断章

遠い記憶・壱(山の守り神と供物の話。)

 まぶしい緑の中で、アタシは神様に出会った。



 緑の洪水の中を、少女は黙々と進んでいった。

 生い茂った木々の間に隙間はほとんどなく、足元は大小の根で少しも平らなところがない。

 それでも確かな足取りで、少女は森の中を進む。


 やがて、一本の巨大な樹木の前に出た。

 その根元に、申し訳程度の小さな祠がしつらえてある。

 それを見届けると、少女は大きく息を吸い込んだ。


「オオクチノマガミに申し上げる!」


 辺り一帯に響く大声に、周囲の空気が打ち震えた。

 鳥たちが驚いて飛び立ち、小動物が逃げ惑う。

 小枝が揺れて、木の葉が舞い落ちた。


供物くもつささげに参った!是非に受け取られよ!」


 少女の声が森の中に染み渡る。

 しばらくその余韻が残った後で、のそり、と巨木の影から何かが姿を現した。


「なんと騒々しい・・・何事か・・・」


 白い四足の巨躯。

 今まで巨木の陰に潜んでいたのが信じられないほどの、見上げるほどの身体。

 狼の姿をした神。


 少女はその姿を見上げると。

 目を大きく見開き、きらきらと輝かせた。


「オオクチノマガミ様か」

「いかにもそうだが・・・お前は何だ、人の子か。実に騒々しい」


 怒りのこもった声。

 山の神、オオクチノマガミことマカミは人を好かなかった。

 彼らは山に入り、山の実りを荒らし、水を汚し、いたずらに動物たちを殺し、木々を切り倒す。

 人が山に立ち入ってもロクなことにならない。


「我は人を好かぬ。そのことは知っておるか」

「知っている」


 少女は全くおくさずに応えた。


 マカミはほんの少し少女に興味を持った。

 普通の人間であれば、マカミのうなりを聞いただけでひっくり返り、命乞いをし、慌てふためいて逃げ出そうとする。

 ところがこの少女は、おびえるどころか正面からマカミと対話を試みてきた。


「なんの用だ。その度胸に免じて話だけは聞いてやる」

「ありがたい」


 少女はどっかりとその場に腰を下ろして。

 深々とマカミに向かって頭を下げた。


「アタシはこの山のふもとにある村に住む者。今日はオオクチノマガミ様にお願いがあって参った次第」


 少女の願いとは、村に住む者が山に立ち入ることを許してほしい、というものだった。


 今までにも何度かあったことであり、マカミは正直またか、とウンザリした。


 人はどうして自らのことだけを考え、次々とその生活圏を広げていくのか。

 何度となく訴えられ、その度に退しりぞけてきた。

 これもまた、その繰り返しの一つに過ぎないと、マカミはまともに取り合う気を無くしていた。


「どうであろうか?」

「どうもこうもない。供物とやらを持ってさっさとこの山から去れ」


 それだけ言って、マカミはその場を去ろうとした。


「それは困る。供物だけでも受け取ってもらわねば、アタシは村の者に殺される」

「ふん、では供物は置いていくがいい」


 どうせ大したものでもない。

 置いておけば、森のモノたちが適当に持って行くだろう。


「そうか、では」


 少女は両手を広げた。


「受け取るがいい。アタシが供物だ」


 マカミは驚いて足を止めた。

 少女は涼しい顔でマカミの方を見ている。


「どういうことだ?」

「そのままの意味だ。アタシを食らうなり、引き裂くなり、好きにしてくれ」


 マカミは一声吠えると、その巨大な前足から鋭い爪を繰り出した。

 素早く、重い一撃が少女に向かって振り下ろされる。


 少女の頬に小さな切り傷が出来て、すぅっと血が流れ落ちた。


「・・・これでよい。もう山を下りろ」

「オオクチノマガミ様、これでは困るんだ」


 少女はその場から動かなかった。


「アタシが生きて山を下りたなら、今度は首と胴が離れた状態でこの場に置かれることになる」

「なんだそれは」

「オオクチノマガミ様、確かに人は愚かだ。物を壊し、殺さなければ生きてはいけない」


 頬の傷から赤い血をしたたらせながら。

 少女は真っ直ぐにマカミを見た。


