自分REST@RT Hinako side(5)

 アフレコは散々だった。台本をめくるときに雑音が入る、時間内に台詞が読めない、台詞を滑舌良く読めない、他の声優とのタイミングが合わない。日菜子は思いつく限りの初歩的な失敗をしでかしてしまった。それも何度も。

 最初こそ笑いが起きていたアフレコ現場の空気も、日菜子が失敗を繰り返すうちにどんどん悪くなっていく。それにより緊張し、さらに失敗するという悪循環へ日菜子は陥っていた。

「『お姉ちゃん、いい加減に起きなすぁい』」

「ストップ。羽後ちゃん、また? しっかりしてよ、何年やってんだよ」

 音響監督に注意される。もう何度目か覚えていない。

「……すみません」

 周囲の冷ややかな視線に晒されているのがわかる。完全に針のむしろである。浅尾千春と目が合った。彼女がこちらを見る目にもはや尊敬の色は全く無い。完全に哀れみの視線だ。

 そんな目で見ないで。ゲームの収録はうまくいったのに、どうして。まともにしゃべることもできなくなるなんて。他人と一緒にアフレコするのがこんなに難しいのか。私はバカだ、根拠も無いのになんとかなると思い込んでいた。咲月と与謝野がいなければ、一人じゃ何にもできないくせに。なお美に迷惑をかけてしまう。どうしよう、どうしよう、どうしよう……。

 様々な思いが浮かんでは消える。日菜子の頭の中は真っ白になっていた。

「……体調でも悪いのか、羽後ちゃん? 羽後ちゃんだけ別録りにするか?」

 音響監督がブースの向こうで言った。

「え……」

 どうなのだろう。このまま他の声優に迷惑をかけ続けるよりは、その方がいいのだろうか。一人なら、ゲームの収録のように落ち着いてうまくできるかもしれない。いや、だがせっかくアニメの収録だというのに、それでいいのか……。

 日菜子が固まっていると、

「あー、ダメだ。もう限界」

 小泉ともが日菜子の肩に手をかけてきた。

「ウゴウゴ、どうしちゃったの! しっかりしなさいよ!」

「……っ」

 何も言えない。何を言えばいいのか。

 ともは怒っているとも哀れんでいるともつかない顔をすると、

「すいません、ウゴウゴをしばらく借ります」

 そう言って、日菜子の手を握った。

「え?」

 そのままともは日菜子の腕を引っ張り、録音ブースから出て行く。

「ちょ、ちょっと……」

 千春たちが呆気に取られている中、日菜子は廊下へ連れ出された。誰も追いかけてこない。ともとなお美が古くからの友人であることはよく知られているから、任せようと皆考えているのかもしれない。ともは日菜子をまっすぐ見つめてくる。

「ウゴウゴ、本当に何があったの。調子が悪いとか、そんなレベルじゃないよ。無理矢理二人だけになる状況を作ったことだし、言ってごらんよ」

「別に何も……」

 日菜子は目をそらした。本当のことを打ち明けられるわけがない。かと言って、うまい言い訳も思いつかない。

「そっか。私にも言ってくれないのか。残念」

「ごめん……」

「謝っても仕方がないんだよ。今日のことが問題になるのはウゴウゴ自身なんだから。あんた言ってたじゃん、これまで積み上げてきた信頼があるから、フリーでも仕事を回してもらえるんだって。今日みたいなド下手な演技じゃ、これからも大変になるよ。どうするの。なにか事情があるなら、説明しておいた方がいいよ」

「ド下手……」

 つい繰り返してしまう。だが、事実だ。日菜子ごときになお美の代わりが務まると少しでも考えてしまったのが、思い上がりだったのだ。ドラマで演技経験があっても、一度だけゲームの収録がどうにかうまくいっても、何年もかけてなお美が磨き上げてきたものに及ぶはずがなかったのだ。例え声や容姿がなお美であっても、そんなものは上っ面に過ぎない。

(私にはこの場にいる資格なんて、無い)

 自然と涙が出てきた。

「おい、泣くなよ……」

 ともが呆れた声を出す。

「ご……」

「ご?」

「ごめんなさぁぁぁぁぁいっ!」

 そう叫ぶと、日菜子は駆け出した。

「おい……」

 ともの声が聞こえたが、日菜子は振り向かなかった。逃げたい。一刻も早くこの場から離れたい。ずっと憧れてきた、アニメの現場から。

 スタジオからすぐに出たかったが、財布や携帯電話を入れたカバンを録音ブースに置いている。いったん入らないわけにはいかない。全速力でブースの中に入ると、当然声優やスタッフたちの視線が日菜子に集中した。

「羽後さん!」

「だ、大丈夫なんですか、羽後さん」

 心配そうに声をかけてくる。日菜子は一瞬ひるんだが、

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 呪文のように唱えながら、カバンを持ち出す。その迫力に、皆呆然としている。カバンを手に取り、ブースから出ようとする。

「う、羽後さん! いったいどうしちゃったんですか!」

 そう呼びかけてきたのは、浅尾千春の声だった。日菜子は立ち止まると、振り返らずに言った。

「浅尾さん。私は、あなたがうらやましい」

「え……?」

 戸惑う浅尾千春に構わず、日菜子はブースから出た。目の前に、小泉ともが立っていた。

「ウゴウゴ!」

 そう叫び、日菜子の体をつかもうとする。が、日菜子はすんでのところでともをかわした。

「すみません! すみません!」

 日菜子は謝りながら、全速力で逃げ出した。

「ウゴウゴ! ……羽後なお美っ!」

 とものよく通る声が聞こえてくる。

(ごめんなさい、私は羽後なお美じゃないんです)

 心の中でそう答えながら、日菜子は走ってスタジオを出た。


 その後のことはよく覚えていない。気がつくと、なお美の部屋に戻っていた。


 日菜子は何をする気にもなれず、ただ床に座り込んでいた。携帯電話には、小泉ともをはじめ何人ものアニメ関係者から連絡が入っていた。内容は確認していないが、『てんてこハーモニー』の収録現場にいなかった人物の名前もある。日菜子はなお美の付き合いの広さを実感した。

 大変なことをしてしまった、と思う。でも、今更どうしようもない。入れ替わり生活も、もう限界だ……。

 携帯電話の着信音が鳴った。またか、と思いながら画面を見る。『与謝野さん』と表示されている。与謝野が? 今回の一件を与謝野はまだ知らないだろうから、何か別の用件だろうか。だが、どうせ与謝野には今日の出来事を遅かれ早かれ伝える必要がある。意を決して、日菜子は電話に出た。

「もしもし?」

『日菜子、今、電話して大丈夫か』

「……はい」

 与謝野の声の調子が沈んでいるように感じた。

『単刀直入に言うぞ。羽後さんが倒れた』

 日菜子は大きく息を吐いた。

『ついさっき、病院へ連れて行ったところだ』

「そうですか……」

 与謝野から病院の場所を聞くと、電話を切った。来るべき時が来たのかもしれない、と日菜子は思った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る