いつだって間違えてばっかりだ。
ある日の夜、リクは部屋で机に向かっていた。
窓を叩く音がしたので、いつも通りに隙間を開けてやると。
サキチが、するりと中に入ってきた。
「よう、リク」
「こんばんは、サキチ。今日もご飯かい?」
リクが視る力を取り戻す前から、サキチに晩御飯をあげることは通例になっていた。
サキチと言葉を交わすようになってからも、この習慣は続いている。
「あー、そのことなんだけどな」
少し言い
「今日は、ちょっと外に持って行きたいんだ」
「じゃあ持ち出しやすいものが良いかな。ちょっと待ってて」
リクは部屋を出て行った。
居間ではナオがテレビを見ながらビールを飲んでいた。
丁度つまみに
これでいいか、とリクは一本拝借した。
「あ、ちょっと、勝手に持ってかないでよ」
ナオが目ざとくそれに気が付いた。
「俺じゃないよ。サキチだよ」
「んー、サキチにゃんリクにばっかり
「はいはい」
一応言ってるんだけどね、と心の中で返事をしておく。
竹輪を持って、リクは部屋に戻った。
「これで良いかな?ナオからってことで」
「ありがたい」
サキチはそれを大事そうに
ちらり、をリクを見上げた。
「・・・何も聞かないんだな」
「まあ、サキチにはサキチの事情があるんだろうし」
リクは笑った。
「付き合い長いしね」
リクの部屋を出ると、サキチは夜の街を疾走した。
途中で何匹かの仲間と出会い、軽く挨拶を交わす。
その所在は共有意識で知れてはいるが、目の前にいる仲間を確認することは大事な手続きだった。
目で見てその姿を観測することは、猫が猫であるために必要なこと。
なまじ共有意識でつながっていると、お互いに何もかも理解しあえていると錯覚してしまう。
そのことを、サキチはここ最近自分の経験として思い知ることが多かった。
理屈の上でわかっていることと、自分の経験として知ることは違うこと。
自らの経験を生かし、より良い猫たちのリーダーでいられれば。
そう考えて、自分もシロに負けず劣らず大概にまじめだな、と自嘲した。
サキチは、川にかかる大きな橋の下にやってきた。
フェンスの向こう、人が入れない草むらの中に、数匹の猫の気配がある。
そこには、一匹の雌猫と、数匹の仔猫がいた。
「よう、またせたな」
サキチは、雌猫の前に咥えてきた竹輪を落とした。
「気の良い仲間からの差し入れだ。遠慮せずに食いな」
「すまないね」
雌猫は竹輪を食べ始めた。
「こんな時に、ウチの旦那は何処をほっつき歩いているんだか」
「俺もそんなもんだったよ。偉そうなことは何も言えない」
仔猫を置いてエサを探しに行けない仲間の為に、食事を運んでやるなんて。
昔のサキチなら、考えもしなかったことだ。
これもまた、自分の足で歩き、自分の目で見てきて、学んだこと。
「そんなんだから、今こうなってるんだ」
満月の夜がやって来た。
シロが訪れるということで、リクとユイも寒い中神社にやって来ていた。
天気も良く、中空に大きな満月が浮かんでいる。
流石に冬の神社は冷え込んだが、猫たちが境内の中に集まってくると、熱気すら感じられる。
サキチがその中心に座って、時が来るのを待っていた。
「そういえば、またシロさんの身体は作ってあげないの?」
ユイがトヨに訊いた。
以前シロの身体を作ったとき、ユイはその場にいなかったので、次の機会があれば是非一緒に、と望んでいた。
「まあ、リクエストがあればって感じかな。サキチも真面目で頑固だから、他の猫の手前、あんまり頻繁にそういうことはしたくないんじゃない?」
あれ以降、サキチもシロも、その話は一切口にしていない。
まるで、そんなことなど無かった、とでもいう感じだ。
「サキチにも事情があるんだろう。猫の世界にも色々とあるみたいだし」
リクは、エサの無心に来たときのサキチの姿を思い出した。
猫たちのリーダーとして、サキチにはやはり色々とあるのだろう。
「そうだねぇ」
トヨが目を細めた。
その視線の先では、サキチが静かに月を見上げていた。
刻限が近付いてきて、トヨは猫たちの輪の中に入っていった。
茶虎の大きな猫が、その正面に降り立った。
「おっと、失礼」
茶虎は野太い声で
「よう、久しぶりだな、サキチ」
サキチはじろり、と茶虎を睨みつけただけで、返事をしない。
代わりに、トヨが茶虎を見下ろして声をかけた。
「やあ、トラジ、久しぶりだね」
「トヨ様、お久しぶりでございます」
トラジと呼ばれた猫は、かしこまって応えた。
「つもる話もあるんだろうけど、時間なんでね。とりあえず先に進めてしまっても良いかな?」
「はい。儀式を中断させてしまって申し訳ありませんでした」
その言葉を聞いて、トヨは改めて祝詞を唱えはじめた。
トラジはサキチの横に並び、月を見上げた。
やがて、月から白い猫が舞い降りてくるのが見えて。
ふわり、とシロがトヨの前に着地した。
「こちら、異常ありません。やはり
淡々とシロが報告を行う。
目の前にいるトラジのことなど、まるで目に入ってないという素振りだ。
「こっちは別件で問題が起きているが、地上だけの問題だ。そちらに影響はないと考えている」
サキチも、事務的な口調で応えた。
二匹のやり取りを見ていたトラジが、ふん、と鼻を鳴らした。
「やれやれ、久しぶりに会った旧友に、挨拶は無しかい?」
「ごめんなさい。まずは仕事を片付けてしまいたかったから」
シロがようやくトラジの方を見て。
小さく笑った。
「久しぶりね。どう?元気してた?」
「ああ、まあな」
トラジはそう応えると。
おもむろに立ち上がって。
「何をする!」
サキチが素早く動き、シロとトラジの間に飛び込んだ。
全身の毛を逆立て、
睨みつけてくるサキチの目線を、トラジは面白くもなさそうに受け流した。
「ふん、本当に月の猫になっちまったんだな、って思ってな」
月の猫には、実体がない。
触れることも出来なければ、臭いを感じることも出来ない。
本来ならそこには存在出来ない状態でいるものを、猫たちが共有意識で支えている。
「サキチ、どうだい、今の気分は?」
トラジの声に、サキチはぴくん、と身体を震わせた。
「お前、結局シロを月の猫にしちまって、どうなんだい?」
トラジが口を開ける。
尖った牙が、姿を見せる。
「あの時、お前はどんなつもりで俺と戦ったんだ?」
かつて。
まだシロが普通の猫であったころ。
猫たちのリーダーでもない、ただの若い雄猫だったサキチは。
やはり若い雄猫のトラジと、シロを巡って争った。
「俺とお前は何のために血を流したんだ?」
ただ、一匹の雌猫を奪い合うというだけの戦いだったが。
サキチもトラジも、命を懸けて臨んでいた。
傷を作り、血を流し。
それでも、と
「その結果が、これなのか?」
血みどろの、ほとんど殺し合いに近い戦いの結果。
サキチは、シロを勝ち取った。
敗れたトラジは町を去り。
その力を認められたサキチは、猫たちの中での地位をあげていった。
「なあ、サキチ、これはお前が望んだことなのか?」
トラジの言葉が、サキチの心に深く突き刺さる。
「俺がお前なら、シロを月の猫になんかさせねぇよ」
シロは自分の持つ強い視る力を正しく生かすために。
自ら月の猫となることを望んだ。
「シロが何と言おうが関係ない。俺が命を懸けた相手だ」
それもまた、正しい考え方なのかもしれない。
命を懸けてでも得る価値があると、そう思った相手を。
簡単に差し出す方が、どうかしているのかもしれない。
「お前は、それで正しいと思ってるのか?」
サキチの尻尾が、地面に垂れた。
逆立っていた毛が徐々に治まっていく。
サキチはその場に座り込むと。
静かな声で語りだした。
「トラジ、後悔のない選択なんて無い」
サキチが、例えばシロが月の猫になることに反対したとして。
後悔は無かっただろうか。
シロの望みを絶ったことを、後悔したのではないだろうか。
今、シロが月の猫となったことを後悔しているのとは別に。
そこには違う後悔がある。
生きていく上の選択肢に、正解なんて存在しない。
後悔の重さが違うだけだ。
「俺はいつだって間違えてばっかりだ」
間違えるからこそ、本当の正しさを知れる。
身を持って、間違いの重さを知れる。
だが。
「それでも、俺はこいつの望むようにさせてやりたい。俺がこいつの
トラジの口角が上がった。
「それでシロが消えてもか?」
その言葉を聞いて。
サキチの毛が、ざわっと膨れ上がった。
「俺がいる限り、こいつは消えない。消させない」
強い意志と、気迫。
空気がびりびりと震える。
サキチの目が、金色に光った。
「どんなに間違えても、後悔しても、それだけは、譲らない」
身体は無くても。
触れ合うことは無くても。
「シロは、俺の
サキチの言葉を聞いて。
トラジは、
そして、つまらなそうに。
それでいて、何処か嬉しそうに。
「なんだ、ちゃんと言えるじゃないか」
そう、呟いた。
「あー、キミたち、一応土地神様の前にいるんだからね」
黙って話を聞いていたトヨが、腕を組んで一同を見渡した。
「トラジは相変わらずだなぁ。まあ、そういう
トヨはやれやれ、とため息をついた。
「大丈夫だよ。サキチもシロも、ちゃんとお互いの気持ちを知ってるから」
トヨの言葉を聞いて。
サキチはふいっとそっぽを向き。
シロはうつむいた。
「猫ってのはみんなこう、意地っ張りなもんなのかねぇ」
やれやれという口調で語った後、トヨはリクの方を見て。
片目をつぶってみせた。
「全くトラジも不器用というかなんというか」
すっかり夜も更けた境内で、リクとユイは缶コーヒーを飲んでいた。
もう猫たちは解散していて、夜の神社はしんと静まり返っている。
トヨは賽銭箱の上に腰かけて、ぶらぶらと足を揺らしていた。
「あいつはサキチとシロのことが大好きだからね。忘れたころにちょっかいを出しに来たんだろう」
シロを巡って、命を懸けて戦った相手。
トラジはサキチのことを、その当時から認めているということだった。
「サキチとシロに、気持ちを確かめ合う機会を作ってあげたかった、ってトコロなんだろうけどさ」
シロが月の猫として、その形を失わないために。
トラジは、サキチに、シロに。
お互いを想う気持ちを、ああやって思い出させたかったのだろう。
「あれじゃデレが足りないよね、デレが」
トヨの言葉を聞きながら。
リクは、サキチとシロの関係が、少しだけ
触れ合うことが出来なくても。
どこかで、お互いの気持ちを理解し。
尊重し、
サキチがシロを想い続ける限り、シロはそこにいることが出来る。
それは、自分とトヨの関係、人間と神様の関係に似ているな、と。
そう思った。
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