第二章

調子に乗りすぎた。

 窓の外には、暗い灰色の空が見えていた。

 ここ数日、はっきりとしない天気が続いている。

 すっかり寒くなってきたこととも相まって。

 今日の冷え込みは特に厳しくなりそうだった。


 リクはベッドの中から朦朧もうろうとした意識でその空を見つめていた。


 朝から酷い頭痛がすると思っていたら、かなりの高熱が出ていた。

 全身がだるく、指一つ動かすのも億劫おっくうだ。

 考えてみれば、こんなに体調を崩すのは初めてかもしれない。


「とりあえず学校には連絡しておいたから、今日はゆっくり休みな」


 リクの母親、ナオは出勤の寸前まで心配そうにリクのそばについていた。

 今まであまり病気らしい病気をして来なかったのもあってか、目に見えて動揺している。

 当のリクの方は、大げさだなあ、ぐらいにしか思っていなかった。


「今日は早めに上がってくるから、その時まで熱が下がって無かったら医者に行こう」


 そういえば、医者にかかること自体が珍しい気がする。

 最後に医者に行ったのは、何かの予防接種だったか。


「水分多めにとるんだよ?無理しないで何かあったらすぐ連絡するんだよ?」


 ナオのこんな慌てぶりを見るのは本当に初めてで。

 むしろリクはちょっと可笑しかった。


「・・・大丈夫だよ。心配しすぎ」


 とりあえず笑ってみせたが。

 実際の所は相当つらかった。


 後ろ髪引かれる思いで、ナオは仕事に出かけて行った。


 ベッドで横になりながら、ユイにも連絡しておいた方が良いか、とリクは考えて。


 携帯を握りしめたところで。


 意識が途切れてしまった。




 リクは夢を見た。


 視界が、緑で覆い尽くされている。

 良く目を凝らすと、そこは大きな樹木が生い茂る、深い深い森の中だった。


 足元には無数の根が地を這い。

 柔らかいこけや。

 小さな花が風に揺れている。


 太くたくましい幹が、天に向かって無数に伸びあがる。

 見上げれば、木漏れ日が無数の光の束となって降り注ぐ。


 リクが今までに見たことも無い、山の大自然。


 空気の中に、無数の光の粒子がまたたき。

 さわさわと、風が木々の間をすり抜け、どこかへと渡っていく。


 ふと、リクは森の奥に。

 美しい白い毛並みの。


 大きな獣がいることに気が付いた。


 木の陰に隠れながら。

 ゆっくりと。

 だが確実に、リクの方に近付いてくる。


 一瞬、鋭い真紅の瞳が垣間かいま見えて。

 リクはぞくり、と背中の毛が逆立つのを感じた。


 狙われている。


 そう感じたときには、もう遅かった。


 リクの眼前に、赤い双眸そうぼうが突きつけられる。

 見ているだけで、自分の全てが吸い込まれてしまいそうな。


 真っ赤な。


 狼の、眼。


 あまりの恐怖に、リクは悲鳴を漏らした。




 口を開けたところで、リクは目を覚ました。

 徐々に焦点が合ってくる。


「ああ、起きたみたいだね」


 聞き慣れた、それでいてここでは聞き慣れない声。


 トヨがリクを見下ろしていた。


「あれ?トヨ?」


 熱があるせいだろうかと、リクはぼんやりと考えた。


「ごめんね、リク。悪いとは思ったんだけど、勝手に入らせてもらったよ」


 リクが顔を横に向けると、トヨがベッドの脇に腰かけていた。


 どうやら寝ぼけているのではないらしい。

 ここはリクの部屋で、リクは自分のベッドで寝ている。

 トヨが自分の部屋に居るという、あまりに現実離れした状況に、思考が追い付いていないだけだった。


 良く見ると、サキチが部屋のあちこちを嗅ぎ回っている。

 トヨは心配そうにリクの顔を覗き込んできた。


「大丈夫かい?相当つらいみたいだけど」


 トヨのそんな顔を見て。

 リクは強がって笑顔を浮かべてみせた。


