迷走Mind Hinako side(4)
日菜子は揺れを感じて目覚めた。地震かと一瞬考えたが、すぐに自分が寝台列車に乗っていることを思い出す。昨日は様々なことがあった。アニメのアフレコで何度も失敗したうえ、逃げ出した。なお美が倒れ、入院した先の病院で暴言を吐いて、逃げ出した。そして今、日菜子は寝台列車に乗っている。
(逃げ出してばかりじゃないの……)
自分の行動を思い起こして、呆れてしまう。でも、もう戻れない。『羽後なお美』として生きるのだ。そう決めたのだ。
携帯電話で時刻を確認する。午前6時40分。今どの辺りなのだろうか、と日菜子はカーテンをめくり外の景色を見た。
「わあっ」
思わず声が出る。瀬戸大橋を渡る列車の下には、一面の海が広がっていた。瀬戸内海だ。朝日を浴びて、海面が輝いている。
ふと、日菜子はまともに海を見るのが初めてであることに気がついた。子どもの頃は病院と自宅を往復し、ときどき学校に行くだけだった。体調がやや安定し芸能界デビューしてからも、海に行く機会は無かった。
目が離せなかった。列車が瀬戸大橋を渡りきるまで、日菜子はずっと海面を見つめ続けていた。
寝台列車が駅に到着したので、日菜子はホームへ降りた。とはいえ、なお美の実家へ向かうには普通列車でさらに1時間ほど揺られる必要がある。朝食もとりたいので、いったん改札を出ることにした。さすがに県庁所在地だけあって駅が大きい。構内や近辺にいくらでも店はありそうだ。日菜子がうろうろしていると、携帯電話に着信が入った。『お母さん』と表示されている。
「もしもし?」
『なお美? どうなん? もう香川には着いた?』
昨晩も話したなお美の母親の声だ。
「うん。寝台特急から降りたところ。ちょっと朝ごはん食べて休んでからそっちに行くよ。着くのは11時ごろかな」
『11時ね。じゃあ博人が春休みでゴロゴロしてるし、迎えに行かせるわ』
「え? いいよ、別にいいよ」
なお美の弟といきなり会うことになるのは不安がある。地元の駅からなお美の実家までは少し距離があることがわかっていたので、タクシーでも使おうと考えていたのだが、
『なに遠慮しとん。いつもみたいにこき使えばええやん。じゃあね』
そう言うと、電話は切れた。
なお美はいつも弟をこき使っているのか……、と日菜子は思った。
午前11時過ぎ、日菜子はなお美の実家がある町の駅に到着した。本当に小さい駅だ。駅員が一人しかいない。自動改札も無い。時刻表を見ると列車は1時間に1本しかない。東京をほとんど出たことが無い日菜子にとっては、信じられない光景だった。
小さな駅舎を出て、周囲を見回す。車が何台か停められている。この中になお美の弟の車があるのかもしれないが、日菜子にはわからない。それに、なお美の弟の顔も知らない。とりあえず電話をかけてみようかと携帯電話を取り出したところで、
「姉ちゃん!」
という声が聞こえた。そちらを見ると、小柄な青年が手を振っている。彼がなお美の弟の博人だと日菜子は確信を持った。丸顔も大きな目も、少しずんぐりした体型も、なお美に似ていたからだ。
羽後博人の運転でなお美の実家に向かう。博人についての情報が不足しているため道中の会話がスムーズに行くか心配していたが、杞憂だった。ほとんど一方的に博人自身のことを話しかけてくるので、日菜子は相槌を打ったり質問に答える程度で良かった。しゃべり方がテンションが上がっているときのなお美に似ていると思う。やはり姉弟だからか。
話している中で、博人が地元の国立大学に通っていることがわかった。この4月からは3年生になるという。だとすれば、なお美と一回りは離れていることになる。なお美からすると、かわいい弟なのだろう。ラジオでも、弟の成長を楽しそうに話していた記憶がある。
「そういや姉ちゃん、西村日菜子と仕事で会ったんやろ?」
「え? そ、そうだよ。よく知ってるね! あたし言ったっけ?」
突然自分の名前が博人の口から出てきたので、動揺してしまった。
「ネットで見たよ。対談したんやろ。すごいなあ」
「ま、まあね」
「でもあの子、体調崩してしばらく休むみたいやな。ニュースで言っとった」
「そ、そうみたいだね。心配だわあ」
棒読み気味なのが自分でもわかった。日菜子は話を逸らそうと、
「博人はハニハニ好きなんだったっけ?」
「まあ好きか嫌いかで言えば、好きかなあ。でも俺、咲月派なんよな……」
「あら。ひなこちゃんのサインもらってあげようかと思ったのに」
「マジで! お願いします!」
急激に博人の声が高くなる。
(ミーハーだなあ)
日菜子は苦笑した。
田舎町を15分ほど走り、車はなお美の実家に到着した。庭付き一戸建ての木造住宅である。建てられてから2、30年は経過しているように見えた。
「じゃあ、俺はこのままちょっと買い物行ってくるけん」
「うん。ありがとうね」
「すぐ戻って来るわ。……姉ちゃん、ゆっくりしていきまいよ」
「……うん」
博人の顔はもっと何か言いたげだったように見えた。
博人の車が去っていくのを見送った後、玄関に向かう。インターフォンを鳴らしそうになったが、『なお美』の実家なのだから不要だと思い直し、すぐに扉を開けた。
「ただいまー」
日菜子がしばらくそのまま立っていると、ドタドタという足音とともに小柄でぽっちゃりした中年女性が現れた。
「おかえり。もう、いきなり帰って来るっていうけんびっくりしたわぁ」
電話で聞いた声だ。見た目からして、なお美と博人の母親だとすぐにわかる。なお美が歳を重ねるとこうなるのだろう、と思う。
「ごめんね。いろいろあって……」
「そうなん? まあ、とにかく休みまい」
「うん」
そう言って日菜子が家に上がると、
「ああ、お父さんに挨拶しときよ」
と、なお美の母が言う。土曜日だから父親も家にいるのだろう。日菜子からすると歳が近い博人や、明るいなお美の母よりも話しにくいかもしれないな、と少し緊張する。
「そうだね。お父さんどこにいる?」
日菜子がそう言うと母はきょとんとして、
「そこに決まっとるやん」
正面の襖を指差すと、台所へと歩いて行く。
母の反応を不審に思いつつ、日菜子は襖を開けた。
畳敷きの部屋の中には誰もいなかった。ただ仏壇があり、優しそうな白髪の男性の写真が飾られているだけだった。
手に持っていたカバンが畳の上に落ちる音が聞こえた。
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