第三章

本当にうらやましい。

 背中にあたるコンクリートの感触が、ひんやりとして心地よい。

 熱く火照ほてった心が、静まっていく。


 ツバキはうっすらと目を開けた。

 目の前に広がるのは、無明むみょうの暗闇。

 遠くから、かすかに水の流れる音が聞こえてくる。


 街の地下を縦横無尽に走る狭い下水管の一つ。

 ツバキはそこに、身体をくの字に折りたたんで、膝を抱えてじっとしていた。


 触れるものは、空気も含めて全てが冷え切っている。

 気を許せば、本当に心の炎が消え去ってしまいそうで。

 無駄な力は一切使うわけにはいかなった。


 今のツバキを支えているのは、自分の中にある衝動。

 燃え上がる気持ち。

 油断すれば、今すぐにでも全ての力を失い。

 存在自体を保てなくなってしまいそうになる。


 少し冷静になって考えてみれば。

 ツバキのやろうとしていることは実にばかばかしくて。

 何の意味もないことに思えてくる。


 しかし、今は考えることはしたくなかった。


 正しいとか。

 間違っているとか。


 今はまだ、そんな判断は必要ない。

 自分の中にある衝動にまかせる。

 そうすることで。

 まだ、自分がここにいることを保っていられる。


「リク・・・」


 ツバキは、リクの姿を思い返した。


 見た目は、普通の若い男だ。

 取り立ててたくましいわけでもない。

 何かにひいでているという様子もない。


 至って平凡で。

 正直、何処にでもいそうな風采ふうさいだ。


 だが、確実に視る力は持っていたし。

 ツバキを恐れずに、罠かもしれない場所に飛び込んできた。


 トヨが駆けつけることが無ければ、恐らく自分で一戦を交えるぐらいのつもりではいただろう。


 いい度胸だ。


 うっすらと、ツバキの顔に笑みが浮かぶ。


 かすかに、猫の鳴き声が聞こえた。

 どうやらこの場所も嗅ぎつけられたらしい。


 良く統率されている。

 移動しようと身を起こしたところで。


 ツバキは、何者かの気配を感じた。




 町はずれに、古い工場跡があった。

 かつてはメッキ工場であったということだが、もう操業しなくなって随分になる。

 付近には民家もなく、人が通りかかることもない。


 あまり治安が良いともいえないその場所に、ユイの姿があった。


 周囲を警戒しながら、こそこそと崩れた塀の隙間に身体をくぐらせる。

 薄汚れてヒビの入った壁に、割れた窓が並んだ大きな建物。

 ユイはその建物に近付くと、そっと扉を開けて中に滑り込んだ。


 建物の中は、天井のあちこちに穴が開いている。

 そこから射し込む陽の光が、床に散らばるがれきをまだらに照らし出していた。


 ユイはその中を迷わずに進んでいく。

 やがて、大きな何かの機械の残骸が見えてきた。


 そのかたわらに、人影があった。


 普通の人間には見ることの出来ない、不可視の存在。

 ツバキが、ぐったりとその身を横たえていた。


「ツバキさん、大丈夫ですか」


 ユイは倒れているツバキに恐る恐る声をかけた。

 ツバキの目がゆっくりと開き。

 ユイの姿をとらえた。


「ああ、あんたか」


 力のない声でそう言うと、ゆっくりと身体を起こす。

 ツバキは立ち上がろうとしたが、座り込むのが限界だった。


「食べるものを持ってきました」


 鞄の中から、ユイは菓子パンやおにぎりを取り出した。


「食べるって・・・」


 笑い飛ばそうとして、ツバキは思い直した。


 眷属となっているツバキは、既に人間ではない。

 食事という行為は、もう気が遠くなるくらい昔にしなくなっていた。


 だが、供物くもつをエネルギーに替えて取り込むことは可能だ。

 特に今、ツバキはたたり神となっている。

 何らかの手段で力を蓄えなければ、ただ消費し続けるだけで、すぐに存在を保てなくなるだろう。

 長い年月おこなっていなかったとはいえ。

 食べる、という発想を持てなかった自分が、ツバキはなんだかおかしかった。


 ユイが持ってきた食べ物をツバキはむさぼった。

 身体の中に活力がよみがえるのがわかる。

 食べるということは、力を得ることであったのかと、ツバキは改めて思い知った。


「まだここは猫には気付かれていないはずです。しばらくは大丈夫」


 ユイの言葉を聞いて、ツバキは鼻で笑った。


「お前、トヨウケビメノカミに連なる者だよな」

「・・・そうです」

「わかっているのか?アタシはあんたんとこの三島リクを狙ってるんだ」


 ユイは応えなかった。

 ツバキのことは、トヨやサキチから聞かされていた。


 リクを狙う祟り神がいると。

 最近、トヨがリクの学校に行って神社を留守がちにしているのも、リクをこの祟り神から守るためであると。


 ユイがツバキを見つけた時、ツバキはもう息も絶え絶えに思えた。

 猫たちに見つかれば、もう抵抗する力も無いだろう。


 そう判断したユイは、ツバキをこの場所まで案内した。


 猫たちの包囲網も、トヨの信者であるユイには通用しない。

 ユイの言葉ならば猫たちは無条件に信じてしまう。

 包囲に穴を作ることなど、造作もないことだった。


 この廃工場は、ぎりぎりトヨの管轄の外にある。

 猫たちの監視の目も行き届いていないはずだ。


「お前は甘いよ」


 ツバキの言う通りかもしれない。

 軽はずみな行動だったかもしれない。


 だが。


「ツバキさんは、私に危害を加えませんよね」


 いくら力を失っているとはいえ、ツバキは眷属神の端くれ。

