第6話 STAGE2
怒りの感情は不快だ。
だが健全な不快さだ。
争いを避けたところで平和が訪れないように。
怒りを笑いに置換したところで世の理不尽はとめどなく、容赦なく襲い掛かる。
どれほど己を偽ろうとも、人は己の不快な感情とどこかで向き合わなければならない。必ず。
甲州の師父はよく怒る男だった。
しかしよく笑う男でもあった。よく泣く男でもあったし、よく食う男でもあった。
家族を失い、義姉を疎み、路地裏で食い逃げと殺人未遂を繰り返していた甲州が立ち直れたのは師父のお陰だ。
師父は怒りや悲しみの感情から逃げない男だった。
漣。小波。大波。津波。
絶えず流動する感情の波に任せて変幻自在の拳を放った。
甲州は怒りや悲しみが乗った拳の痛みを知っている。
と同時に、甲州は喜びの拳や喜悦の拳も知っている。
どの拳にも真実があり、どの拳にも師父の魂の表現があった。
すべての感情は表現されなければならない。
ゆえに彼は怒る。
無理にではなく、自然に。
ふっと笑みがこみ上げるように火の粉を散らし、赤く燃える。
世の中はクソだ。
どこをどう切り取っても、クソだ。
笑いながらそれを受け入れる奴は、そのまま笑っていればいい。
悲しみに打ちひしがれる奴は、そのまま朽ちてしまえばいい。
甲州は怒り、抗う。
クソは焼き払う。
理不尽は破壊する。
悲惨さには立ち向かう。
たとえ世界中の人間が幸福だと口を揃えたとしても。
紅島甲州はたった一人でどこまでも怒る。
「気に入らねえ……」
甲州は彼の怨敵であるシャールドン以上に短気で横暴だ。
しかし鬼畜ではない。
フェミニズムを肯定もしないが、否定もしない。
女子供には極力手を上げないようにしている。あくまでも極力だが。
ぼっ、と。
肩口から両翼を思わせる火炎が噴き上がる。
深紅のオーラは彼の輪郭を包み、今や実体を持つかのように揺らめいていた。
「ひへっ……」
もはや正気を保っているのかも疑わしい少年が、ふらふらと酔っ払いのように走り去る。
一見すると無傷だが精神に重篤な傷を負っているのは明らかだ。
髭面の男はちらとそちらを見たが、深追いはしない。
彼が見ているのは、その場へ飛び込んできた二人組が残した土煙だった。
ざざざあ、という音が未だ鼓膜に残っている。
この二人は自分が探知できないほどの距離から飛び込んできたのだ。
絶対に背を向けるわけにはいかない。
「甲州」
義姉、
峰を地に向け、切っ先を髭面の男――デラウエアへ。
彼女もまた怒っている。
「援護して」
「うっせえ。俺に指図すんな」
言いつつも、甲州は最優先撃破目標を髭面の男に設定する。
彼からは
不用意に隙を晒せば命取りになるおそれがある。
「……君らは連れ合いか」
自分を挟撃する男女を交互に見やり、髭面の男が問うた。
翡翠が口を開く。
「わた――――」
甲州とデラウエアの目が合った。
銃声。
甲州から見たデラウエアの向こう側で翡翠が目を見開き、僅かに身を曲げる。
「! 翡翠っ」
甲州と目を合わせたまま、脇越しに先制攻撃を決めたデラウエアは立て続けに二度目の引き金を引く。
角度を変えた一撃は正確に翡翠の顔を捉えていた。
捉えていたが、通じていない。
「!?」
10メートル未満の至近距離で引き金を引いたにも関わらず、翡翠は生きていた。
顔に平手を喰らったかのように涙目になってはいるが、頭は吹き飛んでおらず、それどころか平然と立っている。
馬鹿な、と。
傭兵が思考した次の瞬間には距離を詰められている。
わずか三歩まで。
「っ」
白刃が振るわれ、遅れて翡翠の靴音が響く。
ざりり、と。
