自分REST@RT Naomi side(5)
なお美は朝から体調の悪さを自覚していた。体がだるいし、どうも胸のあたりに違和感がある。だが、痛いとか苦しいと言うほどではない。単に疲れがたまっているだけのようにも思える。今日は金曜日、夜に生放送の音楽番組に出演する予定だ。休むわけにはいかないだろう。今日さえ乗り切れば、与謝野に明日以降休みをもらえないか相談してみてもいいかもしれない。
そんなことを考えながら朝食のパンをかじっていると、日菜子の母親が声をかけてきた。
「日菜子、あまり顔色が良くないようだけど……大丈夫?」
「えっ。そうかな。大丈夫大丈夫」
なお美は動揺した。さすがは母親と言うべきか、よく見ている。
「そう? ……お願いだから、無理しないでね。辛くなったら、与謝野さんに言うのよ」
「うん……」
母親の目は真剣だった。心から娘の体調を案じているのだろう。
(日菜子ちゃん、あなたのママはいい人だねぇ)
なお美は頭の中で日菜子に語りかけた。
「ああ、日菜子のお母さんはよくできた人だと思うよ」
与謝野はそう言うと、コーヒーに口をつけた。
テレビ局内にあるカフェで、なお美は与謝野と向かい合っていた。テレビ局関係者以外は入れない店なので、『日菜子』であっても騒がれることはない。店内には他の芸能人の姿もちらほら見られるくらいだ。
「あたしとそんなに歳は変わらないってのにねぇ」
「羽後さん、おいくつでしたっけ」
「羽後なお美、17歳です」
「……」
与謝野は何も言わず顔をしかめた。
「ちょっと、そこは『おいおい』って言ってくれないと!」
「意味がわかりませんが。そりゃ日菜子は17歳ですけど」
「そうか、お約束を知らないんですね……仕方ないか」
与謝野はアニメ業界について詳しくないのだ。完全に忘れていた。
ふと、与謝野が思い出したように言った。
「……そういえば、日菜子のほうは羽後さんの仕事をうまくやれているんでしょうか。昨日まではどうにかこなせていると連絡がありましたが、今日はいよいよアニメのアフレコでしょう、確か。どうなんでしょう、日菜子は」
与謝野の問いに対し、なお美は素直に思うところを話した。
「そう簡単にうまくはいかないでしょう。新人だとわかっていれば周りも多少は指導してくれるでしょうが、それなりの経験がある『羽後なお美』として扱われるわけで……誰も基本的なことは今更ひなこちゃんには教えてくれないでしょう。たくさん失敗するかもしれません」
「そうですか……」
与謝野の顔が曇った。
「でも、ひなこちゃんにとって失敗もいい経験になると思いますよ。今後どうするにしても、役に立つんじゃないですかね。ひなこちゃんなら、乗り越えられるはずです」
「今後、ですか。……羽後さんは、今後どうされるつもりなんですか。こちらとしては、体が元に戻らない限りはこのまましばらく『日菜子』でいてくれればありがたいと思っていますが」
「あたしは……」
なお美は人格が入れ替わる直前の精神状態を思い返す。声優の仕事に関して、行き詰まりを感じていたのは間違いない。その後、あまりにも現実離れした事態が起きたせいでじっくり考える余裕が無かったが、客観的に見てもなお美はうまく『日菜子』を演じられている、はずだ。日菜子として扱われることにも慣れ始めてきた。
もし元の体に戻ったとすれば、再び『羽後なお美』として将来が不安定な生活を送ることになる。
(すんなりと元の生活に戻ることができるんだろうか、あたしは)
「あたしはですね……」
なお美が言葉に詰まっているところへ、
「ごめーん! 待たせてもうて!」
咲月の元気な声が店内に響いた。なお美が振り向くと、高校の制服を着た咲月が立っていた。
「咲月ちゃん、遅かったじゃない」
「ごめんなあ。補習は大変やで。ええな、日菜子は成績が良くて」
咲月は明るく言うと、なお美の隣の席に座った。学年末試験の結果が悪く、咲月は補習授業を受けていたのだった。いくら芸能人に配慮してくれている学校とはいっても、進級がかかっているとあっては授業に出ないわけにはいかない。テレビ局内のカフェで待ち合わせて夕方からリハーサルを行う予定になっていた。
「座ってる場合じゃないぞ、咲月。ゆっくりしている暇はない。さっさと出るぞ」
そう言って、与謝野が席を立つ。
「はあい」
咲月が甘えたような声を出して立ち上がる。なお美も慌てて席を立った。
与謝野が会計を済ませているのを店の外で待っていると、咲月が話しかけてきた。
「さっき与謝野さんと何話してたん? えらく仲が良さそうやったけど」
「え? 何の話かと言われても……羽後さんの話かな?」
「ああ、日菜子が対談した声優さんの?」
「そうそう」
嘘はついていない。
「ふーん。なんとなく、与謝野さんの雰囲気がちょっと違ってるような気がしてな」
「そう?」
人格入れ替わりのことが気付かれたというわけではないようだ。しかし、与謝野の雰囲気が違う、とはどういうことだろうか。
「なんか、日菜子に対するいつもの態度とは違うように見えてん。与謝野さんに限って担当のアイドルに手を出すようなことは無いと思うけど、一応は気ぃつけや、日菜子も」
「えっ! 無い無い、無いよ」
「それならええんやけどな。……アイドルに恋愛は御法度やてよく言われるけど、特にマネージャーとは絶対あかんで。最悪、最悪や」
そう言うと、咲月は目を閉じた。顔が赤い。
(この子は……)
アイドルは大変だな、と改めてなお美は思った。
衣装に着替え終えたなお美と咲月は、リハーサルのためスタジオに向かった。水曜日と同じ、なお美がピンクのドレス、咲月が白い軍服である。
咲月は廊下を早足で歩いていく。なお美はそれについていくのが精一杯だ。
「ちょっと待ってよ、咲月ちゃん。もうちょっとゆっくり!」
「あ? ああ、ごめん。ドレスは歩きにくいか」
咲月はそう言って立ち止まってくれた。
「うん、まあね」
なお美は笑顔で答えた。
歩きにくいのは、ドレスのせいだけではない。朝からあった胸の違和感が、着替えの時から抑えられなくなってきている。痛い。何かが胸の中で暴れているような感覚。その場に座り込みでもすれば多少楽になるのかもしれないが、そういうわけにもいかない。
胸を手で押さえながら、咲月とゆっくり歩いていく。まだ痛みは止まらない。なお美は頭の中で、必死にどうするべきか考え続けていた。
不調を訴えて、休ませてもらうか? プロなら無理をせず、休むときは休むべきではないのか。だが、そうなると生放送に穴を開けてしまうことになる。咲月や与謝野をはじめ、どれだけ大きな影響を与えるかわからない。そもそも、しばらくすれば治まる可能性だってある。今日の生放送だけは無事にこなして、それから与謝野たちに打ち明けて休ませてもらうのがベストだろうか……?
考えがまとまらないうちに、スタジオに到着してしまった。大勢のスタッフが待ち構えている。
「今日はよろしくお願いしまーす!」
咲月が元気よく挨拶する。なお美も続こうと思ったが、痛みのせいで声が出せなかった。軽く会釈だけする。ディレクターの隣に立っている与謝野と目が合った。与謝野は怪訝な顔をした。なお美の様子がおかしいことに気付いたかもしれない。
そう思った瞬間、なお美は目が回るような感覚に襲われた。おかしい。これは明らかにおかしい……。立っていられず、なお美は膝から崩れ落ちた。
「日菜子? ……日菜子! どうしたんや!」
咲月の絶叫が聞こえる。それから、スタッフたちのどよめき。床に転がったなお美の目に、与謝野が駆け寄ってくる様子がぼんやりと映った。
(みんなパニックになってるのに、動き出すのが早いな、与謝野さん……さすがだぜ)
なお美はそんなことを一瞬考えたが、すぐに意識を失った。
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