第一章
ずっと縁が無いのかと思っていた。
正月が明けて、もう二週間ほどが過ぎていた。
参拝客で賑わっていた稲荷神社も、もうすっかり閑散とした状態に戻っている。
戻っていないのは、その神社の主だけだった。
リクが神社にやってきても、いつも通りにトヨが出迎えてくることは無かった。
事情は察しているので、リクは拝殿の中を覗き込んだ。
そこには、この神社の祭神であるトヨウケビメノカミ、トヨがばったりと仰向けに倒れていた。
「あー、リク、おはよう」
一応リクが来たことは察していたのか、トヨはそのままの状態で挨拶だけしてきた。
「トヨ、まだそんななのか。もう正月は終わっただろう?」
正月からこっち、ずっとこんな状態が続いている。
流石にリクも呆れてきたところだった。
「いや、そう簡単に言わないでくれよ。あんなに忙しかったのはホントに初めてなんだよ」
もそもそとトヨが起き上がる。
こうなると、神様の威厳なんて
「ユイは今日はお休みだよ。流石に疲れちゃってるみたいでさ。いやホントに悪いことした」
トヨが大変というのも理解は出来るが。
実際の所、この手の騒動で一番大変になるのは、結局の所ユイだ。
それは今回に関してもご多分に漏れず、というところか。
流石のトヨウケビメノカミ様のご加護も、ここまでの過労を
「俺には?」
リクがそう訊くと、トヨは少しいじけた顔をしてみせた。
「悪かったよ。ちょっと悪ノリし過ぎたんだ」
正月、夏祭りのときとは比較にならないくらいの大量のモノが神社に押し寄せ、トヨはすっかりパニック状態に
それというのも、トヨが年賀状に余計なことを書いたせいだった。
「リクが私の信者になってくれたってことを報告したくってさ」
神様としての付き合いが多いトヨは、毎年多くの年賀状を出しているという。
去年は
中でもリクの事をどう報告するのか、がトヨの中では大問題であった。
リクは人間にしては強い視る力を持っている。
実体の無い存在、モノや神様、トヨに直接触ることの出来る、強くて特別な力。
神無月の集会でトヨが聞いてきたところによると、今時はそういう力を持つ人間はかなり珍しいということだった。
力の強い人間を是非自分の信者に、と思う神様は結構な数いるらしく。
リクがもうトヨの信者であり、余所に行くことはありえない、ということをどうしても強調しておきたかった。
誰にも渡したくない、という強い意志の表れと。
同時に、年賀状の締め切りが近付いているのでもう何でもいいや、という投げやりな気持ち。
そんなこんなが合わさって出来あがった年賀状の文言が、これだった。
「人間の彼氏が出来ました」
年末になってそのことを知って、リクはもう何と言って良いのかわからなかった。
正直、気持ちは嬉しい。
去年のクリスマスイブにトヨの方から交際を申し込まれ、一応付き合っている、という体にはなっている。
なってはいるが。
この年賀状はどうなのだろう。
今時人間だって、年賀状に「彼氏が出来ました」とか書くのはちょっとイタイだろう。
ましてや神様だ。
「いや、年賀状だし、そんなクドクドと言い訳じみたことを書くのもおかしいし、読む方もそんなもの見たくもないじゃない」
だからといって、ちょっとこれは極端すぎるというか、直球もいいところだ。
「その、なんというか、端的にね、状況を説明出来た方が良いかなー、って」
照れ臭そうにそんなことを言うトヨを、不覚にもリクは少し可愛いと思ってしまった。
が、すぐに後悔した。
間をおかずして、稲荷神社はそのキャパシティをはるかに超えるモノたちの来訪を受けることになってしまったからだ。
リクは改めて、トヨの神様としての人気の高さを目の当たりにした。
一目トヨ様の彼氏とやらを拝んでやろうと、次から次へとよくわからないモノたちが押し寄せてくる。
事あるごとにリクはトヨに引きずり回され、振り回され、物理的にぶん投げられた。
人間とモノに挟まれて、応対が追い付かないユイが悲鳴を上げるのも、夏祭りの時と大差が無い。
文字通りのお祭り騒ぎは、正月三が日を過ぎても留まるところを知らず。
一月も中旬になり、成人式を過ぎた辺りで、ようやく普段通りの生活が戻ってきた状態だった。
「まあしばらくは大人しくしてよう。ただでさえ去年は色々あったんだ」
トヨはようやく拝殿から外に出た。
髪飾りがきらり、と光る。
時刻はもうすでに昼過ぎだ。
太陽が高く昇って、薄い雲が幾つか棚引いている。
トヨはぐぅーっと伸びをした。
良く晴れているとはいえ、季節はまだ冬。肌寒さが残っている。
正月が過ぎてしまえば、またしばらくは余裕が出来てくるだろう。
去年は色々なことがあったが、その分沢山の荷物を下ろすことが出来た気がする。