「ああ、トヨ、心配かけちゃったかな」


 ナオにあれだけ心配をかけてしまっていて。

 これ以上、トヨにまで余計な心配をしてほしくなかった。


「熱が酷くてね。今までこんな病気なんてしたことなかったから、自分でもびっくりだよ」


 リクの言葉を聞いて、トヨはゆっくりと首を横に振った。


「リク、キミはよくわかってないみたいだね」


 トヨの優しい微笑みには、リクへの様々な想いが込められていた。


「私の加護があるリクが、普通の病気なんてするわけがないんだよ」


 トヨが最初にリクに会って、視る力を持っていると知ったときから。

 トヨは常にリクのことを気にかけていた。意識の中に置いていた。

 このことは強力な加護となっていて、リクから様々な病魔を遠ざける効果を持っている。


 リクが今まで大きな病気をした覚えがないというのはその通りで。

 実は、それは全てトヨの力であった。


「じゃあ、この熱は・・・」

「うん、これは普通の病気じゃない。もっと早くに気付いてあげたかったんだけど」


 トヨはリクの頭の上でさっと手を一振りした。

 すると、あっという間にリクの身体から熱とだるさが消え失せた。


 リクは上半身を起こしてみた。

 本当に何事もない。さっきまでの具合の悪さが嘘みたいだった。


「これは、瘴気しょうきだな」


 部屋を嗅ぎ回っていたサキチが、ひらり、とリクの横に立った。


「瘴気?」

「あまり良い話ではないんだが」


 言いにくそうにしながら、サキチが話し始めた。


 生きるものをむしばみ、死を振りく負の力の塊を、瘴気と呼ぶ。


 瘴気は、そもそも自然にそこかしこに発生するものではない。

 特に、人が普通に生活している場に突然現れることなどまずない。


「しかも、こいつはとびっきり厄介なたぐいのものでな」


 トヨの加護があるリクなので、体調をおかしくして寝込む程度で済んでいたが。

 これが普通の人間であれば、生死に関わるほどのものだという。


「そんなにすごいのか?」

「下手すれば疫病えきびょうのレベルだ」


 サキチが前もって調べたところによると、リクの他にこんな症状になった者は近隣には誰もいないという。

 これだけ強い瘴気が、一人の人間に対してのみ偶然に影響を及ぼすなど考えにくい。

 それがリクの身体にりつくという事態は。


 何者かが、意図的に病気の元となるような力をリクにぶつけてきた可能性が高い、ということだった。


 トヨはすまなそうに肩を落とした。


「年賀状に、リクの名前も、顔も載せちゃってたから、多分そこからだと思う」


 トヨの出したあのお騒がせの年賀状には、リクの身元がわかる情報が含まれていた。

 人間の彼氏とやらが何処の誰のことなのかを書かなければ、そもそもあの年賀状を出す意味は無い、ということで。

 妙なところで律儀な内容になっていた。


「リク、本当にゴメン。やっぱり考えが足りてなかったよ」


 あまりにトヨが落ち込んでいるので、リクはトヨの頭を優しく撫でた。


「仕方ないよ。トヨだって悪気があったわけじゃないし」

「うん・・・」


 トヨはそれでも浮かない顔のままだった。


「事態はそんなに簡単じゃないんだよ、リク」


 サキチが渋い顔をした。


「相手はお前がトヨウケビメノカミにつながる者と知って手を出してきてるんだ」


 リクが意図的に、何者かによって瘴気を当てられたとするならば。

 その相手は、トヨと敵対することをいとわない相手。

 神様を敵に回すことを恐れない相手、ということになる。


 そうなのだとすれば。

 危険なのはリクに限らず、ユイや、サキチ。


 下手をすればトヨ自身にまで危害が及ぶかもしれない、ということを意味していた。


「私は別に、何があっても大丈夫さ。私自身に関することならね」


 トヨは酷く思いつめた顔をしていた。


