また一歩、踏み出せたよ。
トヨとの学校生活も、すっかり板についてきた。
朝リクが家を出ると、玄関先でトヨが待っている。
「おはよう、リク。早く行かないと遅刻するよ」
二人で並んで学校まで行き、教室の前で別れる。
「じゃあ、また後でね」
休み時間の度にトヨはリクの席まで来る。
「どう?授業で判らないトコロとかない?」
昼休みには一緒に食事をして。
「あ、全部載せうどんとか食べてみたい!」
授業が終われば一緒に下校して。
「ちょっとクレープ食べていこうよ」
神社までトヨを送る。
「また明日ね、リク」
トヨと一緒の学校生活が当たり前になってきて。
普段から制服姿のトヨと一緒にいることが増えてきて。
リクは、本当にトヨが同じ学校の生徒であると錯覚し始めてきた。
「なんだか最近、またトヨが神様なのかなんなのかよくわからなくなって来たよ」
帰りの道すがら、リクはトヨと並んで歩いていた。
最近は小道具まで使い出して、何処でどう工面したのか、トヨは学生鞄を下げている。
多分他の人間に姿が見えたとしても、もう
違和感を覚えているのは、むしろトヨの姿が見えているリクの方だった。
「リクは本当に私に対する信心が足りてないというかなんというか」
制服姿で言われても全く威厳は感じない。
「それじゃただのちょっとイタい女子高生だよ」
「なんだい、それ」
トヨは少しむくれてから、優しく微笑んだ。
「でも、その分リクが神様じゃない『トヨ』を好きになってくれてるなら、トントンかな」
「え?」
「ふふっ、楽しいってコト」
小さく軽やかにステップを踏んで、トヨはリクの前に立った。
制服の
「神様になってから、こういう気持ちになることって、あんまりないからね」
トヨは少し考える素振りをした。
「ねえリク、今日ちょっと寄り道していいかな?」
「今日も何も、最近はクレープとか喫茶店とか、ほぼ毎日寄り道してるじゃないか」
おかげでリクの財布はすっからかんだ。
トヨがお金を出すと言うこともあったが。
それが神社の賽銭だと思うと、恐れ多くてとてもではないが出してもらうことは出来なかった。
「そうじゃないよ」
トヨはリクの手を取った。
「今日は、もっと大事な用事」
トヨに連れられて歩いているうちに、リクはトヨがどこに向かっているのかわかってきた。
いつもはもっと賑やかなトヨが、その日に限ってあまり口を開こうとしない。
人気のない山道に入ったところで、リクは確信した。
トヨは、
以前マナと訪れたときには、この山道は悪夢の中に沈んだような雰囲気に包まれていた。
しかし、今はただの寂しい無舗装の道に過ぎない。
何の物音もしない静かな道の先には、かつて人形師の
立ち入り禁止の札の向こうは、トヨの悲しみの心で暗く閉ざされていた。
その場所に久しぶりに立って。
リクはその先に広がる光景を目の当たりにした。
そこには、何もなかった。
ただ荒れ果てた茶色い地面が、無造作に転がる石コロがあるだけ。
少し離れた場所に、小さなショベルカーが一台忘れられたように
他には何もない。誰もいない。
遠くの街の音も届かない、山の中腹の荒れ地。
冬の肌寒い空気だけで満たされた、寂しい場所だった。
「住宅地にするらしいね」
トヨが言った。
「今までは私が封印して、猫たちが人を近づけないようにしていた。その封を解いたから、あとはこの土地をどう使うかは人間次第というか」
かつてこの場所に、一人の人形師が住んでいた。
その人形師と、トヨは恋に落ちた。
触れることすら
大きな悲しみの傷痕だけを残した。
「止まっていた時間が、やっと流れ出したっていう感じかな」
人形師の庵も。
トヨの傷痕も。
もう、跡形もない。
誰も知らない。
知られることは無い。
「永遠なんてものは、ないんだよ」
トヨは目を閉じた。
「全てのものは
何もない荒れ地を見て、リクは自分もいつか消えてしまうものなのだろうか、と思った。
こうして今、トヨと一緒に並んで立っている。
今この時は幸せかもしれない。
しかし、自分もまたヨウシュウと同じ、いつかは死ぬ。
トヨの横からいなくなる。
そんなことを考えて、リクは少し寂しくなった。
「リク」
呼ばれてトヨの方を見ると、トヨが不機嫌そうにしていた。
「なんて顔をしてるんだい。キミは、今日どうして私がここに来たと思っているんだい?」
トヨはリクの両手を優しく握ると、胸の前に持ち上げた。
「ヨウシュウのこと、忘れようとしても忘れられるわけじゃない」
それだけ大切な人だった。
大切な想いだった。
気持ちに嘘をつくことは出来ない。
それを否定することは、今の自分の全てを否定することにつながる。
「まあ、リクは面白くないかもしれないけどさ」
トヨはちょろっと舌を出してみせた。
「でもそれはもう思い出の中だけのこと。振り返って、引出しを開けて中を見たとき、ああ、懐かしいな、こんなこともあったなって、そうやって思うものなんだ」
一緒に過ごしたこと。
愛していたこと。
愛されていたこと。
それは、トヨにとっては宝物。大切な、きらきらとした思い出。
「今日、私は、思い出を過去にするためにここに来た」
綺麗だからといって、いつまでもそれを手に取って。
眺めていたら、前に進むことは出来ない。
新しい何かを見つけることは出来ない。
今は、そっとしまっておこう。
「これからは、キミとの思い出を作っていく」
神様でなければいけなかった。
