第5話 STAGE 1


 銀氷天ぎんぴょうてんは湖沼地帯で着陸態勢に入った。


 光片子の脚部が音もなく着水すると湖面に波紋が広がり、背の高い水草がざわめくように揺れる。

 鎧武者が片膝をつき、胸部のハッチが開かれた。


「ふぅ」


 肉眼で異世界を直視した夜坂北光よるさかほっこうはヘルメットを脱ぎ、汗で乱れた黒髪をかき上げた。

 パイロットスーツの胸元を開き、新鮮な風を通す。

 空気はスカンジナビアよりぬるい。


「……あの飛ぶ女、やべーな」


 水筒で口を濯ぎ、べっと中身を吐き捨てる。


『私もそう思います』


 電子立像のミュスカデがにゅっと視界に割り込んだ。

 裾の長い黄緑色のドレスが風もないのに揺れている。


『見ましたか? スカートの中、レオタードでしたよ? お、お手洗いとかどうしてるんでしょう! 確実にヤバい性癖を持っているとしか――――』


 ポンコツオペレーターの軽口を聞き流し、北光は黙考する。


 空を飛べるというアドバンテージは大きい。

 光片子デミパーシャルフォトンの装甲も十分に機能している。

 このゲームにおいて銀氷天は間違いなく優勝候補の一角だ。


 だが大きな懸念もある。

 カメラに映った骸骨戦士の消滅。

 不意を打って放たれた火柱。

 それに尊大な男が放ったウォーターカッター。


(魔法、か)