「でもリクや、ユイに何かがあったらたまっもんじゃない」


 まがりなりにも、トヨは神様だ。

 余程のことがない限り、何が起きても平気だと言える自信はある。


 しかし、ユイやリクは事情が違う。

 視る力を持っているとはいっても、二人は人間だ。

 何かがあってからでは遅すぎる。


「しばらくは猫たちにも警戒を強めてもらうつもりだよ」


 トヨは立ち上がった。

 覚悟を決めた、厳しい表情。


 リクはそんなトヨを心強いと思うのと同時に。

 酷く申し訳ないとも思った。


「なんだか頼ってばかりでゴメンな、トヨ」


 リクの言葉に、トヨは驚いた。


「そ、そんなこと言わないでよ。今回は特に私の年賀状が原因なんだし、瘴気なんて酷い嫌がらせも、間違いなく私がらみの何かが原因なんだ」


 トヨにとっては、間違いなく今回の件はトヨの責任であって。

 リクは巻き込まれた格好だ。

 そんな状態でリクに謝られてしまうと、立つ瀬がない。


「私が悪いんだ。調子に乗りすぎた。浮かれてたんだ」


 リクの顔をまともに見ることが出来ず、トヨはうつむいた。


 そのトヨの頭を。

 リクはそっと両手で抱いた。


「うん、俺も浮かれてた。嬉しかったからさ」


 深く考えていなかったのは、リクも同じことだった。

 トヨが自分のことを彼氏と宣言したことを。


 まず嬉しいと感じて。

 それ以上のことを考えようともしていなかった。


「だから、あまり責任を感じすぎないでくれ。これは二人の問題だ」

「・・・うん」


 トヨが小さな声で返事をしたところで。


「あー、それじゃあもう俺は出て行くんで」


 サキチが居づらそうに声を上げた。


 慌ててリクとトヨはお互いに離れて。

 恥ずかしそうに照れ笑いした。




「じゃあ、リク、お邪魔しました」

 トヨがぺこん、と頭を下げる。


「あ、うん。ありがとう」


 そのときになって、リクは改めてトヨが自分の部屋に居るという状況を意識した。

 今まで神社以外でトヨに会ったことはほとんど無い。

 なんだか新鮮な感じだ。

 しかも自分の部屋というのは、なんだか少し気恥ずかしい。


「そういえば、神社の外でトヨを見るのは珍しいな」


 神社はトヨにとって、アンテナの役割を果たしているのだという。

 近くにいれば、それだけ強く力を引き出すことが出来る。

 神社から離れるほどに、引き出せる力が弱くなっていく、ということだ。


「まあ、あまり留守にするのは良くないからね。今日は特別」


 トヨはちょっと困った、という顔をした。


「昔はもうちょっと自由にしてたんだけど、神様としてはあまり良くないかなって」


 別に神社から離れて力が弱くなったところで、実際の所そんなに問題が起きるわけではない。

 そもそも普段から人気の少ない稲荷神社に、二十四時間詰めている必要だってあんまりない。

 どちらかといえば、体裁ていさいの問題だった。


 今回はただでさえ調子に乗りすぎたせいで問題を引き起こしてしまったわけで。

 これ以上浮ついた気持ちで余計なことをして、トラブルの種をくのは避けておかなければならない。


「じゃあね、リク。また神社で」

 色々とごまかすように、トヨはさっさと窓から飛び出していった。


 知らない間に外はすっかり日が落ちていた。


「じゃあ俺も行く。気を付けるんだぞ」

 サキチもトヨの後に続いて外に出た。


 リクは窓の方に近付いた。

 もうトヨの姿もサキチの姿も見えない。


 窓を閉めようとしたところで。


 夢で見たあの狼の視線を感じて、背筋が震えた。


 何かが、リクのことを見ている。


 リクは窓の外を見渡した。

 姿は見えないが、何者かがリクのことを見ている気がした。

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