 ユイ程度の人間一人を殺すなど、たやすいことだろう。


「利用価値があると、そう考えているだけかもしれない」


 ツバキはニヤリ、と笑った。


「現にこうやってかくまってもらった挙句あげく、食い物まで用意してもらえた。実に便利じゃないか」


 ツバキにしてみれば、確かにユイの行動は好都合だ。

 この上、リクやトヨの動きまで知ることが出来れば万々歳だろう。


「リクに、用があるんですよね」


 その質問に、ツバキはぴくん、と反応したが。

 口を開くことは無かった。


「私や、トヨちゃんには用が無くて、リクにだけ用があるって」


 ユイはツバキの様子をうかがった。

 ツバキは笑みを浮かべたまま沈黙している。


 だが、その笑みは。

 不思議と穏やかで。


 まるで、優しい微笑みだった。


「ツバキさん、本当のことを教えてください」


 ユイの真剣なまなざしを見て。

 ツバキは目を閉じた。


「トヨ様のトコロは、こんなヤツばかりなのか」


 独りごちるツバキを見て、ユイはやはりこの祟り神が異常であると考えた。


 ユイも色々と見えないモノを視てきてはいたが、祟り神を見る機会はそれほど多くは無い。

 ごく最近、あまり望ましいことではなかったが、最も身近な神様であるトヨが祟り神となったことがあった。

 その時のトヨは、強い痛みと、悲しみで満たされ、とても正気を保っているようには見えなかった。


 今目の前にいるツバキは、それと比べれば明らかに様子が異なる。


 確かに、その内に強い情動がうごめいていることは判るが。

 こうしてそばにいても、それほど強い負の感情は感じ取れない。

 冷静に、落ち着いてユイと会話することが出来る。

 祟り神とは、一体何をもって祟り神と言うのだろうか。


「祟り神って言うのはな」


 ユイの考えを読んだのか。

 目を閉じたまま、ツバキは語り出した。


 祟り神とは、強い力を持ったまま、世界のことわりからはみ出した存在のことを言う。

 本来ならその力は霧散むさんし、消滅するしかないのだが。

 何らかの意思がその力をまとめ上げて、無理に存在を形作っている。


 それは負の感情であるかもしれないし。

 何かに裏打ちされた強い意志なのかもしれない。


「じゃあ、ツバキさんは、そこまでして成し遂げたい何かを持っている、ということなんですね」


 ユイのその言葉を聞くと。

 ツバキは口元だけをゆがめて。

 今度こそはっきりと、静かに微笑んだ。


「本当に、トヨ様がうらやましい」


 ユイの言う通りだ。


 今のツバキを突き動かしているのは、激しい衝動。

 どうしても、やらなければならないことがある。

 この強い意志が、ツバキという存在をまとめあげ、かろうじて形を保っている。


 恐らく、残された時間はもう少ない。

 出来ることを、出来るうちにやらなければ。


 マカミにも、申し訳が立たない。


 意を決して、ツバキは目を開けた。

 ユイが心配そうに覗き込んできている。

 機会は最大限に生かすべきだ。


「頼みがあるんだが」


 ツバキはユイにそう持ちかけた。




 昼下がり、いつもより早い時間にユイは稲荷神社にやって来た。

 リクの学校は、まだ下校時間になっていない。

 ならば、リクと一緒に学校に行っているトヨも不在なはずだ。


 拝殿の中を覗くと、そこにはサキチが丸くなっていた。


「よう、ユイか」


 サキチはユイの姿を見ると、ぐぅっと伸びをした。


「トヨ様もリクもまだ戻ってないよ。今日も仲良く学校のはずだ」

「うん、そうだと思った」


 拝殿の中に足を踏み入れる。

 やはり、トヨもリクもいない。

 他の猫の気配も無い。


「例の祟り神はまるで姿を見せないんだが・・・しかし、油断は出来ない」


 サキチは拝殿の床に座って、ユイに語り始めた。


 祟り神は、死霊よりもはるかに厄介な存在であると。

 元々が神様であるということもあって、その尻尾を簡単に掴ませないこともあると。


「荒れ狂う台風みたいなヤツなら話は別なんだが」


 以前のトヨがおちいった状態が、それになるのだろう。

 確かに、その辺で適当に暴れ回るだけの相手なら、向こうから勝手に居場所を教えてくれることになる。

 やはり、ツバキは強い意志を持ってことに当たっているのか。


 あるいは、邪悪で狡猾こうかつな祟り神なのか。


 ユイは唾を飲み込んだ。

 だまされている可能性は、否定出来ない。

 ツバキ自身、ユイのことを利用している可能性について示唆しさしていた。


 しかし、利用している側の者が、わざわざそういう言い方をするだろうか。

 様々な考えが脳裏を駆け巡り。


 ユイは小さく首を振った。


 それから覚悟を決めると。

 サキチの背後から。


 そっと手を伸ばした。


「ごめんね、サキチさん」


 サキチの首筋に、手に持った札を近づける。

 青白い火花が走った。


「ユイ、お前、それは何だ・・・」


 ぐらり、とサキチの身体が揺れて。


 そのまま、床の上に崩れ落ちた。


 慌ててサキチの身体に触れて。

 命に別条がないことを知ると、ユイはほっと胸を撫で下ろした。


 本当にこれで良かったのか。


 自分がしたことが、どんな結果を招くのか。


 まだ答えは出ない。


 今は、ツバキを信じるしかない。


 気を失っているサキチの頭を撫でて。


「ごめんね、サキチさん」


 ユイはもう一度その言葉を繰り返した。

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