。

「……」

 ロッカーに鍵はかかっていない。

 ちょっと申し訳なく思いながら、わたしはそこへ手を伸ばす。

 ぬるくなった金属が指先に触れる。

 迷いを振り切って開けると、その中には何の変哲もない上履きが、置き傘が、入っていた。

(なんにも、ない)

 少しだけ落胆して、ロッカーを閉める。

 その寸前、気付いた。

 慌ててもう一度ロッカーを開ける。

 戸の内側に事務用の封筒が貼り付けてあった。

 ロッカーとくっつくセロハンテープを丁寧にはがして、わたしはそれをカバンへしまった。

 代わりに携帯電話を取り出して、メールを打つ。

〈蛙乃の川に来て。〉

 送り先は、遥君のアドレスだ。


** **


 放課後の、旧校舎。四階の音楽室。

 置き去りにされた古いグランドピアノの鍵盤を、いつくしむように撫でている。

 蜂蜜色の光の中。

 セピア色の写真みたいに、動いているのに静止しているみたいに。

 そこに居た、女の子。

 青葉世々璃。

 長い黒髪を肩からこぼして、ゆっくりとわたしを見る。

 それが、彼女の一番古い記憶。

 中学一年生の、春。

 クラスは別々だった。でも、その適度な近さがわたしたちの仲をより良くさせた。

 はじめ、世々璃の印象は『フツーの女の子』だった。

 おしゃれが好きで、流行の歌がいつでも歌えて、かわいい。

 ひとりっこで、愛されていて、チョコレートが好き。

 成績は、中。体力は、並。

「あおばせせり、って蝶の名前よ」

 容姿は、きれい。それが彼女の決り文句。

 出会った年の夏、世々璃は言った。

 夏休みに入る前だった。

 七月の、末。

 来るべき破滅の一九九九年から、三年経っていた。

 世々璃は言った。

「世界が、終わりに向かっているの、みらい知ってた?」

 蜂蜜色の光を背に受けて、いたずらっぽく微笑んで。

 わたしはきょとんとした顔のまま靴を履いた。

「……何の話?」

「うふふ。びっくりした?」

 世々璃の笑顔へわたしは頷く。

「ねえ、世界が終わるはずだった日、知ってる?」

「七月二十六日?」

「私もそれ、覚えてる。バラエティみたいなニュース番組」

「そう、それ」

「みらい。ねぇ、分かる? 世界はね、こんなにも終わりを欲している」

「……? え、わかんないよ」

「わかんないはずないよ。みらい。ね、この空を見て。

 真っ黄色の空。末期色の空。終わりが近いみたい。わかる? 

 この、肌に触れる風も。ぬるくて。気持ちが変になりそうじゃない?

 うきうきするの。私はね、みらい。終わりへ行きたいの。いつか行く、きっとね」

 饒舌に。

 世々璃は手を広げた。

 空を後ろに。

 世界を支えているみたい。

 でもとても自由。

 羨ましい。

 彼女は、気ままだ。

 思考も、行動も。

 何もかもに縛られない。

 とても自由。

 世々璃が魅力的な理由。

「ねえ、みらい。そのときは、一緒に行こうね」

 わたしは、曖昧にうなずいた。

 世々璃は、満足そうに微笑んだ。

 