 北光はあまりゲームに詳しくない。

 リバーシぐらいなら待機時間に嗜むこともあるが、出撃タイミングの一定しないパイロットがゲームで遊んでいる暇は無いからだ。


 ただ、RPG世界において「治癒」「死者蘇生」あたりが当然のように行われていることは知っている。

 それに隕石を落としたり、相手に猛毒を浴びせたり、死神を召喚して命を刈り取るなんて魔法もあったはずだ。

 銀氷天は物理的な脅威に対して強い構造をしているが、魔法に対しては一切備えていない。

 外部からの『死ね』のひと言で殺されてしまう可能性がある。『燃えろ』のひと言でコクピットが火の海になる可能性がある。

 それは北光にとって脅威だった。


「魔法は――――どうにかしないとな」


 その言葉をどう解釈したのか、ミュスカデは勇気づけるように語りかけた。


『大丈夫です。文明の成熟度でしたら我々がぶっちぎりのトップでしょう』


 その言葉に北光は自嘲する。


 成熟した文明で起きていることと言えば。

 人工知能の発達による人類全体の虚弱化。

 度を超えた少子化による『親なき子』の『製造』。

 昔ながらのレイシズム。

 昔ながらのテロリズム。


 100年前の人類が夢見た『成熟』がこれなら、ずいぶんとお粗末だ。

 いっそ非文明世界の方がマシなのではないかとさえ思う。


 ふと顔を上げれば、湖沼地帯の更に外側には例の黒い靄が大量に漂っているのが見える。

 銀氷天で上空を飛べばかわせそうにも見えるが――――


『逃げるのは得策ではないかと』


 ミュスカデは北光の視線を追い、鋭い声で告げた。


『局地的とは言え、並行世界の住人を呼び寄せるほどの存在です。裏をかくことは不可能でしょう』


 ぶぶー、ぶぶー、ぶっぶー、とブザー音が連なる。

 もちろん北光はあの『神』の危険性を認知している。

 北光は。

 他の奴は知らない。


「だな。結局――」


 やり合うしかない。

 生き延びるためには『彼ら』を殺さなければならない。

 残念だが仕方ない。

 北光は多くの人類と同じく、自殺を是としない。


『一応、勝者は二人ってことになってますけど、どうします?』


「……」


 北光はすぐには答えない。

 ややあって、呟く。


「相手が一人ぼっちの奴なら……考えてもいい」


 勝者特権が厄介だ。

 北光は一旦、誰かと協力体制を敷くことについては考えを保留にした。


 それ以前に、一つ大きな懸念がある。

 燃料だ。

 銀氷天、いや硬化光体トラベラーは基本的に製造コストを安く抑えることに主眼を置いている。

 光片子の装甲も本来、「無限に再生する」点ではなく「バーニアの出力が低くても浮遊できる」点に着目されて導入された経緯がある。


 この状況下で燃料が尽きれば北光は死ぬ。

 よしんば『勝ち抜いて』元の世界へ帰還したとしても、基地へ戻ることができず野垂れ死ぬ。

 燃料の維持は最優先で考えなければならない。

 ミュスカデにはそう指示を出した。


 幸い、弾丸の心配はしなくてもいい。

 そもそも火器を積んでいないのだから。


『北光』


「ああ」


 操作パネルの上に浮くミュスカデはなぜか胴着姿で薙刀を手にしていた。

 えい、えい、と『突き』のポーズを取る。


『生きて帰りましょうね』


「当たり前だ」


 北光は人殺しの経験などほとんどないが、人間同然の必死さで命乞いをする人工知能をいくつもスクラップに変えてきた。


 いや、彼らの声音は人間の同情を引くよう、完璧に調整されている。

 赤子の鳴き声のように、あるいは老いた母のように。

 巧みに、狡猾に、そして切実に、北光たちの心に訴えかけた。

 ある意味人間以上に人間らしく、奴らは命乞いをする。

 それらを容赦なく蹂躙してきた北光に躊躇は無い。


 噴き出すのがオイルか、血液か。

 殺した時の報告がメールで済むか、書面になるか。

 違いはそれだけだ。


 夜坂北光は平和主義者ではない。

 












