第四章

あなたと添い遂げたい。

 ツバキの後ろに、見上げるほどの狼が現れた。

 白い毛並、たくましい手足。

 そして、燃えるような赤い瞳。


 かつて山の神として存在し。

 今は消えたと、そう思われていた神、オオクチノマガミ。


 神々こうごうしく気高けだかい姿に、リクは言葉を失った。


「三島リク、橘ユイ、トヨウケビメノカミ」


 低い声で、マカミは語りだした。


「このたびのこと、まことに申し訳ない」


 身体を起こそうとして、リクはまだ痛みが全身に残っているのを感じた。

 思わず顔をしかめたところに、ユイが駆け寄ってきた。


「ごめんなさい、リク。ごめんなさい・・・」


 謝罪の言葉を繰り返しながら、リクを助け起こすと。

 ユイはそのまま、その場に泣き崩れた。


 ツバキの言葉に従い、リクを孤立させ、トヨから引き離そうとしたユイ。

 リクは何も言わず、そっとユイの背中に手を置いた。


「どうかその少女を責めないでほしい。彼女は我らの頼みを聞き、それに従っただけなのだ」


 マカミに言われるまでも無く、リクにはユイを責めるつもりなど毛頭なかった。


 ユイの気持ちなど、リクは今まで少しでも考えたことが無かった。

 むしろ、リクはユイに謝らなければならないくらいだ。


 ツバキに見せられた夢の中で。

 ユイは、リクにトヨのことを思い出させてくれた。


 あのまま幸せな夢に沈んで。

 それを現実に昇華しょうかさせてしまうことも可能だっただろう。


 ユイはツバキに従い、リクをだまそうとしたかもしれない。

 しかし、最終的にリクを助けてくれたのもまた、ユイだ。


「ありがとう、ユイ」


 リクの言葉を聞いて、ユイは再び声をあげて泣いた。



 マカミはぐるり、と首を巡らせると、トヨの方を向いた。


「トヨウケビメノカミ、その封印を解く前に一つ頼みがある」

「なんだいオオクチノマガミ。私は今非常に機嫌が悪い。聞く耳があるうちに言ってみるがいいよ」


 トヨはマカミを睨み付けた。

 その眼からは、未だにたぎる程の怒りが感じられる。

 マカミが現れたことで、その場は収まりつつあったが。


 トヨの感情までは、なかなかそういうわけにはいかなかった。


「どうか、我の妻を粉々にはしないでいただきたい」

「・・・心得た」


 苦虫を噛み潰したような表情で、トヨは応えた。


 拝殿を覆う光が消え失せ、封印が解かれた。

 トヨは真っ先にリクに駆け寄った。


「リク!」


 その身体に触れて、わなわなと震えて。


 トヨは涙をこぼした。


「ごめんよ、リク、私のせいでこんな・・・」

「いいんだ、トヨ。この痛みが、きっと絆の証なんだって、そういうことなんだろう?」


 リクはツバキの方を向いた。

 マカミが現れてから、ツバキはその横に静かにたたずんでいる。


 先ほどまでとはうって変わって、穏やかな表情。

 太陽を思わせる温かい気配。

 たたり神ではない、本来の姿。


 マカミの眷属神ツバキ。


 リクの問いかけに、ツバキはすまなそうに頭の後ろを掻いてみせた。


「まあ、そういうことだ」


 すらりとして、日焼けしたしなやかな身体付きの女性。

 どこかに幼さを残しつつも、強い意志を感じさせるその顔付きに。


 リクは、高山に咲く一輪の花を連想した。


「リク、アタシはあんたを試してたんだ」




 甘い、花の香りがする便りが届いて。

 マカミとツバキは、トヨウケビメノカミのことがひどく心配になった。


 人と恋をし、み地まで作り出したトヨウケビメノカミが、日を置かずにまた新たに人間と恋に落ちた。

 しかもその人間は、並ならぬ力の持ち主だという。


「トヨウケビメノカミは正直ウブというか、放っておけないところがあってな」


 昔から放っておけない所のあるトヨのことを、マカミは特に目にかけてきた。

 神様として一人前になれるよう、神無月に色々と手ほどきをすることもあった。

 トヨが恋に破れ、祟り神になりかけたと聞いた際には、気が気ではなかった。