「一緒に行こうって言ったのに。世々璃ってば」 

 約束の蛙乃の川で待っていた遥君にわたしは愚痴った。

「……封筒」

「うん、今開ける」

 蒸し暑い夏の夕暮れ。

 熱をたくわえたコンクリートの上。肌が地面に触れないように危なっかしく座って、チューブのアイスをかじっている。

 わたしはカバンから封筒を取り出して、遥君にも見えるようにして封を切った。

 中身は、小さな紙切れ。

 指が届かないので封筒をさかさまにして何度か振る。

 紙切れと、見慣れた感じの切符が二枚、手のひらに落ちてきた。

 遥君がわたしの手からそれをつまむ。

「なにも書いてないね」

 馴染みのある色形をした切符なのだけど、行き先とか料金とかがまったく記されていない。

 行き先不明の、無地の切符だった。

「でも、電車の切符だね」

 遥君がうなずく。それからもう一枚、入っていた紙切れをわたしは眺めた。

「ごめんね、世界の終わりで待ってるよ。せせり。……手紙だ。これだけ?」

 封筒を筒状にして覗いてみる。けど、からっぽだ。

「世々璃、やっぱり先に行っちゃったんだ。ずるいよ」

「……追いかけよう」

 遥君が、なんだか珍しく意志のこもった声で言う。

 当然、わたしは頷いた。

 蜂蜜色の光に満ちた世界の中で、二人して切符を見つめる。

「とりあえず、電車、だね」

 こくん、頷く遥君。

「じゃあ、明日、駅でね」

「何時?」

「朝、えーっと、七時」

 こくん。

「わたし忘れっぽいから、切符は遥君持ってて」

 遥君は無言でわたしから茶封筒を受け取る。

 切符と手紙の入ったそれを、丁寧に二つに折ってポケットにしまった。

「それじゃあ、明日ね」

 遥君はまた頷いて、わたしたちは別れた。

 この蛙乃の川にも、別れを告げて。

 次はいつ、三人で、この川に集まれるだろう。

 漠然とした未来しか描けなくって、わたしは想像するのをやめた。


** **


「ね、みらい。秘密基地、作らない?」

 中学二年生にもなった夏のある日、世々璃は言った。

「秘密基地? わ、いいなっ」

 その言葉のもつ魅力にわたしはすっかりときめいて、何の疑問もなく賛同した。

 中学二年生、って。

 他のみんなは、なぜか冷めていた。

 大人びた、というのかな。

 大人のふり、かもしれない。

 どこか『子供』を否定して、でも『大人』を許しもしないで、中途半端に生きていた。

 世々璃は、違う。

 だって世々璃は蝶だったから。



「人間て、ほんとは大人になれない生き物なのかもね。

 だから年齢を決めて、それを超えたら大人、っていうの。

 蝶は違うよ。みっともない芋虫がさなぎになって。綺麗な蝶になる。それが成長。

 幼虫から成虫へ。子供から大人へ。

 人間も、さなぎになれたらよかったのにね。そしたら大人になれるのに」

 それから、世々璃は言った。

「あおばせせりは、蝶の名前よ。少し前まで芋虫だった」

「じゃあ、世々璃、もう大人なんだ」

「ううん。そんなわけないじゃない。みらい。私はそんなこと興味ないの」

 そういうふうに冗談ばっかり言って、世々璃の本心って、なかなかつかめない。

 思えば、中学二年生のみんなは蛹だった。

 蝶になる日を黙々と待っている。

 それは、今も同じ。

 だから子供も大人も受け入れられない。

 子供と呼ばれることを嫌って、大人と呼ばれることが気持ち悪くて。

 硬い殻にこもって、わたしたちは待っていた。

 来るべき羽化の時を。



「秘密基地。蛙乃の川の橋の下。日陰だから涼しいよ。

 近くにコンビニあるからアイス食べられる。夜に花火とか、しようよ」

 わたしは遥君を巻き込もうとその話を持ち出した。

 遥君は「うん」って言って、わたしたちの仲間になった。

 蛙乃の川がわたしたち三人の集まる場所になったのはそれからだ。

 秘密基地は、台風が来たときに流されちゃったけど。

 アイスを食べた。

 わざわざ宿題を持ち込んだ。

 夜には花火をした。

 小学生と、陣地取り合いの喧嘩なんかもした。

 もう三年も前のこと。懐かしいな。

 すこし寂しい。

 永遠に戻れない時間。

 すごく、愛しい。


** **


「はあ……!」

 朝の駅に向けて、わたしは自転車を全速力で漕いでいた。

「十分、遅刻……」

 時間に正確な遥君はわたしのことを待ってるだろう。

 急いで急いで、駅へ向かう。

 朝の澄んだ空気を切って。

 人の少ない大通りを、大胆に信号無視して自転車は進む。

「あっ」

 ふいに視界に蝶が入った。

 青っぽい黒の翅。

 アオバセセリとは、違うけど。

「世々璃……」

 失踪した親友を想う。

 きっと、元気に違いないけど。

 探しに行かなきゃ、もう二度と会えない気がして。

「わ、わわあっ」

 蝶を追って余所見していたせいで不注意になって、自転車の前輪を電柱にぶつけた。がしゃん、って大きな音。衝撃に次いで痛み。

 びっくりした……。

 カゴに入れてた旅行カバンがクッションになったから、無傷だ。

 どっか打ったかもだけど。ちょっと痛いけど、走れないほどじゃない。

 駅まで、あとちょっと。

 暑くなっていく空気の中、全力で走った。

 

 

 駅に着くと汗びっしょりになっていたわたしへ、遥君はつぶつぶのオレンジジュースを差し出した。

 ちょっとだけ躊躇ったけど、悟られたくなくてわたしはぐいっとジュース飲む。

 なんでもないふうに、遥君は返って来た缶からぐびぐびオレンジジュースを飲む。

「遅れてごめんね。自転車壊れちゃったから置いて来ちゃった」

 遥君は首を横に振る。気にしてないみたい、よかった。

「とりあえず、どこ、行こうか」

 上りか下りか。

 なにせ切符は無地なのだ。

 どこへいけるか。

 どこまでいけるか。

 試してみないと、わからない。

「これ」

 遥君がポケットから鍵を取り出した。ショルダーの荷物鞄を担ぎなおす。

「あっ、ひいおじいちゃんちの鍵でしょ! 行けるんだ。やった!」

 わたしは嬉しくなって言った。

 遥君の曾おじいちゃんちはここから離れた田舎にある。

 今は誰も住んでいないけど時々遥君のお母さんが掃除しに行っているらしい。

 まだ小さかった頃、話を聞くたび、ずっと行ってみたいと思ってた。

「じゃあ、下りだね」

 この町から、何時間かかるか分からないけど。

「うん」

 何日かかるか分からない、世々璃を探す旅の拠点にはうってつけだ。



 電車の中、効きすぎのクーラーが今はありがたい。

 がらがらの客席、ボックス席を二人で贅沢に陣取ってわたしたちはそれぞれやりたいことをしていた。

 遥君は黙々と古い本を読んでいる。わたしはぼうっと窓の外を見たり、持ってきた雑誌をめくったり、お菓子を食べたり。

 この、ぼんやりした時間が好き。

 景色を眺めながら、ふいに蘇る記憶をつかまえるのが、好き。

 幼い頃、自分の住む町が終点だと思っていた。

 この先に電車は行かない。

 ここは終わりの町。

 知らなかったから、そう思ってた。

 小さな頃はおばあちゃんちへ行くための上りの電車しか使わなかったから、地元の駅で降りるたび、思ってた。

 この電車のおうちは、ここ。

 この先は無いんだ。

 思えば、それは世界の果て、ってこと。

 わたしが住んでいる町は、わたしが幼い頃、世界の果てだったんだ。

 小学生になって地理を習って、北海道が日本の最北だと知って気付いた。

 この町はただの町。

 世界の果てなんかじゃない。

 世界はまだまだ広がっていた。

 知らない知識を新しく得るたびに、世界は途方も無く広く、そして手が届かなくなっていく。

 知れば知るほど遠くなる。

 育てば育つほど、自分が小さくなるように思えた。

 いつかそう言ったとき、世々璃は笑った。

「小さいかもね。

 かもしれないけど、みらい。みらいの世界はみらいだけのものだよ」

 わたしの世界はわたしだけのもの。

 世々璃は言った。

「みらいの世界、いつか見てみたい。私の世界にもいつかおいで」

 世々璃の言う事は漠然としている。

 わたしの世界。

 わたしだけの考え。わたしの思い。

 そういうことだろうか。

 世々璃の世界。

 世々璃だけの考え。世々璃の思い。

 世々璃の基準。

 無邪気な世々璃の、世界。

 とても居心地がよさそうだから、わたしは気付けば微笑んでいた。

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