 オレンジマスカットは平和主義者だ。

 少なくとも人間に対しては。


「オム。……オム、落ち着いた?」


 ロザがたどり着いたのは闘技場から北に位置する森林地帯だ。

 彼女は大樹の枝に腰かけ、乱れた髪に手櫛を入れている。

 相棒であるオレンジマスカットは今、意識の水槽の中で嗚咽を漏らしていた。


『わ、私っ、私ブレイズカ、カーネーションを使っ、使って……!』


「仕方ないでしょう。パニックを起こしていたんだから」


 黒紫の髪を持つロザはそんな嘘を吐いた。


 銀色のゴーレムとの空中戦の最中、二人は意識の水槽の中で情報交換を行っていた。

 空を飛ぶ自分たちが圧倒的に有利であること。

 炎を放った魔女があまりにも危険であること。

 それから――――ゴーレムの『中』におそらく人がいること。


 オムはひどく驚き、狼狽した。

 だがロザにしてみれば当たり前のことだった。

 様々な世界の『人間』が集められているのだから、あのゴーレムだけが例外であるわけがない。


 そしてそれを口にしてしまったばっかりに、オムの激しい抵抗が始まった。


 ブラックマンバを放つロザの人格を水槽へ引きずり戻そうとし、彼女は激しく抵抗した。

 外部からの攻撃ならロザは燕のようにいくらでもかわせるのだが、内なる精神による攻撃は防御も回避も不能だった。

 困ったことに、銀色のゴーレムが防御に徹していたこともロザにとっては逆風となった。


 戦わないで。

 戦いをやめて。

 戦わないで。


 オムの声は呪いのごとくロザの脳内で反響した。

 戦わないで、とあまりにも激しく抵抗するのでロザはやむなくオムの意識を表出させ、まったく逆のことをやった。

 すなわち相棒であるオレンジマスカットを水槽の中から操ろうとしたのだ。


 意識の手綱を誰かに奪われる恐怖。

 自分ならぬ者の意思が自分の手足を動かそうとする恐怖。

 オレンジマスカットはあっという間に恐慌状態に陥り、そして闘技場の中心でブレイズカーネーションを放った。


 ロザはオムを哀れんだが、悪いとは思わなかった。

 彼女の理想と心中するわけにはいかない。


 ロザ、と水槽の中から名を呼ばれる。

 縋るような声。


『人間同士で殺し合いをしちゃ、ダメだよ……!』


「違うでしょ。私達は精霊人。彼らは人間」


 ロザは短い言葉で真実を告げる。


「知らないとは言わせない。森から精霊人の子供が攫われることがあるでしょう?」


 水槽の中のオムが息を呑む。

 羽の生えた珍しい少女が売られた先でどんな微笑ましい人生を送るのか、それが分からないほどオムは初心(うぶ)ではない。


「人間は根本的に私たちの敵なの」


『でも……』


「ダメ。他の連中はもうやる気になってる」


 その言葉は半分ほど推測を含んでいたが、自死を選ぶ者はいないだろうというのがロザの考えだ。

 死にたくなければ殺せ。

 安直だが原始的な論理に従い、誰もが誰かを襲い始める。

 ――――もしかしたら、違う道を選ぶ者もいるかもしれないが。


(神と戦う道……)


 居るだろうか。

 居たとして、それは成功するだろうか。

 ロザには分からない。

 勝ちの目があるなら乗ってみたい気もするが、そんな酔狂な輩は居ないだろう。


 神、と考えたところでロザは思い出す。

 極めて重大な問題を。


「神様? ……ねえ、いないの? ルールについて確認したいのだけど?」


 ロザリオビアンコは辺りに声を投げたが、あの麗しい声は返って来ない。

 わざわざ『ルールについての確認』というフレーズを混ぜたのに、だ。


(今は私達を見ていない……ということ?)


 ロザは不思議に思ったが、神と話せないのであれば仕方ない。


『神様に何を話すの?』


「私達が『一人』扱いで間違いないかの確認」


 それはほんの少しでも過てば命に関わる問題だった。


 オレンジマスカットとロザリオビアンコは一つの肉体を共有しているが、互いを別人だと認識している。

 もし彼女達とは別に生き残りが一人できたとしよう。

 オムとロザはこう考える。『三人が生き残った』と。


 神がそれについてどう考えているのか聞きたかった。

 最後の最後で『あなた達は二人扱いです』なんてことになったら一大事だ。


『どうして一大事なの?』


「私達が二人扱いなら、生存戦略が少し変わるから」


『……?』


 ロザはそれ以上の言葉を発しない。

 オムには知らせるべき情報と知らせるべきではない情報がある。

 二人が敵対することはない。

 だが別人である以上、駆け引きは行われる。

 オレンジマスカットはロザの沈黙の中に、ようやくそれを感じ取った。



 ロザリオビアンコはしばしの沈黙の後、音も無くその場を去った。

 















 朽ちた箪笥に腰かけ、ジンファンデルは胸を撫で下ろす。


「ふい~。良かった良かった」


 シュナン・ブランとリースリングの傷は完全に塞がれ、手足は元通り生えている。

 二人は激痛と出血による精神的ダメージを癒すため、短い眠りについていた。


 闘技場から見て西側には丘陵地帯があり、その下には廃村がある。

 ジン率いる一団は一瞬でこの場所へ転移していた。

 廃屋はどれも屋根と壁の半分ほどが欠けており、雨風を凌げるようには見えない。


「……」


 転移を行った魔女ナイアガラは一言も声を発しない。

 仲間二人の傷を一瞬で癒した後も。 

 安堵の言葉も進退に関する忠言すらも無い。

 彼女が身じろぎする度に、漆黒のローブの裾が床を撫でている。


 危険な兆候だ、とジンファンデルは警戒する。


「まあ、まずはあのチビ助に会うところからだな」


 チビ助、という言葉にもナイアガラは反応しない。

 これは本当に良くないかも知れない、とジンは眉根を寄せる。


「カルガネガを消した魔法がどんな原理なのかは知らないけど、間近で見れば俺が習得ラーニングしてやる」


 言いつつ、彼は右手を廃屋の一つへ向けた。

 不用意な行動だとは自覚していたが、この短時間で彼らの転移に追いつける者がいるとは思えなかった。

 ゆえに、呟く。



「ブラックマンバ」


 