間近で見た少女の額には赤い傷。
僅かに出血しているが、弾丸はめり込むことすらできなかったらしい。
傭兵のバックステップが間に合ったのは奇跡だった。
眼前には三日月状の剣閃。
網膜に残るそれが消えるか消えないかの内に少女が更に一歩踏み込む。
返す刃がデラウエアの口角を掠める。
口髭の五分の一を刈り取られた傭兵はのけ反りながら恐怖する。
常軌を逸した敏捷性に、ではない。
あの大爆発に巻き込まれたはずの二人がほぼ無傷であることに恐怖する。
よく見れば衣服に綻びや切り傷、それに焦げ目が見えるのだが、手足や顔に火傷を負っている様子は無い。
二人の身体を覆う赤と銀のオーラがそうさせるのか。
だとしたら自分に勝ち目は――――
コンマ一秒後、恐怖が絶望に変わる。
甲州の拳が正確に脇腹を捉え、めきりとどこかの骨が折れる。
傭兵は肺の中の空気を残らず吐き出し、二秒ほど宙に浮く。
そして――――吹き飛ばされる。
ごっ、ごっ、ごごっ、ぼごっ、と。
岩で構成された急斜面を転がり落ちるボールのように髭面の男が不規則なバウンドを繰り返す。
かろうじて受け身は取れたようだが、焼け石に水でしかない。
「……」
静穏の
彼女は感情を押し殺すことによって力を得る。
「タフだな、あいつ」
甲州が口にしたのは皮肉でも何でもない。
賛辞は怒りに変わり得る。
「……ムカつく」
更に彼をムカつかせる出来事が起きる。
砂埃の中、デラウエアが両手を地につき、立ち上がったのだ。
ただ、満身創痍であることは明らかだった。
「ふぶっ!」
唾液と吐瀉物を吐き散らし、髭面の男は片膝をついた。
この
この
化け物だ。
顔面に銃弾を受けても死なない少女をどうやって殺せばいいというのか。
彼は己の判断ミスを呪う。
このバトルロイヤルで真に警戒すべきは『魔法を使えるファンタジー世界の住人』ではなかった。
純粋な
「そのまま膝をついていなさい」
翡翠はじりじりとすり足で近づいていく。
彼我の距離は十数メートル。
「静穏の
翡翠が呟いた次の瞬間には、辺りの岩場が凍り付いている。
陽光を受けた氷は万華鏡のごとくチラチラと光を放つ。
「!」
三十メートル四方を氷漬けにした翡翠は、腿まで完全に氷に覆われた男を見やった。
衣服だけではなく血肉まで凍り付いているに違いない。
凍傷の心配は――――じきにする必要がなくなる。
「あなたはもう終わり。その氷は溶けない」
(……)
平然と
甲州の炎は消えるし、翡翠の氷は溶ける。
だがあの髭男はおそらく
翡翠は相手の無知に平然とつけ込んでいる。
義姉のこういう賢しさを甲州は嫌悪している。
義姉は戦士であって武闘家ではない。刀を手にしているが、それは彼女にとって道具に過ぎない。
「死ぬ前に一つぐらい善行を為していきなさい。……あの空飛ぶ女の子はどこ?」
「聞いてどうする」
「斬る」
翡翠の返答は簡潔だった。
彼女の中で『帰還者』すなわち『優勝者』は確定している。
自分と、義弟である
それ以外の人間は例外なく抹殺する。
それが彼女の導き出した結論だった。
そして勝者が二人であるという事実を聞いた甲州も、渋々ではあるが翡翠との共闘および帰還を望んだ。
一人だけ生き残ったら――――翡翠を蘇らせるつもりだった。
彼は義姉のことを嫌ってはいるが、憎悪まではしていない。
「悪いが、見ていない」
「そう」
翡翠は太刀の表面に鋭い氷柱を何本も作り上げた。
甲州は知っている。
数秒後、ミサイルのように放たれたアレが男を串刺しにするのだろう。
「待て」
「待たない」
待たない、という言葉を発することで眼前の女は傭兵の処刑を『待った』。