「しかし、人もまた必死に生きている。アタシは、命を懸けてその事を訴えに来た」


 少女の目を、マカミは覗いた。

 曇りの無い、澄んだ瞳。

 そこには生きている者の情熱が、強い力がみなぎっていた。


「ふん、勝手にするがいい」


 マカミは今度こそその場を離れるために歩き出した。


「では・・・」


 慌てて、少女が手を伸ばすと。


「どうした、お前は我の供物、我のものなのだろう?」


 ぐるり、と首を巡らせて、マカミは少女の方を振り返った。


「ついてこい。こんなところでしかばねさらされては目障めざわりだ」

「はい!」


 少女は明るく応えた。


「お前の名はなんだ?」

「名前・・・ですか・・・」


 先ほどまで何一つ言いよどまなかった少女が、初めて言葉を詰まらせた。


「なんだ、名が無いわけではあるまい」

「そうなんですけど、その・・・」


 しばらく言いにくそうにしてから、少女は仕方がないとあきらめて、小さな声で名乗った。


「ツバキです」

「そうか、ツバキか」

「花の名前なんて、アタシにはあまり似合わなくて」


 ツバキは頬を赤らめて、恥ずかしそうにうつむいた。

 マカミの前で大見得おおみえを切った勢いは、すっかり鳴りをひそめている。


「何を言っている」


 そのとき、マカミは初めて、人に対して笑顔を向けた。


「お前は美しい。りんと咲く花のようだ」




 ツバキはマカミによって森の奥にある洞窟に住まわされた。


 最初、マカミはツバキのために食べ物を取ってきていたが、すぐにそれは杞憂きゆうであると知った。

 ツバキは自分の周りのことは、一通りなんでもやってのけた。


 寝床を作り、木の実を取り、魚を獲る。


「アタシのことは気にしないで下さい。オオクチノマガミ様の供物なのですから」


 マカミはすっかり拍子抜けしてしまった。

 結局、そのまま自らを供物と言うツバキを森の中に住まわせておくことにした。



 あるとき、マカミはかすかな煙の臭いを感じ取った。

 驚いて見張り岩の上に行くと、そこには既にツバキがいた。


「オオクチノマガミ様、西の滝の近くで火の手が上がっています。恐らく落雷によるものかと」


 ツバキはひらり、と身をひるがえした。

 マカミもその後を追う。

 ツバキの言うとおり、落雷で背の高い木が燃え上がり、辺りが火の海になろうとしていた。


「アタシは水をんできます。オオクチノマガミ様は火が燃え移らないように、周囲の木をなぎ倒してください」

「心得ておる」


 ツバキの働きもあり、山火事はそれほど大事にならずに消し止められた。


 まだくすぶっている焼け焦げた木の根元に、ツバキは静かにたたずんでいた。


「ツバキ、お前何故この山火事のことが判った?」


 マカミの言葉に、ツバキはゆっくりと振り返った。


「この者の声が聞こえました」


 その手の中に、一匹のキツネの死骸があった。


「残念ながら、命を助けるには至りませんでしたが」


 ツバキは動物の声を聞くことが出来た。

 強い視る力を持つ猫ならば、向こうから会話をしてくることもあるが、すべての動物にそんな芸当が可能な訳ではない。

 ツバキは猫が相手でなくとも、ある程度の生き物が相手であれば、その意思をくみ取り、知ることが出来た。


「それと・・・」


 マカミに向かって、ツバキは手を伸ばした。

 白い毛に、ツバキの小さな手が触れる。

 マカミは驚いて身を引いた。


「このようなことも出来ます。アタシは、そういう力を持っているんです」


 見えないモノの姿を見て、見えないモノの声を聞いて、見えないモノに触れる。

 人でない生き物の言葉を聞き、意思を伝えあうことが出来る。

 ツバキはその人間離れした力を理由に、供物としてオオクチノマガミに捧げられたのだった。


「お前は、それで良いのか?お前は供物として、体よく捨てられたのではないか」

「いいんです」


 ツバキははっきりと言った。


「アタシはオオクチノマガミ様に生贄として捧げられました。それは、アタシがそういう役に立てる、ということなんです」


 ツバキの村は貧しい。

