迷走Mind Hinako side(1)

 なお美のマンションに帰り着くと、日菜子は床にへたりこんだ。どうやって帰ってきたのか、はっきり覚えていない。

 今日は逃げてばかりだ。アフレコ現場から逃げて、病院から逃げて。なお美の仕事を全うすることから逃げてきた。

 罪悪感を覚え始めたところで、日菜子は思考を方向転換した。そもそも、自分は『なお美』ではない。西村日菜子だ。社会的には『なお美』として生きることになるだろうが、なお美の思うように生きる義務など無い。日菜子の好きなように生きて何が悪い。せっかく手に入れたこの健康な体で、やりたいことを思う存分やってやる。仕事も学校も食事制限も定期検査も無い。お金が尽きればアルバイトでもなんでもして生活していけばいい。全てが自由、自由だ……。

(とは言っても、これから具体的にどうしよう)

 すぐには思いつかない。とりあえず今夜はもう休むか……。

 そう決めると日菜子は何気なくリモコンを手に取り、テレビの電源を入れた。画面に咲月の姿が映し出される。

『今日は咲月ちゃん一人なの? ひなこちゃん大丈夫?』

『日菜子の方はそんなに大したことはないって連絡がありましたし、大丈夫です。ご心配をおかけしましたけど、ソロ気分で今日はがんばります!』

 生放送の音楽番組で、司会者に話題を振られた咲月が明るく対応していた。

『日菜子見てるー? 今はゆっくり休んで、またいつでも帰って来ぃやー』

 カメラ目線の咲月が笑顔で手を振ってくる。日菜子はすぐに電源ボタンを押し、テレビを消した。


 料理をする気にもなれずカップラーメンで夕食を済ませると、日菜子はベッドに横になった。なんとなく、携帯電話を手に取る。アフレコ現場から逃亡した後で何の音沙汰もない『なお美』に対しての、声優やアニメ関係者からの連絡が大量に入っていた。反応を返す気は全く無いが読むだけは読んでみると、やや厳しく『なお美』を責めるものが半分、心配するようなものが半分といったところだった。

 小泉ともからの長文メールには、本来『なお美』が演じる予定だった天堂結衣役は、浅尾千春が代役としてアフレコを行ったと書かれていた。浅尾千春は『てんてこハーモニー』がアニメの初レギュラー番組だが、女生徒Aといった名前の無い役ばかりだと言っていたはずだ。初めて名前のあるキャラクターを演じることになったのかもしれない。彼女からすると、思わぬ形でチャンスが転がり込んできたと言えるだろう。

 そしてとものメールには、浅尾千春を代役としてアフレコが終わったことの報告の後、簡潔に『なお美』へのメッセージが記されていた。


『あんたが事情を話してくれるまで、いつまでも待ってるから』


「話せるわけないよ、こんなこと……」

 日菜子はつぶやくと、携帯電話を手放した。

(もう、声優の仕事は関係ない。私には無理だ)

 日菜子は立ち上がると、カバンに入れっ放しになっていた『てんてこハーモニー』の台本を取り出した。アフレコも終わったのだし、もう日菜子が持っていても仕方の無いものだ。だからと言って、捨ててしまう気にもなれない。日菜子はパラパラと台本をめくった。まともに台詞を読むこともできなかった記憶が蘇り、顔が赤くなるのを感じる。

 台本の内容は、高校に進学して寮生活を送ることになった主人公・麻衣がややホームシック気味になり、ゴールデンウィークに実家に戻るというエピソードである。日菜子は自分の家族のことを考えた。『羽後なお美』として生きていくことになれば、両親とまともに接することは一生できなくなる……。

 人格が入れ替わった後は自分のことで精一杯だったが、これから『なお美』として生きるなら当然そんな問題も起きてくるのだ。

(考えない! 今は考えない!)

 日菜子は心の痛みから目を背け、別のことを考えた。なお美の家族のことだ。

 これから『なお美』として生きるうえで、声優の仕事もやらないとするならば、なお美の実家に頼るというのも選択肢の一つかもしれない。実家に戻り、日菜子が送れなかったごく普通の生活をする。就職してもいいし、お見合いでも何でもして結婚するのもありか……。

 なお美の家族にうまく対応する必要があるが、日菜子の姿かたちは完全になお美のものなのだ。なお美が日菜子の家族と問題なく生活できていたことを思えば、大丈夫なのではないか。

 疲れているが、このまま東京に一人でいても仕方が無い。ラジオ番組などで、なお美の実家が四国の香川県だということは知っている。なお美の携帯電話にも家族の電話番号は登録されている。あとは詳しい住所や交通手段さえわかれば、どうにでもなる。部屋の中を調べ、携帯電話とパソコンをフル活用し、日菜子はなお美の実家へ行く算段をつけ始めた。


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