それが余裕の表れなのか迂闊さの表れなのか、デラウエアはいちいち
どちらであれ、次の言葉で彼女は凍る。
「あの水の男を殺したくはないか?」
甲州と翡翠が息を呑む。
「君ら、あれを放置したな?」
デラウエアは防弾チョッキを貫通した痛みと衝撃の残滓に耐えながら続ける。
凍った足のことは今は考えたくない。
「自分達で仕留められないから誰かに殺させようとした。違うか?」
「その通り」
翡翠は嘘をつかない。
短いやり取りの中で彼女は悟っていた。
戦闘能力にでは劣っているが、目の前の男は明らかに自分達より
嘘を吐けば見破られる。
見破られれば静穏の
(……)
だが――――できなかった。
皇帝シャールドンは翡翠に向けて一切攻撃しないというハンディを負いながら、甲州、そして糸目の男、
あの空飛ぶ少女の乱入がなければ今頃甲州は返り討ちにされていたかも知れない。
二人は
合図を送ったわけでもないのに、同じ方向へ。
そしてデラウエアを見つけたのだ。
魔女ナイアガラを討ち取ったばかりのデラウエアを。
「俺が手伝ってやる」
デラウエアの馬鹿げた言葉に、翡翠もまた馬鹿げた問いを放った。
「私達に負けたあなたがシャールドンを斃せるって?」
「ああ」
「ふざけてんじゃねえぞ、このヒゲが……!」
甲州が怒る。
笑うのではなく、怒る。
「てめえなんかにあの野郎を殺せるわけねえだろ」
「殺しはしない。足止めをするだけだ」
「何ィ?」
「あの男、そこの君を好いているな?」
「……!」
翡翠が顔を赤くする。
彼女は特段シャールドンを好いているわけではないが、誰かに好かれているという事実を赤の他人に適示されるのは恥ずかしい。
翡翠は戦士としては一人前だが、女としては未熟だった。
「図星か」
「当てずっぽうならやめてくれる?」
翡翠が氷をちらつかせる。
今度は丸ノコ状の刃だ。
これを飛ばされたら傭兵はバラクーダのように輪切りにされてしまうだろう。
「当てずっぽうではない」
「根拠は?」
「俺は君らの教師ではない。そこまで教える義理は無い」
「言えよ」
ごう、とジェット機のエンジンのように甲州の肩から炎。
「説明している間に脚が腐る。溶かしてからにしろ」
断じ、デラウエアは続ける。
「手足のどちらかを凍らせた俺がアレに近づく。奴は俺の手足ぐらいはもぐかも知れないが、間違いなくそこの君の居場所を吐かせようとする」
あり得る話だ、と甲州は思う。
自分達と共にこちらへ転移した面々の中には護衛を務める金髪迷彩服の女セキレイや法務官の
だがシャールドンは彼らとの帰還を望むまい。
ほぼ間違いなく、翡翠との帰還を望んでいる。
「アレは君を探している。相違ないな?」
「……まあ」
翡翠は歯切れが悪そうに肯んずる。
「おびき寄せるのは難しくない。後は君らが煮るなり焼くなり好きにしろ」
「阿呆か」
甲州は苛立たし気に呟く。
「たった一瞬注意を逸らしたぐらいで何になるんだ。せめて――――」
「目を潰してやる」
「あ?」
「君らは頑丈だ。それに手足の力も強い。だが『目』はどうだ?」
ふお、と何かが宙を舞う。
デラウエアが放った巾着袋のようなそれはジャケットの内ポケットだった。
取り外しができるのか、と甲州は気付く。
どざああ、と氷の上に袋が落ちる。
中からは砂が零れ出た。
輝く氷の上ではそれらは金粉にも見紛う。
「目潰しは利くんじゃないのか。これは――――当てずっぽうだが」
「……」
残念ながら当たっている。
狩峰翡翠は目を細めた。
目潰しは原始的だが、原始的であるがゆえにシャールドンにも効く。
「次善策として、君が死ぬというのもある」
「? ……ああ、甲州が勝者特権で私を蘇らせるってこと?」
「そうだ」
「リスクが大きすぎる」
もっともだ、とデラウエアは頷き返す。
だから次善策なのだ、と目で伝えた。
「で、どうする。一時休戦するか?」
狩峰翡翠は思案する。
思案し、思案し、思案し、結論を出す。
「採用に値すると思う」
「! 翡翠お前……」
「でもお断りします」
「……」
デラウエアは目を細め、説明を要求した。
「それほど悪知恵の働くあなたが自分の命を諦めるわけがない」
戻ることができるのは二人だけ。
この前提に触れずに話し出した以上、翡翠はデラウエアを信じることができない。
仮に『あなた達に手を貸すから助けてくれ。水の男を斃してから再戦させてくれ』ぐらいの言葉が出ていたら、まあ信じても良かった。
採用するかどうかは別問題だが。
「……全員で生き残る方法がある」
「たった今、『無い』って言ってただろうが。てめえ自身が」
「違う。それは全員で――――」
「甲州」
翡翠の鋭い声がデラウエアの弁解を遮る。
「
「! 分かってるようっせえな」
弱まりかけていた深紅のオーラが再び鮮烈さを取り戻す。
ふ、と傭兵はほくそ笑んだ。
「何がおかしいの?」
「
「知ってどうするの」
「こうする」
天へ向け、デラウエアは立て続けに発砲する。
聞きつける者がいることを願って。
――――彼は神を信じている。
「あいや……」
リースリングが目を開ける。
くしゃくしゃの黒髪の上に羽飾りのついた鍔広帽を乗せ、彼は辺りを見回す。
「あい済まぬ、ジン」
「やー。気にしないでくれ」
ジンファンデルは長剣を曲芸さながらに手の中で弄ぶ。
シュナン・ブランはまだ目を覚まさない。
彼女も王族にしてはかなり鍛えている方だが、いやしくも剣士であるリースリングには土台敵わない。
「状況を知りたい」
「最悪だ」
ジンは手短に状況を伝えた。
まずMPがないこと。
これは確かに深刻な問題だったが、リースリングにもどうしようもない。
その次にカルガネガの消滅。
リースリングは勇者の口調から希望の匂いを感じ取り、解決策があるのだろうと考えた。
希望の匂い。
剣客はこの言葉でジンファンデルを形容する。
彼はくたびれてはいるが希望の匂いを発している、と。
だが続く言葉がリースリングの表情を曇らせた。
「ナイアガラが復讐に……?」
「ああ」
ジンは事も無げに頷いたが、剣客は慌てた様子で立ち上がる。
「危険だ……!」
「あいつが敗けるわけないだろ。不意打ちで即死呪文ぶっ放せるのに」
「あの水の男を見ただろう!」
ジンは顔を顰める。
水の男。リースリングとシュナン・ブランの手足を羊羹のように断ち切ったあの男だ。
まだ髭も生えない年頃の若人だったが、彼の覇気は本物だった。
銀色のゴーレムと同じか、それ以上に厄介な存在だろう。
彼の能力を
「あんなものと出くわせばさしものナイアガラとて危険だ!」
顔を真っ赤にして喚くリースリングをしり目に、ジンファンデルは長剣で曲芸を披露する。
手の中でくるくると回した剣を肘から肩へと回し、反対側の手へ。
「平気だって。重ねがけはできないって言ってたけど」
左手の中で長剣を弄んだジンは投げナイフの要領でそれを放つ。
ひゅんひゅおん、ひゅんひゅおん、と不安定な音を放ちながら長剣が回転する。
どがあっ、と。
朽ちた木材に刃が立った。
磨き抜かれた剣身には疲れた自分の顔が映っている。
「――――
魔女が目覚める。
彼女は銃声を聞く。
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