 ジンファンデルの右手の平から数匹の黒蛇が噴き出し、弧を描いて家屋に衝突した。

 老朽化した屋根の一部が吹き飛ばされ、何枚かの板切れがからんからんと砂利道に落ちる。

 空飛ぶ少女から習得ラーニングしたこの技の性質をジンファンデルは少しずつ理解し始めていた。

 素晴らしいことに消費MPはゼロ。

 ただしジンが使う場合は数に上限があるらしく、威力も弱い。


 もっとも、彼の未来予想図が正しければこれを使う機会は訪れない。

 否、正確には『人間に』使う機会は訪れない。

 使うとすれば――――あの『神』に使う。


 ジンファンデルは神を殺すつもりだった。

 そして全員で元の世界へ戻るつもりだった。


 この場合の『全員』とは、別世界の住民も含まれる。

 銀のゴーレムも、精霊人も、髭面の男も、全員だ。

 本来なら彼らにそこまでしてやる義理はないが、彼は『勇者』をやっている。

 遊びではなく、仕事で。


 誰もが委縮してしまうような状況でも、彼には勇気を奮う義務がある。


「あのチビ助の術の原理が分かればカルガネガがどうなっているかも分かるし、どうすればいいかも分かる。ナイアガラ。俺とお前がいればだいたいのことはできる」


「……」


「そんな顔するなって。カルガネガは死んでない」


 もっとも、仮に『死んで』居たとしたら面倒だ。

 不死身であるカルガネガは癒しの術でダメージを喰らい、蘇生の術で昏倒する特徴を持っている。

 状況によってはいささか面倒なことになるだろう。

 とは言え、とジンは最優先事項を確認する。


「ナイアガラ。MPくれ。……いつも使ってるだろ、自分の魔力を別の奴に受け渡す魔法」


 魔女は答えない。


「なあ頼むよ。冗談じゃないんだ。MP切れだとせっかくの習得ラーニングも――」


「……許さぬ」

 

「!」


 振り返ったジンファンデルは見た。

 魔女ナイアガラの顔面に浮かんだ醜悪な憎悪の表情を。


「おい。おい待て」


わらわの仲間を……仲間ヲォォォッッッ!!!」


 膨れ上がった殺意が暴風となって廃屋を揺らした。

 錆びた食器がからからと音を立て、砂埃が舞い、蜘蛛の巣がちぎれ飛ぶ。

 思わず足が竦みそうになるが、ジンファンデルはどうにか言葉を吐き出す。


「やーめろってそういうの。きっかけを作ったのは俺たちが先だろ」


「許さぬ。許さぬ、許さぬ許さぬ許さぬ許さぬ許さぬ許さぬ許さぬ許さぬ許さぬ――――!」


 マズい。

 ジンは直感した。


「おい待て! あのチビ殺したら本当にカルガネガを戻す方法が無くなるんだぞ!」


「殺しはせぬよ」


 ふっと殺意の暴風が収まり、病的な熱を帯びた魔女の目がジンを捉える。

 初めて逢った頃よりも更に酷い。

 憎悪の混じる絶望の表情。


「何度でも蘇らせて殺してやる。何度でもな……」


 ナイアガラは短い詠唱を始めた。

 ジンファンデルは咄嗟に彼女の肩を掴んだが、この術は周囲を巻き込む類のものではなく、事前に指定した対象を移動させる術だ。


「!」


 燐光と共に魔女が姿を消し、勇者はその場に取り残される。

 走って追うべきか迷ったが、リースリングとシュナン・ブランの快復を待たなければならない。

 あの恐るべき『水の剣士』や『空飛ぶゴーレム』と遭遇したら今の二人では対処不能だ。


(……)