 農耕だけで食べていくには、耕作に向いた土地が少なすぎる。

 山に入ることは、村人たちが生きていくために、どうしても必要なことだった。


「アタシが生贄になることで、村は生き長らえます。家族が生きていけます。それがアタシの望みです」


 特別な力を持つツバキは。

 村の中でうとまれる存在であると同時に。


 希望でもあった。


 奇妙な力を持つがゆえに家族が苦しむよりは。

 この力で村を救い、家族を救いたいと。


 ツバキはそう考えて、自ら供物となることを受け入れたのだ。


「前にも言いましたが・・・人も必死に生きているんです」


 マカミはツバキのそばに歩み寄ると、そっとその身体を触れさせた。


「ツバキ、すまない。我はお前のことを、人のことを良く知ろうとしていなかった」

「いいえ、オオクチノマガミ様は間違ってはおりません」


 ツバキの言葉によどみは無かった。


「人は愚かです。愚かだからこそ、神様にすがるのです」




 あくる朝、ツバキのいる洞窟にマカミが訪れた。


「オオクチノマガミ様、いかがなさいました」

「ツバキ、これより山を見回る。一緒についてまいれ」


 マカミはきびすを返してさっさと外に出て行った。

 慌ててツバキはその後を追った。


「この山は広い。我が一人で見て回っていては、色々と取りこぼすこともある」


 森に棲む動物を、モノを、マカミは一匹ずつ確認する。

 水場を訪ねて、木々を見て、人里との境界線を巡る。


「我は山を留守にせねばならないこともある。そのときのために、お前にもこの山を見て回れるようになってもらう」


 神無月にはマカミも出雲に出向かなければならない。

 その間、山の守りをどうするのかについては、随分前からのマカミの悩みの種だった。


「我の役に立て」


 マカミにそう言われて。


「はい、わかりました」


 ツバキは嬉しそうにうなずいた。


「それから、あの洞窟は引き払って、我のねぐらに住まえ。毎度迎えに行くのは億劫おっくうだ」

「はあ」

「あと、我に触れることが出来るのであれば、その力を使わぬのは惜しい。朝夕に毛繕けづくろいをせよ。後は・・・」


 矢継やつぎ早に次から次へと述べられて、ツバキはきょとんとした。


「・・・勝手な神様だなぁ」

「なんだ、お前は我の供物であろう?我がどう扱おうと勝手だ」

「わかりました、オオクチノマガミ様」


 ツバキは観念してマカミの要求を飲んだ。


「お前の処遇しょぐうは神無月のおりに決める。それまでは、我に言われたとおりにせよ」


 神無月までということは。

 マカミが自分の留守を任せた後。


 そのときまでは命がつながったのか、とツバキは心の中で独りごちた。


「・・・しかし、お前に合わせていては日が暮れてしまうな」


 マカミは歩いているツバキの周りをぐるり、と一回りした。


「一応、これでも山歩きには自信あるんですけど」


 ツバキも山に住む民の一人だ。

 それなりに山や森での生活を送ってきている。


 しかし、それでも狼であるマカミと人間であるツバキとでは、そもそもの運動能力に差がありすぎた。

 マカミはふむ、と言ってその場に伏せた。


「ツバキ、我の背に乗れ」

「ええっ、オオクチノマガミ様の、背に?」


 驚いてツバキは後ずさった。

 だが、マカミはその場に伏せたまま動かない。


 覚悟を決めて、ツバキは恐る恐るマカミの背によじ登った。

 視座が高くなり、視野が広くなる。


「うわぁ」


 思わず感嘆の声が口かられた。


「行くぞ、掴まっておれ」


 マカミは地を蹴った。

 緑が奔流ほんりゅうとなり、ぐんぐんと後ろに追いやられていく。

 すさまじい勢いに投げ出されそうになり、ツバキはしっかりとマカミの背にしがみついた。


 木々が流れ、そして、さあっと視界が青に染まる。

 森の外に飛び出したマカミが、空高く舞っていた。


「オオクチノマガミ様、アタシ、風になってる・・・!」


 ツバキは子供みたいにはしゃいだ声を上げた。

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