 風の噂で、トヨが忌み地を消し去ることに成功したと聞き、マカミの心は本当に穏やかになった。

 力を失い、これでもう後は消えて行くのみと、マカミが覚悟を決めたその折に。


 そのトヨ当人から、新しい人間の彼氏が出来ました、などという便りが届けられた。


 それは何だと。一体どういうことかと。


 マカミの心は激しく揺さぶられ、その動揺を、ツバキは敏感に察した。


「いい加減な相手なら、アタシが追っ払ってやるつもりだった」


 神と人。

 その垣根は、簡単に越えられるものではない。


 かつてはツバキも人間であり、マカミの妻となり、眷属神となった。


 リクの気持ち、そしてトヨの気持ちが。

 ツバキとマカミの間にある絆に匹敵する程の強さを持たないというのなら。


「二人には悪いけど、取り返しがつかなくなる前に別れてもらうってことも考えなきゃならない」


 トヨは一度、絆を失っている。

 今度は、それよりも強い力を持つ人間との間の絆。


 もしそれが中途半端に失われることになれば。

 生じる悲しみや痛みは、想像もつかないものになる。



「私は、二人はお似合いだと思ってる。そんないい加減な気持ちじゃないって」


 ユイがツバキの話に割り込んだ。


 トヨのリクを想う気持ち、そして。

 リクのトヨを想う気持ちが、どれだけのものなのか見極めたい。


 ツバキにそう話を持ちかけられたとき。

 ユイは悩むことは無かった。


 ずっと二人の関係を見てきたユイにとって、二人の絆は十分に強いものだった。

 長い間リクの成長を見守り、心の中に置いてきたトヨが、リクへの想いを捨てることなど、考えられない。

 広い世界に導いてくれた神様のことを、ユイのことなどそっちのけでしたっているリクが、トヨへの想いを捨てるなど、あり得ない。


「だから・・・大丈夫だって信じてたんだよ」


 ユイは黙り込んだ。


 信じてはいたが。

 まさか、ここまでの事態に発展するとは思っていなかった。


 自分の中にわずかに残されていた、リクへの想い。

 それがリクに知られることになって。


 実際に目の当たりにすることで、あってはならないと強く自覚して。


 リクがユイの思ったとおり、当たり前にトヨを選んだことで。


 とても安心して。

 それでいて、悲しい。


 酷く、胸の奥が痛む結果になってしまった。


「つらい思いをさせてしまったね」


 ツバキはユイの方を見て、すまなそうに顔を伏せた。


「いいえ」


 ユイははっきりと言い切った。


「これで良かったんです。二人の絆が本物だって、証明出来たんですから」


 確かに心は痛む。

 しかし、その言葉だけは、嘘偽うそいつわりのないユイの本心だった。




「ツバキ、君は人間だったんだろう?」

「そうだよ、リク。アタシは元は人間だ」


 リクの言葉に、ツバキはうなずいた。


「マカミと同じ時間を過ごすために、アタシはマカミの眷属になった。それを認めてもらえるだけの力は持っていたし、な」


 マカミの方を振り返り、笑う。

 リクは二人の間に、強い絆があるのを感じた。


 ツバキは、マカミの力がおとろえていることを知っていた。

 本来ならば主であるマカミの力が無ければ、従であるツバキは存在することが出来ない。

 ツバキの存在を支えることでマカミの力が失われるのを抑えるため。


 ツバキは自らを祟り神に変じ、逆にマカミの存在維持を引き受けていた。


 しかし、その二人も、今このときに消えていこうとしている。

 ツバキの力が消えてしまえば。

 ツバキも、マカミも、もうこの世界に存在することが出来なくなる。


 人を超え、神の世界にまで足を踏み入れても。

 それでももう、二人は共にあることが出来ない。


 全てのものは流転るてんする。


 人であるリクは、トヨより前に確実に死ぬ。

 神であるトヨであっても、いつかはその存在を維持出来なくなる。


 これだけ相手を強く想っているマカミとツバキでさえ。

 消えて行くという運命には逆らえない。


 それが酷く悲しいことだと。