ちらり、とトヨはリクの姿を見た。
リクはユイの代わりに境内の
知らない間に顔がゆるんできているのを察して、トヨはふるふると頭を振った。
トヨの氏子になってから、リクはユイと分担して神社の手入れをしていた。
この稲荷神社の世話をすることは、それがそのままトヨの存在を支えることにつながる。
トヨが言うところの、かみさまクラスタの一員。
そう考えると、リクには掃除自体が楽しいことのようにに思えてきていた。
「リクー、ちょっとこっち来てー」
掃除が一段落したところで、トヨはリクに声をかけた。
道具を片付け、やれやれとリクが濡れ縁の前までやって来た。
「お疲れ様、リク。少し休もう」
トヨが自分の隣を、とんとんと叩く。
誘われるままにリクがそこに座ると、トヨはリクの腕を力強く抱きしめた。
「だいぶ冷えちゃったね」
「ト、トヨ、ちょっと」
いきなりのことに、リクは驚いたが。
抱きしめられた腕にトヨの温かさを感じて。
まんざらでもなかったので、そのままにしておいた。
「へへ、こうやって身体をくっつけて暖め合うのってさ、なんだか楽しいよね」
トヨは無邪気に笑った。
年賀状に彼氏と書いて宣言したからか、年が明けてからトヨは良くリクに触れてきた。
今まで欲しくても得ることの出来なかった何かを、急いで取り戻そうとしているのかも知れない。
リクにしてみればそれは嫌なことではなかったし。
少し気恥ずかしくはあったが、むしろ嬉しいことだった。
「ああそうだ、ユイもサキチもいないし、ついでにもう一つやってみたかったことがあるんだ」
トヨはリクの手を放すと、今度はリクの頭を掴んで、ぐいっと自分の方に引き寄せた。
リクの頭を、自分の脚の上に乗せる。
「膝枕。どうかな?」
「どうって・・・」
いきなりそんなことをされるとも思わず、リクはとりあえず恥ずかしかった。
トヨの身体は柔らかく、ほのかに花を思わせる甘い香りがする。
見上げればすぐそこにトヨの笑顔があり、リクはそれだけで赤面した。
ただ。
それでも、やはり悪い気はしない。
まるで本当の恋人みたいで。
胸が高鳴る。
「うん・・・悪くないよ」
小さな声で、リクはそう応えた。
「良かった」
トヨがリクの髪を
優しい、
「こういうの、憧れてたんだよね。私にはずっと縁がないのかと思ってた」
しばらくリクの髪を撫でていたが、トヨは静かに目を閉じて。
歌をうたいだした。
ゆったりとして、心が穏やかになる調べが境内の中に響く。
その歌声を聴いていると、トヨの身体の温かさもあって、リクはとても落ち着いた気持ちになってきた。
「トヨ、その歌は?」
リクを見下ろすトヨが、優しく微笑んだ。
「この歌はね、リクが生まれるよりもずっとずっと前にあった歌」
トヨはリクの額に手を置くと。
指先で、すっと鼻筋をなぞった。
「私のお母さんが、人間だったころの私にうたってくれた子守唄」
トヨはかつて、水害から人々を守るため、水神への生贄として命を投げ出し、この神社の神様となった。
もう、思い出せないと思っていたほどの、遠い昔の記憶。
まだトヨが生きていて。
小さな子供だったころ。
泣いているトヨを、母親が今のトヨみたいに膝枕して。
歌ってくれた。
「リクと触れ合うようになってから、昔のことを思い出すようになってね」
トヨに触れることが出来るという、リクの力。
触れるという刺激によってか、トヨは本当に色々なことを思い出していた。
過去にあった、様々な出来事、出会い、別れ。
人であったころの、喜びや、悲しみや、色々な想い。
どうして忘れていたのかと思うくらい、大切なことまで。
「この歌も、その一つ。リクが思い出させてくれた、大事なもの」
トヨが頬を染めてはにかむ。
その顔を見て。
リクはトヨが神様である以前に、一人の女の子であると改めて知った。
こうやって膝枕をして、歌をうたっているトヨは。
神様ではなく、普通に恋する一人の女の子だった。
「トヨ、聞いてもいいかな?」
「何?」
「トヨの、人間だったころの名前。本当の名前を、知りたいんだ」
トヨウケビメノカミ。
それは神話で語られている女神の名前。
目の前にいる女の子の名前を、リクは神様としての名前しか知らない。
自分が付き合っている彼女の名前を知らないなんて、なんだか
「何言ってるの、リク」
トヨはリクの頬をつついた。
「私の名前はトヨ。キミはずっと私の名前を呼んでくれていたんだよ」
ああなんだ、とすっかり安心して。
リクはそのまま眠りに落ちてしまった。
リクが目を覚ますまでの間、トヨはずっとリクの髪を撫でて。
優しい歌声を奏でていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます