断章

遠い記憶・弐(山の守り神と少女の話。)

 ツバキがマカミと共に山を見回るようになって、数ヶ月が過ぎた。


 ツバキはマカミに良く従い、尽くした。

 毎日欠かさずに、マカミと共に起き、野山を巡り、眠りにつく。

 マカミと共に過ごす日々が、ツバキにはとても幸せだった。


 いよいよ神無月が訪れ、マカミは山を離れていた。


 マカミのいない間、ツバキは山の中を見回り、マカミの代わりにその面倒を見た。

 ツバキはすっかりマカミの留守を任されていた。

 森のモノも、動物たちも、ツバキのことを良くしたってくれた。


 森に棲むものと触れ合うたびに、ツバキはマカミが良く山を見回り、実にきめ細やかに気を配っていることを知った。

 マカミは非常に優れた、偉大な神様だった。それはツバキにとっても同様だった。


 月の綺麗な夜に、マカミは戻ってきた。


「ああ、おかえりなさい、オオクチノマガミ様。思っていたよりも早かった」


 一眠りしていたツバキは、眠い目をこすりながら起き上った。


「ツバキ、神無月の集まりでお前の処遇について話してきた」


 マカミは静かな声でそう告げた。

 マカミの言葉を聞いて、ツバキは寂しそうに笑った。


「そうか。いつまでもこんな時が続く訳が無いものな」


 ツバキはマカミに向かって両手を広げて見せた。


「さあ、好きにしてくれ、オオクチノマガミ様」


 山で過ごした日々はたかだか数ヶ月だったが、ツバキがマカミの偉大さを知るには十分な期間だった。


 元を正せばツバキはマカミに捧げられた供物であり。

 その血肉がマカミの一部となるのであれば、ツバキにとっては本望だった。


「・・・ただ、わがままを言わせてもらえるなら、ふもとの村の人たちに、ほんの少しで良い、山の恵みを分け与えてやってくれ」


 村に残してきた家族のことを思い出す。

 もうツバキのことは死んだと思っていることだろう。

 それでもいい。


 ただ。


「私の命にも意味があったということを、私の家族に知らせてやってほしいんだ」


 ツバキは目を閉じた。

 マカミが近付く気配がして。


 そのまま、ツバキは優しく抱き締められた。


「オオクチノマガミ様?」


 目を開けると、白髪の男がツバキの身体を抱いていた。


「人の姿は慣れぬ。好かぬ。だが」


 その声には、聞き覚えがある。


「こうしてツバキ、お前の身体を感じられることが、こんなに愛おしいとは」


 白髪の男は、人の姿を取ったマカミだった。

 驚くツバキに、マカミは語った。


「神無月の集まりで我は、ツバキ、お前を妻としてめとり、眷属とすることを宣言してきた」


「そんな、勝手な」

「お前は我のものなのだろう。我のものをどうしようが構うまい」


 ツバキを抱くマカミの手に力がこもる。


「それから、我のことはマカミと呼べ。そんな他人行儀な呼び方は・・・好かぬ」


 しばらく、ツバキはマカミに身を任せていたが。


 吹き出すように笑い出して。


「本当に勝手な神様」

 マカミの身体を強く抱き返した。


「勝手に妻とか、眷属とか、人のことなんか全然考えないんだから」

「我のものをどうしようが、我の勝手だ」

「ふふっ、はいはい。わかりました」


 ツバキはマカミの頭をでた。


「マカミがそうしたいなら、そうしてくれ。アタシはマカミの言うとおりにする」


 うっとりとマカミにその身を預けて。

 ツバキは目を閉じた。


「アタシの勝手だ」




 二人が出会ったあの大きな木の前で、二人は祝言しゅうげんをあげた。


 森に住むモノたちが、動物たちが、二人を祝福した。

 木漏れ日の下で、並んで立つ。

 マカミは最初人の姿を取っていたが。

 慣れないのか、すぐに狼の姿になってしまった。


 ツバキはマカミが好きな方でいればいいとだけ言って。

 狼の姿のマカミに、寄り添っていた。


「マカミ、本当に良いのかい?アタシなんかと結婚するなんて」


 ツバキは、自分が女性として扱われることにはまるで慣れていなかった。

 神様が相手とはいえ、こうして妻としてめとられるなど、想像すらしたことがない。


 マカミが自分を眷属として迎えてくれることは誇らしかったが。

 結婚と言われても、どうにもしっくりと来なかった。


「あんたならもっと、そうだな、可憐な花のような美しい女でも娶れるだろうに」


 世辞でもなんでもなく、本当に心からツバキはそう思っていた。

 山の神としてマカミは優れているし、狼としてもたくましい。


 神様の世界のことは良く知らなかったが。

 少なくとも異性から興味をもたれない、ということは無いだろう。


「何を言っている、ツバキ」


 マカミはつまらなそうに応えた。


「そんな花に我は興味はない。我は凛々りりしく咲く一輪の花、そんな花が良いのだ」

「花ねぇ。やっぱりそんなガラじゃないよ」


 花にたとえられることだけは、どうしても慣れそうにない。


 まぶしい緑の中で、ツバキはマカミの妻となり、眷属神となった。

 そして二人で山野を治め、麓にいる人々にもその恵みを分け与えた。

 二人は森に住むモノたちからも、人間たちからもよくうやまわれ、あがめられた。




 それから数年か、数十年か。

 穏やかで平和な時が流れた。


 ある年の神無月。

 例年通りに、ツバキはマカミの留守を預かっていた。


 あの時と同じ、月の綺麗な夜に、マカミは帰ってきた。


「ああ、おかえり、マカミ」


 ツバキがそう声をかけるや否や。

 マカミは人の形となってツバキを抱き締めた。


「わ、ちょっとどうしたの」


 慌ててマカミの身体を抱きとめたが、マカミは何も言わない。


「・・・マカミ、どうしたんだい?」


 ツバキは優しくマカミの頭を撫でた。

 神無月の集会で何かがあったのだろうと察して、ツバキはマカミにさせるままにしておいた。


 マカミはしばらくツバキを両腕の中に留めていたが、やがて、そろそろと力を抜いた。


「すまぬ、少し動顛どうてんしていた」

「珍しいね、あんたがそんなになるなんて」


 身を起こそうとしたマカミを、今度はツバキが強く引き留めた。


「いいよ、このままで聞く。話して」


 マカミはぽつりぽつりと語りだした。


 マカミがよく面倒を見ている、トヨウケビメノカミの話だった。

 危なっかしくて目が離せないと、以前からよく話には聞いていた。

 確か、人間と恋仲にあるという噂を聞いて少々心配だ、などと話をしていたのが最後だったか。


 どうやらその不安が的中した。


 トヨウケビメノカミが目を離している間に、その人間は命を落としてしまったらしい。

 トヨウケビメノカミの悲しみは大きく、あわやたたり神になるかというところまでちたが。

 その悲しみを切り離し、み地として封じることで自らを保ったのだという。


「そうか、それはつらいな」


 ツバキは優しくマカミの背中を撫でた。


「人の命は短くはかない。トヨ様もさぞかしつらいことだろう」


 マカミの首に手を回し、そっと口づけする。


「ツバキ、我は・・・」


 マカミはかすかに震えていた。

 ツバキはふふっと笑った。その笑顔は、全てを承知していると語っていた。


「怖くなったんだね。トヨ様の悲しみに当てられちゃったか」


 自分の半身ともいえる相手が、自分のいない間に消えてしまう。

 それはとても怖いことだろう。


「大丈夫だよ。アタシはあんたが消えるその時まで一緒だ」


 震えるマカミの身体を、ツバキはその夜一晩中抱いていた。

 朝日が二人を照らすころになって、マカミはようやく落ち着きを取り戻した。


「トヨ様だってわかってる。永遠なんてものはない。全てのものは消える定め」


 それはツバキであっても、マカミであっても同じこと。

 覚悟だけは、常に持っておかなければいけない。


「消えていったものと折り合いが付けられる日が、いつかはやってくるさ」


 お互いの形を見失いそうになるほどに抱き締めあった後。

 ツバキはマカミの身体をようやく離した。


 そして、微笑んだ。気高けだかく、優しい笑顔だった。




 数十年の時が流れ、時代が過ぎた。

 人の世は目まぐるしく大きく動き、その在り方も変化した。


 山は少しずつ切り開かれ、森は無くなり、川は埋め立てられた。

 マカミもツバキも木々を守ろうとしたが、世の中の流れには逆らえなかった。


 動物たちが姿を消し。

 木漏れ日は無くなり。

 風が花の香りを運ぶことも無くなった。


 後には人間の家が整然と並び。

 申し訳程度の緑地が残され。


 もう、あの時の山は、自然は。

 跡形も無く消え去ってしまった。


 世界が急速に変わっていくことを、マカミもツバキも悲しんだが。

 これが時代なのだろうと、どこかであきらめていたのも確かだった。


 全てのものは流転るてんする。

 永遠は存在しない。


 ただ、人がもたらした変化があまりにも急激すぎて。

 嘆くひまも、惜しむ余裕すらも与えてくれないという、ただそれだけのことだった。


 小さな丘になった山の中腹に、やはり小さな児童公園が出来た。

 公園にある石造りの祠が、マカミとツバキの住処すみかとなった。


 かつて、あの大きな木の根元にあった祠が移されたものだ。


 マカミとツバキが、祝言をあげたあの場所。

 木々は切り倒され、土は削られて、もうその場所は何処であったのかさえも定かではない。


 祠だけが移転され、残されることになり。

 二人はそこで、ひっそりと暮らすことにした。


 公園には、住宅街の子供たちが遊びに来る。

 ツバキは子供が好きだった。

 子供たちが危険な目に合わないようにと、日々優しく見守っていた。


「マカミも子供なら嫌いじゃないでしょう?」

「我はやはり人は好かぬよ」

「もう、強情だな」


 木々が消え、動物たちが消えたことで、マカミの力は急速に失われていた。

 新しく出来た町に住む人々と、この公園を訪れる者だけが、マカミとツバキの存在を支えていた。




 そしてまた、時が流れた。


 住宅街から、人の姿が無くなった。


 急速に開発を進め、近い世代の家族だけを入居させた結果、ある時期を境に住民の空洞化が発生した。

 人がもたらした急激な変化は。

 結局のところ、人の手にも負えることは無く、また新たな変化を連鎖的に生み出しただけだった。


 人の住んでいる家は次々と無くなっていき。

 やがて、最後の家からもあかりが消えた。


 そんな山を、町を、マカミとツバキは、昔と変わらずに日々見回っていた。


 そこには木々も、せせらぎも無い。

 動物も、人もいない。


 あるのは誰も住まなくなった家ばかり。

 道路のアスファルトもひび割れており、車が通ることも無い。


 油断すれば良くないモノたちがそこかしこに沸く。

 見回りを続けてはいたが、マカミの力はもう限界に達しようとしていた。


 そんな折、花の香りがする便りが届いた。

 甘くて、懐かしい匂い。


 ツバキは便りを読むと、マカミに言った。


「ねえ、マカミ、頼みたいことがあるの」


 心の中に沸いた、わずかな想い。

 存在するための活力。


「アタシの最後のわがまま、聞いてくれる?」


 それはつらく、苦しいことになるかもしれない。


 しかし、ツバキはそれでも、どうしてもこの便りに書かれている二人に伝えたいことがあった。


 こんな甘だるくてふざけた年賀状を出してくる神様と、その想い人に。

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