 リクがそう思ったとき。


 ツバキはリクに大股に歩み寄ると。


 ぐいっと、その胸ぐらを掴んだ。


「おい、リク、お前、なんだその顔は?お前はアタシの中に何を見たんだ?」


 燃え盛る瞳が、リクを真正面から見据えた。



「アタシは『幸せだった』んじゃない。アタシは『今、幸せ』なんだ」



 ツバキの言葉に、リクははっとした。


「アタシはただ、マカミのそばにいられれば、それだけで幸せだ」


 マカミと共にいた間、つらいことも、悲しいこともあった。


 それでも、マカミは常にツバキのそばにいる。ツバキと一緒にいてくれる。

 ツバキにとって、これ以上幸せなことなどない。


「今、アタシは消えていこうとしている。マカミも一緒だ。お互いに、最後の一瞬までアタシたちは一緒。消える時も、一緒。これが幸せでないわけがない」


 ツバキの眼の奥に、あの強い感情のうねりが広がっていく。


「リク、アタシがあんたに伝えたいのは、永遠に愛し合うことは出来ないなんて、そんなわかり切った頭の悪いことじゃない」


 永遠なんて、無い。

 トヨもそう言っていた。


 永遠の存在など無い。

 何もかもが、いつかは消えてしまう。


 だが、そうではない。


「永遠なんて必要ない!」


 ツバキの言葉は、力強かった。


「リク、人と神は、愛し合える。人と人とがそうであるのと同じように、お互いを想い、いつくしみ合い、そして・・・



「お互いを想いながら、消えていけるんだ!」



 リクはツバキの瞳の奥で燃える情動の正体を、そのとき初めて知った。


 それは、マカミを想う気持ちだった。


 怒りだとか、恨みだとか、そんなものだと思い込んでいたから、今の今まで気付くことが出来なかった。

 どれだけのときを経てもせることのない、燃えるような熱い気持ち。


 ツバキはそれほどまでに、マカミのことを想い、焦がれていた。


「リク、トヨ様のこと、よろしく頼む。大丈夫、アタシだって出来たんだ」


 そう言って、リクから手を離して。


 ツバキは笑った。りんと咲く花のように。


 そしてその笑顔を、すぐ後ろで待つマカミの方に向けた。


「行こうマカミ。伝えたいことは伝えた。もう思い残すことはない」

「そうか。つらかったな、ツバキ」

「最後までわがままを言ってゴメン。でも、マカミのお気に入りのトヨ様には、幸せになって欲しかったからさ」


 ツバキの表情は晴れやかだった。


「マカミの喜びは私の喜び。さあ、お待たせ。一緒に行こう」


 マカミはその場に伏せると、ツバキの身体を優しく包み込んだ。

 ツバキはマカミに全てを任せている。

 その表情は、まるで夢見る少女のようだった。


「トヨウケビメノカミ、最後にそなたの伴侶はんりょとなる人間の姿が見れて良かった」


 マカミの声は、もう力を失い始めていた。


「オオクチノマガミ、貴方には本当に世話になった。このご恩、トヨウケビメノカミは決して忘れない」


 トヨが一礼して応える。

 マカミは、にぃっと笑った。


「らしくないぞ、トヨウケビメノカミ」

「最後くらいちゃんと挨拶させてよ。私の・・・」


 トヨはちらり、とリクの方を見た。


「私の、未来の旦那様が見てるんだしさ」


 マカミは目を閉じた。


「おやすみ、マカミ」

「ああ、おやすみ、ツバキ」


 マカミとツバキはお互いに寄り添って眠りについた。


(ねぇ、知ってた、マカミ?)


 優しいまどろみ。


(あの時、緑のあふれる森の中で、初めてあなたを見たとき)


 白く、雄々しい狼の姿。


(アタシ、あなたのこと、本当に綺麗だと思った)


 きらめく光。


(こうやってあなたと添い遂げたいって、そう願った)


 確かな、想い。


(ねぇ、マカミ、ありがとう)


 絆。


(アタシの願い、叶えてくれて)


 狼と少女は、かすみのように消え去った。


 後にはかすかな花の香りが残っていた。

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