ずっとそう思い続けてきた。
そうしなければ、また同じ過ちを繰り返してしまう。
失うことが怖くて。
臆病になって。
どこかで、一歩後ろに下がっていた。
でも。
手をつないだとき。
暖かさを感じたとき。
絶望に沈みそうな自分を、引き上げてくれたとき。
想いを伝えてくれたとき。
自分が忘れていたものを、次から次へと思い出させてくれたとき。
トヨは、神様ではなくて。
トヨになった。
トヨになってしまった。
真っ直ぐな気持ちに、逆らうことが出来なかった。
だから。
お付き合いをしようと決めたときは。
トヨの方から、お願いをした。
お願いされて、それを叶えるのは、神様のすることだから。
二人のつながりは、そんなものではないと、そう思いたかったから。
「リク」
名前を呼ぶ。
その響きが、いつもとは違う。
そうだ。
今声を出したのは、トヨ。
神様じゃない、トヨ。
恋をしている。
女の子。
「キミのせいで、私はまた神様失格になりそうだ」
別に、特定の誰かに特段の加護を授けることは、禁止されているわけではない。
神様にだってお気に入りはいる。
でも。
学校の制服を着て。
同じ学校に通って。
おしゃべりして、寄り道して。
わがままな神様は多いけど。
そんな神様、聞いたことが無い。
「それでも」
リクが、トヨの手を強く握り返してきた。
顔が近い。
お互いの息遣いがわかる。
身体が無いはずなのに、心臓が跳ねる、呼吸が早くなる。
「それでも、トヨはトヨ、だよね」
その言葉を聞いて。
トヨの中で、トヨが
トヨは。
そっと、リクに口づけした。
リクに触れる、ということはもう何度も経験していたが。
初めて触れる唇は。
柔らかくて。
なめらかで。
何処か甘くて。
不思議と、気持ち良かった。
離れてからも、その感触がかすかに残っていて。
トヨは、全身が熱を持つのを感じた。
ただ、身体の一部同士が触れただけだというのに。
今までだって、沢山手を握ってきたというのに。
どうして唇が触れ合うだけで、こんなに自分の中が騒がしくなるのだろう。
トヨの心の中に。
あのとき、ヨウシュウの面影に向かって語りかけた。
大切な言葉が
もう、口にしても良い。
きっとこの言葉は、風に乗って、何もないこの荒れ地の中に行き渡り。
そのまま溶けてしまうだろうけど。
それで良い。
「リク」
もう一度、リクに呼びかける。
大事な言葉。
今のトヨを支えている、とても大切な言葉。
今までではなく、これからを作っていく言葉。
素敵な縁が作る、楽しい未来を期待させる言葉。
「私、好きな人が出来ました」
口にしてしまえば、たったそれだけの言葉。
認めてしまえば、本当に些細な、それだけのこと。
それでも。
トヨにとっては。
神様ではないトヨにとっては、とても大切な言葉だった。
「うん」
そう言って。
リクの額が、トヨの額に触れる。
握った手と。
くっついたおでこから。
温度を、体温を。
暖かさを、感じる。
「今更こんなこと言って、リクにはすごく、申し訳ないと思うんだけどさ」
本当に。
リクが気持ちを打ち明けてくれてから、もう何ヶ月が過ぎているだろう。
お付き合いを始めてからは、二ヶ月くらいか。
その間、リクはずっと待ってくれていた。
トヨが、トヨとして。
きちんと自分の気持ちが整理出来るのを。
自分の気持ちを言葉にすることが出来るのを。
待っていてくれた。
「ごめんね、いっぱい待たせちゃって」
「そんなことないよ」
リクが笑う。
優しい笑顔。
ああ、もうダメだな、とトヨは。
自分の気持ちが抑えられないことを知った。
「リク、好きだよ。私は、トヨは、リクのこと、好き」
リクが、トヨに気持ちを打ち明けてくれたときのことを思い出す。
沢山の言葉が溢れ出ていたリク。
同じように。
トヨも、自分の中から沢山の想いと、言葉が沸いてくるのを感じた。
一度開いてしまえば、もうとめどなく流れ出してしまう。
「リク、好きだよ」
神様だから。
ずっと、そうやって抑えてきた。
表に出してはいけないって。
口にしてはいけないって。
「好きだよ」
言葉と涙が、止まらない。
『自分に嘘をついて、我慢するのが一番良くないんじゃないかな』
ユイの言葉を思い出す。
自分に嘘をついて。
我慢して。
そうやって、ずっときたけど。
「好きだよ」
もう、それはおしまい。
一度溢れてしまったら。
「好きだよ」
止めることが出来ないから。
「トヨは、リクのこと、好きだよ」
何度も何度も。
トヨは、同じ言葉を繰り返して。
まるで子供みたいに涙を流し続けた。
トヨの気持ちを、想いを感じて。
リクは、ただじっと、トヨの声を聞いていた。
日が傾くころになって、ようやくトヨは落ち着きを取り戻した。
手をつないで、並んで。
かつて忌み地と呼ばれていた場所を、二人は後にした。
ふと、トヨはリクの横顔を見て。
「ふふっ」
小さく笑った。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」
初めて触れた、リクの唇。
(七百年以上経ってからファーストキスとか)
考えてみればおかしな話だ、と。
トヨは心がくすっぐたくなり。
リクの手を強く握って。
「また一歩、踏み出せたよ」
小さく呟いた。
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