 ジンは幾つかの事を思考し、奥歯を噛んだ。

 















 ガルナチャの心臓は未だ凍り付いている。

 肺も。

 血液も。

 走る度に体温は上がっていくのだが、不思議なことに身体の中心は未だ凍り付いている。

 ざりざりとシャーベット状に削れた心臓が血液に乗って全身を巡るようだった。


「ハッ、ハッ、ハッ……!」


 こんなに必死になって走ったことはなかった。

 東の古城を目指しながら、彼は何度も何度も足をもつれさせ、その度に原始的な生存欲求に鞭打たれる。

 止まれば死ぬ。

 止まれば死ぬ。

 止まれば死ぬ。

 強迫観念によって少年は自分の脚を限界以上に酷使していた。


「あっ」


 つまずき、顔面から砂地にダイブする。

 擦りむけた顔から血が滲み、じくじくと痛む。

 ガルナチャは涙を溢れさせた。


「うっ、うぅ」


 骸骨を『消した』のは彼なりの信念に基づいての行動だった。

 あの時、自分に近づいて来る髭面の男はガルナチャにしか聞こえないほどの低い声でこう囁いたのだ。


 ――――みんなで帰る方法を探そう、と。


 そこに魔女が火を放ち、応戦した髭面の前には骸骨戦士が立ちはだかった。

 黒いローブの魔女と、骸骨の戦士だ。

 黒いローブの魔女と、骸骨の戦士。

 どう見たって悪魔の使いだ。

 ガルナチャは根源的な恐怖から秘精(ヌミノース)の宝珠を放ってしまった。


 相手が悪人だったとは言え、秘精で生物を消滅させるのは初めての経験だった。

 ガルナチャの心は今もなお刺すような罪悪感に苛まれている。


 と――――


「!!」


 さっと視界を何かが過ぎった。

 辺りは大小まばらな岩がごろごろしており、人間が身を隠せる場所も少なくない。

 誰かが自分を追ってきたのかも知れない。

 その恐怖で少年の目尻に新たな涙が溢れた。


「だ、誰!?」


 びくりと身を震わせると、音の主が姿を見せた。

 ととと、と。


「あ……」


 闘技場で眠っていた黒猫だ。

 どうやら爆発に怯え、こんなところまで逃げ出して来たらしい。


「……ふぅ」


 安堵と共に、どっと疲労感が押し寄せる。

 地に倒れ伏したガルナチャは肩を上下させていた。

 足はガチガチに強張っているし、呼吸もまったく整わない。

 まだ立ち上がることはできそうにない。


 それどころか、彼はこの後どうすべきかすらまともに考えていなかった。


 殺し合い。

 できるわけがない。

 じゃあ死ぬのか。

 それも嫌だ。


 思考の迷宮で力尽きた彼に黒猫がととと、と近づき、指先を舐める。

 みゃーお、と人懐っこそうな声。

 くすぐったさと愛らしさに、ガルナチャの口から僅かばかりの笑みがこぼれる。


「ぁは」




 魔女ナイアガラはそれ以上に悪辣な笑みをこぼす。 


「あははっっ♪ ここにおったのかぁ!」



「!!」


 ガルナチャは振り返る。

 次の瞬間、業火に包まれる。

 

「ぁ? ぇぇぇええああああがああがあががっっっ!!!」


 じゅううう、と衣服ごと全身の肉が焦げる。

 毛髪が縮れて異臭を放つ。

 皮膚がべりべりと剥がれる。

 少なめの脂肪分が燃える。

 激痛に気を失いかける。

 手足をばたつかせ、ありえないほどの力で地を蹴って走り回る。

 だがすぐにその力すら燃え尽きる。


 黒猫がぎょっとしたように飛び退き、そのままいずこへと走り去った。


「……、……」


 魔女ナイアガラは遅延詠唱を行っていた。

 通常、魔法と呼ばれるものは詠唱→発動の手順を踏むものだがナイアガラはその法則に縛られない。

 彼女は魔法を発動した後、詠唱を行うことで因果を成立させる『遅延詠唱』を操る。

 詠唱に失敗すれば因果を捻じ曲げたことによる凶悪な反動が発生するが、多くの敵はこの術を前に無力だ。

 即死。

 業火。

 氷結。

 これらの術を出会い頭にぶつけられたら誰だってひとたまりもない。


「ぁ、あああぎゃ……ああ、ああ……っっっっ!!!!!」


 惨めな断末魔と共に少年が事切れる。

 肉の焦げる異臭にもナイアガラは眉一つ動かさなかった。

 

 ぶすぶすと黒煙を上げ、ぱったりと動かなくなった少年に、ナイアガラは心を込めた蘇生呪文を施す。

 こちらはきちんとした手順で詠唱していた。


 なぜなら次の詠唱を確実にぶつけたいからだ。


「はっ!?」


 眠りから目覚めるようにしてガルナチャは覚醒する。

 そこへ猛毒の呪文が直撃する。


「ひぶっ、ぶううううっっっっ!!!!」


 顔面を紫色に変色させた少年は粘り気のある血液を吐き散らかした。

 一撃で少年を瀕死にした毒の呪文はじわじわと命を削り落としていく。

 数十秒後、少年は塗炭の苦しみの中で息絶えた。


 だがナイアガラは許さない。

 世界に疎まれ、世界に嫌われ、いつしか自らも世界に背を向け、禁忌の魔術に手を染めんとしていた自分を闇から救い出してくれた仲間を。

 やり直そう、と言ってくれた仲間を。

 ――――このガキは殺したのだ。


 消滅が死ではないとのたまうのなら。

 自らの肉親に同じことをやるがいい、とナイアガラは叫ぶだろう。

 

「蘇るが良い」


 蘇生。

 そして拷問。


 時折、少年は何の前触れもなく『全快』することがあった。

 目には生気を取り戻し、肉体と衣服が完全に復元され、疲弊すらも吹き飛んでいるように見えた。

 ガルナチャはそれが『レベルアップ』だと気づいた。

 彼は戦闘の中でも成長し、敗北すら糧にレベルを上げる。


 だがそんなもの――――千の魔法を操るナイアガラの前では無力だ。

 少々レベルが上がったところでナイアガラの遅延詠唱は確実に少年の命を奪う。


 業火。

 猛毒。

 猛毒。

 業火。


 水流。

 業火。

 氷結。

 落雷。

 猛毒。

 聖光。

 猛毒。

 猛毒。


 業火。

 業火。

 業火。

 業火猛毒。

 猛毒氷結水流業火。

 落雷猛毒猛毒猛毒業火。



 ありとあらゆる責め苦の中で少年は何度もレベルアップを重ねた。

 だがそれはかえってガルナチャを深い絶望へと叩き落した。

 蘇生直後に死ぬことよりも、死の間際で一度全快し、新たな責め苦を放たれる方が苦しい。


「た、たひゅっ……たひゅけへっ……!」


「あはははははっっっっ!!!!」


「だずげでよぉっっ……!!」


 命乞いが続いた。

 神にも祈った。

 家に帰して、と喚いた。

 もう帰りますから、何でもしますから、と存命の父にすら乞うた。


 だが魔女は許さない。

 慰撫と拷問を繰り返し、丁寧に、丁寧に、丁寧に、少年の魂を絶望で塗り潰す。

 それは熟練の職人が布を染め上げる様にも似ていた。


 魔女ナイアガラは己の狭量を自覚している。

 だがこうせざるをえなかった。

 対人経験の少ない彼女にとって仲間こそが世界であり、世界とは仲間のことだ。


 この少年はナイアガラの世界を滅ぼそうとした。

 ゆえに、殺す。


 何度でも。

 何度でも何度でも。

 何度でも何度でも何度でも何度でも何度でも――――




 目の前に、手。




「?」


 手の平だ。

 女のものではなく、男の手の平。

 遅延詠唱を続ける魔女は数秒、その手の平を凝視する。


 ぱふん、とそれがナイアガラの口を塞ぐ。

 ぐいと顔を持ち上げられ、彼女は斜め上方の空を見る。

 次の瞬間、つぱっと小気味よい音が響いた。


「?!」


 ひゅー、と。

 裂けた喉から呼気が漏れる。

 思い出したかのように大量の血液が噴き出した。


「! っ! っ!」


 出ていくな、と。

 咄嗟に両手で喉を塞ぐ。

 ああでも遅延詠唱をしなければ。

 詠唱を続け――――


 魔女の豊かな双丘が後ろから突き上げられた。

 ぶるんと揺れた乳房の中心に、新たな膨らみが生まれる。

 ただしそれは爆ぜる。

 内側から。


 銃声と共に血が噴き出し、心臓の破片が散らばる。


「っぷぐうっ!!」


 大量の血を吐き散らしながら、のけ反った魔女は青い空を見ていた。



 そう言えばこうやって、ジンやシュナンと草原に寝そべったことがあった。

 この空を血の赤や憎悪の黒で染めたいと思うか、と問われて。

 ナイアガラは首を振った。


 そう、とシュナン・ブランが頷いた。

 彼女は言った。

 それが――――



 首筋に硬く冷たいものが触れる。

 ナイアガラの好きな「柔らかく」「温かい」ものとは真逆の感触。


 どん、と。

 衝撃と共に意識が闇へ。

 












 ナイアガラの首から上を吹き飛ばしたデラウエアは幸運を感じていた。


 弱敵であり、ゆえに油断ならない存在である少年を追跡していたら思わぬ僥倖に与った。

 まさかあの厄介な魔女を仕留めることができるとは。


 これも神の導きだろう、と彼は感謝を捧げる。

 相も変わらず、彼は神を信じている。


 返り血を指先で拭い、傭兵は少年を見やった。


「ぁ、ぁ……」


 哀れなことに少年は失禁していた。

 弾丸で頭部が吹き飛ばされる瞬間を正視してしまったのだから無理もない。


 そしてデラウエアの勘違いでなければ、明らかに錯乱している。

 発狂するのもそう遠くない。

 気の毒だ。死んだ方がマシだろう。


 デラウエアは無言のまま銃口を動かす。


「ひィ!」


 少年は咄嗟に宝珠を幾つか連ねて盾とした。

 ぎいん、と弾が弾かれる。


「……」


 仕方ない、と血に濡れたナイフを構える。


「み、みんなで」


「?」


 目の焦点の合わない少年が言葉を絞り出した。


「みんなで帰る方法を探すんじゃなかったんですか!!」


 少し考え、デラウエアは告げる。


「そんな方法は無い」 


 ひょう、と逆手で握ったナイフを振るう。

 地を蹴って駆け出し――――すぐさまバックステップ。


 ざざざ、と靴裏で砂を踏む。


「……」


 狩峰翡翠(かりみねひすい)が鬼のような形相で少年の前に割り込んでいる。

 真っ黒なセーラー服と羽兜、それに日本刀。

 どうやら少年を追っていたのは自分だけではなかったらしい。


 それにしても何て珍奇な格好だ、とデラウエアは鼻を一つ鳴らす。

 駆け引きのために口を開きかけ、凍り付く。



「ガキと女嬲って悦んでんじゃねえぞ、髭が」



 ちらと一瞥を投げる。

 背後には学ランに革鎧を合わせた赤髪の少年。


「ムカつくな、てめえ」


 彼は怒っている。

 

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